第3章 伯父の追憶

第4話 蜜柑畑

 清美の、さしては橘家にのしかかる困難の全てはあの約束に根差している。

 寿観四年五月、宗助は、私の妹の瀬戸香との結婚に条件を出した。

 生まれてくる子を桜刃組に渡すこと。

 瀬戸香はすぐに受け入れた。

 私は、ブレーキとなるべきだった兄は、拒否しなかった。生まれてくる子の意思を尊重することの重要性はその時点では頭に浮かばなかった。あっさりと条件を飲んだ。後に悔いることも知らずに。

 そのような愚行の原因は、過去の疲労だった。

 その疲労の原因は、瀬戸香との生活だった。

 私達が宗助と出会う一ヶ月程前、三月二日に両親の橘橙紀・香子が亡くなった。

 その三ヶ月程前から瀬戸香が引き籠もるようになった。中学三年生の十二月になって、突然、部屋から出られなくなった。本人が言うには、人と接するのがもう限界だったとのことだった。虐めもなく、高校受験も余裕と思われたし、元々極度の人見知りであったため、他に原因は見つけられなかった。

 両親は、尽力した。叱りつけたり、宥めたり、専門家に頼ったり、精神科に行かせたり、何だって試していた。叔父・柑子木甘平の家で生まれた子犬を貰って来さえした。でも、どれも効果はなかった。ただ、両親の精神が擦り減るだけだった。

 結局、瀬戸香は受験できないまま、中学を卒業した。そうなると、両親は更に焦った。当時、東京の建築事務所で働いていた私をも煽る焦燥だった。私は有給休暇を取り、実家に戻った。三日は愛媛にいるつもりだった。その間は瀬戸香を任せてもらって、両親に休んでもらう算段だった。

 一日目、両親は二人揃って車で出掛けた。その時に自損事故を起こし、亡くなってしまった。

 予定は全て崩れ、両親の死を悼むことに尽くすしかなかった。

 葬式を終えた後、叔父から土地の話をされた。

 私が家を継がずに建築の道を進むと決めた時から、両親は、橘家の土地及び蜜柑畑を同じ蜜柑農家の柑子木に管理を頼む約束をしていた。

 叔父は瀬戸香を預かることを提案した。私が東京での生活を続ける以上、そうするしかなかった。けれども、即決できなかった。

 その日の夜、縁側から蜜柑畑を眺めた。飼い犬のぽんかんが何を思ったのか、よくまとわりついて来た。彼の黒い毛と茶色い毛を掻き分けながら、自分の中にある蟠りを考え続けた。

 このまま帰るしかなかった。任されていた仕事もあるし、同棲していた恋人の司央里のこともある。私の生活は既にこの故郷を離れ切っていた。

 瀬戸香とは十も離れていて、進学で此処を離れて七年、まともに話せていなかった。瀬戸香にとって、叔父と私とでは同じぐらいの心理的距離があるだろう。

 しかし、長男たる私が全てを解決するべきではないのだろうか。好きな道を選ばせてくれた両親の為にそれぐらいの責任は持つべきではないのか。

 そういうことを延々と考えた。はっきりとした答えは得られなかった。堂々巡りの思考しかできなかった。

 そのうち、夜が明けた。

 白い朝日が蜜柑畑を撫でた。風に揺られ、青々とした葉の一枚一枚が輝いていた。

 その光景を見て、理解した。

 ――私は、これを手放したくなかったのだ。

 その日、叔父に意志を告げた。叔父は喜んでくれた。次の日に一旦東京に行き、事務所を辞めた。荷物をまとめ、恋人とも別れた。

 誰も私を止めなかった。

 随分と身勝手だと自分でも思っていたのに、誰も彼も私の意志を尊重してくれた。去りゆく私を心配し、励ましてくれた。

 その別れを無駄にはできないと思い、張り切りすぎてしまった。

 無理矢理に瀬戸香を部屋から引き出し、しつこく構い続けた。

 蜜柑栽培の勉強をする為に、叔父の家に話を聞きに行った。週三日程の頻度だった。その際に瀬戸香も連れて行った。叔母の満子、いとこの千代子や満男が瀬戸香を構い倒した。彼女は不機嫌そうに黙りこくってやり過ごしていた。

 土曜日になると、司央里が来た。彼女は有難いことに、私を手伝いに来てくれた。私は彼女の真っ直ぐな好意を拒絶しなかった。それどころか、素直に喜んだ。

 彼女は家事をし、瀬戸香によく話しかけた。土曜日が来るごとに司央里は来た。

 そんな日々が三週間ほど続いた時、瀬戸香が爆発した。

 夜中眠っている時に、瀬戸香に突然照明を点けられた。

 飛び起きて見ると、彼女はスイッチの隣で俯いて荒い息を吐いていた。そして、両手で包丁を握っていた。その切っ先は私に向けられていた。

 宥めようと声をかけると、彼女は喚きながら襲い掛かってきた。突然のことに後退しかできず、すぐに壁に追いやられた。包丁が耳の真横に突き刺さり、髪が切れた。

 瀬戸香は包丁を掴んだまま、俯いて早口で喋り出した。

 ――お前のような社会に適応できる人間ばかりと思うな。私のようにどうしても無理な人間もいる。人と接するだけで殺意が湧く。私を人殺しにしたくなければ、もう私に構うな。

 だいたいこのような内容だった。随分長く話していたが、殆どが破綻した閉鎖的な考えだった。

 理解しようとする気さえ起こらなかった。ただ、全てが嫌になるほどの疲労が私を支配した。

 次の日から私は叔父の所に行かなかった。毎日していた司央里との連絡も経った。

 瀬戸香とも殆ど話さなかった。本当は一切話したくなかった。一緒に暮らしている以上、それはできなかった。生活を維持するためには協力しなければならなかった。

 あの夜から五日後、瀬戸香に買い物を頼んだ。彼女は一人の男を連れて帰って来た。それが、私と鵜塚宗助との出会いだった。

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