第4話.オトナ



 男女分かれての体育の授業が終わり、着替えて教室へ戻ってくると、奇態な女がそこに居た。

 考えるまでもなくやまあまだ。

 まず、椅子でなく机に座っている。机から垂らした足は上履きも靴下も履いておらず、そのほっそりした素足は椅子の上に置かれていた。

 変なのは座っている場所にとどまらない。髪型をポニーテールに変えていて、上半身は運動着だ。それだけなら体育の格好のまま帰ってきたというだけのことだが、下はスカートに着替えていて短パンもはいてなさそうだった。

 機嫌はいいように見えた。いつものだらっと気の抜けた顔ではなく、くふふ、と笑みを含んで足下を眺めている。

 そこまで見て取ってから席に着き、なんとなく視線を雨恵の逆側へ向けた。

 そこには雨恵の双子の妹であるゆきが居て、姉とそっくりな顔にげっそりとした表情を浮かべている。

「……運動したから暑いとか言って、こんなだらしない格好してるんです」

 雪音は俺の言いたいことを視線だけで察して答えをくれた。たしかに、学校で着る服の組み合わせとしては一番涼しい格好かもしれない。が、

「まったく……廊下でもわる目立めだちして恥ずかしいったら……」

 生真面目な雪音からすれば、許容しがたいていたらくのようだった。彼女自身は、学校のパンフレットにでも載ってそうな一糸乱れぬ制服姿だ。

 妹の言葉に、雨恵は不満そうに口を開いた。

「別にいいじゃん。どれも学校指定の服なんだから。合法ルックだよ」

 そりゃパーツ単位ではそうだろうが、コーディネートがあまりにアナーキーだ。

 雪音は身を乗り出して、俺の体を避けながら姉をにらみつけた。

「合法だろうがなんだろうが、だらしないことには変わりないの。第一、ファッションとしてダメダメでしょ。それが許されるのは小学生までだよ」

「えー……そうかなぁ? 殿方とのがたはどう思う?」

 運動着のえりを引っ張って見下ろしながら首を傾げる雨恵。言葉の後半は、俺へ向けた問いかけだった。

 ……姉以外の女子の着こなしにコメントするなんて、生まれて初めてかもしれない。

 それが、よりにもよって運動着と制服のスカートという子供みたいな格好の同級生なのはどうかと思ったが、ともかく言葉を選び選び答えた。

「……そうだな。小学一○年生って感じ、かな……?」

 背後で雪音がと吹き出し、雨恵は片眉を跳ね上げた。

むらなぎのくせにナマイキ言うじゃん……」

 ぐっ……と、膝に重みを感じて見れば、雨恵の足が乗っていた。裸足だから痛くはないけど、ぐりぐりと踏みにじられるとくすぐったくて落ち着かない。そして。

「でも、今日のあたしは、むしろ大人っぽいんだよね」

 言いながら、雨恵はもう片方の足を上げて俺の机の上へ乗せてきた。

 なんてことを……と、顔をしかめかけて、気付く。

「なんか……塗ってる?」

「そうそう」

 鷹揚おうようにうなずきながら、雨恵は自分の足の親指を立てて見せた。その先端にちょこなんと乗った爪が、鮮やかなピンク色に光っている。

 明らかに自然な色ではない。ペディキュアというやつだろう。

「着替える時、マリーに塗ってもらったんだ」

 マリーというのは、同じクラスのことはしまりさんのことだ。我がクラスにおける女子最大派閥のリーダー格で、なんでも街でモデルにスカウトされたこともあるとかいう美人である。

