第5話.指圧師



 姉を思えば意外だが、妹を思えば当然なことに、やま姉妹の登校は早い。ほとんどの場合、俺より先に教室へ来ている。

 几帳面な生活を心がけている雪音いもうとが、ベッドにしがみつく雨恵あねを学校まで引きずってくるんだそうだ。そのお陰で、あまは今のところ一度も遅刻していない。

 その日もそうだった。俺があくびを噛み殺しながら教室へ入った時には、双子の姿はすでにして席にあった。

 ただ、いつもと違ってゆきが自分の席に居ない。

 なぜか雨恵の席の後ろに立って、姉の肩に手を乗せていた。

 朝からなにやってんだろう……と、いぶかしく思いながら席までくると、姉妹がそろって顔を向けてきた。

「あ、おはよー」

 と、山田雨恵。俺の左隣の席に座る双子の姉は、いつも通りの眠たげな顔で微笑んだ。仕草の一々が無造作で無防備で、そしてだらしない。

 今朝は特にアンニュイに見えた。ブレザーを脱いで椅子に掛けているせいか、ほっそりした体を脱力させている様がはっきり見て取れる。

「おはようございます」

 と、これは山田雪音。俺の右隣の席に座る双子の妹だ。姉とは逆にピシッとしたたたずまいで、ショートカットの髪も定規を当てたように真っ直ぐ切りそろえられている。

 いつもの彼女なら朝のホームルーム前は本を読んで時間をつぶしていて、シンプルな眼鏡をかけているのだが、今日は裸眼だ。窓からの逆光の中で、澄んだ瞳が生硬な光をたたえている。

 二人へあいさつを返しながら自分の席へ着き、俺は素直に疑問を口にした。

「なにやってるんだ?」

「マッサージしてもらうんだよ」

 いいでしょ、とでも言いたげに雨恵が答えてくる。えへへ、と首を傾げながら目を細める姿は顔を洗う猫を思わせた。のどを撫でたくなる衝動に逆らいながら聞き返す。

「マッサージ?」

「雪は上手じょうずだからね」

 俺は「なんで?」という意味でいたのだが。

 噛み合わない会話に耐えかねたという風に、雪音が答えてくれる。

「昨日、うちで模様替えをしたんです。珍しく雨もよく働いて、肩がったって言うから、ちょっとほぐしてあげようと」

 なるほど。たしかに雨恵が働くというのは珍しい。少なくとも俺は見たことがない。堂々たるスクール・ニートである。

「まぁね。お母さんに、手伝わないとお小遣い減らすって言われたからね」

 その雨恵が補足したが、なんで得意げなのかはよく解らない。

 俺が納得したと見たか、雪音は話を切り上げてマッサージを始めた。

 雨恵の肩に添えた両手をゆっくりと動かして、最初はやんわりと、次第に力を込めて、円を描くようにもみほぐしていく。

「……ふぃ~……」

 雨恵はすぐに、温泉に浸かったような声を出して顎を垂らした。

「ぉ~……効く効く…………ゲーム上手いと指圧も上手いんだね……」

 ……そんなに気持ちいいのか? 雨恵がとろけた声を出し続けるせいで、つい目をやってしまう。言葉の意味はよく解らないが、とにかくむやみに快適なのだけは伝わってくる。

 まどろむ幼児のようにとしている雨恵に対して、雪音はただただ無心でマッサージに集中しているようだった。他になにも考えず、ただ姉の筋肉の凝りをほぐすことに注力している。

 今なら、そのひたむきな横顔を見つめていても気付かれることはない。

 いつも張り詰めていて自他に厳しい彼女だけに、穏やかな表情で姉をいたわる姿は新鮮に目に映る。窓から差す黄金色の光がブレザーの微かな毛羽立ちにからみついて、なにかこの世から浮き出しているように見えた。

 登校してくる生徒も増えて、教室はあくび混じりのにぎわいに包まれつつある。そんな中で俺の耳がとらえるのは、マッサージの動きに合わせて漏れる雪音の息遣いだけだった。

「んっ…………っ……」

 ……なんだろう、この感じは? もう見慣れたはずの同級生の中に、不思議なような、当たり前のような感覚を覚えて。

 とにかく俺は、姉をマッサージする雪音から目を離すことができなかった。

「なーにさ。物欲しそうに見ちゃって」

 そしてそんな俺の視線に気付いたのは、妹とは逆に集中力のない雨恵だった。意志散漫だからこそ、つまらないことに気が付く。

 そうして、なぜか勝ち誇ったように続けた。

「戸村くんもマッサージしてほしいの? あー……でも、これはあたし専用だからなー」

「誰が専用か」

 雪音が手は止めずに冷たい言葉を落とす。雨恵は一向に効いた様子もなくへらへらしていた。

「それに……」

 ぽつりと付け足した雪音の言葉は、こちらを見てはいなかったが、たぶん俺に向けられたものだった。

「……男子にこんなこと、しませんから」

 ほっそりした指の群れが、きゅっと姉の肩にからみつく。

 なぜか、自分の首を絞められた気がした。



 翌日、俺は化学の移動教室からの帰り、一人で歩いていた。

 ……いや、別にぼっちなのではない。図書委員の津木つぎくんや陸上部の久賀くがくんら数人といっしょに教室へ向かう途中、昇降口にある自販機で飲み物を買おうと一人になっただけだ。

