最終話 宿命

 ◇ 34 ◇


「――先生! 森繁先生!」


 名前を呼ばれて森繁が振り返ると、新幹線の通路を、結花と里桜が見知らぬ男性とともに駆け寄ってくるところだった。


「やあ、結花ちゃん、里桜ちゃん」


 森繁が軽く手を上げる。

 すると、結花の隣にいた男性が、深々と頭を下げた。


「はじめまして、伊勢崎と申します。娘が大変お世話になりまして」

「ああ、あなたが結花ちゃんのお父さん」


 森繁も丁寧に挨拶をかえす。


「若い娘さんを勝手に連れ回してすみませんでした」

「いえ。私自身もあの呪いに触れて、ことの重大さは理解しているつもりです。むしろ巻き込んでしまったことをお詫びしたいくらいですよ」

「ぼくの場合は仕事の延長のようなものですから、気になさらないでください。それよりも早いところ、仮屋町に向かいましょう。さきほど、結花ちゃんに電話した件は、お聞きになられましたか」

「ああ、ええ。タクシーの中で。志緒理ちゃんという子がヒイミさまに憑依されて仮屋町へ向かっているんですよね」

「ええ、まだ可能性の段階ではありますが…」


 そう言うと森繁は切符を確認して、自分の座席へと向かった。


「ひとまず荷物を置かせてください。みなさんの席はどちらですか」

「ああ、我々は最後尾の方で」

「そうですか。でもどうやら、ぼくの前の席が空いているみたいですよ。もしよければこちらに移動してきたらいかがです」

「そうですね。では、私は車掌を見つけて話をしてみます」


 伊勢崎はぺこりと森繁に会釈すると、元来た通路を戻っていった。

 それを見届けた森繁は、座席上部の棚に荷物を置いて、どかっと座席に腰掛けた。


「いやぁ、さすがに疲れた。君たちも座りなよ。立っていたら危ないよ」


 新幹線が緩やかに動き出す。

 結花と里桜は顔を見合わせて、森繁の前の座席に移動した。

 窓外には夕闇が広がりつつあった。


 扇柳から森繁に電話が入ったのは、小田原駅を通過したあたりのことだった。

 森繁がスマホを耳に当てながらデッキへと向かう。結花は座席を立って後に続いた。


「はい、いま新幹線で向かっています」


 右側のドアに寄りかかるようにして、森繁が少し大きめの声を出している。

 結花は森繁に近づいて、耳をそばだてた。森繁はスピーカーホンのボタンを押して「扇柳さんはいまどちらですか」とさらに大きな声で言った。


 扇柳のしわがれた声が聞こえてくる。


「まもなく仮屋町じゃ。感じるぞ。奴の気配を。奴も仮屋町へ向かっているようじゃ」

「奴というのは、ヒイミさまですよね。間違いありませんか」


 森繁が早口で尋ねる。


「ああ。何度も霊視で感じたのと同じ、あの気配だ」

「ということは、志緒理さんが?」


 思わず結花が声を出す。


「…その声は、いつぞやの高校生だね。森繁と合流したのか」

「はい、すぐに電話をいただいて」

「そうか。おまえたちにとっては、きつい現実になるかもしれない」

「えっ、どういうことでしょうか」


 スマホにしがみつくようにして結花が言う。すると扇柳は「ううっ」と唸った。


「大丈夫ですか、先生」


 森繁が尋ねる。


「…なんとかな。実はさっきから、奴の思念が流れ込んでくるんじゃ」

「思念が? なにか見えたんですか」

「ああ。それではっきりとわかった。やはり奴は…恨みを晴らそうとしている。長年、鏡の中に閉じ込められた恨みを…」

「どうやって? 恨みを晴らすって、なにをする気なんです」


 やはりしがみつくようにして結花が聞く。


「ひどいことじゃ…。仮屋町の《猿》どもを…皆殺しにするつもりなんじゃ」

「皆殺しって…」


 結花と森繁が眉間にしわを寄せて顔を見合わせる。


「なんとかできないか、わしもやってみる。おまえたちは一刻も早く、仮屋町に来い。いいね」


