ほとばしれ!ボーコーブレイカー!
冬寂ましろ
第1話 勝利をつかめ! ボーコーブレイカー!
「はあ? 漏らすのを我慢するスポーツ?」
「そうなの、瞬。ちょっと大会に出てくれない?」
「…姉ちゃん、頭沸いてる?」
「何言ってるの、このスポーツは国際リーグやプロ化もしていてね…」
風鈴がチリリンと鳴る。
居間でガリガリするアイスをボリボリ食べていたら、姉からそんな話を聞かされた。姉は多芸でスポーツもいろいろやってたが、まさかそんな変態的なものをやってるとは思わなかった。
そのスポーツ「モラション」とは、一定の水分を取ったあと、互いの膀胱を攻撃し、漏らしたほうが負けなのだという。攻撃を避けながら相手の膀胱に一撃を加える、そんな攻防が見所だとか。心底どうでもいい。姉は僕の気持ちを無視して喋り続ける。
「男女混合ペアの男の方が足の骨折っちゃってさ。代わりに出てくれるとなー、なんて」
「なんで僕なんだよ!」
「それなりに運動できて、頼めそうなのが、瞬しか思いつかなくて」
「やだよ、そんなアンモニア臭そうなスポーツ」
「相方の女の子は可愛いぞー」
「ほんと止めて。やったことないし、そもそもやだよ。漏らすなんて」
「あ、もう、名前書いて申し込み出しちゃったから」
姉は基本、僕の言うことを聞かない。
県の総合体育館。でっかい建物にでっかく「第49回高校生モラション全国大会」と書いてある。観客はかなり多く、半分以上は女子だ。たまに選手ぽい人が観客の列に通りがかると声があがる。
「黄色い歓声か。おしっこだけに…」
僕は自嘲気味に笑う。
姉に連れられて会場に入る。そこは線で囲われた四角いマットがあり、柔道の試合で使われるところのように見える。
「あ、こっちこっち!」
姉が手を上げる。気がついたジャージ姿の女の子が駆け寄ってくる。
「…ん? あれ、岡村さん?」
それは同じクラスの無口なメガネっ子だった。
「コーチと同じ名前だったから、気になってはいたけど…」
姉が少し驚いて僕に聞く。
「あら、知ってるの?」
「同じクラスの子」
「そうだったの? よかった。紹介するわ。瞬の相方になる『冷徹なユアリナル』こと岡村いずみさん」
「よろしくお願いします」
「あ、ああ…」
握手しようと手を差し出したらそのままスルーされ、僕に近づき耳元でささやいた。
「…君は動かなくていいよ。邪魔だから」
「え?」
会場には選手達が入り、ウォーミングアップを各々はじめていた。姉はあちこち指を差して説明しだした。
「あれは去年の大会で優勝した『漏らしの麗人』、財前兄妹だわ。あの人が超高校生級ファイターといわれる『おしっこのジョー』、我乱譲。その横がモラションの無敵アイドル、湯沙みかり」
姉はふっとため息を漏らす。
「強豪だらけじゃない。困ったわね…」
「どうでもいいよ、そんなの。ほんとどうでもいい」
「まあ、一回戦はがんばりなさいな」
「無責任な…」
審判から水が入った500ml入りのペットボトルを渡され、目の前で飲む。その横で試合の組み合わせ抽選が始まった。姉がくじを引くと、困った顔になった。
「あちゃー、運が悪いね」
会場の電光掲示板に抽選結果が出る。僕の名前の横には、我乱譲と書かれていた。
試合が始まる。青い色の半袖半ズボンな試合姿になった僕らに姉が声をかけた。
「瞬、だいたい教えた通りだけど大丈夫?」
「まあマットに立ちゃったら、もうどうしようも…」
「岡村さん、いい? 悪いけど、この子のことお願いね」
「はい、大丈夫です」
白いスーツを来た審判がマットへ現れ、中央に立った。姉が僕らの背中を押し、マットへ送り出す。相手と対峙すると、審判が手を上げ高らかに声を上げた。
「赤、我乱譲、皐月みだれ。
青、蒼月瞬、岡村いずみ」
審判が手をさっと下ろす。
「はじめ!」
僕らは身構えた。だけど相手は腕組みしたまま動かない。
「さぁァァァァァ! 来いッッッッッッッ!」
ジョーが咆哮を上げ、会場全体を震わした。その気圧に押され、彼らの体が2倍も3倍も大きく見える。