 そうしてパックのお茶を飲んで教室へ戻る途中、階段の前で、そろそろ見慣れつつある背中に行き合った。

 曇り空の重ったるい空気の中で、耳が垂れた種類の犬を思わせる短髪がふらふらと揺れている――山田雪音だ。

 俺と同じく一人きりだが、理由はなんとなく想像できた。運んでいる荷物が関係しているのだろう。一抱えもある段ボール箱の上に、さらにノートのたばが載っている。

 あの荷物を抱えて階段をのぼるのは大変そうだ。俺は早足で追いつき、声をかけた。

「だいじょうぶか?」

「戸村くん……平気です」

 雪音はちらりとこちらを見て、それから「んしょっ」と箱を持ち直しながら答えてきた。言葉とは裏腹に額に汗が浮いていて、見るからにしんどそうにしている。

「……職員室の前を通ったら先生に頼まれました」

 次の授業は担任の先生の受け持ちだ。たまたま通りがかったクラス委員の雪音に、今日使う資料と宿題の返却分のノートを運ぶよう頼んだらしい。

 ……どう見ても、女子が一人で運ぶ分量じゃなかった。ちょっといい加減なところのある先生だけど、無茶や横暴を言う人ではない。だからきっと、

「何人かで持ってけって言われたんじゃないのか?」

「…………一人で、運べますから」

 雪音にはこういうところがある。

 指名された委員長のわりに仕事には積極的だが、時として自分の手に余ることでも引き受けてしまう。そして、無理なのが解っていても他人を頼れない。

 俺にもそういうところがあるからよく解る。自分が苦労するのは耐えれば済むことだが、他人に負担をかけようとすれば、相手がどれだけ迷惑をするのか知れない。自分の想像を超えて嫌な思いをさせてしまうかもしれない。

 それを斟酌しんしゃくしてケアするのが、どうしようもなく

 多少無理をしても、全て自力でこなしてしまった方が精神的には楽なのだ。肉体的な苦役と精神的な怠慢は案外に均衡する。

 少なくとも俺は臆病で、精神的に怠慢だ。

 けれど、その時は不思議と、相手の言葉を無視する行動に出ていた。

 つまり、雪音の正面に回って段ボール箱の下に手を入れ、抱え上げた。

 見た目よりはいくらかマシな重みを胸に受け、引っ張り込む。ぷるぷると震えだしていた雪音の腕はあっさりほどけた。

「ぇ…………」

 ぽかんとした雪音の顔を残して向き直り、階段を上りだす。彼女はあわてて追いかけてきた。

「あ、あの……わたしの仕事ですから」

「一人でやれとは言われてないんだろ」

「そうですけど……」

「じゃあ交代するよ」

 そこで雪音が口を閉じて、問答はいったん途絶えた。

 二人、しばらく、黙々と階段を上がっていく。今は一階で、一年生の教室は三階だから、なかなかに険しい道のりではある。

 雪音はなんとか手伝おうと俺の左右をうろうろしていたが、そもそも体力が限界なのか、やがて肩を落としてあきらめたようだった。

 代わりに、うらめしそうに言ってくる。

「戸村くん……意外と図々しいですね」

 そうかもしれない。他の場合なら、いくらいたたまれなくても、望まれてもいないのに重荷を代わったりしなかっただろう。それはそれで、相手のプライドやらなんやらをおもんぱかるのがめんどくさいからだ。

 けどまぁ、この隣の席のクラス委員に関して言えば今さらだった。雨恵と彼女に挟まれて、さんざん雑談やケンカに巻き込まれて、他の同級生の誰よりも身近に感じるようになってしまっている。

「……相手にもよるかな」

 答えにちょっと口籠もったのは気恥ずかしかったからで、それは雪音にも伝わってしまったようだった。

「なんですか……それ」

 言葉通りに戸惑って、目をさまよわせた彼女は踊り場に上がったのに気付かず、前のめりにバランスを崩した。

 小さく笑ったら、にらまれた。



 それからまた何日か過ぎて。

 その日、俺は一日中、右肩に違和感を覚えながら放課後を迎えていた。どうも寝違えたらしく、休み時間のたびに肩を回したり伸ばしたりしても一向に治る気配がない。

 強く痛むというわけでもないのだが、なんとなく不調子ふちょうしのまま一日が過ぎてしまった。

 対照的に今日も太平楽だったのが雨恵だ。深夜ドラマを視て夜更かしをしたとかで、最後の授業の後半から船をこぎ始め、ホームルームが始まった頃には机へ突っ伏して熟睡していた。

