外は嵐なのに
夏野けい/笹原千波
彼女
「私、取るよ」
声をかけると、彼女はこっくりとうなずいて踏み台を降りる。すれ違うときに聞こえたお礼の言葉はいまにも消え入りそうに弱い。
十五センチは違う身長のおかげで目当ての本はすぐに取れた。ガラスを多用した美術館建築が表紙を飾る分厚いハードカバーを彼女の腕のなかにそっと下ろす。自信なさげな伏し目と小柄な身体は壊れ物のように思えて、なんとなく扱いかたに困る。
深々と下げられた頭の後ろで首筋があらわになっていた。仔山羊に似ていると思う。まだなんの汚れもついていないようでいて、そこはかとなく悲しげな動物。子どものころに雨の動物園で出会ったような。
ひゅうっ、と控えめな口笛が聞こえた。少女漫画よろしく煌めいた瞳でこっちを見ているのは
「王子様じゃん」
「絵になるよねぇ、二人」
「やめなって。私はともかく八木さんに迷惑だから」
「あ、うん。ごめん」
「ごめんね。しかしイケメンは言う事が違うなぁ」
由実奈も希佳も簡単に謝るけれど真に受けてはくれない。中学生からの腐れ縁が作る内輪の空気は、八木さんにとって居たたまれないものなのじゃないだろうか。
必修英語のクラスで席が隣になったのが四月。博物館過程の授業で班が一緒になったのが九月。
もう十二月だ。顔見知りになるには十分な時間が過ぎたというのに、八木さんについてわかっていることはごく少ない。彼女が口をきくのは先生に求められたときと挨拶のときくらいだ。同じ班だった偶然にびっくりして声をかけたときも、薄く微笑まれて終わってしまった。
謎が多いからか、つれないからか。私は彼女の存在に引っ掛かる。下の名前は
「そろそろ戻んないと」
「ん、だね。貸出もやんなきゃだし」
かしましく書架のあいだを抜けていく二人を追いつつ後ろを振り返る。八木さんは五、六歩離れてついてきていた。目が合いかけて、ふっと床に逸らされる。
威圧感について考えてしまう。群を抜いて高いわけではないけれど、彼女からしたらずいぶん高く見えるだろう身長。伸ばしたことのない髪。かわいらしさに躊躇して選ぶのは強い色調ばかりの服やメイク。制服を着ていた頃は男性的なふるまいや嗜好を私らしさの一部として自然に受け入れていた。休日に友達と遊ぶときだってその延長としてパンツスタイルばかりで気にならなかった。
服装も持ち物も自由になって、縛るものがほとんど何もなくなって、外に出るために毎日膨大な選択をする必要が生まれて。いったい私ってどんな人間なんだろうとふと疑問に思ったりする。制服のスカートも赤いリボンも嫌いじゃなかった。男性的であることは一種の役割分担のような、キャラクターとしてのものだったのに、私服になるとどこまでも男に近づけてしまう。
「
「そんな急がなくて平気だって」
二人は変わらない。無邪気に愉快に大学生活を謳歌しているように見える。高校までとの段差なんてなかったみたいな顔だ。クラスルームが消え去っただけで、友人関係にはさしたる変化もなく。
入学式で校歌をそらんじている内部生に驚いた、とい大学からの学生の話を耳にしたことがある。私たちは無意識にホームの空気をつくってしまう。仲良しの子に駆け寄って話しはじめるよりずっと先に。それは外から来た人を疎外するはずだ。広いキャンパスでは薄まるにしても、たとえば今のように私たちが多数派になってしまった場合には、特に。
図書館を出ると曇り空から不穏な風が吹いてくる。雪でもちらつきそうな暗さに反して、冬の割にはぬるく肌をかすめた。
五号館の正面口を入れば、まだ新しいリノリウムにステンドグラスからこぼれた光が淡く落ちている。赤や緑の強い鮮やかな配色は、晴天にあっては目に痛く、暗いときにはどことなく禍々しい。
広く空間をとった階段に反響して消えていく声を聞きながら講義室に戻る。並んだ長机の定位置にはもう希佳と由実奈が座っている。由実奈の文字がプリントの枠を今日借りた資料の名前で埋めていく。コーラルピンクのシャーペンは希佳の手に渡って現状と来週の目標を箇条書きにした。
