第16話 平穏
清美の高校生活は穏やかさを得ていた。夏休み直前に白水優大君、南曇正美ちゃんと友達になり、彼らのお蔭で状況が明るくなった。
特に正美ちゃんの存在は大きかった。はっきり言う性格で堂々としていて優しく、清美がおかしな状況に巻き込まれかけると助けてくれていたようだった。映画や小説の趣味が清美とぴったりと合い、二人でよく年相応にはしゃいでいた。物真似が異様に上手い子で清美をよく笑わせていた。彼女がいてくれたから、清美は無事に高校生活を終えることができたといっても過言ではないだろう。
宗助からの逃避の時が近づくにつれ、清美は不安を見せた。私は強がって励ましていたが、やはり不安だった。しかし、結局、宗助は邪魔して来なかった。あっさりと大学を偽り別の場所に引っ越せた時は清美と一緒に戸惑った。
今思うと、私達は完全に宗助の掌の上だった。けれど、そんなことも思い浮かばずに――いや、考えたくなかっただけかもしれない――喜んだ。
大学生活は清美にとって非常に良いものだった。文学が好きだからという理由で選んだ文学部の授業は清美を虜にした。私の仕送りを申し訳なく思って始めたバイトも楽しかったらしく、入学したばかりの頃は割とハードに働いていた。
清美の大学生活の中で一番大きかったのが、一つ上の先輩の吾田菊次郎との出会いだ。彼は理学部で生物学を学ぶ傍ら、マイナー誌で漫画を連載していた。その漫画を執筆する際に、友人達に手伝ってもらっていた。清美が一回生の秋に深夜のコンビニで働いている時に彼が客として来た。そこで顔見知りになり、清美は深夜でも元気だからという理由で目覚ましと雑用の係として彼の職場兼自宅に誘われた。清美曰く、彼は清美とは正反対の人間だった。漫画と昆虫が大好きで、漫画の執筆の息抜きに別の漫画の執筆や飼っているタランチュラ等のスケッチをする程だった。夢を叶え、なおも夢中でいられる彼が清美の目には輝いて見えた。彼と比べると清美は在り方が不確かで負い目を感じていた。その事を口に出してしまった時も――話せた時点で清美は彼をかなり信頼できていたのだろう――彼は清美の自己嫌悪している部分を良いように言ってみせた。
――清美はフラットなんだと思う。君は目立つからコンビニ以外の他のバイト先や大学内でも目についたが、いつも楽しそうで一生懸命に見えた。何事にも打ち込める気質は誇っていい。少なくとも、自分にとってはかなり羨ましい。
清美は彼の言葉が非常に嬉しかったらしく、私にこの事を電話で話した時は声がふわふわと弾んでいた。清美が彼と仲良くなった頃から私に連絡する回数がかなり減っていて心配していたが、この事を聞いて安心できた。
清美は彼と付き合ううちに、彼の自宅に半居候状態になり、バイトの量も減っていった。異様な量だったので、これも安心した。
その頃から、清美の態度が柔らかくなっていって、高校時代以前の彼に戻っていっていることに気付いた。県外の大学に通っている正美ちゃんと優大君が帰省して橙司に会った時も同じようなことを言ったらしい。その事を優大君はつまらないと評したのに対し、正美ちゃんが今の清美の方が好きだと言ったのが橙司には印象的だったようだ。
清美が吾田君に良い影響を受けていくうちに、漸く進みたい道が見つかった。三回生の時に、研究者になりたいので同じ大学の大学院に行きたいと告げられた。電話で聞いた清美の声は申し訳なさそうだった。私は嬉しかったので、喜んでみせた。それでも足りない気がして、東京で無理矢理に用をつくって、その帰りに清美の所に寄った。
久しぶりに会った清美は大分変っていた。髪を伸ばして結んでいたし、記憶の中よりも大きく見えた。一番吃驚したのは表情だ。声から想像していたよりもずっと軽やかで素直だった。一緒にいるだけで清美が私に向ける好意が伝わってくるようで、思わず笑ってしまう幸福感に包まれた。その時は食事程度しかできず話も限られていた。互いに近況を伝え合ったが、不思議と宗助の話にはならなかった。わざと避けていたのではなく、思い浮かばなかった。清美もそうであるように見えた。愛媛に帰って宗助を前にして漸く緊張を持てた。多少不自然なところはあっただろうに、宗助は何も言及しなかった。
清美が院生になる時、流石に宗助に何か言われるかと思ったが何もなかった。異様に反応を示さない宗助を前に、司央里が一度清美の話を振ったことがあった。宗助は曖昧な相槌で話を流した。私達は都合よく解釈した。案外清美が目の前にいなければ彼の将来をどうこうしようとは思わないのかもしれないと考えた。清美にそれを伝えると、最初こそ同調しなかったが、結局は私達と同じように楽観視した。私達は平穏を手放したくはなかったから、目を背けざるを得なかったのだろう。
清美が大学に進学してから五年の平穏は長く、私達を麻痺させるには十分だった。警戒しているつもりでも、宗助から見ればかなり隙があったに違いない。
結局、私は宗助を止めることができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます