第11話.黒猫



「あっ……」

 なんて声が出たのは、猫が増えていることに気付いたからだった。

 と言って、教室に本物の猫がいるはずもない。それは、小さなプレートにプリントされてスマートフォンからぶら下がった、黒猫だった。

「お、気付いた?」

 そのスマホの持ち主――俺の左隣の席に座ったやまあまは、機嫌良さそうに新顔の黒猫を揺らして見せた。

「この間、買ったばっかりのルーキーだよ」

 ストラップの中の黒猫を指でつつきながら笑う雨恵。ふにゃっと溶けて落ちそうな笑顔を見るにつけ、よほど気に入っているようだ。

「なんか、全部黒猫だよな」

 前から気になっていたのだが、雨恵の持っている小物にはやたらと黒猫が使われている。同じブランドとかキャラクターが使われているという話ではなく、写実的なマスコットから漫画調のイラストまで、とにかく黒猫であればなんでも集めているという感じだ。

 いい機会だといてみた俺に、雨恵はいかにも唐突な答えを返してきた。

守護獣しゅごじゅうだからね」

「しゅごじゅう……?」

 意味が解らず聞き返す。

 話を聞いてみると、なにか子供の頃に遊んだテレビゲームの用語らしい。動物の霊だか魂だかを装備してパワーアップするとかなんとか、そういうシステムだったそうだ。

「黒猫――闇属性。神秘的で素早く、鋭い……あたしのイメージにぴったりだよね」

 それについてはノーコメントにさせてもらうとして、ともかく、幼き日の雨恵はゲームの真似をして黒猫(の小物)を装備してみたという。そしてそれが習慣化した結果、今の黒猫コレクターになったというわけだ。

「……でもまぁ、たしかに猫は似合ってるかもな」

 怠惰で気まぐれ。よく寝るし、いざ動くと俊敏。仕草の一つ一つが伸びやかで、人を誘い込むようなところがある。

 総じて、山田雨恵は猫の化身のような奴だった。

 今も、退屈したしきねこよろしく、もっと構ってほしそうに黒猫のプレートをアピールしてきている。

 ええと……

「……こういうの、どこに買ってくるんだ?」

 なんとか質問をひねり出して訊いてみる。正直そこまで興味はなかったが、うちの姉さんに教えたら喜ぶかもしれない。

 雨恵は、国道沿いにあるショッピングセンターの名前を出した。

「この間、バスで出かけていってさ。ゆきとデート中に見つけたんだ」

 雪、というのは雨恵の双子の妹で、俺の右隣の席の山田ゆきのことだ。

 双子なので顔立ちはそっくりだが、髪の長さに体付き、そしてなにより性格が姉と正反対の妹。休み時間の今も眼鏡をかけて、ブックカバーを付けた文庫本を開いて静かに読み込んでいる。

「デート?」

 仲がいいのか悪いのかよく解らない姉妹だが、休日に二人で出かけている印象はなかった。学校で見る限り価値観が違いすぎる。

 すぐ隣の席だから当たり前だが、こちらの会話が聞こえていたのだろう。いぶかる俺の声に答えたのは雪音だった。

「ごくたまに、出かけることもありますね」

 必要以上に素っ気ない声音なのは、照れているのかもしれない。

「この子、たまに連れ出してあげないと部屋に引き籠もっちゃうからね」

 お姉ちゃんはツラいよ、と恩着せがましく肩をすくめる雨恵。雪音は舌打ちでもしそうな顔になった。

「頼んでないでしょ、そんなこと。この前はノートとか買う用事があったから付き合っただけ」

「またまた、そんな照れなくっても」

「照れてないし……あと、買い物するのはいいけど、お小遣い足りなくなって帰りの交通費をわたしに出させるのやめて」

「いいじゃん、雪ちゃんお金持ちなんだし」

 なにかの時に聞いた話では、読書が趣味の雪音は、お父さんが買ってくる本を読ませてもらうことで自分の小遣いを節約できるから財政的に余裕があるらしい。しかし、

「そういう問題じゃないでしょ……」

 雪音はもっともなことを言って溜息をいた。それは図々しい姉に呆れただけではなく、半分は自嘲だったようだ。

「わたしも払っちゃうから、こんなヒモみたいな姉になっちゃうんだろうけど……」

「ヒモって雪ちゃん……あたしは専業あねなだけだよ」

 雨恵は雨恵で勝手な新語を造って開き直っている。姉は業務ではないぞ。

 しかし、そう思って雨恵を観察してみると、まさにヒモだった。


 甘える相手は雪音に限らない。

 お昼前にお腹が空いたと言っては女子のグループを回遊し、ハロウィンよろしくお菓子をゲットして戻ってくる。掃除当番では上手いことおだて上げた男子に力仕事を任せ、この間なんかは副担任のぐさ先生からヘアゴムを融通してもらったりしていた。

 そんな図々しい振る舞いをしても悪印象を持たれていないのは、ある種の人徳と言っていいのかもしれない。実際、俺も足枕にされたり宿題を写させろと要求されたり、そしてなにより事あるごとにおちょくられているが、なんだかんだ怒りは覚えない。しょうがないな、雨恵だし……というのが率直な感想だ。

「それにしてもむらくんは甘すぎますけどね」

 というのが、それについての雪音の評だった。冷たい視線にたじろぎつつも、俺は言い返した。

「そうか? 度が過ぎてると思えば、ちゃんと注意してるつもりだけど」

あめが反省すると思いますか? 『初心者向け』の戸村くんになにか言われて」

 ……たしかに、雨恵は俺のことを「初心者向け」男子呼ばわりしてなめきっているフシがある。恐らく本人も正確な意味は定めていないだろうが、女子がくみしやすく、いいように扱える相手、くらいに思われている気がする。

「あんまり甘やかすから、すっかり戸村くんを使用人扱いじゃないですか。他の人に比べても、明らかに『なにをしても許される』だと思われてますよ。

 まさに、猫にいたぶられるネズミです」

「ぅぅ……」

 ずん……と落ち込んだ俺を見て、言い過ぎたと思ったのかなんなのか、雪音はことはしさん――クラス女子のリーダー的存在だ――のグループでけらけら駄弁だべっている姉を見やりながら声をやわらげた。

「……まぁ、雨を見ていると、本物の猫みたいに人を操ってるように感じることもありますけどね」

「……? 猫が人を操るのか?」

「ええ。微細な寄生虫であるトキソプラズマを人間に感染させることで、恐怖感や警戒心を減退させているという説があります。猫を前にすると理性が崩壊する人がいますが、その一因なのかもしれません」

「ときそぷらずま……」

 相変わらず雪音は博識だ。そして、納得もする。

 だるげで、ものげで、だらんと力が抜けていて、そして粉雪のように柔らかく無防備な微笑みを浮かべている――そんな山田雨恵にすり寄られると、つい警戒を解いて受け入れてしまう。

 まさに猫だ。トキソプラズマだかで人を油断させ、懐に入り、理性を殺す。

 それを思えば、彼女が黒猫を身につけるのは実に自然だった。木の葉を隠すなら森の中、死体を隠すなら死体の山の中、猫を隠すなら猫の群れの中……


 ――などと雨恵が考えているわけもないだろうが。

 ただあんな風に生きている内に、自然と身につけた習性なのだろうと思う。自分が力を抜いて生きるために、相手に力を抜かせる振る舞いを身につけた。それだけのこと。

 あれに近いかもしれない。勉強嫌いで生物が特異なわけでもない雨恵が、なぜかやたらと気に入っている、進化論。

 個体の知性も意志も関係なく、無作為に生まれた変異種の中から、有利な性質を持った者が生き残っていく。そんな強引で野蛮で、なにより適当テキトーな真理が雨恵の琴線に触れるらしい。

 雨恵の、思いつきのままに生きるテキトーさはまさに進化論の申し子だ。

 けど……――と、思うのは。

 進化論の適者生存は、不適者死滅の前提の上に成り立っているということだった。


 その日の放課後、俺は一人で学校から駅までの道を歩いていた。

 クラスで比較的仲のいい連中は部活や委員会がある。何日かに一度は双子といっしょになるが、今日の雪音は生徒会とクラス委員の集まりだとかで、雨恵はなんかいつの間にか教室からいなくなっていた。よくあることだ。

 俺は元から消極的なところがあって、中学でも友達は両手で数えられるほどしかいなかった。その半分くらいは小学校からの惰性で、今でも連絡を取り合っているような親友はいない。