このままじゃダメだ…。
僕は一歩踏み出す、が、岡村さんがそれを押し退ける。
「見てればいい」
岡村さんが前に出ると皐月みだれが立ちふさがる。
「ジョーくんの影に隠れがちだけど、私もなかなかのものよ」
激しいラッシュが始まった。岡村さんが鋭い拳で、みだれの下腹部を次々襲う。
姉がつぶやく。
「さすがね。どの位置からも膀胱を狙える冷静な観察力。乱れのない正確な拳。その冷徹さが彼女の身上。だけど…」
岡村さんはやみくもに手を出す。でもそれはみだれにすべて防がれてしまう。僕は思わず声をかけた。
「岡村さん!」
「引っ込んでなさい!シロウトが!」
どなる岡村さん。明らかに冷静さを欠いている。僕のせいなのか…。
手数に勝るみだれは、汗を流しながらも、どこか余裕があった。
「ジョーくん、いいわね」
「ああ、存分にな」
岡村さんの右拳が強引に相手の膀胱を貫こうとする。防ぐ。薙ぎ払う。その勢いを使い、円を描くようにみだれの左手が岡村さんの膀胱を襲う。
「二式! 舞鶴!」
重々しい衝撃音がした。
「なんっ…」
みだれが悔しそうな顔をする。
僕はとっさに岡村さんを突き飛ばし、身代わりに腕を打たれることで、決定打を防いだ。倒れた岡村さんが僕に怒る。
「なんで!」
「ごめんよ、岡村さん。でも、この試合は君だけのものじゃない。僕もいるんだ!」
「あら、君たち仲間割れ?」
みだれの言葉を気にせず、僕は手を延ばして倒れた岡村さんをひっぱりあげる。
「いっしょに戦おう!」
「…わかった。いままでごめん、どうかしてた」
岡村さんの表情が変わる。僕はよし、と小さくうなづき、2人の敵に対峙した。
「気をつけろよ、皐月」
「言われなくても」
すぐさま僕らはふたりがかりでみだれの膀胱を狙う。でもみだれはそれを難なくかわす。
「三式! 虎口!」
「六式! 蜷局!」
次々と繰り出されるみだれの手。何かしらの拳法なのだろうか。攻め込むと防御され、その勢いでカウンターが飛んでくる。攻めてきたものを防ぐと、微妙な立ち位置に誘導され、相手の次の攻撃に有利になる。なんとも厄介だ。
僕は岡村さんの膀胱を執拗に狙うみだれの手を必死に防ぐ。防戦一方になってしまい、思わずうめいた。
「手が出せない!」
「私がどうにかする!」
みだれの拳を払いのけると、岡村さんは渾身の右ストレートを膀胱へ向かって出す。
合わせなきゃ…。
それは無意識な動きだった。同時に僕の左拳がまっすぐ出た。2人は思わず叫んでしまった。
「「ダブルインパクトッッッッ!」」
「ちょ、ちょっと!」
2人同時攻撃に慌てたみだれはとっさに膀胱を押さえた。でもわずかに間に合わない。岡村さんと僕の拳がみだれの膀胱に襲い掛かる。
パーンッッッッッ!
弾けた音が響く。
「あっ、あっ、そんな…」
太ももから流れる一筋の水。
「判定!」
「粗相!」
「粗相!」
「粗相!」
「敗者! 赤、皐月みだれ!」
マットの脇にいる審判達が毅然と声を上げた。
へたり込むみだれ。
どよめく歓声が会場に響く。
「相手を侮ったな」
「ジョー君…。ごめん」
ジョーはみだれの肩を優しく叩く。
「まあ、そこで見てろ」
ジョーは僕達の前に仁王立ちになると、手を前に出し、くいっとさせる。
「来い。本当のモラションを味合わせてやる」
「うへえ」
僕は黄色い水を口に含んだ気がして、心底嫌な顔をした。
「蒼月くん、行こう。このままなら勝てる」
「はん、甘く見られたものだな」
僕らは連携を取りながら、ジョーの巨体に拳を繰り出し攻略していく…が。
「むんっ、むんっ」
ジョーはそれをリズムよくかわしていく。
…こんな巨体のくせになんて軽やかなステップ。まるで踊っているみたいだ…。みだれのやりづらさとはまったく違う。まるで巨大な壁を相手にしてるような…。
「それだけか。では、こちらも行かしてもらう!」
「蒼月くん危ない!」
岡村さんの叫びではっとする。
ジョーは大砲を撃つかのように拳を前に出す。
「ボーコークラッシャー!」
拳一閃!