度の強い眼鏡をかけた白髪の先生は、各班の進捗を取りまとめつつ抑揚のとぼしい声で来週の予定を告げる。まだ資料を集めている班が多いようですがそろそろ発表の形式も考えてスライド等の制作に入るように。きっとこの先生は何年も同じようなことを喋りつづけているのだろう。停滞の匂いを胸に吸い込みながら聴いた。私の真上の蛍光灯がちらちらと明るさをゆらがせる。先生の顔が窓の外を向いた。視線の先では裸になった桜の木が梢を震わせている。
「今日は
号令のかからない授業の終わりは、ほどけるように緊張感が解ける。先生がいなくなると同時にチャイムが鳴って、希佳が肩をすくめた。
「また異層嵐だって。こないだ数えたら今年もう十六回。多くない? 附属の頃ってこんなにしょっちゅうじゃなかったし、もっと前だってこんなことなかった」
「どうだろ、昔はあんまり気にしたことなかったし。ほら、子どもは夜出歩かないもん」
「それは由実奈がノーテンキなんだって。親が必死に鍵閉めたりしてんの、普通に怖かったんだけど」
「そこは動じないって言ってよ」
「はいはい。のんびりしてて連れていかれないようにね」
希佳は軽く由実奈をいなすと、いじっていたスマホを私に向けてくる。表示されているのはケーキの画像。駅前のお店のものらしい。
「ちょっとだけ寄り道するつもりなんだけど、真咲もどう?」
「ごめん、今日はパス」
「つれないなぁ。用事?」
「買うものあってさ」
苦笑いでごまかしておく。本当のところを告げる気になれないのはどうしてだろう。これからデートなんだってあっけらかんと言ってみたい。そんなことをした日には、二人が大騒ぎするんだろうけれど。
教室を出るときに八木さんがまだ座ったままでいるのが見えた。線の柔らかい横顔が静かにうつむく。小さなものをつまんで口に入れる。机にパステルカラーをとりどり詰め合わせた金平糖の袋が置いてあった。緩慢に顎が動いて、八木さんもお菓子とか食べるんだなと当たり前のことを思う。
***
商店街を通って駅前に出る。こまごまとした店が並ぶ一車線の道路を行きかう人は絶えない。いかにも古めかしい理髪店から今どきのカフェまで。チェーン店もここでは大きな店舗を構えることなく、パズルのようにひしめいている。中学の頃から数えて七年目、無くなったり新しくできたりして、細胞が入れかわるように店の顔ぶれは変化している。由実奈と初めて寄り道したケーキ屋さんは天然酵母が売りのパン屋さんになった。
改札を横目にコンコースを抜ける。バスロータリーを越えるとあたりの雰囲気は落ち着いた住宅街のものに変わる。
ガラスの自動ドアやベルの下がったクラシックな木の扉から、古い一軒家の門やアパートの階段に。細く入り組んだ路地を歩いていく。駅から二十分以上かかってようやく着くのは半地下の洋菓子店。狭いレンガの階段を降りていくと黒い金属の重厚なドアが待っている。
開けば温かな色のライトがこぼれて足元を照らす。コンクリート打ちっぱなしの床に白い漆喰をラフに塗った壁、正面奥にショーケースを兼ねたカウンターがある。黒で統一された椅子とテーブルが残りの空間を埋めてカフェを兼ねていた。
隅のほうの席にいた
急に会おうと言ったのは野代さんだ。勤めているレストランが早く店じまいをすることになって、夜からだったはずの仕事がふいになったらしい。
ひとたび嵐が来るとなれば、日が暮れてからは家に閉じこもっているしかない。店舗のように開かれているところでは身を守れないのだ。
「お待たせしました。学校からまっすぐ来たんでこんな格好ですけど、すみません」
「謝んないでくださいよ。たまには普段着で会うのもいいと思うし」
「だって野代さんはちゃんとしてるじゃないですか」
「してないって。それに急に誘ったのは俺のほうなんですから。とりあえずお疲れさまです。先にケーキを選んできません?」
ショーケースのなかは、そこだけ白く強い光であふれていて別の空間のようだった。
