4-5 ドーナツホールから四方山を覗く
夢を見た。
白い壁、白い廊下、白い服の人たちがいるナースステーション。ところどころに黒いモヤ。
目線が低い。子供のころの夢だと、すぐに分かった。
週に一度の、おばあちゃんのお見舞い。不機嫌なお母さんと、二つ下の妹の
白い病室。辺りに漂う、つんとした臭いとトゲトゲした空気。
僕はその部屋が苦手だった。いつも何かしら理由をつけて、そこから逃げ出した。
僕には行かなきゃならない場所があった。
エレベーターが下がっていく時間も待ちきれなくて、ずっとそわそわしていた。
◾️◾️◾️が待っている。
白い扉が開いて、白い廊下を早歩きする。
黒いモヤを避けながら、明るい光の射す方へ。
やがて行き着く、緑の溢れる中庭。
そこにいたのは——
目覚めたら、頬が濡れていた。
心にぽっかりと大きな穴が空いている。
そこに何があったのかも思い出せないくせに、喪失感ばかりが手に余る。
あれほど心待ちにしていたはずなのに。
あれほど大切に思っていたはずなのに。
僕は何を——
誰を、忘れてしまったのだろう?
◇
「服部少年……」
零和四年三月七日、月曜日。
時刻は午後四時半。快晴だけれど、吹き抜ける風がやや冷たい夕方のこと。
名古屋市中村区にある巨大な総合病院の、凱旋門みたいな形のモニュメント前。旧本館の玄関を残したものらしく、重厚な石造りの柱からは貫禄すら感じる。
僕は相変わらず、濃紺に金ボタンの学ラン姿だ。高校生という身分では紛うことなき正装だし、もはや戦闘服と言ってもいい。
「なんで君がここにおるの」
「僕もこの件で確かめたいことがあるんで」
「日時を教えたつもりはなかったんだがな」
「あ、ごめん。あたし」
先生の隣にいた
今日の彼女は、柔らかなクリーム色の地にピンクの桜の柄が入った着物だ。細かな三角形を敷き詰めた幾何学的な柄のミントグリーンの帯を締めている。
三角形は『鱗』という文様で、魔除けの意味があるのだとか。
「服部くん、わざわざうちのお店まで来てくれたからねぇ」
「いや、だからって」
「あたし服部くんのこと、ちゃんと
「てっきり上手く
「日時を教えるなとは言われんかったもん」
「そうだっけ?」
「そうだわ」
「マジか……」
先生は額を押さえて溜め息をついた。
「僕が頼んだんです。百花さん、ありがとうございました」
「いいのいいの。お安い御用だわ」
「いや、ちょっと、百花さん……なんで?」
「あたしは中間の立場なの。あんたら二人、いっぺんきちっと話しゃあよ」
百花さんに促され、僕は先生の正面に立つ。
「先生……」
あれから、いろいろ考えた。
凶悪な『念』を発する霊と渡り合う力なんて、今の僕には当然ない。
かといって、何もせずにいる方がもはや苦しい。例え、失敗して取り返しのつかないことになるのだとしても。
じゃあ、今、いったい何ができるのか。
僕は改めて背筋を伸ばす。
「先生、僕も調査に参加させてください。今度はしっかり警戒します。もう相手の思考や感覚には惑わされません」
「だから、そういうレベルの話じゃないんだよ」
「ここに来る前に、病院周辺の神社や寺を全部回って拝んできました。気の流れが良くなったと思います」
「まぁ……それは確かにな」
これはそもそも、先生に教わったことだ。
力の制御には、まず自分の周囲の気の流れを良くしておいた方がいいこと。霊気を持つものに力を借りれば、気の流れをある程度操れること。
良い気を纏って心の平静を保ち、己の輪郭を常に意識する。
どんな時でも、決して自我を手放さない。
加えて、
僕の体質は、百花さんと近い部分があるように思う。似た経験のある彼女の存在は心強い。
「そうだ服部くん、弁財天さまには?」
「昨日のうちに行ってきました」