僕は軽く吹き飛ばされる!
「蒼月くん!」
「だ、大丈夫…。でも…。ギリギリかすめた程度で、この威力か…」
震える脚。岡村さんの声に助けられた。あの声で足の力を抜き、すんでのところでかわした。
「私が勝機を作る。だから蒼月くん。戦おう!」
岡村さんが僕の手を握る。ああ…、そうだ。そうだった。震えは止まった。
「勝とう!」
僕らは手を握り合ったまま、ジョーに突っ込む。ことごとくかわしていくジョー。パワーで圧倒されるというのはこのことか。
「岡村さん!」
僕は岡村さんの手を引っ張る。岡村さんの下腹部を捕らえていたジョーの拳が宙を切り、体のバランスが崩れた。
いまだ、いましかない!
僕の渾身の一撃を繰り出す。
「こざかしい!」
僕の拳のタイミングに合わせて、ジョーは上から肘を叩き下ろす。僕の右腕は弾け飛んだような衝撃を感じて、遅れて乾いた音がした。
「蒼月くん!」
とっさにジョーから離れたが、右腕がしびれて感覚がなくなっている。
岡村さんの顔を見る。心配そうにしてる。そんな顔しちゃダメだ。僕は彼女を安心させるように大声を出す。
「まだ行ける!」
「なら私は、何度でも勝機を作る!」
「お前ら俺に勝てると思っているのか? ずいぶんとまあ無邪気だね」
2人で手を繋いで万全の連携で拳を繰り出す。
さっとかわしながら、カウンターを繰り出していく。岡村さんが拳を止める。すぐに僕が膀胱を狙う。それをジョーが左手で払う。
わずかなタイミング。
待っていたタイミング。
勝った! ジョーは笑う。
「ボォォォーコォォォォォークラッシャァァァァァー!」
僕は叫んだ。それはジョーにとってありえない声。
「ボーコークラッッッッッッシャァァァァァー!」
「なにぃぃぃぃぃ!」
重なるボーコークラッシャー。
互いに膀胱を捉えた拳。
止まる時。
ハッとしてジョーが叫ぶ。
「判定っっっ!」
時が動く。審判たちが叫ぶ。
「粗相!」
「粗相!」
「粗相!」
「敗者! 赤!」
みるみる顔色が変わっていくジョー。
ドバァァァァッッッ。
ジョーの股間が爆発した。あふれだす黄色い液体。
「試合終了。勝者、青、蒼月瞬、岡村いずみ」
歓声が爆発する。
「蒼月くん。勝ったよ」
「ああ…」
「勝ったんだよ!」
僕は肩で息をしている。そこに差し出される手。ジョーはすっきり爽やかに笑っていた。
「いい試合だった」
「…強かったな、あんた」
僕達は握手する。
「また会おう」
ジョーは後ろを向くと、手を振りながらみだれとともに去っていった。
「…大丈夫?歩ける?」
「なんとか…。5cmずれてたから…」
岡村さんに肩を貸してもらい、マットから退場する。姉がそんな僕らを出迎える。
「おめでとう。一回戦突破ね」
「なんとかかな…」
「最後のすごかったね。蒼月くん」
「なんかこう。見よう見まねで。とっさに出ちゃったよ」
姉が僕を見入る。
「一目見ただけで出せたというの? あの重量級の技を…。やはり瞬は、モラションに愛されている…」
「なんだよ、それ…」
「ひとまず体を休ませなさい」
「そうさせてもらうよ…」
「あ、おしっこはだめよ」
「はいはい」
それから。
『踊る重戦車』三原、フレデリカペア。
『狂った小便小僧』鰯水、チョロリペア。
『史上最高無敵アイドル』湯沙みかり、凍滝ペア。
僕らは強豪を次々と倒す。相次ぐ番狂わせで、会場は異様な盛り上がりを見せていた。
そんな中で、マット横の控え枠にある椅子に僕らは座っていた。
「あと1回勝てば終わりだね」
「…そうだね」
それっきり黙るふたり。
僕はあえて聞いた。
「…いずみさん、何分持ちます?」
「…10分がいいとこ」
「だよね…」
膀胱はパンパンだ。
何かにすがりつきたくなって、思わず姉に声をかけた。