 おしゃれにもこだわりがありそうな彼女のことだから、ペディキュアくらい持ち歩いていてもおかしくないか。

 雨恵の足指に塗られていたのは、鮮やかではあるがドギツくはない、肌の色と調和するそれだった。

 柔らかなラインを描く足先。その五指の先にいただいたピンクの爪が、ピアノでもけそうなほど器用にうごめく。

 それは純粋に奇麗で、同時に、自分の足の指をむずむずさせるような光景だった。

 思わず見入ってしまってから――あわてて目をそらす。

 雪音の冷え冷えした視線を感じたからだ。

 名前通りの冷たさは、姉に向けた言葉にも表れていた。

「……ちょっと爪を塗ったくらいで、なにが大人っぽいって言うの? 今時、小学生だって塗ってる子いるでしょ」

「そこはそれ。あたしには、小学生にない色気があるから」

 と片目を閉じ、適当に体をくねらせてしなを作る雨恵。大根役者すぎて、かえって子供っぽく見えた。

 雪音も同じ感想だったのか、疲れたように溜息をく。

「はぁ……大人なら、もっと恥じらいとか警戒心を持ってるもんだよ」

 雪音は元より、俺の反応もドライなのが面白くなかったのか、雨恵は急に素に戻って口を尖らせた。

「大人大人って言うけど……そもそも、大人ってなんなのさ?」

「なんなのって……それこそ子供みたいなこと聞かないでよ」

「あれれぇー?」

 ここぞとばかり、雨恵は雪音の方へ体を乗り出した。と言うか、俺の机の上で四つん這いになって妹の顔をのぞき込んだ。

「まーさか、答えられないの雪ちゃん? 自分でもよく解ってないくせに、人のこと大人っぽいとかぽくないとか訳知り顔で語ってたの? 知ったか雪ちゃんなの?」

 びっくりするほど露骨で幼稚な挑発だ。だが、むやみに人をいらたせるにやけ顔と、この姉妹のとにかく噛み合わない性格が雪音にケンカを買わせた。

「解らないなんて言ってないでしょ!」

 押し返すように顔を突き出した結果、ちょうど俺の机の真上でにらみ合う形になる双子。さながら塀の上で威嚇し合う二匹の野良猫だ。

 問題は、俺の机は塀の上ではないことだが、姉妹はお構いなしに毎度のファイトを始めてしまう。

「じゃあ教えてよ」

「そ、それは……だから、えーと…………成人は二十歳はたちから、結婚と選挙は一八歳から……電車とかの利用料金は中学生から……」

 つっかえつっかえ、頭の中の一覧表を読み上げるように答える雪音。雨恵は容赦なく斬り捨てた。

「みんな違うじゃん。て言うか、年齢としの話なの?」

 違うだろう。この場合のオトナっていうのは、もっとこう……理念的なものだと思う。

「まぁ、歳がいってても子供みたいな人もいるな」

 思わず口をはさんでしまう。雨恵が「そうそう」とうなずき、雪音の鋭い視線が突き刺さってくる……まるで裏切り者を呪うような目だ。

 さっと顔を背けたが、視線とともに恨みがましい言葉が追ってきた。

「…………たしかに、『大人っぽい』と言う時の大人は、大人だいにん小人しょうにんの区別とは違うでしょう……けど。

 そんなこと言うなら、戸村くんの考える大人というのはなんですか?」

「ええっ?」

 ……なんてこった。うかつな一言で姉妹ケンカに巻き込まれてしまった。

 戸惑いながら雪音と雨恵を見比べるが、雨恵は面白がって、雪音はお手並み拝見とばかり剣呑けんのんに俺を見つめてきている。左右を固められた俺に、逃げ道はなかった。

「……じゃ、じゃあ……『早く大人になりたいと思ってるのが子供』で、『子供に戻りたいと思ってるのが大人』……とか?」

 なんとかひねり出した言葉は、極めて不本意なものだった。いや、内容は悪くないと思うのだが、これを言っていたのはうちの父親で、お世辞にも尊敬できない相手からの受け売りを口にするのが、どうにも座りが悪い。

「へぇ。いいじゃん」

「……なにか、そこはかとなくハードボイルドですね」

 姉妹からの反応も悪くない。なんか逆に腹が立ったが、とりあえず虎口は逃れたようだ。

 安堵の息を吐く俺をよそに、ついに俺の机の上であぐらをかくに至った雨恵が顎に手を当ててうそぶく。

「それならあたしはオトナの女だね。だって、小学生に戻って一日中遊んでたいって思ってるし」

「それは精神年齢相応の生活がしたいだけでしょ」

「シロクマのぬいぐるみ抱いて寝てる雪音さんに言われたくはないよ」

「ぁっ――」

 と、雪音は一瞬俺を見て、それから顔を赤くして姉に言い返した。

「あれはクッションにしてるだけだから!」

 話の流れから子供っぽいと思われたくなかったんだろうけど、あんまりうろたえているので気の毒になってきた。

「そんなに恥ずかしがることじゃないだろ。うちの姉さんも、よく巨大なヒヨコ形のクッションに抱きついて昼寝してるよ」

 果たしてフォローになったのかは解らないけど、雪音はちょっとこっちを見て、それから視線を落として、ややあって仕切り直すように口を開いた。

「と、ともかく……退行する願望があっても大人とは言えませんね」

 退行とは大げさだが、たしかに、他人の机の上であぐらをかいて平気でいる雨恵を見て大人と思う者はそうそういないだろう。

 雨恵は意味を取れなかったのか、反論もなくころりと首を傾げた。

「じゃあ結局、大人ってなんなの?」

 と、思い付いたように自分の前の席に座る女子の方を向き、

「ねーねー、はらちゃんはどう思う?」

 呼びかける。

 雨恵のすぐ前の席、俺の斜め前の席に座る三原さんは、小柄でボーイッシュな印象の女子だ。美術部に所属する彼女はどこか浮世離れした雰囲気で、芸術家らしくと言うべきか、一風変わった見識を持っている。

