第8話.モデル



 美術の授業は美術室で行われるが、席順は変わらない。その日は各自スケッチブックをたずさえて、みんなして木製の、背もたれのない椅子に座っていた。

「えー……っ、じゃあね。今日はね。人物のデッサンを学んでいこうか」

 美術のたん先生はまだ若い男性で、いかにも話し慣れない素朴さが好印象な人だ。すごいハンサムというわけでもないけど、愛嬌のある穏やかなルックスから特に女子の人気を集めている。

 そんな丹野先生についての、

「あの先生、職員室の机で金魚飼ってんだよ」

 微妙なワンポイント情報をささやいてきたのは、俺の左隣に座るやまあまだった。

 亜麻色の長髪が窓からの陽光でじわりと燃えている。いつも眠たげで、いつも寄りかかる場所を探しているような物憂い同級生。

 今日はいい陽気なせいかブレザーを脱いでいて、華奢な体の線をすいっとなぞるワイシャツを露わにしている。第二ボタンまで外した襟元えりもとにだらしなく引っかかったリボンが、ちらりとのぞく鎖骨へ視線を誘導するのようだった。

 赤いリボンと、その揺れに合わせるように耳をくすぐる小声。それらから逃げるように身を引き、俺はやはり小声で聞き返す。

「……なんでそんなの知ってるんだよ?」

 雨恵は、なぜか得意げに顎を反らした。

「こないだ居眠りして呼び出し喰らった時に見かけたから」

 地理の授業で先生に叱られた時か。まぁ授業中に、揺すっても起きないくらい熟睡してたら呼び出されもする。

「わたしも見ました」

 追加された目撃証言は、雨恵の逆側の席からだった。見れば、雨恵とそっくりの顔をした女子が、視線は先生に向けたまま唇を動かしていた。

「小さめの金魚鉢です」

 山田ゆき。顔と名前の示す通り、雨恵の双子の妹だ。しかし顔以外は全く似ていない。髪の長さも、と利発そうな表情も、きっちり着込んだ制服も。

 だから、見た金魚は同じでも、見ることになった理由はまるで違うだろう。クラス委員の雪音は、役目上のことで職員室を訪れることになったに違いない。

「金魚か……昔飼ってたな」

 なんとなく思い出して、つぶやく。本当に小さい頃だから、実際に世話してたのは姉さんたちだったけど。

「へぇ、そうなんだ。うちはグッピーとかいたよ」

「世話してたのはお父さんとわたしだけどね」

「いつの間にか水槽なくなってたけど」

従妹いとこに上げたんでしょ。グッちゃんと別れるのイヤだってぎゃんぎゃん泣いてたくせに忘れてるの、逆にすごいよ」

「えー? そうだっけ?」

 俺をはさんで交わされる姉妹の思い出話。吐息と声の間のようなささやきを浴びながら、俺は人物デッサンのコツを拝聴していた。

 あまり頭には入ってこなかったけれど。


 講義がひとしきり済んで、実践の時間になった。

「はい。それじゃあね、隣の席の人同士で、似顔絵……肩から上ぐらいの絵を描いてみてください。前の授業でやった静物画や、さっき教えたことを意識してね。

 一〇分ずつ使って、交代でお互いをくように」

 丹野教諭の号令一下、隣り合った席の男子と女子が正面から向き合う。異性と対面して観察し合うことになって、苦笑いを交わす者、ことさら無愛想になる者、はしゃいでギャグを飛ばしてスベる者……反応は様々だ。

 さて。

 小テストの採点の時もそうだったけど……こういう時、三席しかない最後列は困る。

 先生と相談して、まず俺と雨恵が雪音を描き、次に俺と雪音で雨恵、最後に双子が俺を描くことで話が決まった。一人当たり六分ちょっとで仕上げることになるけど、その分ラフでいいと言われた。

 そうして、最初のモデルである雪音のデッサンが始まる――


「ほーら、もっと笑いなよ」

 と、雨恵に呼びかけられた雪音は、たしかに笑顔ではなかった。

 凹凸おうとつの大きな体をブレザーへ押し込めるように肩をすぼめ、二人から見られる緊張に頬を引きつらせている。

「笑えって言われても……」

 スカートに置かれた両手がテーブルでも拭くようにぐるぐると動く。こんな風に視線を向けられるのに慣れていないようだ。

 と、ふと思い出したように、

「……本当に眼鏡を外さなくていいの?」

 雪音は何度目かの確認をしてきた。

 授業中と読書中はいつもかけている、隣席の俺にはすっかり見慣れた眼鏡だ。なんの違和感もないが、絵に描かれるがわとしては気になるらしい。

「あー、いいのいいの、可愛い可愛い。顔が可愛いとなんでも似合う」

 雨恵はあからさまにテキトーに褒めそやし――双子の妹の顔の良さを褒めることになんの遠慮もない女だった――、シャッシャッと迷いなく鉛筆を動かしている。時折、鉛筆を縦に持ってデッサンに狂いがないか確かめるふりをするのがしゃらくさい。

 手応えのない姉に閉口したか、雪音の視線は俺へと移った。眼鏡のつるをなぞるように指を動かしながら、目顔で問いかけてくる――だいじょうぶですか?

 俺は、手元に目を落としながら小さくうなずいた。

「いいんじゃないか。似合ってる……と……思うし」

 さりげなく言おうとしたのに声がかすれてしまう。姉さんたちの服やアクセサリを褒めるのは平気なのに、雪音が相手だと、どうしてこんなに顔が熱くなるんだろう……?

「…………そういうことをいたんじゃ、ないんですけど……」

 雪音の言葉はその後にまだ続いたけど、よく聞き取れないくらいの小声だった。「描きにくいんじゃないかと思って……」というようなことを言ったんだと思う。

「ほら雪ちゃん、顔動かさないでよ。はい、目線こっちにちょうだい……そうそう。いいねいいねー、たまんないよー」

 うつむいてしまった雪音に、チャラいカメラマンのような雨恵のリクエストが入る。雪音は律儀に応じて顔を上げ、あまつさえ、ぎこちなく笑顔まで作って見せた。クラス委員だからか単に真面目だからか、たとえ相手が雨恵であろうと授業には協力しなければならないと思っているのだろう。

 しかしどうも、へらへら笑いながら鉛筆を振るう雨恵が彼女の努力に応えられるようには思えない。

 せめて俺は、真剣に描いて彼女に報いねば。

 そう思ってじッと見つめると、雪音は眉を八の字にして口元を震わせた。絵に描いたような困り顔だが、俺の技術で絵に描けるだろうか?


 ――時間はあっと言う間に過ぎ、俺と雨恵は、描けた分のスケッチブックを雪音に見せた。

 やはりと言うか、雨恵はふざけていた。子供が描いたような丸い輪郭に、ふにゃふにゃした口。それだけなら絵が下手なだけかもしれないが、眼鏡のフレームの中が真っ白だ。

 戯画化した眼鏡で隠すことで、描くのが一番面倒そうな目を横着したんだろう。……道理で眼鏡を外させなかったわけだ。

あめぇ……!」

 雪音の怒りは推して知るべし。怨嗟を込めてめ上げるその視線は、向けられていない俺でさえ背がすくむ。

「人が一生懸命モデルになったってのに、あんたって子は……」

 しかし、当の雨恵はへらへらして手刀を横へ振った。

「いやいや、違うよ雪ちゃん。ふざけてなんかないってば。絵画はアーティストの主観の世界だからね。あたしの見えている雪ちゃんはこんな感じなんだよ。ツノの一本も生やしたかったけど、そこはリアリティを優先してね」

「デッサンの意味解ってる!?」

 たぶん解っていないと、雪音は解っているのだろう。怒りは長続きしなかった。これ見よがしに溜息をいて、俺のデッサンの方へ目を移す。

 緊張に息が詰まった。俺は真面目に描いたつもりだが、正直自信はない。と言うか、丁寧に描こうとしすぎて顔の半分くらいしか描けなかった。雨恵に向けられたような非難の視線を思うと胃が痛くなる。

 そんな俺の描いた自分の顔を見た雪音は、ちょっと反応がないように見えた。それからゆっくりと頬に両手を当てて、むにっと撫で上げた。

「こんな顔……してますかね?」

「ごめん。俺が下手なだけだから……」

「下手ではないと思いますけど……なにか、自分が鏡で見るイメージと違ったので」

 スケッチブックから顔を上げた彼女の顔は、漠然とした不安を持て余しているようにも見えた。

「ちょっと整いすぎてるような……変な感じです」

 それはまぁ、主観の世界なんだからしょうがない。


 次は俺と雪音で雨恵を描く番だ。

「なんかポーズ取った方がいいかな? グラビアめなやつ」

「やめて」

 両腕を上げて頭の後ろに回す雨恵を、雪音は三音節でやめさせた。

「あー……はいはい」

 かと言って雨恵がきちんとした姿勢になったわけでもない。むしろグラビアポーズよりずっとだらけて、適当に足を組んでやさぐれたような格好だ。

 力なく顎を上げて上向くと大きくはだけた首元が目立って――人の肌ってこんなに鮮やかな物だったかと驚かされるくらいに――、見ないようにするのに若干の集中力を要した。

「せっかくだから可愛く描いてよー。女子高生をじろじろ見て肖像権を好きにできる機会なんてそうそうないんだから」

 モデルのくせになかなか口を閉じない。しかも、しゃべる言葉の全てがテキトーだ。

 雪音はとうにあきらめたらしく、姉の減らず口を無視して黙々と鉛筆を動かしている。素早く、そして精細な感じのふではこびだ。とかく体を動かすのが苦手な雪音だが、手先の器用さは雨恵の比ではない。この場合、嫌になるほど見慣れた双子の顔だけに、観察するまでもなく描けるというのも大きいだろう。

 俺はと言えば……やりづらかった。

 雪音の時と同じように雨恵の輪郭や顔立ちを観察して、スケッチブックと見比べながら絵にしていくのだが、雨恵は雨恵で俺を観察しているみたいだからだ。

 俺が真剣になればなるほど、雨恵はにやにやと楽しそうに見つめてくる。バカにされているようで激しく落ち着かない。

「……なんでこっち見てんだよ?」

 我慢できなくなって訊くと、雨恵はちょっと考えたようだった。明確な理由も持たずにやっていたらしい。

「いつも授業中に見えるのは横顔だけだからね。真面目ぶってる戸村くんの顔を正面から見る機会なんてそうそうないんだし、今の内に見とかないと損って感じじゃん」

 ややあって返ってきた答えは、解るような解らないようなものだった。

「……見ても楽しいもんじゃないだろ」

「そう?」

 意味のないいらえで聞き返しながら、雨恵の生ぬるい視線は俺を見つめ続けた。

 要するに、そうやって落ち着かないリアクションを見せる俺をからかって遊んでいるのだろう。

 俺はただ無心になってデッサンを描き込んでいった。


「うわ、すごいな」

 と、思わず声を上げてしまうくらいに雪音のデッサンは見事だった。写真のよう、と言うとちょっと違うが、流れのある線の取り方といい陰影の巧みさといい、俺とは段違いの技術だ。

「まぁ、モデルが良いと絵も良くなるものだからね」

 なぜか得意顔でおとがいに拳を当てる雨恵だが、絵の出来に驚いた様子はない。雪音の技量は知っていただろうから、当たり前か。

 そして当たり前に、次は俺の絵が見られる流れとなる。

 雪音の時ほどの緊張はない。絵の方もリラックスできたせいか、描き込みは甘いかもしれないけど雪音のよりきちんと形にできた。クオリティに大差はないけれど。

「うーん……やっぱフツーだねぇ。作者の平々凡々へーへーぼんぼんぶりを反映して」

 うるさいな、知ってるよ……と目をそらす。と、雨恵はなにかに気付いたように声を途切れさせた。

「……ん? あれ? でもこれ、雪のやつと違わない?」

 前のページに描かれた雪音のデッサンと自分のをぺらぺらと見比べ、雨恵はいぶかしげに首を傾げた。

「ダメだなー、同じ顔なんだから同じに描かなきゃ」

 たしかに、全体的な印象に反して雨恵と雪音の顔立ちは瓜二つと言っていい。表情を消して顔だけトリミングしたら見分けが付かないかもしれない。

 だから、同じアングルで描いた双子の絵はよく似ていないとおかしいのだろう。しかし、俺の描いた雨恵の顔は雪音のそれとはあまり似ていなかった。表情の違いだけではなく、線の緩さから影の付け方から、なにもかもが違う。意識して変える技術なんてそもそもないから、自然と別物になっただけだ。