 扇柳がそう言った瞬間、新幹線はトンネルに入り、窓の外が真っ暗になった。

 通話にノイズが混じり始める。

 数秒後、完全に音が聞こえなくなると、森繁はスマホを強く握りしめた。


「ヒイミさまを止めないと…」


 眉間にしわを寄せたまま、結花はそうつぶやいた。


 名古屋駅で新幹線を降りた結花たちは、JR関西本線に乗り換えて仮屋町の最寄り駅へと向かった。

 最寄りと言っても、仮屋町の入り口である大橋までは歩いて30分以上かかるため、迷うことなくタクシーに飛び乗る。


「仮屋町の大橋まで」


 助手席に座った伊勢崎がそう告げたときの、運転手の露骨な嫌悪感が、結花にはうっとうしくも懐かしく思えた。離れていたのはほんの数日のはずだが、何週間もたっているような気がする。


 大好きだった先輩の死から始まった、この一連の出来事…。

 始まりが仮屋町ならば、終焉もまた彼の地で迎えるのがふさわしい──結花はふと、そう思った。


 大橋の手前でタクシーを降りると、橋のたもとに扇柳がうずくまっているのが見えた。扇柳の足元には、もうひとり別の誰かが横たわっているようだったが、暗くて顔は見えなかった。


「扇柳さん!」


 森繁が駆け寄ると、扇柳は顔を上げて、苦しそうにうなずいた。


「そこにいるのは、志緒理くん…ですか?」


 森繁がまるで信じられないという口調で尋ねる。


「そうじゃ…」


 扇柳は、重々しく首を縦に振ると、ケホッケホッと咳き込んだ。

 結花も近づいてみて、息をのんだ。

 横たわっているのは、確かに志緒理のようだった。けれど髪の色が真っ白なのだ。さらに顔面は蒼白で、青黒い血管の筋がいくつも見えている。

 死んでいる。直感でそう思えた。力が抜けて、結花はその場にへたりこんだ。

 しかしその考えを予期していたかのように、扇柳は首を振った。


「安心せい。息はある」


 その言葉に、結花と森繁が「えっ」と声を漏らす。


「わしがここに着いたときには…すでに、この状態だった。ほとんど息はなく…もうだめかと思ったが…わしの力を注ぎ込んで、なんとか…ケホッケホッ」

「そうだったんですね」


 森繁が扇柳の背中をさする。


「じゃが、魂が激しい損傷を受けておるのは間違いない。意識が戻るかどうかは、今後の治療と、本人の運次第じゃ…」


 その言葉を聞いて伊勢崎がすぐにスマホを取り出す。


「救急車を呼びます」

「大丈夫だ。もう、呼んである」

「なら、せっついてやりますよ」


 伊勢崎は強くそう言うと、その場から少し離れた。


「扇柳さんは大丈夫ですか」


 森繁が扇柳の顔を覗き込んで言った。


「わしのことなどどうでもいい。それより……奴を追うんじゃ。志緒理からエネルギーを奪い取って、奴はもう自由だぞ」

「しかし、ぼくたちになにができるか…。扇柳さんがいてくれないと」

「それはどうかな。結局…わしは奴を止められなかった。わしはここまでじゃ」

「そんなこと言わないでくださいよ」

「いや、奴は………わしでは止められん。とんでもない憎悪……おそろしいまでの力じゃ…。いままでとは…比べものにならん」

「それは、進化した、ということですか」


 里桜が扇柳のそばに座り込んで尋ねる。


「おそらく…な。それほど、奴の…木手良への恨みは強い。いままでの戦い方では、勝てないだろう」

「そんな…」

「じゃが…」


 扇柳は里桜の両手をガシッとつかんだ。


「木手良の娘。おまえに最初に会った日…わしが言ったことを覚えているか?」


 里桜が少し考え込むようにして、小首をかしげる。


「たしか…事情に詳しそうだ、と」

「そうだ。わしにはわかっていた。おまえがこの事件の鍵になると…。だから、そう言った。あのときおまえは、まだ気づいていないようだったから、あえて触れなかったがね…いまはわかるだろう? 自分が、抗いようのない…大きな流れの中にいることを」


