第12話 喧嘩

 清美が目を覚まし、心配そうに声をかけてきた。私の顔は真っ青だったらしい。

 私は清美のことで悩んでいるのに、当の本人である清美は自分ではなく私に気をかけている。その構図にむしょうに愛おしさを覚えた。家に帰ったら元通りになってしまうのが怖いのだと私は言った。清美はきょとんとして、伯父達がついてくれていると言った。私達に出来ることは少ないと言うと、清美はそれを肯定した。そして、言い淀んだ後、違和感があると言った。

 ――伯父達はそんな気負わなくていい気がする。宗助と二人きりにならなくて済むというのは安心したが、だからといって伯父達頼りになりたくない。

 宗助だってそんなに恐れる程じゃ、と言いかけて口を閉じた。そして、唇と目を歪めた。私が言葉を待っていると、清美は、どうすればいいんだろうと尋ねた。その言葉は私だけでなく、自分自身にも向けているように聞こえた。そして、唸った後、暫く沈黙した。

 漸く口を開いた時、その唇が紡いだのは、最初に喧嘩した男の話だった。

 その男は負けた後、忽然と消えた。何一つ手掛かりになりそうなものを残さなかった。運悪く何かに巻き込まれたのかもしれない。でも、清美にはその失踪は彼自身の意思でやったことのように思えるのだった。晋也君は彼に陶酔していた。だから、喧嘩している最中も、関係が軟化した今も彼の話を詳しくしてくれるそうだ。彼は家庭環境が上手くいってなかった。家にも帰れず、かと言って気難しさから心を許し合える友もつくれなかった。心を休める場所もない彼は非行に走った。苛立ちを暴力で出力していた。晋也君も似たような境遇だから惹かれた。一緒にいることで互いの傷を舐め合っているような感覚があった。その内に、彼は不良の間で一定の評価を得るようになった。彼はそれを喜び、更に喧嘩に明け暮れた。更に名は轟いていく。負け知らずの一匹狼。その役割が彼の唯一と言って良い存在理由だった。しかし、その役割を果たしていくごとに、彼は疲労していった。沸点が低くなり、相手を選ばなくなった。晋也君も誰も彼を止めることはできなかった。彼自身も自分を止められなかったようだった。自分よりも自分の名前が生み出す虚像が大きくなっていったのだろう、と清美は推測していた。だから、彼は自分が背負いきれなかった虚像を別の誰か――清美に被せられる機会を得た途端、失踪したのだろう。自分の名前が負っていたものを綺麗にリセットして、誰もその名前に意味を見出さない場所で生きることを選んでいるのだろう。

 清美はそれが羨ましく思えることがある。自分が選んでしまったことを、自分の意思にかまわずに選択されたことを全てかなぐり捨てて生きられたならどれ程楽だろう。

 でも、そんなことは許されない。逃げるなんてことはしてはいけないことだ。そもそもできないことだ。たとえ奇跡的に逃げられても、きっと何も変わらない。

 けれども、その行為に酷く惹かれる。それ以外のことが考えられない程に。どうしようもない。

 清美は一通り話した後、申し訳なさそうに俯いた。私は反射的に応えた。

 ――じゃあ、逃げよう。

 言葉に思考が追い付いてきた。逃げられるタイミングをシミュレーションした。すぐに新たな答えに行きついた。後から考えると、その節目しかなかった。

 ――大学進学を切欠に逃げよう。

 清美も以前似たようなことを考えたらしく、驚きもせずに首を横に振って否定の言葉を口にした。

 ――大学に行く前までに「時機」が来たら、意味がない。大学に行けたとしても、宗助の目を完全に欺ける隠蔽は無理だ。

 清美の両肩を掴んだ。清美は驚いていた。

 ――宗助に居場所が知られても、少しの時間は稼げる筈だ。その間に道を見つけれて、進めばいい。

 清美は乗り気にはならなかった。どう解釈すればいいのか分からない表情を浮かべた。瞬きをして、私を見つめているが私を見ていなかった。唇に妙な緊張があり、僅かに歯を立てているようだった。

 張り詰めた空気に煽られ、縋るように言葉を口にした。

 ――必ずやり遂げてみせる。その為に何だってする。だから、清美もそこまで耐えてくれ。

 そして、続けた。

 ――信じてくれ。

 勢いで出た無意識的な言葉だった。しかし、それを口にした時、はっきりと清美と私を隔てるものを認識できた。

 清美は言葉を探しているようだった。私を傷付けない優しい否定の言葉を選ぼうとしているのだろう。それを選ばなくてはならないというルールが彼の中にはあった。そのルールが、あの真実が告げられた夜に彼の怒りが私ではなく宗助に向けられた理由だ。

 清美は宗助と同じく橘家では居候のような立場だ。そう清美自身が思っているのだ。

 そうやって宗助が教えてきたからだ。だから、清美は私を、私が思う程には頼れない。私を家族だとは思っていない。

 その認識がある限り、私の言葉は清美に届かない。他人事のように聞こえているに違いない。

 悔しかった。

 ――私が清美の父であれば良かった。

 口に出た言葉は清美にとって突飛だったらしく、困惑させた。その表情が虚しく思えて、涙が零れた。清美は更に驚き、わたわたと私を慰めた。私が伯父であって良かったと思うなどと言われた。温かい筈の言葉が冷たく聞こえて、それ以上聞きたくなかった。

 ――父であれば、救えたのに。

 やけくそに言った言葉に清美はむっとした。

 ――悩みを聞いてもらえた時点で十分。

 そして、清美は苛立たしげに言葉を続けた。

 ――救うって言葉は嫌だ。主導権を握られているみたいで窮屈だ。結局は自分の事は自分でしなきゃならないのに、不愉快だ。

 清美の言葉に煽られて、腹が立ってきた。

 ――一人じゃ宗助から逃げられないだろう。まだ子どもなんだし、家族の私を頼りなさい。

 頼った所で上手くいく筈がない、と清美は一気に言って、青ざめた。そして、取り繕おうとしたが、私の機嫌は直らなかった。清美はまた苛立ち、結局狭い車内の中で疲れ切るまで口喧嘩をした。

 口喧嘩の内容は堂々巡りだった。しかし、不思議なことに口喧嘩の中で、大学進学のタイミングで宗助から離れる、という認識が互いに根付いた。

 建築の道を進んだ挙句に家を継いで蜜柑栽培を成功させる無茶をやってのけた私なら何だってできる、という傲慢極まりない台詞を吐いて車を進ませた頃には家に戻る恐怖はなくなっていた。

 思い返すと、清美と喧嘩らしい喧嘩をしたのはそれ一度きりだった気がする。

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