夏が燻る

白木錘角

夏の焦憬

 これはとある小さな田舎町に伝わる噂話。

 よく晴れた暑い夏の日、外に1人でいると、いつの間にか紙芝居屋の格好をした男がそばにいるという。

 灰色の鳥打帽に青色の半纏を着た彼は、自身が望む人に会わせてくれる。その人がどれだけ遠くにいても、遠い昔に出会った名前すら知らない人だとしても、死人だったとしても、望むのならば必ず会う事ができる。

 だがその出会いがどれほど嬉しいものだとしても、決して手を伸ばそうとしてはいけない。もしそうしてしまえば――。






 少年は訳もなく目の前に広がる池を眺めていた。夏の太陽は少年の真上でギラギラと輝き、耳を澄ませば被っている麦わら帽子の焦げる音が聞こえてきそうだった。

 ポチャンと何処かから音がした。少年がそちらに目を向けるも、音の主はすでに池の中に消え、見えたのは残された波紋のみである。

 普段の彼ならすぐにそばのたも網をひっつかみ、池の中に飛び込んで魚を捕まえようとしただろう。しかし少年はただぼうっと波紋が消えてゆく様子を見ていた。

 別に大したことがあったわけではない。どの家庭にもあるような、父親との些細な口論があっただけだ。お互い自分が正しいと譲らず、終わりのない平行線の議論に気持ちが昂ってしまった結果、少年は家を飛び出してきたのだ。不幸なことに、その下らない喧嘩の仲裁をしてくれる人はいなかった。