 里桜は扇柳の顔をジッと見つめ、ゆっくりとうなずいた。


「それを、宿命と言うんじゃ」

「宿命…」

「…物事には、巡り合わせがある。おまえたちとわしが引き合わされたのも…島の館長風情がヒイミの本体に興味を引かれたのも…すべてに意味がある。呪いとはそういうものだ…。たくさんの人生をからめ捕る、負の連鎖…」

「あたしの両親が死んだことも?」

「無論じゃ……。じゃがな……負の連鎖は……長くは続かない。明けない夜はないんじゃ。朝が来る。明日が来る。そのために、おまえが生まれた」

「あたしなら…ヒイミさまを抑えられるんですか」

「ああ」

「でも、どうやって。あたし、なにも…」

「信じるんじゃ、自分を。心のままに動け」

「心の、ままに…」

「ああ、木手良と…奥山の血を引くおまえなら、きっとできる」


 扇柳がそこまで話したときだった。


 ――ぎゃあああああ!


 大橋の向こうから、男性のおぞましい叫び声が聞こえた。


「今の…!」


 結花が橋の向こう側に目をこらす。

 ぽつんと小さく、誰かの姿が見えた。その誰かは、よろよろと歩いたかと思うと、突然、後ろへ弾け飛んだ。まるで、後ろから強く引っ張られたかのような動きだった。


「始まった…」


 扇柳はポツリと言うとガタガタと震え始めた。


「おお…おお…わしには無理じゃ…これ以上は近づけん!」

「扇柳さん! しっかりしてください!」

「無理じゃ、森繁。わしはここで脱落だ! じゃが…きっとおまえたちなら、奴を…」


 そこまで言うと、扇柳は喉をかきむしって「うぐう!」とうめいた。


「扇柳さん! どうしたんです!」

「行けっ、行くんじゃ! 志緒理のことは、わしが最後まで守ってみせるが……あとは……任せ、たっ…!」


 扇柳は激しく痙攣けいれんを繰り返して、その場にうずくまった。


「扇柳さん!」


 森繁が必死に扇柳の身体をゆする。

 そのとき再び、橋の向こうから、悲鳴が上がった。

 今度はひとりではない。複数の声。


 ――こわい。


 結花はとっさにそう思った。

 人間のこんな声を、いままでに聞いたことがない。まるで動物の咆哮だ。本能に訴えかけてくる。


「おれが行ってくる!」


 スマホをポケットにしまいながら、伊勢崎が言った。


「結花、おまえたちは待っているんだ。いいな」

「ううん、だめだよ!」


 結花は、ようやくそれだけ叫んだ。


「向こうにいるのは、ただの人間じゃないんだよ! いくら刑事だからって、お父さんにどうこうできる相手じゃない!」

「様子を見てくるだけだ。戦ったりはしない」

「いいえ、ダメです!」


 今度は里桜が言った。


「結花のお父さんは、ここにいてください。志緒理さんと、扇柳さんを救急車で運んでくれる人が必要です」

「それは、森繁先生が」

「もちろん先生もです。2人でお願いします」


 里桜はすっくと立ち上がって、伊勢崎の前に歩み出た。

 決意に満ちた、凜とした表情をしている。


「じゃあ、どうするつもりだい。放っておくのかい」

「いいえ。あたしが行きます!」

「な、なにを…!」

「さっき、扇柳さんに言われて、やっとわかりました。あたしは今日この日のために、生まれてきたんです。だから、あたしが行きます!」