 今も、腕を枕に「ふぃー……ふぃー……」とむやみに幸福そうな寝息を机へ吹きかけている。

 ホント、フリーダムだよな……うらやましいような呆れるような心地で、机に引っかけていたバッグを持ち上げる。

 とにかく帰ろう。と、立ち上がりかけたところで、不意に背後から肩を掴まれた。

「ぇっ……?」

 肩に置かれた華奢な手。その先を見上げると、そこにあったのは雪音の顔だった。反応できないでいる内に、彼女は体重をかけて俺を押さえつけてくる。

 つい先日、あれだけ俺の肩に触れるのをためらったことが嘘のような強引さだった。

「……えーと……なに?」

 心当たりもなく、至って漠然と訊くしかない。雪音はいつも通りの、不器用に力んだ顔をしていた。

「……マッサージします」

「ぇ……なんで?」

「調子が、よくないんでしょう?」

 そういえば、肩をほぐしている時に何度か雪音の視線を感じた。すぐ隣で体を動かされれば嫌でも目を取られるものだろうが、心配してくれたらしい。

「ああ。でも、寝違えただけで、大したことない――」

「……いいから。上着、脱いでください」

 コミュニケーションを放棄するぶっきらぼうな言葉には、有無を言わせぬ強い意志が籠もっていた。

 元々、俺は女性になにかを頼まれると断れないところがある。それは小さな頃に死んだ母さんに代わって育ててくれた姉さんたちへの感謝や遠慮の延長なのだけれど、もう条件反射のレベルで習慣化されてしまっていた。

 だから今も、言われるままにブレザーを脱いでしまう。たたんで膝に乗せながら振り返ると、雪音は満足げにうなずいて、そうしてマッサージを始めた。

 ――って……ぅわっ。なんだこれ?

 雪音の指は俺の背から肩へ吸い付くように動き、撫で、押し込んでくる。それは思いのほか力強く、でも痛いほどでもなく、ただただ心地良く肌と神経を揺り動かす。

 想像以上の気持ちよさだった。雨恵がふにゃふにゃになっていたのもうなずける。

「っ……ぁ……」

「へ、変な声出さないでください……」

 そんなこと言われても声が漏れ出すのは止められない。物心付いてから、こんな風に他人から触られることは滅多になかった。

 ほんの肌一枚分とはいえ、自分でない誰かの指が体へ埋まってくるのだ。くすぐったいのとも違う不思議な感覚。全てが不意打ちで心の準備ができない。思い通りにならない刺激が、他人の意志が、体の中に流れ込んできて神経をざわつかせる。

 自分のものより細くて、キレイで、しなやかな指一本一本の感触。その指先が力を帯びるのに合わせて、肌の内側が暖かいシロップを流し込まれたようにとろけていく。

 やがて俺の体は、雪音の起こす快感の波にすっかり呑み込まれていった。


 しばらくは夢現ゆめうつつの狭間をさまよっていたが、ようやく刺激に慣れ始めた頃、俺は心地良い気だるさに抗って口を開いた。

「……どうして急にマッサージを?」

 この間は、男子にこんなことしないって言ってたのに。

 雪音は手の動きを止めなかった。聞こえなかったのかと不安になるくらい一心にマッサージを続けた。

 そうして、返事は来ないかとあきらめかけた頃に、ぽつぽつと答えてくれた。

「この前……っ……荷物を、持ってくれましたよね……っ」

 両腕を動かしながらの言葉には、指圧に力を込めるための短い呼気が混ざっている。

「ぇ? ああ、その報酬ってこと?」

「そう、ですけど……」

 雪音は歯切れ悪く言葉を切って、なにか迷うように何度か息を吸って、吐いて、それから続けた。

「そうで、なくて……マッサージ……してもらって、凝りが、ほぐれた感じだったから」

「マッサージ……?」

 俺はただ荷物が重そうだったから手伝っただけで、雪音には指一本触れていない。

「どういうこと?」

「………………」

 彼女はそれ以上の説明をしてくれなかった。俺もそれ以上は訊けなかった。

 佳境に入った雪音のマッサージは、まともな会話を許さないレベルで人をダメにする――解ったのはそれだけだ。


 次に意識が戻ったのはスマホのシャッター音を聞いた時で、それはいつの間にか目を覚ましていた雨恵の仕業だった。

「いやぁ、いい写真が撮れたよー」

 と、雨恵は自分のスマホと俺たちを見比べながら笑いをこらえていた。

 雪音のマッサージにとろかされ、世にも情けない顔をした俺が写っているのだろう。そう思うと頬が熱くなる。

 しかし雨恵の視線を追うと、俺よりもむしろ、雪音の表情を面白がっているようだった。

 ……雪音はいったい、どんな顔をしていたのだろうか。

「ちょっと、勝手に撮らないでよ!」

 写真を消せと迫る妹と、逃げ回る姉。

 そんな見慣れた風景を眺めながら、俺は写真の中でマッサージする雪音の顔へ想像をめぐらせた。



Episode #5

Stiff Shoulders Treatment

           Fin.

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