第2章 橘の時代(前)
第3話 電話(寿観29年6月18日)〔前〕
寿観二十九年六月十八日午前。
橘橙悟は自室で唸っていた。
彼は机の前の椅子に座っていた。よく整理された机の上にはスマートフォンが置かれていた。その画面は甥・橘清美の名前が映し出されていた。
橙悟は悩んでいた。
清美が京都府匣織市に拠点を置く桜刃組に入ってから一週間以上経っていた。しかし、清美から何の連絡もなかった。
橙悟はその事に対し、二通りの可能性を考えていた。
一つ目は、苦しんでいる場合。普段はよく喋る清美が大きな苦悩を抱えた際には押し黙ることを橙悟は分かっていた。高校に入ってすぐその状態になったからだ。冷たい目でこちらを見る様子は安易に思い出せた。
二つ目は、楽しんでいる場合。満喫している時程、連絡を寄越さないのは大学時代に経験していた。あの頃は、仕送りをした日以外は殆ど連絡を取り合わなかった。しかし、一度連絡すれば、聞いている方も嬉しくなるほど声を弾ませて話してくれた。
橙悟は記憶の中の二通りの清美を比べて溜息を零した。
「落ち込んどるんやろな……」
考えるまでもないことだと肩を落とした。清美が自分と桜刃組の関係を知った時の記憶が浮かんでいた。あんなに傷付いていたのに、桜刃組に取り込まれて平穏な訳がない。
話しかけても簡単には痛みを口にしないだろう。しかし、放置すればまた心を堅く閉ざしてしまうだろう。
橙悟は剃り上げた頭を掻いた。その後唇を掴んで伸ばした。
フランクな態度を思い描いて呟く。
「清美、調子はどうだい?」
清美は調子を合わせて隠してくるに決まっている。ならば、深刻に切り出せば良いのだろうかと思い浮かぶ。
「無理してるだろ。話してみ?」
無理してへんよ、と冷たい声が想定された。警戒と拒絶が嫌というほど伝わる。高校の時の記憶だ。
橙悟は声にならない声を上げ、腕を組んだ。
「帰ってきていいんだぞ」
呟いて、別れの日を思い出した。染めたばかりの髪が風に揺れて、顔がほころんでいた。あの時に聞かせてくれた思いを壊しかねない言葉を選ぼうとしていた。
橙悟は自分を苛み、俯いた。
伯父としては、なるべく苦しんでほしくなかった。正直、無理にでも桜刃組から連れ戻したかった。
しかし、親としては――育ての親としては、苦しんで選んだ道を行く彼を応援したかった。
橙悟は暫く唸ると、筆入れからノック式ボールペンを取り出した。次に、引き出しから飾り気のない便箋を取り出した。白い紙に整然と並ぶ線を前に、かちかちとボールペンの頭を何度も机に打ち付けた。
それから、唇を真一文字に結び、ボールペンの先を便箋に押し当てた。
流麗な文字が生じ、過去を綴り始めた。
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