第6話.小試験



「ふわぁー……ぁ…………」

 こんなに大きなあくびを見たのは初めてかもしれない。

 俺の隣の席のやまあまは、普段は整っている顔立ちをいっぱいに崩壊させ、じゅわっと涙を膨らませた。

「めんでぃぃ…………」

 めんどくさい、と言いたいのだろうか。言葉が口の中でふにゃふにゃに溶けて聴き取りづらい。

 朝のホームルームを終え、一時間目の授業を控えた休み時間。

 雨恵は、いつにもましてヒドかった。

「……いつにもましてヒドいな」

 俺が思ったことをそのまま口走ってしまうくらいのていたらくだ。雨恵は「んぇ?」と眠たそうな目をしばたたいた。

 それから頬杖を突き、上目遣いに俺を眺めながら言う。

「あー……今日さ、数学の小テストあるじゃん」

「ああ。五時間目だっけ」

 思い出してちょっと憂鬱になる。理系、ことに数学は苦手だ。

「あたし、前回めっちゃ点数低かったんだよね。今日のもダメだと居残り補習なんだって……て言うか、ゆきちゃんがお母さんにチクるとか言うし」

 後半は、俺をはさんで向こう側の席に座る妹をにらみ付けながらの恨み節になっていた。

 当の雪音いもうとは、読んでいた文庫本から顔を上げ、涼しい顔で鼻を鳴らした。

「頑張って勉強してもダメだったなら仕方ないけど、授業中に寝たりむらくんにイタズラしたりして赤点取ってるんだから。報告するのは当たり前だよ」

 全般的に授業態度のよろしくない雨恵だが、数学の時間は特に散漫だった。教科書の四隅に落書きをしていないページはないだろう。全てパラパラ漫画に費やしたからだ。

 雨恵は決してバカではない。むしろ極めて柔軟な頭脳の持ち主だ。ただし、その頭脳が興味のないことに対して働くことはない。びっくりするほど全くない。

 好奇心が強いくせに気まぐれで飽きっぽく、関心を失ったものには冷淡な猫。そんな猫のような雨恵は、優しくない妹にはと舌を出し、俺との会話を続けた。

「だから、夜中まで教科書とにらめっこしてたんだけど……」

 珍しく真面目じゃないか。

「――全然わっかんなくて、気分転換に手近にあったマンガを読んでたらいつの間にか寝落ちしてた。だから眠くて眠くて……」

「ええー……」

「夜中の一二時更新のウェブマンガとかあるのも悪いよね。これからって時に、ついスマホに手が伸びちゃう」

 ……要するに、ほとんど全く勉強してないということか。この分じゃ今日の小テストも絶望的だろう。

 これをただの怠慢と断じるか、一種の体質と考えるか。同情の余地をはかりかねる俺だったが、雨恵は構わず愚痴を垂れ流す。

「だいたい……代数とか関数とか将来なんに使うのさ? 多項式たこーしきとか因数分解いんすーぶんかいとか言われても知らんがな。知らんガーナ共和国だよ」

 共和国はさて置き、言わんとすることは解らないでもない。学者やら技師やら、そういう専門的な仕事に就かないなら高校以上の数学は必要ない気はする。実際、うちの姉さんは二人とも社会人だが、そろって数字に弱い。

 などと、俺が同意の空気を出したことが伝わってしまったのか、

「使うかどうか判らないから、とにかくなんでも学んでおくんだよ」

 またゆきが口をはさんでくる。今度は雨恵も無視しなかった。

「そんなの、必要になった時に勉強すればいいじゃん」

「大人になってからじゃ、なかなかまとまった時間も取れないだろうし……それに、才能は偶発的ぐうはつてきなものだから」

「ぐーはつてき?」

 またわけの解らないこと言い出したよこの頭でっかち、といった声を出す雨恵に、雪音は辛抱強く説いた。

「興味のなかったことでも、やり始めてみたら才能が開花して大得意になるってこともあるでしょ。そういう『出会い』を総当たりで試すために、学校ではいろんなことを教えてるんだよ」

