夜明け――我が子であり甥である橘清美の門出による影響

虎山八狐

第1章 鵜塚の時代(前)

第1話 祖父(昭和57年7月6日)

 灰色の雲が鉄骨に区切られている。雨粒が赤く錆びた鉄骨に跳ね返る。辛うじて残ったトタン板が雨粒に揺らされている。コンクリートの床が色を深めている。血溜まりが薄まっていく。折り重なった屍の温度が急激に奪われていく。屍のスーツに落ちた雨粒が黒い円を描く。

 昭和五十七年七月六日。

 桜刃組組長付きの鵜塚郁助は虚ろな瞳を空に向けていた。細い四肢は床に投げ出されていた。右手には刀があったが、もはや握ってはいなかった。腹からは血と臓物が零れていた。

 桜刃組初代組長・薬師神子純郎は彼の隣に腰を下ろしていた。数多の経験が目の前の男の死を告げていた。慣れた無力感が体を蝕んでいた。結った黒髪に雫が滑り落ちた。

 純郎は左手を伸ばし、郁助の頭を撫でた。髪が揺れる以外の反応は無かった。

「よう気張ったなあ」

 温かい声に対する返事はない。郁助の瞳は灰色の空を眺め続けていた。

 純郎は笑顔で感情を殺しながら、喋り続けた。

「傘持ってこれば良かったなあ。事務所出た頃はこんな降るなんて思いもせんかったな。雨なんて」

 雨という単語に郁助の瞼が震えた。純郎が驚いて言葉を打ち切る。

 かつて声が出せなかった口が動く。辛うじて絞り出された声が呼ぶ。

「お母ちゃん」

 純郎と出会ってから三十二年、一度も彼に聞かせなかった言葉だった。新鮮な響きが純郎を絡めとる。

 郁助の合わさった唇が弛緩する。同時に瞳から光が消える。

 郁助の四十四年の人生に幕が下ろされた。それに気付いた純郎の息が荒くなっていく。急速に彼との記憶が走馬灯のように駆け巡る。

 昭和二十五年、猪沢克典達と共に金を貸した店に行った。開店前の店内に郁助はいた。床にへたり込んで呆然としていた。目の前には店主が倒れていた。

 郁助は店に盗みに入ったが、店主に見つかり取っ組み合いになった。店主はその際に頭を強く打ち付けて亡くなった。後に知った事情だ。

 郁助は店に入ってきた純郎達に気付くと、青ざめた顔でぱくぱくと口を動かした。その時は失声症を負っており、言葉は成らなかった。純郎が近づくと、郁助は逃げようと体を動かした。腰が抜けているようで立ち上がることさえできなかった。

 純郎はしゃがみこんで眺めた。髪にしらみがいることに気付いた。額に出来た怪我が酷く膿んでおり、垂れ落ちた膿が眼窩のまわりで乾いて照付いていた。着ている服はぶかぶかで、所々解れていた。そこから伸びた四肢は骨と皮しかないように見えた。

 ――孤児院に連れて行こう。その為にどう接するべきか。

 純郎がそう考えていると、郁助の大きな目と視線がかち合った。青ざめ、小刻みに震えていたが視線はそらされなかった。汚れた肌の中で白目がぎらぎらと輝いていた。

 それで気に入って、純郎の家で面倒を見ることにした。最初は警戒されて何をするのにも一苦労だったが、一年も経てば家族のようになっていた。十八も離れていたから、子どものように思えた。実際、昭和四十年に生まれた実の子とよりもよっぽど親子らしい絆を築いていくことになった。

 純郎が家に帰れば、郁助は嬉しそうに駆け寄ってきた。頭を撫でれば、心地良さげに目を細めた。失声症が治ったら、広島弁で他愛無いことを話してくれた。三ツ矢の道場に通わせていたから、道場での出来事を楽しそうに口にしていた。

 十五になった頃、桜刃組で仕事をしたいと言い出した。人見知りだったが勤勉で、仲間に可愛がられていた。

 その頃から、纏まった休みにはよく一人で故郷に行くようになった。そこでのことは特に話してくれなかった。ただ、十七の夏に家族全員が亡くなっていたことを教えてくれた。それから、休日もこの匣織にいるようになった。一年に一度、夏には帰郷していた。

