第2話.教科書



「あれー?」

 五時間目の授業の準備をしていると、まなにそぐわぬイージーな声が聞こえてきた。

 見れば、左隣の席のやまあまだ。机の上に置いた自分のバッグをがさごそっている。

 ややあって顔を上げると、編み込んだ前髪をいじりながら、こっちを見てきた。

「ねぇゆきー、なんか英語の教科書がないんだけど」

 いや、正確には雨恵が見たのは俺ではなく、俺の向こう側――俺の右隣の席に座る妹だった。

 山田ゆき。雨恵の双子の妹で、顔立ちや髪の色がそっくりだ。授業前で眼鏡をかけていない今はなおさらだった。だが、その他は見事なまでに対照的な見た目をしている。

 今現在の表情などが特に顕著けんちょだ。ころりと首を傾げてほうけたような顔をしている姉に対し、妹は冷めきったしかめ面を返している。

「いや……なんでそれをわたしにくの? 雨が忘れただけでしょ」

「雪ちゃん、間違ってあたしのやつ持ってってない?」

「持ってってません」

 にべもなく即答しながら、雪音は自分の教科書の裏表紙を示してみせた。下の方に、流麗な筆記体で Yukine Yamada とマジックかなにかで書き込んである。

 思わず視線を向けてしまった俺――会話する姉妹の中間に居るのだからしょうがない――に気付いて、雪音はちょっと顔を赤くしてた。

「……小学生みたいだと思ってますか? 持ち物に名前とか」

 正直、思わないでもない。同意が顔に出てしまったのだろう、上目遣いににらまれた。

「こうやって名前を書いておかないと、雨恵が勝手に借りていってどっちの物か判らなくなっちゃうんです」

「ああ……なるほど」

 同学年の姉妹なら、いかにもありそうな話だ。

 加えて雨恵は生活態度の全てがルーズで、ことに雪音にはいくら甘えてもいいと思っているフシがある。そうでなければ、教室で妹に膝枕させたりしないだろう。

 しかし、そんな評価が不本意らしく、雨恵は俺の机まで身を乗り出して妹の顔をのぞき込んだ。

「えーっ? それは雪がケチなんだよ。シャンプー隠すし」

 シャンプーを隠すってなんだ。自然と雨恵から雪音に視線を移すと、雪音はと目を揺らして、それから早口になって弁解を始めた。

「あれは……だって、お母さんが仕事先でもらってきた高級なやつだから。雨恵が使うと、ジャブジャブやってすぐなくなっちゃうでしょ。わたしだって使いたいんだよ」

 雪音は恥ずかしそうだが、俺はむしろ見直していた。髪型から制服から、校則通りガチガチに固めている雪音でも、そういうものに興味があるのか。

 言われてみれば、姉と違って短めではあるけれど姉に負けないくらいさらさらで色艶いろつやもいい髪をしている。ぐしですいてみたら気持ちいいだろうな……などとらちな誘惑を感じるほどに。

 と、俺が妹を盗み見ている視界の外から、姉のがいめいた声が聞こえてくる。

「しょうがないから、雪がお風呂に入ってる時に乱入して、たっぷりシャンプー使ってやったけどね。ほぉら、お陰で今日も髪さらっさら」

「せまいからやめてって、いつも言ってるでしょ。湯船あふれちゃうし……風邪引いたら雨のせいだからね」

 やってることは山賊のくせに、言うだけあってたしかに美しいロングヘアを誇ってみせる雨恵と、同じようにキレイな髪を持て余すように頭を抱える雪音。

 ……と言うか、雪音の口ぶりからすると、わりと頻繁ひんぱんに二人で風呂に入ってるのか。想像してはいけないと思うが、いけないと思うこと自体にドキドキしてくる。

 ――深呼吸。

 邪念を払うように勢いを付けて、俺は二人の会話に割り込んだ。

「……で、結局、教科書はどうするんだ?」

「あー、ね。そんな話だっけ」

 雨恵はけろりとあっさり、シャンプーの話を忘れて本題へ戻った。

「どうしようか……? 英語の先生、なんか恐いんだよねー」

 英語の花房はなぶさ先生はまだ若い女性なのだが、帰国子女だとかでやたらといい発音の英語を話す。日本語を話す時でもみみ馴染なじみのない抑揚があって、そこはかとない威圧感を覚えることがあった。