 叫ぶようにそう言うと、里桜はリュックをつかんで、脱兎だっとのごとく走り出した。


「待て! バカを言うんじゃない!」


 伊勢崎が怒鳴って駆け出す。

 結花も無意識のうちに里桜のあとを追っていた。


「待つんだ! 今日この日のためにって、どうするつもりだ! 死ぬ気か!」


 走りながら伊勢崎が声を張り上げる。


「ついてこないで!」

「そんなわけにはいかない! 戻ってくるんだ!」


 里桜はその呼びかけには答えず、全力疾走のまま仮屋町に入っていく。


「くそっ」


 伊勢崎がスピードを上げる。結花も負けじと腕を振った。

 仮屋町の大通りに入る。

 以前、仮面の男たちに追いかけられた場所だ。もう少し行けば、理髪店とたばこ屋がある。そこを曲がろうとしたところで、


「――あっ」


 突然、里桜が足を止めた。結花と伊勢崎がつんのめるようにして、里桜の隣に立ち止まる。


「どうしたの、里桜!」


 結花は里桜の視線の先に目をやった。

 道の左側に民家が並び、反対側は木塀が続いている。その民家の前に、十数人の男女が倒れていた。


「きゃっ!」


 結花が思わず目を伏せる。


「こりゃあ、ひどい…」


 伊勢崎はそのうちのひとりに近づいて脈を取ってみたが、すぐにため息をついて、首を横に振った。


「だめだな。首の骨がねじれちまってる。わかっただろう。ここにいるのは危険だ。いったん町の外に出て作戦を…」

「…仮面をかぶってる」


 里桜は伊勢崎の言葉を無視してつぶやいた。


「ん、なんだって? 仮面?」

「はい。みんな、仮面をかぶっているのに…」


 確かに里桜の言うとおりだった。倒れている全員が、あの不気味な仮面をかぶっている。


「効かなくなった?」


 伊勢崎が里桜を見て言った。

 里桜は眉間にしわを寄せて、ゆっくりと立ち上がった。


「なるほどね…それほどまでに木手良を恨んでいるのね…」


 その直後だった。


 ――バンッ


 すぐ目の前の民家の引き戸が、大きな音を立てて、吹っ飛んだ。


「な、なんだ!」


 無意識のうちに、伊勢崎が身構える。

 それとほぼ同時に、民家の中から、仮面をかぶった男が転がるようにして飛び出してきた。


「たすけてくれ…だれか…」


 男は、片手に松明を持ったまま、もう片方の手で自分の首を絞めている。


「大丈夫か、きみ!」


 伊勢崎がそう言って駆け寄ろうとしたとき、喉の奥を潰したような、あの音が、民家の中から聞こえた。


 コ、コ、コ…


「あ…アア…たすけてくれぇぇ!」


 男が必死になって叫ぶのと、髪の長い生首が、民家の中からぬっと姿を現したのは、ほぼ同時だった。

 続いて首を抱える骨張った白い腕が2本…。その少し上から、やはり細く白い2本の腕が、怪しく蠢きながら伸びてくる。


 ――ヒイミさまだ。


 結花は声にならない声でつぶやいた。ヒイミさまは、完全に姿を現すと、男に向かって2本の腕を突き出した。


「が、が、がが!」


 男が白目を向いて口から泡を吹き出していく。

 そしてビクビクッと痙攣を繰り返すと、木塀にもたれかかるようにして、倒れた。


 手に持った松明がこぼれ落ち、木塀の下に転がる。男が意識を失っているのは明白だった。それでもヒイミさまは攻撃の手を緩めず、なおも男に向かって腕を突き出し続けている。