「……何もかも服部少年に教えとったんだな、百花さん」
「そりゃあ、参加するなら万全にしとかんと」
亡くなった遊女を慰めるために祀られていた弁財天。
その分身が置かれている中村区内の寺へ事前に参拝するという話も、百花さんから聞いていた。
二人と鉢合わせしないよう日時をずらして、僕もお参りしてきたのだ。
思い付く限りのことはやった。
何もできない子供が駄々を捏ねているだけではないのだと、先生に対して示す必要がある。
僕は更なるダメ押しで畳みかける。
「僕がおった方が例の生霊を引き寄せやすいんじゃないですかね。こないだ、去り際に『諦めない』って言われたんで。『場』と『念』、そして『僕』。三つの条件が揃います。闇雲に探すより効率がいいはずです」
先生の眉間の皺が深まる。
「君を囮に使うわけにはいかない」
「大丈夫です。覚悟の上です」
「いや、だから……」
「じゃあ、こういうのはどう?」
口を挟んだのは百花さんだ。
「服部くん連れてって、もし例の生霊が接触してきたら服部くんだけ
先生は何とも言えない表情で百花さんを見つめた後、溜め息をついて僕に向き直った。
「服部少年よ、どうしてこの件に拘る? 次こそ無事ではおれんかもしれん。例え命が助かったとしても、精神がやられる可能性だってある」
まっすぐな眼差し。僕はわずかに尻込んでしまう。
先生はいつも僕の正面にいてくれる。僕という存在を、絶対に蔑ろにしたりしない。
その先生が駄目だと言うものを、覆さなくてはならない。
僕はがちがちになった顎を気合いで開いた。
「思い出したいんです。七年前のあの時、何があったのか。僕の記憶には明らかな空白があります。あのころ、大事な何かがあった気がするんです。忘れちゃいけない、僕にとってすごく重要な何かが」
夢で見た過去の記憶に、ぽっかり空いた大きな穴。
はっきり分かるのは、そこにあったものが当時の僕を支えていたらしいことだけだ。
つまり、「覚えていない」ということしか思い出せない。
「どうして忘れてまったのか、本当のことが知りたい。心が耐え切れないほどのショックが原因だったとしても、今度はちゃんと受け止めたい。僕の一部だったものを取り戻したいんです。他でもない、僕自身のために」
声が震える。心臓が暴れている。こんなふうに本心を曝け出したのは初めてだ。
しばらく視線が膠着していた。
先に観念したのは、先生の方だった。
「……分かった。そんなに言うんなら、ついて
「あ……ありがとうございます!」
危うく全身から力が抜けかけて、どっと汗が吹き出る。身体が熱い。
百花さんに、ぽんと肩を叩かれた。
「良かったねぇ」
「いえ、百花さんのおかげです」
「うふふ、そんなことないよ。頑張ったねぇ」
不意打ちで、じわっと視界が滲む。素直に嬉しい。
「はい、これ。いつもの腹ごしらえだよ」
百花さんから手渡されたのは、老舗和菓子店・
ビニールの包みを解いて中身を取り出し、ひと齧り。優しい甘さの生地とこし餡。表面に薄く施された砂糖がしゃりっとする。
「美味い」
「美味いですね」
「安定の味」
三人して『四方山』を腹に収めると、先生が言った。
「今、
「大丈夫よ」
「はい、僕も」
先生はスマホをモニュメントの柱の陰に置き、ポケットから懐中時計型スマートウォッチを取り出した。無事に修理から戻ってきたらしい。
「直すついでに少し強化したんだわ。さて、電波は問題なし。GPSの測位も正確。零和四年三月七日、月曜日。時刻は午後四時四十四分」
そして先生は、低く響く声で言った。
「開け」
きぃん、と耳の奥で鋭い音が鳴り、にわかに意識が遠ざかる。
頭がはっきりしたころ、僕たちは真っ赤な景色の中にいた。
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