 その表情の薄い顔を半面だけ振り向かせて、三原さんは驚くほど素早く返事してきた。すぐ前の席だし、俺たちの与太話は大体耳に入っていたのだろう。

「ボクも以前、同じことを祖父にいたことがある」

 声質自体は幼い感じなのに、妙に硬い男言葉が似合う。

「いわく、それは不二ふに法門ほうもんである」

「ふに…………え?」

 意味が解らず聞き返したのは俺だが、雨恵も、雪音ですらぽかんとしている。

 三原さんはハキハキとよどみなく言い直した。

「すまない。つまり、子供がいなければ大人はなく、大人がいなければ子供はいない。両者の実体は同じものということだ」

「ええと…………その二つは、あくまで相対的な存在だということですか?」

 さすがに雪音は飲み込みが早い。三原さんは大きくうなずいて続けた。

「そうだな……たとえば、エレベータの箱の中に一〇歳の子と五歳の子が二人きりで乗っていたら、一〇歳は大人になり五歳は子供となる。もっと年齢が上がれば実年齢より精神の成熟が基準になるだろうが」

 なるほど。世界中に一〇歳児しかいなくなれば、誰が大人で誰が子供という話ではなくなる。大人だけでも子供だけでも、両者は存在できなくなるわけか。

「うーん……単純なような、哲学的なような……」

「だったら話は簡単じゃん」

 考え込む雪音とは対照的に、雨恵があっけらかんと決めつける。

「つまり、この場であたしよりお子様がいれば、あたしは大人ってことでしょ?」

「極論するとそうだな」

 三原さんの同意を得て、雨恵が視線を向けたのは――俺だった。

「な、なんだよ……?」

 嫌な予感に頬が引きつるのが解る。

 雨恵は、そんな俺にこそ妖しく目を細め――ゆっくり顔を近付けてくる。

 間近に迫ってくる、コケティッシュな笑みを浮かべた雨恵の顔。くやしいが、たしかに小学生にはない、女性としての魅力が空気を伝って俺を圧倒する。

 だが、ここで逃げては雨恵の思うつぼだ。女子への免疫のない俺にマウントを取って、この教室最後列という名のエレベータにおける「大人」になろうというのだろう。

 ならば、ここは退くわけにはいかない……と思いはするものの、雨恵の息づかいすら感じ取れるくらいの至近距離。平静を保つのはそう簡単ではない。

 鼻から脳をくすぐってくるこれは制汗剤の匂いか……? 視界の中に、うつむいたことで大きく開いた雨恵の運動着の胸元が飛び込んでくる。

 その洞窟から必死に目をそらすと、その頃には彼女の顔はもう目の前だった。さらりと垂れた雨恵の前髪が頬をくすぐり、唇の弾力まで感じ取れそうな、距離。

「ぅ……ぁ……」

 思わずもれるうめき声。

 そして、額と額が触れ合いそうになった、その時。


 ふっ……


 雨恵は不意を打って唇をすぼめ、息を吹きかけてきた。それを顔のどこに浴びたのか、それすら認識できないほどの混乱――

 がたんっ!

 ついに耐えきれなくなり、俺は大きく椅子を引いて背後のロッカーに激突した。わりと派手な音がして、教室中の視線が集まるのが解る。

 ……と、体中の血という血が顔に集まった。頬が燃えるように熱い。

 見れば、雪音も姉の破廉恥な行為に顔を真っ赤にしていて、三原さんはなぜか「おー」と口を感嘆の形にしていた。

 そして、俺をさらし者にした張本人、山田雨恵はと言えば、けらけら笑って勝ち誇っていた。

「はい勝ったー。あたしが大人、戸村くんが子供。格付け完了」

「絶対……ぜっっったい違う……」

 正直言えば敗北感はあった。あったが、それでも俺は断固として否定しながら椅子を元の位置に据え直した。

 なぜなら、俺を笑っている雨恵だって見て判るほど頬を上気させていたし、もう十分涼んだろうに額へ汗をにじませていたからだ。



 大人がなんなのか、結局よく解らなかったけれど。

 一つ確かなのは、俺も雨恵もまだまだ子供なのだということだ。

 いつまでも引かない顔の熱を持て余しながら、ただ、そう思った。



Episode #4

In Elevator Cage

       Fin.

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