 すると、木の割れるような音とともに、男の首がぐるっと回転した。


 あまりの光景に、結花は血の気が失せていくのを感じた。意識が遠のいていく。


 ――ドサッ


「大丈夫か、結花!」


 伊勢崎が結花を抱きかかえて叫んだ。

 その声に反応したヒイミさまが、ガバッと伊勢崎の方に向き直る。


「まずいぞっ」


 伊勢崎は結花を抱きかかえたまま里桜の手を取り、元来た道を駆け戻ろうとした。

 しかし、できなかった。里桜が、伊勢崎の手を、振り払ったのだ。


「里桜ちゃん! なにをしているんだ、はやく逃げないと!」


 伊勢崎は大きな声で怒鳴ると、再び里桜の手を取ろうとした。けれど里桜は笑みを浮かべて首を横に振る。


「ふたりは、行ってください」

「なっ…どうするつもりだい」

「あたしが、終わらせます」


 里桜は、リュックから手鏡を出して、言った。

 伊勢崎はその言葉に、なぜか反論できなかった。

 こんな少女に、戦いをゆだねてはいけない。

 頭の中ではわかっていた。けれど、なにかを言おうにも、言葉がまったく思い浮かばないのだった。

 里桜はゆっくりとヒイミさまに向き直ると「心のままに、心のままに」とつぶやきながら一歩、また一歩と近づいた。

 ヒイミさまは、そんな里桜を警戒しているのか、じりじりと足踏みしながら、体勢を低くしている。


「終わりにしましょう」


 里桜が手鏡をヒイミさまの前に差し出す。

 その途端、ヒイミさまは魔獣のような雄叫びを上げた。

 雄叫びは風となって里桜に直撃する。

 突風のようなその風を、里桜は真正面から受け止めた。髪が舞い上がり、スカートやブラウスの裾が激しくはためく。

 それでも里桜は怯むことなく、一歩ずつ、ヒイミさまに近づいた。


 ――グゴゴゴゴオオオ!


 ヒイミさまはもう一度雄叫びを上げた。

 太く長い声だった。

 よりいっそう強い風が巻き起こり、民家のガラスは割れ、木塀がガタガタと震えた。先ほど木塀の下に落ちた松明の火が、風にあおられ、大きく燃え上がった。炎はまるで生き物のように木塀に飛び移ると、あっという間に燃え広がっていく。

 風はいまや小さな竜巻となって、里桜とヒイミさまを包み込んでいた。木塀を呑み込んだ赤々とした炎は、あと少しで民家の屋根に届きそうだ。火の回りが異常なほど早い。


「火に囲まれるぞ…!」


 手で顔を覆いながら、伊勢崎が誰に言うでもなく叫んだ。

 その声に、ようやく結花がハッと我に返った。


「り、里桜? なにしているの! 早くこっちに来て!」


 ありったけの声で怒鳴る。けれど里桜は、結花の方を見ようともせず、首を横に振った。


「どうしてよ! 死ぬつもりなの!」

「そうするしかないの! 木手良と奥山が始めたことだもの。あたしが終わらせないといけないの」

「里桜のせいじゃないじゃん…!」

「それでも、そうなの!」


 結花に背を向けたまま、里桜は叫んだ。


「さっき、扇柳さんが言ってたでしょ! 物事には巡り合わせがある。ここで火が付いたのも、偶然じゃない!」

「偶然だよ! 偶然の事故だよ!」

「ううん、違うの! あたし、わかるの。木手良の血を引くあたしがここにいる限り、ヒイミさまはここから動けない。仮面も効かないし、火も怖くないみたいだけど、木手良の鏡には、警戒している。わかるでしょ。ここでこうやっているしかない。ヒイミさまの実体は、常に一人…。焼かれてしまえばおしまいよ。いまが、倒すチャンスなの!」

