第8話 寿観21年2月16日
その日の朝、ぽんかんが死んだ。朝一番に起きた清美がゲージの中で冷たくなっているのを発見した。老衰が酷かったので、その頃は誰もが死を覚悟していた。しかし、誰も簡単には受け入れられなかった。特に清美はショックが大きいようだった。一番世話をしていたし、清美が生まれてからずっと一緒にいたので仕方がないだろう。彼は上手く言葉が浮かばないようで青い顔で俯いていた。橙司が起きてきて、声を上げて泣いた。それで清美も漸く涙を流した。大粒の涙が幾つも落ちて、堪えきれなかった嗚咽が溢れた。しかし、それも登校前には何とか抑え込んでしまっていた。放心状態で家を出て、その状態で帰ってきた。
この日がひたすらぽんかんの死を悼む日であれば良かったが、そうはならなかった。
この二日前、宗助が初めて故郷の京都府匣織市に戻っていた。そして、この日の夕方に帰ってきた。彼は浮足立っており、夕食中に元気のない清美に幼子のように絡んだ。最初は励ましているような言葉をかけていたが、それが目的ではなかった。
夕食を終えた食卓には私と橙司と清美と宗助が残っていた。司央里と瀬戸香は隣の台所で皿洗いをしていた。その状況で、宗助は清美に隠していたことを打ち明けた。宗助がヤクザだったこと、オウジンは桜刃組であること、そして、清美は桜刃組の為に生まれたこと。突然の真実に清美は愕然としていた。声も出せないようだったが、宗助は口を止めずに話し続け、話題は将来のことへとうつった。
――桜刃組が代替わりして、二代目組長の息子の在が組長の座がついた。これから桜刃組は変容していくだろう。今はまだ二代目組長の支配の名残がある。それが完全に無くなった時、清美は桜刃組に行かなければならない。
清美はそれを聞いて、食い気味に拒否した。火がついたように宗助を責め出した。何故清美自身の意志を置き去りにするのか、反社会的なことなどしたくないに決まっている、騙すようなことをして橘に悪いと思わないのか等々、矢継ぎ早に言い立てた。その言葉のいくつかは向かいに座る私にとって刺さるものであった。申し訳なくてその場で黙ることしかできなかった。私の隣の橙司は硬直していた。
清美は言葉が出てこなくなると、自室に戻ろうと椅子から立ち上がった。しかし、宗助が清美の腕を掴んで引き止めた。そして、いかに桜刃組が、桜刃組の初代組長が鵜塚にとって重要か語り出した。清美の顔は益々朱に染まり、話の途中で声高に拒絶を示した。今現在の自分は桜刃組と関係ない。清美の言葉に宗助が怒りを露にした。桜刃組が無ければ宗助も清美も生まれることはできなかったのだから、尽くすべきだ。そんな理屈を振り回して怒鳴りつけた。
二人のやり取りはヒートアップしていき、怒鳴り声で話すようになっていた。隣の台所に声が聞こえるのは必定だった。
瀬戸香が俯いたまま、ふらりと部屋に入ってきた。水が滴るフライパンを両手で握っていた。そのまま、清美の背後に立った。遅れて司央里がエプロンで手を拭きながらやって来た。その顔には戸惑いが浮かんでいた。
肝心の二人は瀬戸香たちに注意を示さず、調子を変えずに言い争っていた。
瀬戸香が顔を上げた。真っ赤に染まっていた。同時にフライパンを振りかぶっていた。
清美は気付かなかった。宗助が気付き、待てと叫んだ。
瀬戸香は絶叫しながら、フライパンで清美の背中を打った。
清美が驚きと苦痛が混じった声を上げ、床に倒れた。清美の腕を掴んだままだった宗助も椅子から転げ落ちた。
私はあの夜のことがフラッシュバックして、震えが来た。が、何とか三人の傍にいった。
宗助が床に伏せて痛がる清美の背を擦っていた。私も加勢すると、宗助は瀬戸香を睨みつけていた。彼女は肩で息をしながら、立ち竦んでいた。宗助が苛立ちを露にして彼女を𠮟りつけた。
瀬戸香は身を捩り、俯いてから首を横に振った。宗助の言葉を聞いているのかいないのか、清美が失敗作だったのが悪いと繰り返した。
宗助は眉を顰めてから、ゆっくりと呼吸した。そして、打って変わって優しい声で瀬戸香に語りかけた。
――清美は自分が欲しかったもの全てを持っている。自分の理想そのものだ。桜刃組の為になる人間はこれ以上にいない。瀬戸香のお蔭だ。
そのようなことを言って、ぎこちなく微笑んだ。瀬戸香が肩を震わせた。宗助が何かを言いかけた時、清美が宗助と私の手を振り払って体を起こした。そして、宗助に掴みかかって押し倒した。
瀬戸香が舌打ちをして、フライパンを投げつけた。それは清美の腕の横に激しい音を立てて落ちた。
私は恐怖で体が固まった。瀬戸香から視線を逸らすことすらできなかった。宗助も唖然としてフライパンを眺めていた。
張り詰めた空気の中、清美だけが委縮しなかった。宗助を放し、床に腰を下ろしたまま、瀬戸香を睨み上げた。
瀬戸香は地団駄を踏んだ。こんな奴が宗助の理想である筈がない、と叫んだ。失敗したと繰り返し、やり直せないことを嘆いた。
清美は暫くそれを眺めてから、口を開いた。
――今まで関わって来なかった癖に、母親らしいこと何もしなかった癖に、今更文句を言うな。
清美の声は怒りを帯びていたが、宗助に対するそれよりもずっと冷たく、乾いていた。瞳は瀬戸香から一切逸らされていないようだった。
清美の言葉は初めて聞いた思いだった。積年の思いだったのだろう。そして、口にする事を憚っていた言葉だったのだろう。