 特に厳しい授業をするわけでもないのだが、しょっちゅう生徒を指名して質問に答えさせる。集中力に難のある雨恵には苦手なタイプだろう。先生の方でも心証がよろしくないかもしれない。

 教科書を忘れたからと、漫然と授業を聞いてたらさらに評価を下げられる――などと殊勝なことを考えたわけでもなかろうが、雨恵はふと、名案を思い付いたと言いたげに顔を上げ、こちらを見た。

 今度こそ、雪音でなく俺を見たのだ。

「そうだっ。戸村くんが見してくれればいいんだよ」



 ――英語の授業というのはこんなにも落ち着かないものだったろうか。

「ホランドとナイルズの兄弟は林檎の貯蔵庫で遊んでいましたが――」

 もちろん、普段も緊張感がないわけではない。花房先生の流暢りゅうちょうな講義と、そこからシームレスに繰り出される生徒おれたちへの質問には一瞬の油断も許されない。

 それだけに、くっ付けた机からさらに身を乗り出し、俺の教科書をのぞき込んできている雨恵の存在が注意力を激しく疲労させるのだ。

appleあっぽー cellarせらー ……」

 意外にも、と言ってはなんだが、雨恵は真面目に授業を聞いているようだった。開いた教科書の上に指を置き、先生が音読するのに合わせて…………、となぞっている。

 ほっそりとして、それでいてしなやかな弾力を感じさせる指先だった。

 俺は俺で教科書を見ないわけにはいかないから、自然と見つめてしまうことになる。やや伸びすぎた爪がつやめいて見えるのは、なにか塗っているのだろうか。

「……いつもそんなに熱心じゃないだろ」

 なんとなくいたたまれなくなって、俺は小さな声で雨恵に言った。幸い、先生は板書に集中している。

 雨恵は視線だけで振り返ってきた。角度のせいか、なにか挑発的な仕草に見えた。

「せっかく借りてるから、マジメにしてるんじゃん」

 答えてくる声はいつも通り軽薄な響きだったけれど、当然ながら小声だ。いつもより近くから聴こえる、耳をくすぐるささやき声。

「なぁに? 照れてンの?」

 なぜ、声が小さくなるほど吐息が湿って感じるのだろう。俺は目を黒板へ逃がした。

「別に、そうじゃないけど……」

「ふぅん」

 雨恵はそのままちょっと俺の顔を見つめて、それからその目を意地悪く細めて、なにか言おうとしたようだった。笑いに似た唇の形からして、それはたぶん、ぎこちない俺の態度をからかうものだったように思う。

「っ――あ」

 しかし彼女は、それを言う前になにかに気付いて一度口を閉じた。

 そうして、教科書に添えていた指を持ち上げ、ちょんと俺の頬に当てた。

「ヒゲのそり残し発見」

「っ……」

 思わず顔を引いて頬へ手を当てる。ヒゲと言われても特にそんな感触はなかった。間近で観察して初めて判る程度のものなのだろう。

 気にするほどのことではないと思う。そもそもそんなにヒゲが濃い方ではない。何日か剃らなくても目立たないくらいだ。

 でも、だからこそ、その程度のことに気付かれる距離感に他人が入ってきたことに動揺してしまう。

 今どんな顔をしているのか、ヒゲと同じく自分では知れなかったけれど。

appleあぁっぽー

 雨恵が無駄にいい発音で繰り返したことからして、だいぶ赤くなっているようだった。


 と――

「んっ! んンーッ!」

 不意に、わざとらしいにも程があるせきばらいが聞こえてくる。

 振り向けば、右隣の席の雪音がこちらを見ていた。

 煮立った油のような目で見ていた。

 …………まずい。授業中にふざけすぎたようだ。すぐ隣でひそひそと私語を垂れ流されたら不快に決まっている。クラス委員で生真面目な彼女ならなおさらだろう。

 急転直下で冷たいものが背筋を伝う。と姿勢を正し、できる範囲で雨恵から距離を取った。煩悩退散。一心、授業に集中するのだ。

「――それでは戸村くん、今読んだ文を訳してみてください」

 そうして心を入れ替えた次の瞬間に指名されてしまう。うろたえながらも「は、はいっ」と返事して、あわてて立ち上がり教科書に目を落とす。

 ……「今読んだ文」ってどこだろう? すっかり判らなくなっていた。

 さっきまで授業をフォローしていた雨恵も俺との会話でしんちょくを見失ったらしく、無責任な同情顔で俺を見ている――我ながら自業自得なので責められない――。

 ……もしかして花房先生は、俺が雨恵と私語はなしているのに気付いて指名してきたのだろうか。だとするとマズい、答えられないと怒られる――と、度を失いかけたところで、またしても隣人の咳払いを聞いた。