「姉ちゃん。なんかアドバイスくれよ」
「そうね…。勝つと思えば勝てるよっ!」
「はは…」
実際のところ、ふたりはこの連戦で疲弊していた。膀胱はギリギリ保ってる程度。下腹部は、ずしんと重い。これから対戦する最後の相手は優勝候補。これまで最短時間で試合を終わらせている。コンディションの差が激しすぎて、試合になるのかどうかすら…。
勝つには強い相手に短期決戦を挑まなくてはいけない。姉はつぶやく。
「これはなかなか厳しいわね…。精神論ぐらいしかもう…」
そのとき、僕らと檄戦を戦った巨体が現れた。
「よっ」
「ジョーさん!」
「見に来たぞ。なんだお前ら、シけたツラだな」
「それが…」
「まあいいさ。それより勝ちたいんだろ」
「…はい」
「よし、じゃあ少し教えてやる」
「いいんですか?」
「ああ、かまわない。まず、お前たちは動きはいい。軽やかだ。連携もよくできている。だが、決定力にかける。拳に重さが足りないからだ」
ジョーさんがグッと腰を下ろして構えると、そのままレクチャーしてくれる。
「まず脚だ。脚を地面にめり込ませるように踏ん張る。そのときの反発を腰に伝える。これで下半身が完成する」
強く踏み込む。それが拳へと連動し、バネのように力が伝わっていく。
「この反動を殺さず、そのまま拳を出す。やってみな」
「こう…ですか?」
「もっと地面を踏みつけるように」
「えっと…」
僕の汗が鋭く飛び散る。
「こいつ…、俺が対財前のために残した技をやすやすと…」
ジョーさんはニヤリと笑う。
「名付けてボーコーブレイカー」
「…ボーコーブレイカー」
「腰のひねりが重要だ。それだけは覚えとけよ」
何度か動きをいずみさんとふたりで真似てみる。
「…僕たち勝てるんでしょうか?」
「いいかい後輩。先輩からひとつだけアドバイスだ」
ジョーさんはすばらしくいい顔で笑った。
「漏らすときはな、堂々と漏らすのだ!」
「…はあ」
ブザーが鳴る。
「勝とう」
「ええ」
ふたりが互いの拳を軽くぶつけた。
決勝戦が始まる。会場にアナウンスが響く。
「さあ皆さん。今大会最後の試合となりました」
会場のみんながマットの上の2人に注目する。
「今大会3年連続の優勝を目指すのは、財前兄妹! まさに偉大なチャンピオン」
そして驚異の目で僕らを見る。
「対するは強豪を軒並み破ったダークホース、蒼月、岡村ペア」
対戦が始まる。選手達がそれぞれの思いで、敵を見る。
「対戦相手、お互いに不足なし! どちらが勝つのか! いよいよ決着です!」
財前啓が僕らの前に手を差し伸べながら歩み出た。
「蒼月くん、君が勝ち上がってくると思ってたよ」
「あ、ありがとうございます」
「がんばりたまえ」
軽く握手したあと、妹の元に戻ると、その肩を軽く叩いた。
「さあ操、勝つぞ」
妹のほうはこくりとうなづいた。
その目が僕らに向けられる。
笑ってる…。
「チャンピオン特有の余裕。…不快ね」
いすみさんも同じことを思ったようだ。
「笑顔なんかすぐに消して見せるさ」
僕はそう言うとマットの中央へ進んだ。
審判が僕らと財前の間に入る。
「赤、財前啓、財前操。青、蒼月瞬、岡村いずみ」
手が振り下ろされた。
「はじめ!」
すさまじいラッシュが突然始まった。僕らは、持久戦に持ち込まれるのだろうと予想していたが、まったく裏切られた。
「一発一発が重い…」
財前啓が連打する拳を腕でしのぐ。威力だけで言えばジョーさん以上。しのいでもしのいでも衝撃で体が持っていかれる。
「私がいるっ!」
倒れそうになると、いずみさんが体を張って支えてくれた。ふたりでどうにか持ちこたえる。
そんな僕らを財前啓は笑う。
「ははは。よい連携だな。だが。正道の前では無意味!」
財前啓が僕らをにらむ。狙われる!
