第7話.まくら



 またか――と、もう溜息も出ないくらいに慣れてしまったが。

 四時間目の体育の授業を終え、さあ弁当を食べようかと教室へ戻ってきた俺が見たものは、教室最後列に三つ並べた椅子に寝そべるやまあまの姿だった。

 このクラスの最後列には三席しかないわけで、当然俺の椅子も使われてしまっている。

 女子の体育は先生が急用だとかで自習になっていたから、もしかすると授業時間中から寝ていたのか……とも思ったが、それはが許さないだろう。

 雨恵が枕にしているのは、生真面目なクラス委員であるところの妹、ゆきのふとももだった。いわゆる膝枕だ。

 雪音は痩せ形の姉とは対照的にふんわりした体付きをしていて、スカートとニーハイソックスが枕カバーになっている膝枕は、見るからに寝心地が良さそうではある。

「あ……たびたびすみません……」

 思わず目をやってしまったところで当の枕……もとい雪音に声をかけられ、俺は意味もなく咳払せきばらいをした。

「いや、もう慣れたけど……それにしても速攻すぎるだろ。そんなに眠かったのか?」

「いえ、それが……」

 直言家の雪音にしては歯切れが悪い。いぶかって見ていると、答えは本人の口から返ってきた。

「今日は眠いから寝てるんじゃないんだよ。寝たいから寝てるの」

 妹のももに頭を乗せた雨恵はたしかに起きていた。覇気のない眠たげな声をしているのはいつものことだ。俺は率直に聞き返した。

「……なんか違うのか? それ」

「眠るんじゃなくて、くつろいでるってことだよ」

 言葉通り、雨恵は三つの椅子と妹の脚をほしいままにしてだらけきった格好をしていた。放り出した素足をぶらぶら揺らし、至極快適そうにこちらを見上げている。

 雨恵は寝転ぶ時、いつも裸足だ。部屋で靴下を履く習慣がなくて、脱いでないと眠れないという話だったが……問題は、学校は寝るための場所ではないことだった。

 なぜ雪音はされるがままになっているのだろう? いつもなら、俺が帰ってきた時点で姉を叩き起こしているはずなのだが。

 疑問の視線に気付いたのだろう、雪音はじくたる面持ちでかぶりを振った。

「ちょっと事情があって……今日は好きにさせてるんです」

「そうそう――」

 得意顔の雨恵が話をぐ。

「あれは昨日の晩の事。我が妹の絹を裂くような悲鳴に部屋へ駆け付けてみれば」

「そんな大きな声じゃないし……」

 雪音の訂正を、雨恵は完全に無視した。

「すると見よ、雪ちゃんが巨大なクモに襲われているではないか」

「巨大なクモ……?」

 漠然と想像されるのは、ネットかなにかの写真で見た大型のタランチュラだった。しかし、日本の家屋にそんな大物が出るものだろうか? 山の方ならともかく。

「三、四センチくらいで手足も細いやつです……」

 やっぱりそんなもんか。

「ただ……ヘッドホンをしている時に天井から糸を引いて目の前に出てきたもので、驚いてしまって……」

「うぁ……それは……」

 悲鳴の一つも出るかもしれない。

 そんな俺たちの会話に構わず、雨恵は気持ちよく話を続ける。

「あたしはその大グモに敢然かんぜんと立ち向かい、適当なチラシですくい上げて外に放り出してあげたんだ。無益な殺生は好まぬからね」

 俺は見知らぬクモのためにあんした。ゴキブリの子供とか卵を食べるという話を聞いて以来、クモを見かけても殺さないように心がけているからだ。

 それはともかく。

「雨恵に助けられたばかりだから、今日のところはサービスするつもりってことか」

「はい……どうにもわたし、節足動物は苦手で……あのうじゃうじゃした感じが」

 杓子定規で生活態度にうるさい雪音がこの乱行を受け入れるとは。よほど虫が恐いらしい。

「あ、でも、これじゃ戸村くんが座れませんね」

 申し訳なさそうに見上げてくる視線にも葛藤がにじんでいる。俺はちょっと対応に迷った。

 その気になれば弁当なんてどこでも食べられるし、一日くらい席を譲ったって構わない。

 だが、見るからに柔らかそうな雪音の膝枕をこれ見よがしに堪能し、いいだろーとでも言うようにへらへらしている雨恵にはなんかイラッとする。

 いや……別に……うらやましいとかではなくて……

「それなら、あたしの席使っていいよ」

 態度を決めかねる俺に提案してきたのは、不法占拠の主犯たる雨恵だった。恩着せがましく言いながら、自分の席に乗せていた両足を抱え込み、体育座りのような体勢になって自分の席を空ける。いかにも窮屈な姿勢だが、足だけ床に逃がせば寝続けることはできるだろう。