 だから独りでの登下校なんて当たり前のことで、とうに慣れきっていたはずだ。それなのに、今日はなんだか虚しさを覚える。

 一は一でも、一分のじゃなくて、何分のだと感じてしまっている。

 高校に入って、あの双子姉妹にはさまれた席になってから、一日中「一人」ではなくなった。そのせいなのだろうか。

 そんなことを考えながら駅までの道を歩いていると、不意に見慣れた後ろ姿が視界に入ってきた。

 夕日に溶け込むような亜麻色の長髪。見間違ようもない、山田雨恵だ。

 けど、一人じゃなかった。

 俺と同じ制服を着た男子に話しかけられているようだった。ネクタイの色からして同学年だ。少し離れたところで別の男子が様子をうかがうようにしている。

 話しかけている男子は愛想よく笑顔を浮かべているが、どこか硬く余裕がないようにも見える。雨恵は――と見れば、雨恵も笑っていた。いつも通り、眠たいような目をしてへらへらとしまらない口をして。

 話し声が聞こえる距離ではない。でも、お互いに笑っているのなら悪い状況ではないのだろう。

 だから俺には、別に

 早足になる理由

 なんてもの

 ないはず

 なのに

 でも


「雨恵」


 呼びかけた声は、緊張かためらいか、かすれていたかもしれない。

 しかし雨恵には聞こえたようだった。振り向いた顔は笑っていない。ただ目を見開いて、空白のような顔になっていた。

 虚を突かれたのは雨恵と話していた男子も同じようで、俺と雨恵を見比べてぽかんとしている。セットに時間にかかりそうな髪型をした奴だ。

 口車に自信なんかない。相手が戸惑っている今がチャンスだろう。

「ごめん。待たせた」

 言って、雨恵の手を取る。いつかと同じ、壊れ物のように細い手首。

 ぎゅっと力を入れて、引っ張る。無反応だったり、抵抗されたりすることも予想しないではなかった。けれど、あっさり――本当に拍子抜けするほどあっさり、雨恵は付いてきた。