「ブラーゼェェェェェブレンネンッッッッ!」
回転を加えられた拳が、周囲の空気を巻き込む。台風にぶつかったように、僕らふたりが吹き飛ばされた。
「ほう。いまのを耐えたか」
「なんだいまの…」
むちゃくちゃだった。人じゃないなにか…。
ふといずみさんが奥のほうを見た。
「瞬くん。妹のほうが動かない」
「なぜ…」
そういえば他の試合でも動いたところを見たことがなかった。ただ守られているだけなのか、それとも…。
「そうはいかん」
視線を遮るように、財前啓が立ちはだかる。何倍も何十倍も大きく見える。
どうすればいいんだ…。
いずみさんが僕の袖を引っ張る。
そうか…。
「いずみさん、ダブルインパクトだ」
「わかった」
ふたりで息を合わせると、手を繋いだまま、拳を繰り出す。避けても、そこにはどちらかがいる。かわしてもかわしても、必ず僕らがいる。
「めんどうな」
財前啓がうるさそうに手で拳をかわす。その一瞬のスキをついた。
「「ダブルインパクトッッッッッ!」」
ぴったりのタイミングで僕らの拳が重なる。
「ははは!一度見た技は効かぬ!」
体を絶妙にずらす財前啓。が、そこにはいずみさんの拳しかなかった。
「フェイントだと!」
ありがとう、いずみさん…。彼女からもらったこの瞬間に、体中の闘気を溜めに溜め、必殺の一撃を放つ。
「ジョーさんからもらったこの技、耐えられるもんなら耐えてみやがれっっっっっ!
ボーコーブレイカァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
直撃。肉の壁を撃ち破り、内臓をひっぱたく衝撃音がマットに響いた。
「ぬう…」
届くのか…、届いたのか…。
「ぐっ」
届いた!
財前啓は思わず後ろによろめく。
「絶対勝者のプライドはどこへ行った…。頼む…。耐えろ…、耐えるんだ俺…、 耐えなければならないんだァァァァァ!」
ぷしゃー。
太ももを伝わる幾筋もの水。
審判たちが声を発する。
「判定!」
「粗相!」
「粗相!」
「粗相!」
「敗者! 赤、財前啓!」
一斉にどよめく会場。
疲労と下腹部の重さがどっと押し寄せる。僕は膝に手をやり、中腰のまま動けなくなった。
財前啓は見事に狼狽していた。
「どうした…。どうしたんだ…。
なんだ、これは…」
「お兄様…」
「操…」
パシッ!
操が兄の頬をはたく。
「お兄様、なぜ負けたのですかっ!」
「…」
「モラションで有名になり、妾腹であるこの私を財前家に認めさせるのではなかったのですか!!」
「…」
「何もおっしゃってはくれないのですね…」
「…」
「お兄様が…、お兄様が悪いんですのよ…」
「…操、おまえ…」
「そうですとも。ああ…。みんなお兄様が悪いのです…」
ニタニタ…。
操の顔がゆがむ。あどけない顔からゾッとするような殺気に満ちた顔になり、全身から黒いオーラがうずまく。
「こいつが真のラスボスってところか…」
僕は息を呑んだ。
「瞬くん、私もそろそろ限界よ」
「わかった。早く終わらせよう」
「終わらせる…? 終わらせるですって? そう簡単に行くとよろしいですわね…」
「なっ!」
気が付くと操が僕の目の前にいる。
「動きが速すぎるっ!」
慌てて拳を繰り出す。
「かわされる!」
「でも!」
いずみさんが拳を出す。
「当てた!」