「今時お見合いなんてナンセンスだね。出会いも恋愛も自由にすべきだよ」

「要するに勉強したくないってことでしょ?」

「そうだよ! だから困ってんじゃん!」

 いよいよ開き直った雨恵だが、その悲鳴じみた声からして今日は本当に追い詰められているらしい。

「うー…………補習めんどくせぇ……」

 そんな、今にも泣き出しそうな雨恵の顔をながめているうちに一時間目の授業が始まり――


 ――ほとんど内容が頭に入ってこないままに終わった。

 雨恵のサボりぐせ感染うつったわけではない。しかし原因は雨恵だった。

 休み時間になったら雨恵へ言いたいことがあって、でもどう言い出したものか、そればかり考えていたから、先生の話が耳を素通りしたのだ。

 逆に雨恵は、いつもよりは授業に集中できていたようだった。試験勉強をしなければならないと思えば思うほど掃除がはかどる、あの現象みたいなものだろうか。

 授業終了の号令とともに教室が喧噪に包まれる。おしゃべりを始める者、スマホを持って廊下へ出ていく者、ダンベルやハンドグリップを取り出して筋トレを始める運動部員――ふと気配を感じて見ると、雪音が立ち上がって廊下へ出て行くところだった。たぶんトイレだろう。

 それを呼び水にして、俺は雨恵へ声をかけた。

「解らないなら、教えてもらえばいいのに」

 雨恵は視線だけをこちらへ向けた。気のない声が返ってくる。

「雪に、ってこと?」

「ああ。せっかくデキる妹がいるんだから」

「……雪はダメだよ」

「教えてくれないのか?」

「そうじゃないけど……教えるの下手だもん」

「そうなのか?」

 聞き返したものの、なんとなく解る気はした。雪音は成績優秀で博識だが、それだけに自分と知識量に格差のある相手と話を通じにくいのかもしれない。

 その想像が正しいかは判らないが、とにかく雨恵は、らしくもない溜息まじりに続けた。

「昔っからよく言われるんだよ……『雨恵ちゃんはいいわね、雪音ちゃんに勉強教えてもらえて』とか、『双子なんだから雨恵さんも頑張ればデキるはず』だとか……そう姉妹で成績をコピペできれば苦労はないっての。

 あたしは雪音じゃないから雨恵あたしだし、雪ちゃんは雨恵あたしじゃないから雪音なのにね」

 ……普段脳天気に見える雨恵だけど、案外にコンプレックスと言うか、ストレスは感じてるんだな……

 それならなおさら――と、俺は授業中に考えていたことを告げた。

「……じゃあ、俺が教えようか。解る範囲でだけど」

 雨恵はようやく顔ごと向き直って、目をぱちくりさせた。


 その直後から、休み時間になるごとに俺は雨恵といっしょに小テストへ備えた。

 俺だって数学は得意じゃないが、なんとか平均点前後は安定して取れる。それに、今日の小テストは授業中の先生の発言からヤマを張れるから、うまくいけば短時間で点数を上げられるはずだ。