それを臆する事なく本人を見据えたまま告げる真っ直ぐさ。宗助が自分の理想だとさえ言ってのけた性質が、これだと直感した。
私は、清美にも恐怖を抱いた。
瀬戸香は頭がばりばりと掻きながら、清美を睨み返した。そして、独白のように早口で語り出した。
――宗助と出会ったあの日、宗助は見慣れた汚い公園のベンチで眠っていた。大人でも子供でもなく、男臭さも女臭さもない、世俗的ではないが幻想的でもない人間に見えた。まるでそこだけが異次元のように思うほどの独特の清々しさがあった。それだけで世界がまるごと好きになれるほどの魅力があった。喋ってみたら、シビアながら優しく、冷たさと温もりが同居していた。その一瞬で今まで会った誰よりも信頼できた。清美にはそういった魅力が一切ない。それどころか、嫌がらせのように姿だけ似てしまっていた。背格好が一番似ていた時代なんて吐き気がした。だのに、よく話しかけてきて腹が立った。話すほどに、誰からも愛されて当然だというような飼い犬のような下品さが鼻についた。それに加えて、宗助に見た目が近づくほどに出来の悪い贋作だと分からされて不快だった。髪の色が軟派に薄いところ、鼻が気取ったように高いところ、口が馬鹿みたいに大きいころ、体つきだけが歳不相応に醜く大人びているところ。私が嫌悪感を持つ清美の醜さは全て私からの遺伝で、私が自分を嫌っている理由だ。それを突きつけておきながら、私に愛を求めて健気なふりをしている。無邪気に最悪の嫌がらせをやってのける極悪人。そんな清美が失敗ではなくて何だと言うのか。
あまりにも閉鎖的な言葉だった。清美も言葉を返せずに、ただ見つめ返していた。瀬戸香が舌打ちをする。そして、清美を指さした。
――誠実ささえあればどうにかなっていると思っているのだろう。そんな単純さも腹が立つ。清美が信じられる者なんて誰もいないのに、よくそんなことを考えられるな。最初から裏切られているというのに。
瀬戸香は粘度の高い視線で私と司央里を舐め回した。清美もつられたように私達二人を見た。そして、瀬戸香は告げた。
清美が桜刃組に行くことを私も同意したから、清美が生まれたことを。そして、司央里もそれを受け入れていたことを。
清美は目を見開いて、私達を見つめた。痛々しいまでに真っ直ぐな視線が突き刺さった。そんなこと、と清美は口走ったが、押し黙っている私達を見て口を閉ざした。そして、俯いて私達を視界から逃した。
私は何も言えなかった。過去の罪を自覚する以外にできることは無かった。
宗助が清美から沈黙を奪うように、表情を隠していた清美の前髪を後ろに流すようにして撫でた。宗助は先程よりは随分と自然な笑みを浮かべていた。とびっきりに温かい声で清美に告げた。――清美は桜刃組の為の存在でしかないのだ、と。
清美は怒ったようにも泣きそうにも見える表情を浮かべ、宗助の手を振り払った。そして、何も言わずにまた俯いて黙った。
宗助が溜息を溢した。壁掛け時計の秒針の音がやけに大きく響いた。空気は張り詰め、息が苦しかった。
瀬戸香がフライパンを拾おうと腰を屈めた。
その時、橙司が急に泣き出した。赤子みたいに声を上げて、空気を掻き乱した。
清美がはっとして立ち上がり、橙司に向かった。謝って宥めようとしていた。橙司は椅子から降りて清美に抱き着いた。清美が、と繰り返し、しゃくりを上げた。普段と変わらない仕草で、清美は橙司の背中を撫でた。二人は日常を急速に取り戻そうとしているように見えた。
暫く二人を眺めていると、司央里が私を見つめていることに気付いた。この先の行動を問うているようだった。何も答えられずに見つめ返していると、ドアベルが鳴った。彼女は急いで玄関に向かった。
宗助は清美を一瞥してから、瀬戸香を連れてダイニングを出た。
私は清美に近付いた。清美は私を見ると、一瞬だけ警戒の色を見せた。胸が痛んだ。
特に考えもなく、謝罪の言葉を口にした。清美は言葉に迷っているようで、別にと口にした後まごついていた。色々な思いがあるのか、視線を迷わせていた。ひりつくような感じを覚えた。
清美が言葉を選ぶより先に、司央里が戻ってきた。そして、豊一君が迎えに来たと清美を連れて行ってしまった。
司央里は戻ってくると、私の前でしゃがみ込み、わっと泣き出した。橙司も涙を溢し続けた。二人を宥めていると、私の涙腺も緩んできた。泣いてしまいたかった。しかし、清美の痛ましい姿が思い浮かんで堪えた。
一番傷付いているのは清美だ。加害者の私が彼を置いて泣くわけにはいかないのだ。
清美が戻ってきたら、謝罪の続きをしようとした。それから彼を慰めようとした。
しかし、清美は戻ってきて私に笑いかけた。今までのことが無かったかのように、普段通りの笑みをつくっていた。憑物が落ちたようにさっぱりとしていた。だが、目元は紅に染まっていた。
豊一君の前で泣いて、苦しみを打ち明けたのだろう。そして、立ち直ったのだろう。そんな推測をして、私は誤解してしまった。
――もはやこの家は清美にとって心休まる場所ではない。彼の居場所は他にあるのだ、と。
そうして私は精神的に清美を手放した。それが失敗だと知らずに。
清美自身もその時から家族に壁をつくるようになった。いつも通りの行動をして、しかし、必要最低限しか話そうとしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます