第10話.ブラシ



 珍しい朝の始まりだった。

 というのも、俺が登校した時点で双子の姿が教室にない。毎朝、早起きな雪音いもうと雨恵あねを叩き起こしてるとかで、いつも始業まで悠々セーフな時間に来ているのに。

 俺の席は教室の最後列だ。そして両隣は双子姉妹のやまあまゆきにはさまれている。クラスの人数の関係で最後列はその三席きりしかない。

 だから双子がいない今、俺は一人でぽつんと座っている。

 なにかとうざったかったり口やかましかったりする二人だけど……いなければいないで物寂しい。

 両側にふたのないマンホールが開いているような落ち着かなさとでも言おうか。授業の準備をする気にもならず、教室の出入り口である引き戸へ反復的に目をやってしまう。

 そうしている内にも時間は過ぎていく。朝のホームルームの予鈴まで、五分、四分、三分……

 ――というところで、ようやく二人は教室へ姿を現した。

「よっしゃ、ぎりぎりセーフ……だから言ったじゃん、なんとかなるもんだって」

 と、にこにこ笑いながら話しているのは姉の雨恵だ。なかなか整った顔立ちをしていると思うのだが、目も声もぼんやりと眠たげでどうにも印象が冴えない。ただ、不思議と活力の透けて見えるようなところがあった。

「はあっ……はぁっ……もうっ……いいから、早く、座って……」

 続いて息もえに入ってきたのは、妹の雪音だった。雨恵といっしょに来たとは思えないほどの消耗ぶりで、普段のと聡明そうな雰囲気は見る影もない。きっちり切りそろえたショートの前髪が、汗で何本か額に張り付いていた。

 この、そっくりな顔をしてその他の全てが真逆のような姉妹は、今日もやっぱり正反対な有り様で教室へ現れた。

 自分で言った通り時間ぎりぎりだったのに平然と自席へ腰を落とす雨恵と、息を荒らげ足をふらつかせながら机へすがり付くように着席する雪音。

 両隣の席が埋まったことで俺は、ようやく今日の学校生活が始まったような気がした。マンホールの蓋が閉まり、漠然とした不安感から好奇心へと感情が移る。

 普段、俺は自分から彼女らに声をかけることは少ない。けど、さすがに今日は気になった。幸い、まだ担任の先生は顔を見せていない。

「……今日はずいぶん遅かったな」

 いたのは雨恵に対してだ。雪音は「ぜぇ」とか「はぁ」以外の声を出せそうにない。

 雨恵はバッグを机の上に置きながら、くふふと笑った。

「あ、おはようむらなぎくん。それが聞いてよ、今朝はゆきちゃんが寝坊しちゃってさ」

「寝坊?」

 思わずオウム返しに聞き返す。常にきっちり、規則正しいクラス委員の雪音には似合わない単語だ。

「そう、寝坊。いっつもエラそーに『一日のけーは朝にありだよ』とか語っちゃってるくせにさ」

「しょ……しょうがない、でしょ……起きたら、目覚まし時計の電池が切れちゃってたんだから」

 ようやく机から顔を上げた雪音が、途切れ途切れの弁解を口にする。

 反射的にそちらへ目をやると――彼女はさっと頭を押さえた。腕の中に隠れるような仕草だ。

 ? なんだ急に? と、いぶかってから、不意に気付く。

 動いている間は気付かなかったが、雪音の髪は常になく乱れていた。



 雪音は朝のホームルーム中、ずっと髪を気にしているようだった。

 思い返してみれば、雪音の髪は初めて見た時からずっと整っていた。さらさらで、頭の線に従順に寄り添い、歩く姿を後ろから見るとと弾むまりのようだった。

 それが今は、毛先は乱れ、何本もの髪がオナモミの実のとげに似てぴょんぴょんと反り返っている。

 寝坊しても遅刻を免れた代償に、髪をセットする時間を取れなかったようだ。

 ぐしで必死に直そうとしているだけど、鏡も見ないではそうそう上手くはいかない。結果として、ますますこんがらがってしまったようだ。そうなると余計に焦って手付きがあわただしくなる。

 雪音は俺の視線を気にしているようだ。ここは最後列で、俺の他は先生しか雪音を視界に入れないのだから当たり前ではある。

 目を雨恵に転じると、やはり寝癖の塊を頭に載せていた。いや、髪が長い分、こちらの方がもっとヒドい。房ごとうねって方々ほうぼうへ飛び出してしまっている。いつもやっている前髪の編み込みもしていなかった。

 だというのに呑気に机へ伏し、あくびを隠しもせずに先生の話を聞いている。まったく気にしないわけではないようで、うっとうしそうに髪を撫でてはいるが、雪音のように恥ずかしがっている様子はなかった。