「――エックスたすさんの二乗……ぇ? これで当ってんの?」

 雨恵も全く勉強していなかったわけではない。簡単な問題から順に見ていったら、意外と些細なアドバイスで問題を解いていく。

「ああ。俺も同じ答えになったから、たぶん当ってる」

 いつだったか雨恵の忘れた教科書を見せた時のように机を寄せているのだが、前の時と違って雨恵も真剣だ。不満げな顔が、至近距離でのぞき込んできた。

「たぶん……って、頼りないなぁ。自分で先生せんせーやるって言ったくせに」

 目の前で新鮮な表情をされて、必要以上に焦ってしまう。

「っ、いや……この例題、プリントのやつだから答えが載ってないんだよ」

「プリントのとい7だったら、それで当ってますよ」

 ぼそっと小さな声で請け合ってくれたのは、問題を解く俺たちの会話を聞いていたらしい雪音だった。俺はあんの息をいた。

「だったら安心だ」

「雪にはいてないんだけど」

 雨恵はちょっと意地になっているようだ。お母さんに報告するとかどうとかで、俺の知らないところでケンカでもしたのかもしれない。

「……わたしは戸村くんと答え合わせをしただけだよ。クラス委員として」

 雪音は雪音で素直でない。俺と雨恵が勉強する姿を見て落ち着かなさそうなところからして、本当は雨恵に頼られたい気持ちもあるんじゃないかと思うのだが。

 結果として、俺が雨恵に教えながら、解らないところは俺が雪音に訊くという、えらく遠回りな試験勉強になってしまった。

 ……相変わらず、めんどくさい姉妹ふたりだな。


 昼休みは最後の追い込みだ。弁当を広げながら、確実に点が取れそうな問題から復習していく。雪音はいつの間にか席を外していたから、今はマンツーマンの態勢だ。

「なんか、いいことあった?」

 いくつか例題を解き直し、だいぶ飽きがきた頃、雨恵が出し抜けに訊いてきた。

 意味が解らず、訊き返す。

「なんだよ……やぶからぼうに」

「今日、優しいじゃん」

 弁当箱の中の焼き鮭をはしの先でつつきながら、雨恵は感情の読みづらい目で俺を見ている。いつになく無愛想な声に聞こえるのは、言葉通り、こちらの意図が読めないからだろうか。

「……いつもこんなもんじゃないか?」

「いつもは自分から話しかけてこないでしょ。言いたいことあっても、チラチラこっち見るだけでさ。照れすぎ」

「照れてるわけじゃ……」

「じゃあ不審者だよ。女子高生の一メートル以内に居座り、怪しい挙動をする事案」

「っ…………もう照れてるんでいいよ」

 今日は初めてかもしれない。雨恵はにへっと笑顔を見せた。

「――で、今日はどうして教えてくれる気になったの?

 教えてよ、せんせー」

 あくまで訊いてくる彼女の瞳は、好奇心に爛々らんらんと輝いている……これは、答えないと勉強を再開できそうにない。

 俺は時間を稼ぐように弁当の煮付けを口に含み、呑み込んだ。それから深めに息を吸って、それよりは浅く吐いて、答える。

「朝さ、『なにが必要になるか判らないから、学校はなんでもやってみるんだ』みたいな話になったろ」

「うん……それで?」

 うなずきはしたものの、雨恵の声に納得の色はない。おくれしながら、続ける。

「……それは教室も同じなのかもなって」

 雨恵は、受け取り損ねたボールを探すようにぐるりと周りを見回した。

 クラスメートの半分以上が残っていて、弁当を食べたり雑談に興じていたりしている。ファンタジー物のゲームやマンガでよく見る「混沌カオス」という言葉の意味は、たぶんこんな光景のことを言うのだろう。

「教室?」

「ああ。ここにいるのは、学校ここに来なければ会うことも話すこともなかった奴らだろ? 気が合わない奴もいるし、将来の役に立つ出会いなんてそうそうない。

 けど、そうとも限らないから、ともかく出会ってみるんだ。数学の授業と同じように」

「同じかなぁ……?」

「……雨恵は人懐ひとなつっこいから解らないだろうけど、俺みたいな人見知りからすれば、人付き合いも勉強と同等以上に大変なんだよ」

「はぁ……そんなもんかね」

「少なくとも俺は、この学校に来て、この席にならなかったら、雨恵と話したいとは思わなかったよ。苦手なタイプだからな」

 明るくて、いい加減で、なにを考えているか解らなくて、ずけずけと間合いに入ってくる――そしてなにより、同年代の女子。俺が心をくじかれる要素の塊みたいな相手だ。

「…………」

 雨恵は珍しく困ったような顔をした。どういう種類の困惑かは判別できないが、ともかく言葉が出てこないようで、口を開いたり閉じたりしていた。

 それが声になるのを待たず、結論を告げる。

「でも今は……この席になってよかったって思ってるから」

 才能は偶発的なものだから、という雪音の言葉が頭によみがえる。

 だったら、同級生だって偶発的なものってことだ。だから。

「ちょっと、なんか、してみたくなったんだよ。数学とか、いろいろ」

 我ながら要領を得ない説明だ。余計に困らせたかと雨恵を見ると、案の定、ぽかんとした顔をしていた。いつも眠たそうにしている目を丸く見開いて、まばたきもせず俺を見ている。

 なにか言葉を足さないと、と思うのだが、この気持ちを意識の表面にすくい取れない。元から明確な理由があってのことじゃなかった。ただ、朝の会話になにかしらしたものを覚えて、行動せずにはいられなかっただけだ。