 それどころから、弾むような足取りに俺の体が押されるくらいだ。早足がさらに早くなる。

「ごめんねー。電車の時間あるんで、急ぐから」

 取り残された男子に早口で告げる声も明るく軽い。

 男子は呆気にとられて足を止めてしまった。しばらく行ってからちらりと見た時には、心なし落とした肩を連れの男子に叩かれていた。


「――で」

 雨恵から俺へ声をかけてきたのは、それからさらに行った、駅も間近の街並みへ入ってからのことだった。

 気付いてないわけではなかったけど、俺はその声をしおにようやく雨恵から手を離した。

「さっきのはなに?」

 解放された手がそこにあるのを確認するように振りながら、訊いてくる雨恵。なにか、表情筋がうずうずするのを押さえているような声だった。

 俺は答えずに何歩か行ってから、四分の一くらい振り向いて後ろへ声を捨てた。

「……邪魔したなら謝るよ」

「じゃなくて、さぁ」

 じれったそうな声が追ってくる。追ってきたのは声だけではなく、雨恵は小走りになって俺の前へ出た。ちょうど人通りのない、空白のような一角で立ち止まる。

 じゃなくて、なんなのかは言わず、黙ったまま上目遣いに俺の顔をのぞき込んでくる。

 走った勢いで、だらりとぶら下がった彼女のリボンタイが首元で揺れた。その赤さに、なんとなく金魚を連想する。美術室で聞いた、職員室の金魚鉢。

 その金魚に告げるような心地で、俺は言葉をこぼした。

「なんか……困ってるように見えたから」

「助けてくれた、って?」

 雨恵の声には、もう隠しきれない笑いがにじんでいる。俺は、あえぐように続けた。

「だから、勘違いだったら悪かったって」

「助けてくれたんでしょ?」

 雨恵に容赦はなかった。

「……そのつもりだったけど」

「ふぅん」

 雨恵からの反応は、そんな吐息と三日月めいて細められた目だけだった。

 俺は俺でもう言うことがない。ややあって、雨恵が世間話のように口を開いた。

「ま、別にピンチってわけじゃなかったけどね。クラスの子の友達で、それで何度か話した人なんだけど、休みの日にどっか行こうよとかって話をされてさ」

 いわゆるナンパか……当たり前に存在するのは知ってたけど、身近で起こるとなにか新鮮というか、面食らうものがある。

「あんま話合わなそうだったし、どう断ろうか考えてた時に、戸村なぎに連れ去られたわけだ」

 今さらながら、余計なお世話じゃなかったということにあんする。他にも安心することのある言葉だった気もするけど、とりあえずは考えないようにした。

「でもさぁ――」

 俺が落ち着いたのを狙って足払いするように、雨恵は少し低い声を出した。

「もしあたしがあの男の子といい感じだったとしたら、相当イタい奴だよねぇ。女の子を強引にかっさらっちゃって」

 低くささやいていても、弱火でかしたように声が浮き立っている。

 らしくもない行動に出た俺のことを笑っているんだ。

 俺が応えないでいると、雨恵は片眉を上げたようだった。リアクションがないのがつまらなかったのだろう。

 駄目押しをするように雨恵は顔を近付けてくる。俺より一二センチ背の低い彼女。第二ボタンまで開いたシャツ。夕日の中でもはっとするほどえる肌。

 ……なんでこんなに無防備なんだ?

 トキソプラズマ。だからナンパなんかされて。トキソプラズマ。我が身をかえりみない進化論。トキソプラズマ。自分を大切にしない。腹が立つ。トキソプラズマ。だから。

「なに? やっぱりあたしのこと――」

 軽口を、最後まで言わせはしなかった。

 雨恵の胸元で揺れるリボンを掴み、一端を引っ張って結び目をほどく。突然のことに雨恵は反応できていない。ただ、ぽかんと口を開けて言いかけた言葉を宙へいただけだ。

 そして俺は、リボンをきつく締め直した。姉さんたちが中学生の時に似たようなリボンタイを使っていて、遊び半分に結び方を教え込まれたから、ほとんど手癖でできた。

 シャツのボタンは外れたままだったから不格好だけれど、雨恵の襟は閉じ首元は白いカラーに覆われた。

「っ……な……ぃ……」

 なに? と言いたいのか。雨恵のうめきが、声になるのを追い越して、

「揺れてると、気になるんだよ」

 吐き出した俺の言葉は、自然と早口になっていた。心臓の鐘のに乗って息が走る。

 トキソプラズマ。最後にと締めたリボンから顔を上げ、雨恵と目を合わせて、告げる。

「それが、猫の本能だから」


 なにが情けないと言って――

 勢いがったのはそこまでだった。

 後に続ける言葉も行為もなく、俺はゆっくりと、雨恵の機嫌をうかがうように未練たらしく歩き出す。

 雨恵が動き出したのは、付いてこないのかと不安になった頃だった。前を歩くのだから当たり前だが、どんな顔をしているのかは知れなかった。

 五歩か、六歩か。そんな距離を開けて、いたまま、二人で歩いて、間もなく駅へ着いた。そこからは逆の方向の電車へ乗る。

 改札口で別れるまで、交わされる言葉はなかった。

 下校時間の雑踏。同じ制服の群れにまぎれ込みながら俺は、どんな顔で明日を迎えようか、そんなことばかり考えていた。



 翌朝の俺は、なんであんなことをしてしまったのかと自問ばかりしていた。

 いや、たぶん答えはなんとなく解っているのだけれど、同じ程度で後悔しているという意味だ。

 朝食の味はおろか、なにを食べたかも覚えていない。辛うじて、熱でもあるのかと地穂ちほ姉さんに心配をかけてしまったことだけは記憶に残っていた。

 憂鬱と言うよりは羞恥のせいで重くなる足取り。それでも揺れる電車と通学路を行く同輩の流れは俺を学校へと運び、覚悟もできないまま教室の扉をくぐってしまう。

 見れば、双子はいつも通りにいち早く登校していた。雪音は眼鏡をかけて読書に勤しみ、雨恵は――頬杖を突いてぼーっと窓の外をながめているようだった。

 俺は心なし気配を消して自分の席へ近付いていき、

「おはようございます」

 あっさり雪音に気付かれてあいさつされる。

「あ、ああ……おはよう」

 俺の様子がよほどぎこちなかったのか、雪音はきょとんと目をしばたたかせた。それでもなにも言ってこなかったのは、俺の注意が雨恵に流れているのを察したからだろうか。

 その雨恵は――あっさり振り返って、普段通りまぶたの重そうな目をこちらへ向けてきた。

「あ、おはよー」

 あいさつの声にも特に異状はない。制服の着こなしもいつも通りのだらしないものだ。

「ぉ、はよう……」

 動揺しているのは俺だけのようだ。顔が熱くなるのを自覚する。

 ……自意識過剰だったろうか?