その拳は膀胱を正確につらぬいた。でも…。
ニタア。
操は笑った。
「当たっているのに効かない!」
「いずみさん!」
「さあ、さあさあ。早く終わらせてくださいまし…。どうしたのですか…?」
僕らは必死に何度も拳を出すがわずかなとこでかわされる。
拳を振らされている…。スタミナが切れていく。息があがっていく。下腹部がどんどん重くなっていく。
「瞬くん、分が悪すぎる」
「わかっています。相手は守られ続けてほぼ無償、こちらは満身創痍で限界が近い」
「どうするの瞬くん」
「…考えます」
考えろ。考えるんだ。当ててはいる。正確に膀胱の位置はつらぬいているはず。なぜだ…、なぜ漏らさない。
財前啓が声をかける。
「やめろ操。おまえのそのような下品な顔はもう見たくない」
「はあい?」
操が振り返る。
「操、俺はそのような顔をさせないために強くなった。すべてを捨てた。このために。しかし、これでは…」
「何を言っているのですかお兄様」
「操、棄権しよう」
「まあ、お兄様ったら…。ふふ」
「だめだ操。おまえのそんな顔…俺は…俺は…耐えられない…」
「ふふ…だめなお兄様。これが操の本当の正体ですのに…」
「操…」
「さて」
圧倒的なスピードで操はいずみさんを追いつめる。
「あなたはあまりおもしろくありませんわ…」
「きゃっ」
「いずみさん!」
「瞬くん、ごめん…。もう限界…」
「まだ!だって…」
「簡単には死なない! 必ず勝って! 瞬くん!」
いずみさんの猛攻が始まった。
「おまえの秘密を暴いてやる! スポッティングストライク!」
「あはは、なんですの、それ」
「なにこれ…。かわされている! あれも、これも! 届かない!」
「さあ、この技を受けてひざまずきなさい! 」
操が大きく振りかぶる。こ…この技は!
「ボーコーブレイカーーーーー!!」
肉と肉がぶつかり合う衝撃音がマットに響く。
「…え」
いずみさんが下を向くと、深々と操の拳が下半身にめり込んでいた。
「…あ」
足に水が線を連ねて伝わっていく。
それを見た審判が冷徹に声を上げた。
「判定!」
「粗相!」
「粗相!」
「粗相!」
「敗者! 赤、岡村いずみ!」
観客が驚きの声を漏らす。
僕は今見たものが信じられず、いずみさんから離れていく操を呆然と眺めていた。
「何があった…。あの技はジョーさんと僕の…」
「たわむれにまねてみましたが、うまくいきましたわね。ふふ…」
操は僕を冷たく見下した。
「天才はあなただけではない、ということですわ」
これが戦慄…、恐怖…。絶対に勝てないと本能で感じる絶望感。
「瞬くん」
「…いずみさん」
「…あ、振り返らないでくれる? …ちょっと恥ずかしい」
「ご、ごめん」
「そのまま聞いて。秘密が少しわかったわ」
「え?」
「私の技が届いたポイントから推測すると、あれの膀胱の位置がずれている」
「それって…」
「どれぐらいずれているかはわからない。でも正確にポイントをついても、これでは無駄なはずよ」
「ずれた位置を調べるために何度も突けということですか…」
「あの動きの早さ、何度も交わされる突き、君の限界。探るまでにやられてしまうわ」
「じゃあ他にどうすれば…」
「考えなさい」
「…」
「考えぬくの。…そしてあなたが勝つのよ」
「…わかった」
考えるのを止めてはダメだ。止めては…。
そうか!