 しかし、ホームルームが終わるなり声を上げたのは雨恵の方だった。

「雪ー、髪うっとーしいからかしてよ」

 姉の図々しい物言いに、雪音はちょっと顔をしかめた。しかめたが、しかし、教室の時計をちらりと見ると――一時間目の授業までそう長くない――不承不承という風に溜息をいた。

「……はいはい」

 と、バッグからヘアブラシを取り出す。携帯性を重視したらしい、おもちゃのように小さなブラシだ。

 そして雪音は俺の後ろを通って雨恵の背後に付き、その亜麻色の長髪へ当てた。

 と、ブラシが髪をくしけずる小気味のよい音が聞こえた気がした。

「……自分でできないのか?」

 さすがに甘えすぎだろう。思わず口をはさむ俺に、雨恵はうっとりと目を閉じながら答えてくる。

「そりゃできるけども、あたし、大きめの鏡がないと上手くセットできないからさ」

 女子がよく学校に持ち込んでるような手鏡とかスタンドミラーでは不足ということか。髪が長いせいなのか、雨恵が細かい作業が苦手なだけなのか。

「鏡があっても、寝起きが悪い時はわたしがやらされてますけどね……」

 対して、雪音のブラシさばきは堂に入っている。あれだけ混線していた長髪をよどみなくき、穏やかにあやし、真っ直ぐな流れを形作っていく。

 明るい髪の色もあいまって、まるで光を編んでいるような、浮世離れした光景だった。

 文句を言いつつもいつになく献身的な様子を見るに、ひょっとしたら雪音は、寝坊して遅刻しかけたことに責任を感じているのかもしれない。山田雪音はそういうことを考えてしまう女の子だ。

 毎朝妹に起こさせているような姉貴に気を遣うことなんてないのに。

 そのダメ姉は、髪を梳かされることにか、ブラシが頭皮を撫でる感触にか、すっかり陶酔してしまっている。まるでのどを撫でられる猫の顔だ。まったく、ここでも雪音のマッサージは姉をダメにするのか……むぅ。

 いや……別に、うらやましくなんかない。

 ただ、一度だけ雪音にマッサージしてもらった時のことを思い出しただけだ。あれくらい気持ちいいものなのだろうか。

 とりとめないのないことを考えている内にも、雨恵の髪はほぼいつも通りの様相へと変わっていた。風の流れに素直になびく、さらさらのロングヘアだ。水すら使わず見事なものだった。

「はい出来上がり」

 妹の声に目を開き、雨恵は自分の髪に指を通す。水よりも素直に指へからみ付き、そして流れ落ちた。つい数分前まであれだけばさばさだったのが嘘のようだ。

 横目にそれを見る俺の視線に気付いたか、雨恵は「ん?」と首を傾げて目を細め、指へ巻き付けた髪の一房をきゅっと引きしぼった。驚くほど細い指だというのに、俺は自分がいましめられるような錯覚をした。

 すぐ我に帰れたのは、雪音の疲れたような声のお陰だ。

「編み込みは自分でやってよね」

「サンキュー」

 雪音の言葉には手間をかけさせられたことへの非難が混じっていたのだが、雨恵はあくまで人懐っこい、無邪気な笑顔で感謝を返した。

 それは控えめに言って魅力的で。

 そして、ずるい笑顔だ。

 そんな風に屈託なく言われてしまっては、なかなか悪く思えるものじゃない。

 雪音もすっかり毒気を抜かれて、笑みにならないほころびを口に含みながら自分の席へ戻った。それから蓋にシロクマがプリントされたコンパクトミラーを取り出し、今度は自分の髪を梳かし始める。

 けれど、掌に載るような小さなミラーで寝癖の付いてしまった髪を整えるのは大変そうに見えた。特に雪音は、常日頃から神経質なまでにきっちりした髪型をしている。

 彼女の性格からして、トイレの鏡を長々と占有して髪を梳かすということもできないだろう。

 そんな状況で姉の髪を先に直してやり、しかもずるい笑顔を恨むこともできない。

 …………それは、

 問うてしまえば、胸がもやっとして、喉に物が詰まったような心地がする。落ち着かない。だから。

 俺は何度か、声を出しかけてはやめて、それからようやく、雪音へ提案をした。

「あの……俺が梳かそうか?」


 言った後で、間の抜けた提案だと思った。普通に考えて、美容師志望でもない男子が女子に言うことじゃない。気味悪がられても仕方ないだろう。

 それでもなぜか、雪音は提案を受け入れてくれた。

 ただ、こちらへブラシを渡しながら不安げに訊いてくる。

「できるんですか?」

 俺は曖昧にうなずいた。

「たまに姉さんの髪を梳かすから」

 我が家の次女であるところの地穂ちほ姉さんは漫画家のタマゴで、今は自作を描くかたわら、デジタル専門のアシスタント業をしている。それなりに忙しい上に仕事は完全にリモートなので、「働くひきこもり」といった状態だ。

