第18話 夜明け

 当然のように深く眠ることはできず、四時頃に目が覚めた。

 清美を探しに部屋を出ると、清美は縁側に座っていた。ぼんやりと蜜柑畑を眺めていた。空は白んでおり、風もなく全てが静止していた。

 清美の右側から近づくと、彼は私に顔を向けた。気まずそうな表情だったが、その顔よりも前髪に目がいかざるを得なかった。

 前髪の左半分が白くなっていた。明るい所だと黄味がかった色で人工的なものだと分かるのだが、薄暗い中では白髪のように見えて驚いた。寝ぼけていたこともあり、ストレスでそうなったのかと戸惑った。

 清美は私の視線に気付くと、前髪を指でつまんだ。そして、悪戯気な笑みを浮かべて、似合うかどうか尋ねた。それで漸くわざとしたことだと分かった。しかし、今度は自傷行為に思えてきた。

 ――自分の姿を大きく変えないといけない程の決意だったのか。

 私の声は重く、清美を驚かせた。清美はぶんぶんと手を横に振った。軽い気持ちでイメージチェンジしてみたかっただけだと告げた。言葉通り受け取れないでいると、手を引っ張られた。清美の隣に座ると、彼は唇を尖らせてから私の知りたかったことを話し始めた。

 桜刃組に行くことを決めたのは、ポジティブな決定のつもりだ。悲観や諦観だけでした訳はない。自分が行きたいから行くのだ。

 宗助が目の前に現れて、衝動的に走って逃げた。逃げ切れないと分かった後は、一度宗助を動けなくしようと暴力に出た。ただ、宗助に向かっているうちにそうしている自分に嫌気がさした。高校の時に抱いていた自己嫌悪を思い出した。同時に、違和感のような曖昧な感情を覚えた。

 宗助を捕らえて殴ろうとした時に、宗助の言葉で違和感の正体がはっきりした。研究者の道をこのまま歩めないことが、宗助の仕組んだ生き方をするしかないことが自分でも分かっていたのだと自覚した。

 感情と考えがぐちゃぐちゃになり、どう出力すればいいのか分からない衝動が押し寄せた。その後は逆に何も考えられなくなった。

 宗助が眠りについた後、漸く落ち着いた。

 一人で桜刃組のことを考えてみると、自分でも不思議なことにわくわくとした。祖父を救ってくれた桜刃組に恩を返せるならばやってみたいと思った。

 別にそれまで抱いていた夢が嫌になった訳ではなかったが、桜刃組に行くことに一番惹かれるようになっていた。

 自分でも奇妙に思う心の動きに戸惑った。それから自問自答を繰り返すと、満足感があることに気付いた。

 桜刃組のことを知らされる前から、夢を見ることに憧れていた。大学に行ってからそれは果たされた。結局はそれで十分だったのかもしれない。満たされたから、自分の運命を受け入れることができたのだろう。

 上手く言葉にできないけれど、そのようなことを考えて納得できた。だから、桜刃組に行くことを自分の意思で決め直した。

 清美はそう話すと、戸惑う私に対して申し訳なさそうにした。

 ――折角見つけた夢が叶わなくていいのか。

 そう尋ねると、清美は一度俯いた後、顔を上げた。

 ――いいとは今は言えない。悔いだってない訳じゃない。でも、今の選択をすることに必要なことだった。

 私が問い詰めかけると、清美は打ち消すように言葉を重ねた。

 ――今、すっきりとした心地がしている。こうした気持ちで桜刃組に向かえるのは、伯父さんがよくしてくれたおかげだ。

 清美はごめんと短く謝った。そして私の腕を掴んだ。

 ――理解してもらえないことは分かっている。はっきり言えてないことも、伯父さんを不安にしていることも理解している。

 いつか、と清美が言葉を紡いだ時、声が上擦った。それで緊張していることが分かった。清美は息を整えてから、続きを言った。

 ――いつか受け入れてもらえるように頑張る。だから、応援してほしい。

 私をまっすぐに見つめる双眸を縁どる睫毛がふると震えた。私に触れている手も僅かに震えていた。

 言いたいことは色々あった。自分に嘘をついてほしくない願いと危ないことをしてほしくないという庇護欲から、清美の選択を否定しようとしていた。しかし、真剣な眼差しを前に用意した言葉は全て霧散した。

 ふと幼い頃の清美が思い浮かんだ。私と手を繋いで無邪気に笑っていた。私の手に収まる程に小さな手は柔らかかった。

 目の前の清美の手に触れた。私より大きくて武骨な感触がした。

 もうしっかりとした大人だ。

 もう育てる必要はないのだ。

 それに気付いた時、清美の緊張の意味が分かった。清美は宗助以外に肯定されないことは分かってしまっているのだ。そして、宗助も清美に寄り添う訳ではない。清美は孤独なのだ。

 私だけは傍らにいてやりたいと思った。清美の選択を肯定してあげたかった。清美の願う通り、応援してやりたかった。

 清美の手を握った。その手の温かさが嬉しかった。言おうとした言葉は気張らずに音になった。

 ――ああ、応援する。

 清美は安堵の息を吐いて、顔をほころばせた。

 柔らかな風が吹き、清美の髪を弄んだ。栗色の地毛の部分に染めたクリーム色の部分が重なり、色が映えた。

 風が止むと、清美と一緒に蜜柑畑を見た。白い朝の光が蜜柑の葉一枚一枚を輝かせていた。

 綺麗だねと言葉を交わした。

 それから他愛のない話をした。桜刃組の話になることはなかった。

 司央里が六時に起きてきて、清美が此処に住んでいた時と変わらない態度で家事を手伝った。私も手伝って二人の傍にいた。司央里は清美が傍にいる嬉しさと将来への不安が入り混じっているようで、何とも言えない表情をしていた。二人ともよく話したが、核心的な話にはなっていなかった。

 朝食を終えて清美達が発つ頃、玄関で司央里は清美のシャツの裾を掴み、涙の膜が張った目で彼を見上げた。そして、絞り出すような声で言った。

 ――いつでも戻ってきていいからね。

 清美はにこりと笑って、大丈夫と返した。司央里はふっと短く鋭い息を漏らして、清美から手を放した。そして、強張りつつも笑顔をつくった。

 清美は、じゃあね、と言って手を振った。

 司央里は唇を噛んだ後に力んだ声で応えた。

 ――いってらっしゃい。

 清美はきょとんとしてから、また笑顔をつくって言い直した。

 ――いってきます。

 それが別れの言葉となった。

 清美が去った後、司央里は泣き崩れた。慟哭と表現できそうな程激しい泣き方だった。気分がつられてしまいそうだったが、必死に慰めた。

 彼女は嗚咽の間に不穏な言葉を重ねた。彼女は清美が不幸になると思っているようだった。

 私は楽観的な言葉を並べて、清美の未来が明るいと思わせようとした。それが清美の為に私ができることだと考えたのだ。そう、当時はそう考えていたのだ。

 清美が発って十日。その間に心配が勝って、別れの日のことを忘れてしまっていた。

 私にできることは、清美を信じて応援してやることなのだ。


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