真っ赤な小粒の苺をあしらった雪のドームのようなムースに、しっかり焼しめられた洋梨のタルトは手のひら大の円いかたち、つややかな表面のオペラは濃いチョコレートの層が重なって、クランベリー入りのどっしりしたベイクドチーズケーキはしっとりと柔らかそうな断面をしていた。どれも瑞々しく照明を弾いている。
悩みに悩んだ末に苺のムースを選んだ。野代さんは洋梨のタルト。飲み物は二人ともコーヒーにする。
シンプルな陶器のお皿でケーキが供される。ほのかに甘いだけだった店内の空気にコーヒーの香りが漂った。野代さんは先にナイフで四十五度を正確に切り出す。女の子のものとは違う骨っぽく広い手の甲で、彼が異性であることを実感する。先生と呼ばない男の人が身近にいるというのにまだ慣れなかった。
私もふわりとしたムースに刃を入れる。野代さんほど巧くはできない。ストロベリーソースが滲んだ血みたいになってしまっても彼は穏やかに笑ってくれる。
「先月もお休みになってませんでしたっけ」
「そうなんですよね。今年は明らかに多いです。春くらいからでしょうかね、実感として増えてきたの」
「私が大学入ってから?」
「さすがに偶然でしょう」
野代さんのくれたタルトを頬張る。さっくりと香ばしい生地に洋酒のきいた洋梨のコンポート、カスタードがとろりと甘さを添える。さりさりとした果肉と硬いタルト生地の食感が歯の上でひとつになっていく。
野代さんはムースのかけらをフォークで口に運ぶ。吟味するようにゆっくりと噛んでしばらく、コーヒーカップに手が伸びる。
「でも大変ですよね。いつもお休みになっちゃうんじゃ」
「ある程度は仕方のないことではあるけれどね。店のほうもそれを織り込んだうえで経営していかなきゃならないんです。夜間の営業がメインのところ、たとえばバーやなんかは警報が出ると夕方までに入ったお客さんごと店を閉めたりします」
「野代さんのとこはそういうこと、しないんですか?」
「うちは終夜営業ではないからなぁ。閉めてしまったほうがコストを下げられるという面もありますし」
「来やすい場所とか、時期とか、あるんでしょうか。異層嵐って」
物心ついてから今まで、あまり切実に怖いと思ったことがない。台風と違って学校も休みにならないし、習い事や部活が中止になったり時間を短くしたりされるだけ。外にあるものを家にしまい込んで窓やドアの鍵を忘れずにかける。異層嵐の夜はとても静かだ。いくら耳を澄ませても、部屋の中の音しか聞こえない。
翌朝になっても大した変化はない。庭の土に引っ掻かれたような跡が残っているとか、咲いたばかりの山茶花が消えているとか。夜のあいだに外にいたらお花みたいに持っていかれるんだからね、というお決まりの注意だって、大人になるまであまり本気にしていなかった。
ナイフをタルトの中心に刺しかけたまま、野代さんは首をかしげた。
「場所、というのは確かにあるかもしれませんね。俺は生まれが山のほうなんですけど、実家のほうではこちらより頻度が高くて、年に何十回も来るんです。こっちで増えたといっても地元よりは少ないくらいで」
洋梨のタルトは驚くほどきれいに切り分けられて、野代さんの唇のあいだに消える。お皿に残るタルトのくずも最低限。そういえば彼の食べかたはいつも無駄がなく上品だった。
「子どものころ、怖かったですか?」
「怖かった。同級生に一人、連れ去られた子がいてね、今でも思い出すんです。町そのものは何ごともなかったかのようなのに、その子だけいない。そういうことだろうって大人たちは言うんだけど、ご両親は当然受け入れられなくて、葬儀があったのは結局一年以上経ってからでした。当たり前にそばにいたはずの人が、突然消えるっていうのは、なかなかね」
「そんなに身近で」
「土地柄というかね、大人は慣れっこになっていたみたいで。近所のお姉さんが巻き込まれかけて喋れなくなったとか、連れ去られなかったけど目を覚まさないまま亡くなったとか、噂も含めれば数えきれないほど聞いてね。だから嫌で離れたんですけど」