 郁助は家族を弔ってから、益々仕事に打ち込むようになった。血生臭いこともこの頃からさせるようになっていた。弱音も吐かず、高揚もせず黙々とやってくれていた。

 怪我をしようが、骨を折ろうが、罵倒されようが、傷付けようが、殺そうが何も言わなかった。数をこなせばこなすほど、手慣れて無感動になっていくように見えた。それは他の人間も同じだったから、純郎は今まで気に留めてこなかった。

 そして今日。郁助は敵の襲撃にあっても動揺することはなかった。何人斬り殺しても平然としていた。純郎を庇って致命傷を負っても顔を歪めただけだった。大きな痛みがあっただろうに、敵に向かうことを止めなかった。最後の一人を斬るまで、倒れることはなかった。

 純郎は、今までなら、それは誉あることだと思えた。

 だのに、もう虚しさしか抱けなかった。

 現実から目を逸らすように、妄想が脳を支配した。

 蝉の声に包まれた縁側。十三歳くらいの郁助が隣で本を読んでいる。腹ばいになって、天井に向けた足をぶらぶらと揺らしていた。その頭に手を伸ばすと、女の声が郁助を呼んだ。郁助はぱっと笑みを咲かせると、立ち上がった。

「お母ちゃん!」

 跳ねるように走っていく。そして、純郎よりも少し年上の女に抱き着いた。女はまあまあと声を上げながら、息子を撫でまわした。

 実現しえなかった光景だ。見てはいけないような気がして顔を背けた時、女の声が聞こえなくなった。

 二人がいた方向を見ると、河原になっていた。激しい風雨があり、黒い川が轟々と流れていた。郁助は一人で立っていた。その手には、べったりと血がついていた。足元には屍が幾つも転がっていた。郁助の腹が一人でに裂け、血と臓物が溢れた。そして、屍の上に倒れた。冷たい雨が郁助の屍を打ち付けた。そこで漸く気付いた。郁助の周りの屍は全て、純郎が桜刃組に引き入れた人間だった。


「僕は、間違ってたんや。桜刃組なんかつくらんかったら良かった」

 

 郁助の墓前で、純郎が言い放った。

 郁助の十五歳になる息子・宗助が愕然と右隣の純郎を見上げる。宗助の左隣にいた若頭の猪沢克典は更に驚いていた。

 純郎は俯いたまま、言葉を続ける。

「桜刃組に、僕に関わらんかったら、郁助は業を背負わんで済んだ」

 宗助が引き攣りながら笑みをつくる。

「何をおっしゃいますか! 桜刃組が無ければ、野垂れ死んでいましたよ。親父自身がそう言っていました!」

 純郎は首を横に振り、墓石を見つめたまま答える。

「早く逝ったとしても……なるべく手を汚してへん方が」

「おい」

 克典が強めに言葉を遮った。そして、純郎を睨みつけた。

「今更よせ。為すべきことを為してきただけや」

 純郎が長い髪を震わせ、声を荒げる。

「間違ってたんや!」

 宗助がむっと唇を尖らせ、純郎の袖を掴んだ。純郎が宗助を見ると、父親とよく似た大きな瞳が彼を映していた。

「あなたは、桜刃組は、正しいです。桜刃組が父を見つけてくれたんじゃけん、私は生まれてこれました。……だから、そんな悲しいこと、言わんとって下さいよ」

 その双眸が潤んでいった。しかし、純郎を捉え続けた。

 純郎ははっとし、たじろぐ。それを見て克典が声をかけた。

「悪いことばかりちゃうやろ」

 純郎と目が合うと、克典は微笑んだ。そして、宗助の頭を撫でた。宗助が純郎に肯いて見せる。

「大丈夫です。本当に間違とったら、仲間が教えてくれます」

 克典が大きく頷いて見せる。

 純郎の目に夏の日差しの眩しさが沁みた。澄んだ青い空に白い入道雲が緑の匂いをたっぷりと含んだ風に流されていた。

 純郎は空から二人へと目をうつし、曖昧に口角を上げた。そして、腰を曲げて宗助の頭を撫でた。

「頼むよ」

 宗助は頬を紅潮させて、小気味よい返事を返した。


「貴方は間違ってます」

 寿観四年三月五日。

 郁助の死後から十年経ったその日、宗助は純郎の息子で当時の組長であった薬師神子淳に啖呵を切った。

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