 ……むしろスカートでそんな体勢になる方が問題だ。一応、めくれないように工夫してはいるようだったが、それで十分だと思ってそうなのが危なっかしい。

「じゃあ……」

 それはそれとして、そこまでさせてから断るのもなんだか据わりが悪い。俺は自分の弁当をバッグから取り出すと、雨恵の席へ座った。机の上にはなにもなかったので、遠慮なく弁当を広げたところで――

 膝の上に雨恵の足が乗ってきた。

「……おい」

 横目でにらむと、雨恵はにっこり笑って単語を吐いた。

「あしまくら」

 幼児のような舌足らずの発音だ。ちょっと可愛いのが腹立つ。

「……どけてくれ」

 雨恵は寝転んだまま掌を横へ振った。

「だいじょうぶだって。最近はよく戸村くんを踏むし、お風呂で念入りに洗ってキレイにしてるから」

「そもそも踏まないでほしいんだが」

「それはだって、戸村くんは足を置くのにちょうどいい人だから」

「そんな人はいない」

 解ってはいたことだが、雨恵と問答しても泥沼にはまるだけだった。理屈が通じないわけでも、常識がないわけでもない。ただ、なぜかひとを人とも思わないところがある。

 ……と言うか、恥ずかしくないのか。

 視線を下げれば、俺のももの上にほっそりした二本の足が置かれている。緩くクロスしたそれは、いくら細くても生身の重みと温もりがあり、その先では雲形定規で描かれたようになめらかなラインの素足がツンと親指を立てている。

 それは一見おとなしくしているようで、脚を組み直したり足指を屈伸させたりするたびに脈打ち動いている。こう密着してしまうと、それらの全てが不意打ちだ。

 制服のズボン越しに感じる他人の体、ままならないかたまり。それがもたらす痙攣的な緊張は、膝裏から尾てい骨を伝って俺の背に寒気に似たなにかを走らせる。

 目を元凶に移せば、雨恵は平気な顔をして、俺が困る姿を観察しているようだった。

 ……ここで過剰に恥ずかしがったりすれば雨恵の思う壺だ。また、初心者向け男子だのなんだの笑い物にする気だろう。

 女子の足くらい大した重みではない。ここはもう、無視してさっさと弁当を平らげてしまうのが得策だろう。

 ただ食材に感謝を捧げることに専心して食事する――そう決めて、俺は弁当箱のフタを開けた。

 今日の弁当は珍しく早起きした姉さんが用意してくれた。メインのおかずは、昨日の残り物を混ぜて作った豆腐あんかけだ。なにをぶっ込んでもそこそこ美味しく食べられるということで、残り物の食材に統一感がない時の定番メニューになっている。

 下の姉さんのこだわりで、冷めてもとろみを失くさない工夫がされているそれは、残り物が化けたとは思えない極上の口触りをもたらす。難点があるとすれば、やや食べづらいことくらいだが、スプーンがあればなにも問題ない。

 あれば問題ない……のだが、弁当の包みにスプーンは入ってなかった。箸で食べるしかなさそうだ。

「あっ、美味しそうな匂い」

 人を枕に寝っ転んだまま言ってくる雨恵に対する視線は、自然と冷たくなった。

「やらないぞ」

「たかったりしないよ。そんないやしんぼに見える?」

「とりあえず常識がないようには見えるな」

 雨恵は寝たまま器用に肩をすくめた。

「あたしは教室での生活を効率的に楽しんでるだけだよ。なんて言ったっけ……ほら、あれ…………ランチパック?」

「ライフハック」

「そう、それそれ」

 妹の訂正を素直に受け入れて言い直す雨恵。雪音はよく解ったな……

 と、見ると雪音も自分と、それに雨恵の弁当を広げ終えたところだった。

「ほら雨。そろそろ食べ始めないと昼休み終わっちゃうよ」

 助かった、これで雨恵も体を起こしてくれる――とは、しかしいかない。

「雪ちゃん食べさせて」

 言って寝たまま「あーん」と口を開ける雨恵に、さすがに雪音も気色ばんだ。

「はぁ? なんでそんな――」

「いやー、クモの脅威はまだ去ってないかもなー。今晩にでも現れて雪ちゃんの頭に降り立つかもなー。そうなった時に雪ちゃんを助けてあげられるのは誰なのかなー?」

「くっ……!」

 雪音が掴んだプラ製の箸が、持ち主の葛藤を写したようにぎっと軋みを上げる。雪音としてはこれ以上雨恵を調子付かせたくないはずだが、よほどクモが恐いらしい。

 結果、頬をぴくぴくさせながら雨恵の弁当を少しずつスプーンで――うらやましいことに、弁当箱のオプションで標準装備のようだ――すくい上げ、ざらなど添えながら世話をすることになる。