 それでも、言葉を失った相手を前に黙ってるわけにもいかない。必死になって口を開く。

「ぇっ、と……だから、つまり、俺は――」

口説くどいてんの?」

「違うよっ!」

 反射的に言い返した時にはもう、雨恵の顔はいつもの人を食った笑顔を見せていた。

 さぞや面白いことになっているであろう俺の顔をにやにやと眺めながら、笑みを含んだ声をからみつけてくる。

「だーって、『君に出会えてよかった』なんて、マンガのクライマックスで愛を告白する時のやつじゃん」

「そ……そんな言い方してないだろ……」

 同じような意味のことは言ったかもしれない。言ってしまった……かもしれないが、そんな言い方はしていない。言い方は大切だ。

「いやー、いきなりそんなこと言われても困っちゃうなー」

「言ってないってば」

 重ねて否定してみても、雨恵は耳に入った様子もない。わざとらしく頬に手を当てて身をくねらせる。

「まー、愛されて嫌な気はしないけども」

 ……こいつ。明らかにじゃないって解っててからかってるな。

 そう気付いてしまえば、むきになるのもバカらしい。俺は肩と溜息をストンと落とした。

「ほら……もう時間もないし、小テストの追い込みするぞ」

「え? なにそれ彼氏気取り?」

「怒るぞ……」

「あはは、ごめんごめん」

 俺をイジるネタが増えたからか、雨恵はさっきまでの憂鬱顔が嘘のように上機嫌になっている。

 そうして、あくびよりも大きく口を開けて焼き鮭を頬張った。



 ――予告通り、五時間目の数学の授業は小テストから始まった。

 配られたプリントに並んだ問題を黙々と解いていき、なんとか一通りこなしたところでタイムアップ。

 採点は隣の生徒同士で行うのだが、最後列は三人きりなせいでちょっと変則的だ。俺の答案を雨恵が、雪音の答案を俺が、そして雨恵の答案を雪音が採点することになった。

「あっ! そもそも雪が採点でサービスしてくれれば勉強しなくてよかったんじゃん」

「しません」

 今さら気付く雨恵に、雪音はどこまでも冷たかった。

 そして、その冷たい妹の採点の結果、雨恵は補習の基準だった四〇点をなんとか上回ったのだ。

「お……おおおっ…………!」

 雪音から返された解答用紙を前に雨恵は声を震わせた。両端を握る手も震えていて、紙がくしゃくしゃになってしまっている。

 そして、赤ペンで書き込まれた四五点を「ほらほらっ!」と俺に押し付けてきた。

「すごくない? 前回二〇点だったのが四五点だよ!? 脅威の上昇率! ……あたし、実は天才だった?」

 四五点で天才だったら普通に一〇〇点取った雪音は神か悪魔か。ちなみに俺は七五点だった。雨恵といっしょに復習したせいかいつもより高得点だ。

りょ顔良がんりょうになったくらいの知力アップだけど……ま、雨にしては頑張ったね」

 そのたとえはよく解らなかったが、雪音も珍しく姉を褒めた。雨恵が図に乗ったのは言うまでもない。

「へへへ、もっと褒めてくれてもいいんだぜ雪ちゃん。これを逃したら、次のチャンスはいつになるか判らないんだからね」

「もっとチャンス作ってよ……」

 雪音は褒めて損したとばかりに嘆息して、疲れたような横目で俺を見た。

「戸村くんのせいですよ。これはしばらく調子に乗ります」

「いや、そんなこと言われても……」

 せっかく姉が補習を回避したというのに、雪音は微妙に不機嫌だ。雨恵のテンションがうざったいんだろうけど。

 そして雨恵の、目にまぶしいようなテンションは、当然俺にも降りかかってくる。

 小テストのプリントを闘牛士のマントのようにアピールしながら、俺の顔をのぞき込んできた。

「ま、数学がこの先の人生で役に立つか知らないけどさ――」

 それは今日一番の笑顔で、俺の眼の中に躍り込んで優雅にステップを踏んだ。

は、小テスト合格かな」

「……? そりゃそうだろ」

 聞き返す俺に答えはなく、山田雨恵はただ、くすぐられたように息をはじけさせた。



Episode #6

A Little Test

     Fin.

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