 雨恵は、息を抜いて笑ったようだった。

「あはは、今日は調子悪いじゃん。昨日は『ごめん、待たせた』とか名演技だったのに」

 そんな話を振るのにも雨恵に気負った様子はない。すっかり聞き慣れた、力の抜けた微笑み声だ(俺の声真似部分は全然似てなかったと思う)。

 このうざったいからみ方、いつもとなんら変わりない雨恵だ。

 安心したし、張り合いが抜けたような気もする。俺は脱力してバッグを机に掛けた――と、珍しく雪音が声をかけてきた。

「……昨日、なにかあったんですか?」

 口元に手を添えて顔を寄せ、小声で訊いてくる。雨恵に聞かれたくないのだろうか。釣られて、俺の声も小さくなった。

「ぇ……いや、まぁ、ちょっと……」

昨夜ゆうべは雨の様子がおかしかったんです。なかなか――」

「雪」

 そしてこれも珍しく、雨恵が俺と雪音の会話を遮った。

「朝から内緒話なんて、なんかやらしいねぇ」

「や、やらしくないから!」

 即座に否定して、雪音は俺から体を離した。まったく……とこぼしながら、顔の赤みを抜くように呼吸を整えている。

 そんな妹から俺へ目を流して、雨恵はやや改まって口を開いた。

昨日きのうさ……サンキューね。そういや言ってなかったや」

「いや……そんな、うん……」

 俺が勝手にやっただけだから、と続く声は含羞がんしゅうにかき消えてしまう。我ながら情けない。

 そんな俺のうろたえた態度が面白かったのか、雨恵は弾けるように笑った。

「なにそれ? 変なの」

 ダメなところを笑われているのに、少し安心してしまう。

 これは堕落なのだろうか……?


 ――なにはともあれ、恐れていたようなことはなくてよかった。つまり、隣の席の同級生との関係が崩れて、今まで通り話せなくなるというようなことは。

 そんなことを思いながら最初の授業の準備を終え、雨恵の方へ目をやる。やっぱり眠たそうに窓の外をながめていた。早くもうとうときているのかもしれない。

 その雨恵の手が、手持ち無沙汰にリボンをいじっているのに気付いて――

 俺は、深呼吸して気分を切り替えた。



        ▲△


 いつも通り、できたと思う。

 当然、当たり前だ。あたしは山田雨恵で、それはこれまでもこれからも変わらない。初心者向け男子の戸村くんごときに緊張したりはしないんだ。

 でも、昨日はちょっと変だったかもしれない。


 戸村くんにリボンを結び直されてから、あたしはまっすぐ家へ帰った。特に用事もなかったし、駅ビルでもひやかして帰ろうかと思っていたのだけれど、なにか頭が重たい感じでそういう気にもなれなかった。

 お母さんは仕事で出ていて、お父さんはいたけどやっぱり仕事で自分の部屋に籠もってた。納期が近いとか言ってたから徹夜明けで熟睡していたのかもしれない。

 だから、ただ夕日が空気をだらす気配だけがあたしを出迎えた。ただいまを言わないで済んだことに、助かったという気がした。それすら億劫おっくうだった。

 あたしは自分の部屋――少し前に雪と別れて自分だけの物になった部屋――に入るなりブレザーを脱いで、ベッドに寝転がった。

 寝たままイモムシのように着替えようと、リボンに手をかけて――いつと違う結び方になっていることに驚いた。忘れていたわけではないのに、ぎょっとした。

 そうしたら、どうしていいか解らなくなって、結局そのまま、着替えもしないでベッドに転がって時間を過ごした。

 部屋に電気を点けていなかったことに気付いたのは、単に外が暗くなったからだった。

 いつの間に帰っていたのか、雪がノックして御飯の時間を告げた。うん、と返事をしたら「なにうなってるの?」と訊かれてしまった。ぼんやりしていたせいか、人語を外れた声を出してしまったらしい。