「でも、そんなことしたら…里桜も焼けちゃうんだよ! 焼け死んじゃうんだよ!」


 里桜が顔だけをこちらに向けて、フッと笑う。


「…結花。あたしと友だちでいてくれて、ありがとう。それだけであたしは、充分よ」

「充分ってなに!? ダメだよ、里桜!」

「…さよなら。行って」


 その言葉を最後に、里桜の姿は炎の壁の向こうに消えた。


「里桜! 里桜ぉっ!」


 火の中に飛びこもうとする結花を、伊勢崎が必死に止める。


「結花! 死ぬつもりか!」

「だって里桜が! 里桜ぉぉ!」


 結花は声の限り叫んだ。

 しかしいくら叫んでも、炎の向こうから、里桜の声はもう聞こえなかった。

 結花の目の前に、燃え上がった柱が倒れ込んでくる。


「いかん! 脱出するぞ!」


 伊勢崎は結花を羽交い締めにすると、引きずるようにして大橋へ引き返していった。

 結花が大橋の中ほどで仮屋町を振り返ると、町はすでに半分以上が火に包まれていた。このままだと完全に燃えてしまうのも時間の問題だろう。


「まるで…」


 結花は、ポツリとつぶやいた。


「まるで…この町だけを焼き尽くそうとしているみたい」


 夜闇を焦がす赤々とした炎は、いつまでも結花の目に焼き付いて離れなかった。



 ◇ 35 ◇


 それから…1ヶ月近くが過ぎた。


 私は毎日、志緒理さんのお見舞いに来ている。

 このあたりでは、一番大きな市立病院。いろんな検査をして、いろんな治療がされたけれど…志緒理さんは、あれから一度も目を覚まさない。


 お医者さんはみんな、口を揃えて「身体のどこにも異常はない」と言っているけれど…。扇柳さんが言っていた、魂の損傷が原因だとしたら、いったいどうすればよくなるのか…。私には見当もつかなかった。でも、なぜだろう。不意に目を覚ましてくれる気もして…。だからお見舞いを続けている。


 志緒理さんの入院している部屋は、13階の角にある個室だ。長期入院を余儀なくされている人だけが集められているせいか、訪れる人も少なく、いつ来ても閑散としていて、時折看護師が見回りに来る以外は、物音もほとんどしない。


 最初に来たときは、すごく不気味で怖い感じがしたけれど、毎日通ううちに、すっかり慣れてしまった。眠っている志緒理さんの横でする夏休みの宿題は、案外はかどる。


 今日は夏休み最後の日だったけれど、特に行きたいところもなければ、遊ぶ予定もなかった私は、いつものように面会時間いっぱいまで病室で宿題に励んでいた。


「じゃあ、また明日来ますね」


 そう声をかけても、志緒理さんは目を閉じたまま、やはり今日も微動だにしない。

 私は寂しく笑うと立ち上がり、引き戸のレバーに手をかけようとした。

 そのときだった。


 コ、コ、コ…


 ――この音。


 私は、ハッとして振り返った。

 部屋の中から聞こえたように思えたからだった。

 けれど、志緒理さんに変化はないし、部屋には他に誰の姿もない。

 私は、いつのまにか吹き出ていた額の汗を拭うと、フゥと息を吐いた。


 ――気のせいだろうか。


 うん、気のせいだろう。だってヒイミさまのわけがない。たぶん、ドアが軋んだ音だ。

 だってあのときの仮屋町は…四方八方が炎で囲まれた状態だったのだ。ヒイミさまが生き残っているとは思えない。


 ――あの日の晩。


 仮屋町はすべての建物が焼けた。

 多くの焼死体が発見され…世間ではちょっとした騒動になった。


 はじめのうちは、痛ましい事件として報道された程度だった。

 けれど、仮屋町という名前が一般的になるにつれ、ネット上の誰かが気づいた。


 先輩の撮った《呪いの動画》の舞台が、この町であることを。


 それから一気に、報道が加速した。

 今でもテレビをつければ、どこのチャンネルも特集を組み続けているし、ネットでも掲示板やSNSで連日のように書き込みが続いている。そのほとんどは、被害者を揶揄やゆする目を覆いたくなるようなものばかりだけれど。


 唯一救いなのは…。

 あの日以来、自分で自分の首を絞める自殺がすっかりなくなったことだ。ヒイミさまの呪いは本当に解けたのだ。私は、それだけは誇らしい。戦った甲斐はあったと思う。


 戦ったと言えば…。

 森繁先生は、引っ張りだこのようだ。実際に呪いを取材し、解決に向けて活躍した学者として、講演やテレビ番組出演などが相次いでいる。


 お父さんは警察を辞めることにした。今はたまりにたまった有給休暇を消化中で、毎日家でごろごろしている。お母さんが爆発するのも時間の問題だろう。


 仮屋町の跡地は、江戸時代に呪術の町だったことが知れ渡ったせいで、近隣はもちろん、遠くの町からも、毎日のように心霊ツアーにやってくる不届き者が絶えないと聞いた。


 以前の私なら、迷わず探索に出かけただろうけれど、今はとてもそんな気になれない。目を閉じれば今でも、あの晩見た燃えさかる炎がまざまざと蘇ってくる。そして、その炎の中に姿を消した、里桜の背中も…。