「だから下手だって言ってるだろ」

「あたしだったら職員室にコピー借りに行くよ」

「いやダメだろ…………それに」

「ん?」

「そもそも俺には、全然違う顔に見えるんだよ」

 早速矛盾するようだが、双子はきょとんとよく似た顔でまばたきした。

「なにそれ?」

「似てないと言われたのは初めてです」

「似てないわけじゃなくて……ただ、同じ『顔』じゃないって話で」

「なにが違うの?」

「なにがって言われても……見たままに描くのがデッサンだろ。だから、俺が見えるままに二人を描いたらこうなったんだ」

「ふぅん……見えるままねぇ」

 雨恵は興味があるのかないのか、改めて俺の絵をのぞき込んだ。絵の中の彼女もこちらをのぞき込むようにしているので、鏡を見ているような形だ。

 雨恵同士の短いにらみ合い。そして彼女は、つと目を上げて挑発的に微笑んだ。

「本当は、もっと美人に見えてるくせに」

「やめろその顔……腹立つ」

 俺は目をそらしながら吐き捨てた。

 だから下手なだけだって――とは、言えなかった。


 そして最後に、俺が双子に描かれる番が来る。

 自分が描いている時はあんまり気にしなかったが、絵のモデルになるというのはなかなか難儀なものだった。

 雨恵の無遠慮に値踏みするような視線と、雪音の遠慮がちだが余念のない観察の視線。くすぐられるような、目の細かいヤスリをかけられるような、肌が泡立つ感覚で激しく居心地が悪い。

「んー……もう少しカッコよくなんない? 創作意欲が湧かないっつーか」

「変な風にはにかまないでください。線が取りづらいです」

 あまつさえ、双子からの理不尽な要求がつるべ打ちに俺を襲う。

 それでも、できるだけオーダーに応えて――当然、雪音の方だけだけど――椅子の上でしゃちほこばって時の流れるのを待つ。

 唇を舐めながらシャッシャッと鉛筆を走らせる雨恵。怒っているのかと思うほど硬い顔でスケッチブックに向かう雪音。

 俺は、窓外の日差しの長閑のどけさと一体化する心地で、やっぱり全く違う顔をした双子の観察に耐え続けた。


 モデルの苦行もやがて終わりを迎え、紙をく双子の鉛筆もぴたりと止まった。

 詰めていた息を抜き、どんなもんだろうと画伯らを見る――と、二人とも微妙な顔をしていた。戸惑っているような、納得できないような、そんな顔をしてスケッチブックとにらめっこしている。

「な、なんだよ……?」

 なんか不安になりながら促すと、双子は不承不承というようにスケッチブックを裏返して俺へ見せた。

 二人とも、ぼんやりした絵だった。精度には差があるものの、顔の輪郭や髪はわりと形になっている。だが、眼や鼻、唇なんかは線がまとまらないまま描きかけで放り出したようになっていた。のっぺらぼうの出来損ないみたいだ。

 雨恵だけならともかく、あれだけの技巧を見せた雪音もそろってそんな絵になっている。

 ……そんな。俺はそんなに描きにくい顔をしていたのか。て言うか、絵に描きにくい顔ってなんだ?

 俺がショックを受けたのを見て取ったのだろう。雪音が言い訳するような声を出した。

「戸村くんが変なことを言うからですよ」

 声は言い訳めいていたが、言葉はなぜか非難のそれだ。

「そうそう。見えるままとか、わけ解ンないこと言い出すから」

 雨恵まで乗っかってくる。今度は俺の声が苦しくなった。

「な、なにがわけ解らないんだよ?」

「「戸村なぎがだよ

  戸村くんがです」」

 えぇ……?

「俺の顔、そんな意味不明なレベルで描きづらいのか……?」

 雪音が、なにかもどかしそうにせわしなく首を振る。

「そうじゃなくて……わたしと雨が似てるけど違う顔って言われたから……

 それだったら、わたしは戸村くんをどう見て――…………とにかく、うじゃうじゃってなっちゃったんです!」

 自分でもなにを言ってるのか解らなくなったのか、途中で癇癪かんしゃく気味に言葉を濁した。さっぱり解らない。

「あのさぁ……」

 一方、雨恵は大儀そうに頬杖を突いて、

「初心者向けのくせにめんどくさい『顔』、してないでよね」

 今日一番の理不尽を言ってきた。

「なんなんだよ。俺がなにしたって言うんだ?」

 当然の抗議に、しかし姉妹は口をそろえて即座に言い返してきた――


「むしろはっきりしろって言ってんの!」

「そうです。うまく描けないじゃないですか!」


 いや……ホント、なんなんだよ……?

 なんかもう、困り果てるしかなくて。

 俺は、双子のスケッチブックの中でぼんやりした顔をさらしている戸村和に助けを求めるのだった。



Episode #8

Portraits in Smoke

        Fin.

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