 ……制止役の妹が折れると、こうも暴君と化すのか山田雨恵。

 だが、俺も戦慄してばかりはいられない。食べる時間がなくなるのは同様だ。慎重に箸を動かし、あんをからめた豆腐を持ち上げた――その時。

 膝の上で、雨恵が足を組みかえた。

 さすがに狙ってのイタズラではなかったろう。恐らくは無意識のことで、だからこそ俺も、腿を這うふくらはぎの感触に動揺してしまった。

 そうして豆腐は、箸の上の均衡を失ってこぼれ落ちる。

 ぺちゃっ……と。

 小切りの豆腐は形を崩したが、粘度の高い餡に包まれて雨恵の膝に落着した。

「あっ……悪い」

 あわてて謝って雨恵を見る。元はと言えば雨恵が悪いという気もしたが、それはそれだ。

 雨恵はきょとんとして、豆腐の載った自分の膝を見ていた。そしてそのまま視線をこちらへ向け――うっすらと笑みを浮かべる。

「いいから、食べちゃってよ」

「食べろって言われても……ぁっ」

 戸惑う声が途切れたのは、雨恵が俺の口元まで膝を持ち上げたからだった。

 目の前に差し出された、リンゴのようにまろやかな膝頭。うっすらと浮かぶ血管が見て取れるくらい近付いた彼女の肌。とろとろの豆腐はいかにも場違いだ。

 なにか追い詰められるような息苦しさに雨恵を見ると、笑みを深くしてこちらを見ていた。気のせいか目元が赤い。目付きもちょっと尋常でないように見える。

「ほら、遠慮なくどうぞ」

 こ、こいつ……踏んだり枕にするだけでは飽き足らず、脚についた物を食べさせることで決定的なマウントを取ろうって気か……!

「でっ……できるわけないだろ、そんなこと……」

「いやいや、食べ物を粗末にしちゃいけないよ」

 取って付けたような良識のくせに、反論しづらいところを突いてくる。しかしこれは黄泉よもつ竈食へぐいだ……食べたら後戻りはできない地獄の一方通行。

 雨恵の伸びやかな両脚。その一方は俺の口元に膝を突き付け、もう一方は俺の膝を押さえて身動きをさせない。

 振り払おうとすれば痴漢まがいのことをしなければならないだろう。ただでさえ無理なのに、衆人環視の教室では社会的に死ぬ。

 ワナだ。俺は、雨恵の足枕に甘んじた時点でワナにかかっていたのだ。

 その様は、まるでクモ。

 大グモの脚にからめとられたかのような絶体絶命。

 仮に豆腐を食べるとして……不安定な膝小僧の上に載った豆腐を箸でつまみ上げるのは至難の業だ。……口を寄せて吸い付けというのか? 真っ昼間の教室で、女子の脚に。いずれにしても変態の烙印を押され、俺の健やかな高校生活は即終了だ。

 いや……でも、今なら誰もこちらを見ていない。どうせ逃げ道がないなら今の内に食べてしまうべきなのか…………?

 あんかけ豆腐に懸かった人生。脈拍と動悸が激しくなり、追い詰められた理性は食欲と他のなにかを混同して血を押し上げ「……やるのか……やるしかないのか……!」と、猛然と朦朧たる決断をしかけたところで――

 ひょい、と。

 スプーンであっさり豆腐をすくい取った雪音が、そのまま口に含んで呑み込んでしまった。

「……いつまで遊んでるんですか?」

 そう、あまりにも真っ当にたしなめてきた雪音の声はどこまでも冷たかった。凍傷を起こす感じの、激しい冷たさだった。

 調子こいていた雨恵も、その声音の凄まじさに「ひぇっ……」と脚を引いて目をそらす。

「もう午後の授業まで時間がありませんよ」

 一から十まで雪音の言う通りだ……頭を冷やして、さっさと弁当を食べてしまおう。

「ぁ……これ美味しいですね」

 幸い、豆腐あんかけは雪音に舌鼓を打たせる出来映えのようだった。

 今度はこぼさないよう改めて弁当に向き直りながら、もう邪魔をしないでくれよと、ちらりと雨恵を見る。

 ――目が合った。お互い、一度、まばたきした。

 そうして雨恵は、声を出さずに唇を動かした。


 ざ ん ね ん


 そう言ったように見えたけれど。

 なにがどう、どのように残念だったのかは、考えないことにした。



Episode #7

On Her Dish

      Fin.

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