2
僕は、その赤い頭巾、ききみみずきんを被り、ケンの前に座って、何時間も、何日も、ケンを見つめ続けた。
最初は、何も起こらなかった。
家族は、僕が何をしているのか不思議に思っただろう。
勉強のしすぎで、早くも頭がおかしくなったのかと、不安に思ったに違いない。
でも僕は、いつになく真剣で、粘り強かった。
学校から帰って、すぐさま赤い頭巾を被り、ご飯やお風呂以外の時間はずっと、ケンの前に座っていた。
休日には、赤い頭巾を被ったまま、一日中ケンの前に座っていた。
じっとケンを見つめ、意識を集中させ、他の事は一切考えずに、ケンのことだけを考えていた。
そんな事を始めて、一週間経ったある日の晩のこと。
その夜、僕はそろそろ諦めかけていた。
こんなことしていたって、何にもなりやしない。
時間の無駄だ。
馬鹿げている。
そんな事を、思っていた。
すると……
『顔が怖いよ』
怯えた声が、頭の中に響いた。
僕は驚いて、ケンを凝視した。
ケンは、その小さな両の瞳で僕の顔をじっと見て、小刻みに震えている。
『僕、悪いことしたのかな? 何も思い当たらないけど……。どうしてそんなに怖い顔で僕を見ているの? 怖いよ、怖いよ』
頭の中の声が、そう言っていた。
それは間違いなく、ケンの声だった。
僕には、本当に、ケンの声が聴こえていた。
「ケン、僕が怖いの? 顔が怖いの?」
僕は独り言のようにそう言った。
『え? ご主人様が気付いた? ……そうだよ。ご主人様が、僕のことを怖い顔で見ているんだよ。ご主人様、怖いよ。ご主人様、僕に怒っているでしょ? だって、ずっと怖い顔しているし……。怖いよ。怖いよ』
ずっと?
ずっとって……、どういうことだろうか?
「僕、怒ってないよ? ずっとケンのことが心配で……。ケンが散歩に行かないから」
僕はまた、独り言のようにそう言った。
『散歩? 散歩になんて行けないよ。だって……。ご主人様、最近ずっと部屋に籠りっきりで、散歩に行きなさいってお母さんに言われると、とっても嫌そうな顔をしていたよ。散歩に行っても、ずっと怖い顔していたよ。僕は、ご主人様が嫌な顔するのは嫌だ。怖い顔するのは嫌だ。ご主人様は、僕に怒っているんだ。散歩になんて行きたくない。ご主人様が嫌がるなら、怒るのなら、僕は散歩になんて行きたくない』
ケンの言葉に僕は、ここ最近の自分の行動を思い返した。
確かに……
高校三年生になってからというもの、学校でも家でも塾でも、受験のことで頭がいっぱいで、勉強しなければと焦って、何かとイライラして……
ケンの散歩が面倒くさくなっていた。
お母さんに、ケンを散歩に連れて行ってと言われる度に腹が立って、ケンに怖い顔を向けていた。
そうか……
ケンが散歩に行かなくなったのは、僕のせいだったんだ。
僕は、ケンが散歩に行かなくなった理由が自分にあるという事を、この時初めて知った。
泣き出しそうになるのをぐっと堪えて、笑顔を作って、ケンの頭を優しく撫でた。
「ケン……。僕は怒ってないよ。ごめんな、ケン。散歩に行こう」
ケンの頭を撫でたのは、とても久し振りのことだった。
『ご主人様。どうして笑いながら泣いているの? 僕、また悪いことしたのかな?』
ケンの不安そうな声が、頭の中に響く。
僕は涙を拭って、笑顔で話し掛ける。
「ケン。僕は何も怒ってない。ケンは何も悪くない。僕は、ケンと散歩に行きたいな。ケン、散歩に行こうよ」
僕は、一生懸命そう言った。
ケンに伝わるように、真っ直ぐにケンの小さな目を見つめた。
『ご主人様、散歩に行きたいの? ご主人様が散歩に行きたいなら、僕も行きたいよ。散歩に行きたいよ!』
ケンは、尻尾を振って立ち上がった。
僕は、ケンの首輪にリードを繋いで、久し振りに散歩に出かけた。
『嬉しいな。ご主人様とお散歩、嬉しいな。気持ち良いな。久し振りのお散歩、気持ち良いな』
ケンの嬉しそうな声が、頭の中に響いていた。
それから何日も、心穏やかな日々が続いた。
学校と塾ではしっかりと勉強をして、家に帰ってからケンの散歩に行く時には勉強の事を一時忘れて、ケンと楽しい時間を過ごした。
少し外見は格好悪かっただろうが、そんな事は気にせずに、僕は赤い頭巾を被ったまま、ケンと散歩をするようになった。
その方が、ケンの声が聴こえて、楽しかったからだ。
……この頃の僕は、本当に幸せだった。
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