 ああ、里桜。

 彼女のことを考えると気分が沈む。


 大火事のあくる日…。

 私はお父さんに連れられて、仮屋町で見つかった焼死体を並べた倉庫のような場所に行った。正直に言うと、私は行きたくなかった。でも、遺体のほとんどは丸焦げで、歯や装飾品などの限られた遺品から身元を特定するよりほかなく…。警察の人にどうしてもと頼み込まれたら、お父さんのためにも、断れなかったのだ。


 危惧していたとおり、遺体の前に立つと、足がすくんで動けなかった。この中に里桜がいるかと思うと、自分の気持ちを抑えられるか不安でいっぱいだった。だけどお父さんに励まされて、なんとか私は遺体を一つ一つ見ていった。全部で何体あったのかは、あまり覚えていない。でもはっきりと言えるのは…その中に里桜はいなかった、ということだ。


 もちろん丸焦げで顔なんかまったくわからない。だけど骨格や背格好が里桜らしい遺体は一つもなかったし、なにより手鏡の遺品がなかった。いくら燃えたといっても、鏡面や柄の欠片くらいは残るだろう。


 私はお父さんにその疑問をぶつけた。

 遺体がないということは、生きているのかもしれないからだ。

 お父さんは「なるほど」とつぶやいて、しばらく考えこんでいた。


 でも結局、首を横に振りながらこう言った。


「おそらく骨が残らないくらい焼けてしまったんだろう。よく火葬場でも、灰だけになってしまうことがあるらしいからな」


 私にはとってつけたような屁理屈に聞こえた。反論できるほどの根拠はなにもなかったから、黙っているほかなかったけれど、心のどこかで私は信じていた。彼女が、まだ生きていると。


 だから、ずっと連絡を待ち続けた。実を言えば、志緒理さんのお見舞いに来続けているのも、里桜が志緒理さんを訪ねる可能性を考えてのことだった。


 なのに…。

 ひと月近くたった今でも、なんの音沙汰もない。やっぱり、思い過ごしだったのだろうか。そう考えると憂鬱になってしまうのだ。


 私は首を小さく振ってため息をつくと、病室のドアを閉めた。


 病院の廊下は薄暗く、20メートルほど向こうの曲がり角まで蛍光灯が消されている。発電所の供給量が間に合わない可能性があるとかで、節電が呼びかけられているからだ。


 私はその薄暗い廊下を、コツン、コツンと靴音を鳴らして歩き始めた。

 すると、そのコツンという音に混じって、不意に違う音が聞こえてきた。


 コ、コ、コ…

 私は足を止めて、耳を澄ませた。

 また気のせいかと思ったのだ。

 でも違った。

 足を止めても聞こえてくる。

 コ、コ、コ…

 私の額に再び汗がにじみ出た。

 コ、コ、コ、ココココ…


 私は、全身に寒気が走るのを止められなかった。

 目をこらすと、曲がり角の向こうに、もそもそと蠢く四つん這いの黒い影が見えた。


 あの影には見覚えがある。

 忘れたくても忘れられないあの異形の怨霊…。


 ――戻ってきたのだ、ヒイミさまが。私を呪い殺すために。


 ココココ…ココココ…

 曲がり角の向こうから、白く細い腕がヌッと現れた。1本、2本…。さらにもう2本の腕も見えてくる。そしてその腕にかかえられた髪の長い生首…。


 ココココ…ココココ…ココココ…


 喉の奥を潰したような音を発しながら、生首が私の方を向いた。


 その顔を見て、私は思わず「あっ」と叫んだ。


「里桜…」


 涙が一筋、頬を伝う。

 私はそっと目を閉じた。



(ヒイミさま - 幕 -)

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火忌 病因 @yamakiyo

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