 見れば、今度はうそみたいに涼しい顔をした雪音が、自分の教科書の一点を指している。そこが問題の文章なのだろう。それに賭けるしかない。

「……えぇと……『人々はたかだと考えている。しかし、本当ははやぶさである』」

 つっかえつっかえその英文を訳す俺に、花房先生は鷹揚おうようにうなずいてみせた。

「OK、おおむね正解です。あえて言えば、子供の言葉なのでもう少し砕けた風に訳した方がニュアンスが伝わるでしょう」

「はい……」

 としか応えようがなく、俺はあんとともに椅子へ腰を戻した。視界の端で、雨恵が指の先だけで拍手のマネをしているのが見える。

 なにか無性にうらめしくなったが、授業に集中しようと決めたばかりだ。溜息をいてノートに向かおうとしたところで、

「まったく……」

 今度は雪音のささやき声が耳に差し込まれてくる。

「授業中にイチャイチャしてるからそうなるんです」

 刃物のように薄くて硬い声だった。俺も声を絞って抗議する。

「イチャイチャなんてしてないから……」

「事象というのは外部からの観測で定義されるんです」

 雪音らしい理屈っぽい言い回しだが、要は「わたしにイチャイチャしていると見えたらイチャイチャしているのだ」ということだろう。

「そんな無茶な」

「無茶じゃありません」

 きっぱり言いきってから、雪音はちょっとを取った。それから自分の机と俺の顔を見比べて、口の中でなにかを噛むようにしてから、続ける。

「そんなに集中できないなら、教科書は雨恵に渡しちゃってください」

「いや、それじゃ俺が勉強できない――」

「戸村くんにはわたしが見せます」

 反射的な俺の言葉は、意外な提案に遮られた。

 返事ができずに見返すと、雪音は目をそらして眼鏡のつるに指を添え、位置を直した。

「……それで問題解決でしょう。クラス委員として、姉のせいでクラスメートが困っているのを見過ごせません」

「へー……」

 と、驚いたような、面白がるような声を出したのは雨恵だ。こっちを見ようとしない妹を興味深そうにのぞき込んだかと思うと、

「ま、いいや。じゃあ遠慮なく」

 俺に断りもなく教科書を引き寄せ、自分の机の上へ広げてしまった。

 こうなると力づくで取り返すわけにもいかない。俺は雪音へ視線を送り、おずおずと口を開いた。

「ぁ……じゃあ、よろしく」

「はい」

 雪音も言葉少なに応じてこちらへ机を寄せ、広げた教科書の半分をこちらへよこした。


 こうして俺は Yukine Yamada とサインされた教科書で授業を受けることになった。

 雪音は姉と違って声に出して教科書を読むこともなく、むやみに気になる仕草でこちらの目を引くこともなかった。あえて言えば、眼鏡の似合う横顔につい目が引かれることがあるという、それくらいだ。

 そうして、後は朗々たる先生の講義と、指名されて答える生徒たちのぎこちない声だけが聞こえる時間が過ぎていった。

 授業の終了を告げるチャイムが鳴った時も、俺はいつの間にか集中しきって時間を忘れていた。雪音に交代して正解だったようだ。

 今回の元凶である雨恵は、いつの間にか半醒半睡はんせいはんすいで船をいでいた……こいつ……

 ともかくお礼を言おうと雪音を見ると、彼女もこちらを見ていた。なにか言いたげな視線に、自分の言葉を呑み込む。

 そしてふと気付いた。雪音は俺の目ではなくて、右の頬のあたりをじッと見ている。

「な、なに……?」

 思わず聞き返す俺に、雪音は一本立てた指を俺のあごふちあたりへ向けてみせた。それから、いつになく控えめな声で告げる。

「……こっち側にもありますよ、そり残し」

 春日しゅんじつの昼下がり。

 のどかな日差しの中で、俺は自分の顔が林檎になるのを感じていた。


 その日から。

 俺はひげそりに倍の時間をかけるようになった。



Episode #2

Two Thirds Textbooks

          Fin.

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