 だから、たまに出かける時はいつものぼさぼさ頭を俺が整えることになる。姉さんも自分でできないことはないのだが、とにかく漫画以外に無精な人なので放っておくと鳥の巣みたいな頭で出て行ってしまうからだ。

 そんなこんなでつちかった技が、ついに家の外で活かされる……といいのだが。雪音の妙技を見た直後では自信なんてあるわけもない。

 できるのは、心を尽くして優しく、丁寧に、目の前の髪へ奉仕することだけだ。

 俺は立ち上がって、自分の席に座る雪音の背後へ回った。そうして繊細で柔らかそうな髪に向き合う。寝癖が付いていると言っても、針金が混じってそうな俺の髪とは全然別物だ。

 俺なんかが扱うのは冒涜なんではないかという不安に抗いながら、借り物のブラシを入れていく……ふわふわと柔らかい。痛みがちな姉さんの髪とは違う、滑らかな櫛通くしどおりに感動すら覚える。

 ぁ……いかん。

 我ながら、なんか気持ち悪い奴になっている。

 自戒して、それからは無心でブラシを動かした。

「………………」

 黙って手を動かしていると、最初の授業を控えた朝の教室の喧噪も意識から遠のいて、つややかな薄茶の繊維を磨き上げることだけが世界の全てになる。ブラシが良いのか雪音の髪が素直なのか、寝癖は思いのほかスムーズにまとまっていった。

 雪音も、自分の机の上へ置いたミラーを見たままずっと口を閉じている。ただ、髪を梳いた拍子に耳へブラシが触れてしまった時だけ、ひゅッとくすぐったそうに息を漏らした。

 ふと、首の白さが目に付く――いつの間にかうつむいていたせいで、髪とえりの間に隙間が出来てあらわになった雪音のうなじだ。

 あわただしい登校がまだ尾を引いているのか、しっとりと汗ばんでほのかに赤らんでいる。けぶるようなおくがこんなにも弱々しくほつれていることを、雪音自身は知っているのだろうか。

 そこは普段は見えない部分で、細くて、キレイで……だから、目にすることにそこはかとない罪悪感を覚える。

 それに耐えられず、俺はいつの間にかすぼまっていた雪音の肩を軽く引き起こした。彼女は彼女で緊張していたのか、小さく震えていた気がする。無言で触れたのはまずかったかもしれないと気付き、あわてて言い足す。

「うつむかないで」

 しばらくお互いに黙っていたから、ついささやき声になってしまう。急に音量を上げると、なにかが壊れてしまうような、根拠のない用心がそうさせた。

 机の上に置かれた雪音の手がぎゅっと拳を作り、ミラーの中の顔が唇を噛んだ。


 ――どうにか形の付いた頃に一時間目の予鈴が鳴り、先生が教室へ入ってくる。俺は雪音にブラシを返し、急いで自分の席へ戻った。

「へぇ……案外上手いもんじゃん」

 寝癖がおおむね鳴りを潜めた妹をながめて、にやにやと声をかけてきたのは雨恵だ。俺が雪音にブラシをかけている間、ずっとこんな顔をして面白がっていたに違いない。

「女の子の髪をいじり慣れてるとか、なーんかやらしいね」

「だから……姉さんの髪を梳かしたことがあるだけだって」

 もう先生が教卓で準備を始めているので小声で言い返す。声を大にして否定したいところではあったが。

 いずれにせよ雨恵はひらりとかわして、自分の前髪を一房つまんでこすって見せた。

「今度雪ちゃんが寝坊したら、あたしもやってもらおうかな?」

 あのなぁ……

「少しは――」

 ――自力で起きる努力もしろよ、と俺が続ける前に、声が割り込んできた。

あめはわたしがやってあげるよ」

 雪音だ。きょとんとした雨恵と、思わず目を向ける俺に、彼女は机上のミラーをしまいながら続けた。

「よその人に、迷惑かけられませんから……」


 よその人、という言い方に少しばかり傷付かないでもなかったけれど。

 俺はその言葉より、胸の中の熱を吐き出すような雪音の声が気になって、なかなか授業に集中できなかった。短いはずの彼女の髪にからめ取られたかのように。

 古い小説や怪談にあるように、女の人の髪にはなにか魔力があるのかもしれない。

 そう、思わされた。



Episode #10

Late Riser's Profit

        Fin.


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