いずみさん使わせてもらいます。
「スポッティングストライク!」
いずみさんの技で正確に操の体を突いていく。操はひらりとかわしていくが、僕の目的はそこじゃない。
「何のまねですの?」
「さあてね」
「ふうん。そろそろ飽きてきましたわ」
「な…」
それは瞬時だった。不意打ちだった。操はノーモーションで構えて僕に必達の拳を放つ。
「さあ楽になりなさい! ボーコーブレイカーァァァァァァァァァ」
「なんだこれ、くそ強えぇぇ! 耐えろッッッッッッッッ!」
ピタっ、ピタっ…。
床に水滴が垂れる。
「汗か…。まだ漏らしていないんだな…」
「あら。2倍強くしたつもりでしたのに」
2倍。2倍だって…。
「次は3倍にしてみましょう。さあて、お兄様。見ていてくださいまし。あなたの大好きな妹であるこの私が、完全なる勝利を得るところをっっ!」
操は腕を上げる。それは必勝宣言の誓い。
「お兄様を汚したこの技で沈めっ! ボーコーブレイカァァァァァァ!!」
「なめんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
残りわずかな体力を気力で補い、悲鳴をあげてる体を黙らして、筋肉を瞬時に最大限動かし、わずか0.1mmのとこで拳をしのいだ。
「かわしたですって!」
「くそがっっっっ!」
「まだそんな力を」
「負けたくないんだよっっ。ちくしょう」
もはや幼稚園児並みのパンチ力だったが、それでも拳を操へと繰り出す。
「いくら手を出しても、かわし続けますことよ。どうされるのですか?」
「知るかそんなこと! このブラコンくそ野郎が! 何が兄様だっ。おまえはあのやさしい兄さんを利用しているだけじゃないか!」
「なんですって」
「自分のためにおまえはあの兄さんの未来をつぶしたんだぞ」
「あなたに…何がわかるっていうのです…。この孤独、この恥辱。蔑まされて生きてきたものがやっと得られた安らぎの場所。あなたには何ひとつわからない」
「ああ、わからないさ!」
「なら、おとなしく沈みなさい!」
「わかるもんか! 人の未来を犠牲にするなんて!」
「くっ…」
「さあ、本気でこい!」
「お兄様との居場所を奪われてなるものですか!」
「そんなまがい物の居場所、俺がぶち壊してやる!!」
「ウワァァァァァァ!!」
操が狂った。髪を逆立て、目の前にいるものを完膚なきまで殺すという顔で、僕を睨みつける。
「お前の膀胱を完全に破裂させてやる! 3000倍ボーコーブレイカァァァァァァ!!」
「知れ! これが本物の一撃だ! 全力全開マキシマムボーコーブレイカァァァァァァ!!」
両者の拳が互いの膀胱に届く。その衝撃は音速を超えたように思えた。観客誰もがインパクトの瞬間、白い水蒸気が爆発し、会場のあらゆるものすべて薙ぎ倒す衝撃波を幻視したという。
いずみさんは悲壮な顔をして、対峙したまま動かない僕と操を見ていた。
「お互い深くえぐり込んでいる…」
凍りついた二人。それが溶けだした。
「あ」
ちょろちょろ…。
「…そんな」
操から漏れてく一筋の尿。
僕は静かに語りかける。
「おまえ、男だな」
「…な」
「男女で膀胱の位置は若干違う。拳が届かなかったのはそのせいだ」
「どうしてそれを…」
「いずみさんの技は精密測定として使える。当たらなくても避け方でいろいろ見える。筋肉の動き、スタート、肩周りと腰回り。それにボーコーブレイカーを打つとき、おまえの動きと僕の動きの差がなかった。それでピンときた」
「そう…」
「ゆがんでるな。あんたたち」
「そうね。でも、それでも、勝つことが必要だったのよ。私たちには」
「たとえどんなにゆがんでいても、すばらしいファイトをしたあんたたちを、僕は認めるよ」
「そう…」
操はじっと下を見る。
「…ありがとう」
審判が声を上げる。
「粗相!」
「粗相!」
「粗相!」
「敗者! 赤! 試合終了。優勝、青、蒼月瞬、岡村いずみ」
財前啓が操に駆け寄る。
「操!」
「ごめんなさい、お兄様、ごめんなさい!!」
「いいんだっ、操!」
強く抱きしめながら号泣するふたり。
「終わったんだ…」
僕は会場の天井を見上げていた。いろいろな試合の場面が胸に去来する。あのときは危なかった…。あのときは助かった…。あのときは…。
何だこの地鳴り。
会場に歓声が響いていることにようやく気が付いた。
「瞬くん!すごいよ! 優勝しちゃったよ!」
「なんか、そうみたいですね…」
姉が飛んでやってくる。
「よくやったな!!」
「姉ちゃん」
「感動したぞ! この私は! すごいぞ!」
「わかった。わかったから手を…」
「よい表情が見られて最高だ!」
「ちょ、ちょっと腹部を…、あ…」
ちょろちょろちょろ…。
「…あ、ごめん」
「このド変態がぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
僕の叫びが会場にこだまする。
「うれションです。蒼月選手、うれションです!」
アナウンスが生やし立てる。
暖かい拍手に包まれる会場。
ああ、もう恥ずかしくてどうにかなってしまいそう。
僕が漏らしたところを写した写真は「新星現る。優勝に思わずうれション」などのタイトルで世界中に配信されたという…。
ほとばしれ!ボーコーブレイカー! 冬寂ましろ @toujakumasiro
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