 晩御飯のテーブルではみんなに変な顔をされた。あたしが制服のまま出てきたからだ。

 わりと厳しいお母さんが珍しく心配して、なにかあったのかと訊いてくれたけど、「着替えるのが面倒だったから」と返したら納得されてしまった。自分の娘をどんだけのなまけ者だと思ってるんだ。

 一方、過保護なところのあるお父さんは落ち着かない様子で、なにかと世話を焼いてくれた。焼き魚の骨を取ってあげようかという提案は、お母さんが情けない顔をしていたので断ったけれど。

「……なんかいつもとかたが違わない?」

 雪ちゃんだけは違和感に気付いた。さすが、生まれた時からいっしょの妹だ。

 でも、昼寝した起き抜けだから寝ぼけてると説明したらあっさり納得された。自分の姉をどんんだけの粗忽者だと思ってるんだ。

 それ以外は何事もなく夕食を終え、席を立ったところでお母さんに呼び止められた。

「あ、お風呂入っちゃってね」


 ――さすがに、服を着たままお風呂には入れない。

 洗面台の前でいつも通りに服を脱ごうとして、やっぱりリボンでつまづいた。

 ほどこうとすると、解かれた時のこと、そして結ばれた時のことが頭をよぎって力が抜けてしまう。きゅっと、心のが締まる。

 ふと顔を上げると、初めて見るような不安そうな顔があった。洗面台の、鏡の中に。

 深呼吸しようとして、思いのほか冷たい息にびっくりした喉が詰まって。

 お腹から逆流してきた形のないものが、涙になってあふれそうになった。

 理由はたぶん、解っている。驚かされて、脅かされて、おどおどしてしまっているんだ。

『それが、猫の本能だから』

 初心者向け男子のくせに狩猟民族のようなことを言って、彼はあたしのリボンに手をかけた。

 気弱さや優しさという物陰に潜んでいた猫が、不意を打って爪を振るった。

 それはたぶん、悪いことでもなんでもなく、当然のことなんだと思う。琴ノ橋マリーや仲間たちの話に拠れば、もっと無節操なケダモノは世に満ちあふれているというし。

 実際、なにも「ひどいこと」はされていない。

 問題は。

 問題は、、彼の猫を知ってしまったことだ。

 猫は感染する。一度知ってしまった誰かの猫は、いつだってあたしの中でにゃあにゃあ鳴くことになる。

 彼本人がいないところでだって、彼の猫はあたしの体の中で躍るのだ。だから、この時間まで服を脱げなかった。

 この猫はたぶん、彼の存在を完全に忘れてしまうまで消え去りはしないと思う。

 その日が来るのか来ないのか、そんな先のことは解らない。でも、明日からも彼と隣の席で過ごす以上、あたしはこの猫を飼い慣らさなくちゃいけないのだろう。

 ………………

 意を決して一端を引くと、リボンタイはするりと呆気なく解けた。

 なんか手付きが慣れているように見えて、それがちょっと恐くもなったけど……やっぱり緊張して適当な巻き方をしたんだろう、あいつ。

「っ……」

 気が付くと、鏡の中の顔が緩んでいた。詰めていた息がすっと抜けた。

 それに勇気付けられるように、シャツのボタンを外していく。その指が悪寒に震えるのではなく、帯びた熱にうかされているあたり、あたしはこの猫が可愛くなくもないのだろうと、思う。

 だから、大丈夫。明日は普通にできるし、話せるし、からかえる。

 半ばまでボタンを外したところで洗面台に向き直り、あたしは口角を上げて笑顔を作った。

 そうして、鏡の中の可愛いお嬢さんに言ったのだ。

「ああいうことしちゃう奴は……尻尾を引っつかんで調教してやらなきゃね」


 ――そうして今日も、あたしは山田雨恵で、あいつは戸村和だった。

 なにが変わってなにが変わらなかったのか、それはきっとこれから判るのだろう。

 それまでは空をながめて、身繕いして、のんびりと日々を過ごせばいい。

 それが、猫の本能だから。



Episode #11

Black Cat

    Fin.

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