 友人たちは皆、家族旅行や帰省で遠くに行ってしまっており、父親がいる家にも居づらい。そういったわけで少年は行くあてもなく町の周りをフラフラと彷徨っていたのだった。

 池を眺めるのにも飽きた少年は両手を広げて寝っ転がる。

 すると、伸ばした手が何かに触れた。はじめは石かと思ったが、石にしては妙に肌触りがよく、さらにわずかな弾力がある。


「坊ちゃん。私の靴が気になりますかね?」


 突如、皺だらけの顔が視界にぬぅっと入ってきた。少年は思わず声を上げて跳ね起きる。


「おやおや、驚かしてしまいましたか。これは失礼」


 そこにいたのは灰色の鳥打ち帽をかぶった小柄な老人だった。いつの間に現れたのか、穏やかな笑みを浮かべながら少年をじっと見つめている。


「どうやら池を見ていたようですが、他のお友達はいないのですか? 坊ちゃんくらいの年だと、景色を眺めるより友達と遊ぶ方が楽しいと思いますが……」


 その問いにムッとした少年は、そんなの僕の勝手だろと返す。ややとげとげしい口調になっていたと思うが、男は気分を害した様子もなくにこにこと笑っていた。


「坊ちゃん、もし良ければ、私の演し物だしものでも見ていきませんか? もちろんお代は結構ですよ」


 少年の返事も待たず、男は牽いていたリアカーから、大きな木枠を取り出す。続いて青色の半纏の内から真っ白な紙を5枚引っ張り出した。

 紙芝居でもするつもりだろうか。そう訝しむ少年をよそに、男は台を用意し、木枠を設置した。


「さてさて……坊ちゃんには会いたい人はいますか? お友達でも、有名人でも、この不思議な紙の力で5人、少しの間だけ会わせてあげましょう。ただし……」


 紙芝居台と少年の間に、小さな石が3つ置かれた。


「それより前に出てはいけませんよ。私との約束です」


 さぁ、会いたい人は決まりましたか? そう聞かれ、少年は親友の名前を言っていた。ほとんど無意識のうちにである。

 男は頷くと、紙を1枚、木枠に差し込む。その瞬間、景色が一瞬揺らいだ気がした。


「……あっ」


 少年は思わず声を出してしまう。熱を増した空気の向こう、木枠の前にいたのは紛れもない親友だった。


「よっ」


 アロハシャツを羽織り、真っ黒に焼けた上半身を晒した彼はこの状況に驚いた様子もなく手を振ってきた。そう言えば家族でハワイに行くとか言ってたっけ。


「な、なんでここにいるんだよ」


「さぁ、なんでだろうな。てかそんなことよりこれ見てくれよ!」


「うわ、それもしかして貝殻⁉」


「そうそう、昨日海岸を散歩してる時に見つけたんだぜ。こんな大きなもの、見た事ないだろ」


「いいなー。僕にもなにかお土産に持って帰ってきてよ」


「もちろん。貝殻のグラスとか、高そうなチョコとか色々あったからお前が喜びそうなのを選んで買ってきてやるよ。あと昨日海で泳いだんだけどさ! めっちゃ綺麗で――」


 その時、唐突に親友の姿が掻き消える。


「どうやら1枚目はこれで終わりなようですな」


 紙芝居台の後ろから進み出た男が、枠から紙を引き抜く。取り出された紙は、真っ黒に変色していた。

 いくら何でも早すぎる。たしかに会いたいと思った人には会えたが、こんな短い時間ではろくに話すこともできなかったではないか。

 少年の不満げな顔に気づいたのか、男はなだめるように2枚目の紙を取り出して見せる。


「まぁまぁそう怒らずに。まだ紙は4枚もあるのです。それにこれは坊ちゃんがどれだけその人に会いたいかというのが大切なのです。本当に会いたい人ならば、もっと長い時間話せるでしょう」


男はそう言って、白紙を枠にセットする。


「さて次は誰にしましょうか。同じ人を連続で呼んでも構いませんが……」


 次に少年が伝えたのは、同じクラスの片想いをしている女の子の名前だった。ハワイの海がどんなものなのかは気になるが、帰ってきてからゆっくり聞いても遅くはないだろう。

 現れた彼女は、隣町のデパートで買い物をしている途中だったらしい。緊張のせいであまり喋れなかったが、5分かそこら会話をしていたような気がする。

 最後は前回と同じように女の子の姿が掻き消え、男が真っ黒になった紙を枠から引き抜いた。

 3人目に少年が選んだのは誰もが知る有名な野球選手だった。もちろん少年とは全く面識はないが、彼はまるで旧知の間柄であるかのように早く投げる投法や試合の心構えなどを伝授してくれた。果たしてそれが不思議な力によるものだったのか、それとも彼の人柄によるだったのかは分からないが、とても充実した時間を過ごせたと少年は思った。


「さぁ、次が4人目。今度は誰を呼びましょうか? この力でどんな人だろうと呼び出して見せますよ」

 

 少年はちらりと左腕にはめた時計を見る。野球選手と話していた時間は30分ほど。なるほど、男の言う通りその相手と話したいと思えば思うほど、会える時間は長くなるらしい。そして、男はどんな人にでも会わせてくれると言っていた。


「……えぇ、分かりました」


 少年の言葉に男は静かにうなずくと、4枚目の紙を枠にセットする。

 尋常でない汗が頬を伝う。体を焼くかのような熱気の向こう、揺らぐ景色に徐々に人の姿が映し出されていく。

 そこにいたのは紛れもなく少年の母親であった。彼女は一瞬戸惑ったように周りを見渡したが、すぐに目の前の少年に気づき少しおどけたように笑って見せる。


「ずいぶん大きくなったのね。お母さん、びっくりしちゃった」


その笑みはかつて少年が写真で見た笑顔そのままだった。




 

 

 天高くにあった日はいつの間にか、山の陰に隠れようとしていた。日暮れだというのに涼しくなるどころかいっそう高まる熱気の中、少年は時間も忘れて夢中で母と話し続けていた。なにせ話したい事はいくらでも出てくる。全てを語るためには、どれだけ時間があっても足りないだろう。

 だが、じりじりと何かが焼けるような音がしたのと同時、母の体が水面に映る影のように揺れ始める。先の3人と違い少しずつ消えていく様が、少年に嫌でも別れを実感させた。

 

「待って、お母さ……!」


 少年は男の忠告も忘れ、前に飛び出す。伸ばした手が小石の上を越え――そのまま消えた。

 勢いのついた少年の体は止まらない。まるで何かに飲みこまれるように腕が消え、肩が消え、顔が消え、胴が消え、最後に残った足がふらつくように小石の向こう側に倒れ込み、消えた。

 後に残ったのは何かが焼けたような不快な臭いだけだった。


「だからこちら側に来ないように約束したのに……。さて、日も暮れましたし、今日の演し物はこれで終わりですな」


 男は悲しげな顔で紙芝居台と枠をリアカーに積み込むと、振り返る事無く夕闇の中に歩き去っていく。

 涼しさが戻ってきた池の縁では、蛙がいつも通りにゲコゲコと鳴き始めていた。

 


 

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