「野代さんに比べたら私なんて馬鹿みたいにお気楽だったなぁ。警報もそこまで頻繁じゃなくて、年に何回かってことのほうが多かったんです」
「いいことだと思いますよ。だからこういう町には人が集まるんでしょう」
「いいかげん大人なので、自覚を持った方がいいのかなとは思うのです」
彼はにっこりとうなずく。
「今日は駅まで送ってくれなくて大丈夫ですから。早く帰ってのんびりしてください」
甘酸っぱいストロベリーソースが冷たいフォークから舌へ落ちる。なめらかに白いミルクのムースがほどけていく。鮮烈な苺の味がムースに包まれて表情を変える。
野代さんは最近行った美術館の話をはじめた。見た展示はもう終わってしまったらしいのに今度一緒にと誘ってくる。よくよく聞けば併設のレストランが気に入ったらしく、野代さんは本当に食に生きている。真剣さはいつだって好もしい。二十三歳にしてキャリアは五年目、働くことに馴染んだ姿は実際の年齢差以上に大人に感じた。
コーヒーを飲み干すのどぼとけを眺めていると急に彼の視線が戻ってくる。
「そろそろ解散にしましょうか」
私のお皿も空になっていることを知っていて、ちょうどのタイミングで声をかけてくれたのだろう。食べ終わってからも話していると切り上げどきがわからなくなってしまうから。
野代さんは私から千円だけ受け取って会計に立つ。私のぶんには少し足りない。端数を持ってもらうような不均衡の理由は効いたことがない。年上だから。働いているから。気遣いなのはわかっていて、嬉しくはあるのだけど降り積もる申し訳なさを無視できないでいる。私は今まで、どちらかと言えば与える側だったのだ。
地上に出ると不穏な暗さが増していた。雲は厚くなって傾いた太陽を遮り、重たい風がざわざわと走る。私たちは並んで駅のほうへ向かう。分かれ道の交差点に至るまでのあいだ、野代さんは何度も心配そうに空を確かめた。
信号が青になる。気を付けて帰ってくださいねと念を押されて、私は笑う。大丈夫ですと手を振り、前見て歩いてくださいと忠告を返す。寂しいのか滑稽なのかわからないお別れはいつものことだ。
遠ざかっていく野代さんと入れ違いにこちらへ向かってくる人影があった。スーパーの買い物袋を下げてビニール傘を握った小柄な女性は、分厚くて長い黒のオーバーの前をぴっちりと閉めて早足に歩いている。うつむいていてもわかる。八木さんだった。ハイカットのスニーカーとオーバーの裾のあいだに見えるのは、どういうわけかタイツではなく素のままの脚になっている。
対岸に止まった彼女から目が離せない。あまり見つめていたら気づかれてしまうに違いなかった。点字ブロックのあたりに落ちていた八木さんの目が、ふっと上がる。
視線が道路の真ん中でぶつかった。向こうはまだ知り合いであることに気づいていないようで、首をわずかに傾けて記憶を探る顔をする。信号がまた青に変わる。すれ違う瞬間が近づいてくる。
「八木さんだよね。家、こっちなの?」
「……相川さん?」
声をかけたことを後悔するくらい、彼女は不確かな声で私の名前を呼んだ。
「私このへんに住んでるんだけど、会うの初めてじゃない?」
「たまにしか買い物、行かないので。家はもっと先なんです」
「へぇ、じゃあ独り暮らしなんだ」
「そうです。相川さんはご実家?」
「うん。附属の頃からずっとここ」
「地元なんですね」
八木さんは眉を寄せてビニール傘のひだを指でなぞる。
「近くに住んでるんだったら今度お茶でもしない? 案内するし」
「そんな、いいですよ。悪いですから」
「せっかく同じ班だし、英語でもいっしょのクラスなんだから、もうちょっと八木さんのこと知りたいなって思うんだけど、だめかな」
「そう言われても、あの、私に構ってもあんまりいいことないですよ」
「いいことが欲しくて友達になろうなんて思わないよ」
「駄目なんです」
買い物袋で鬱血した左手を握りしめて唇を噛む。悲壮とも言えそうな様子が不思議だった。
「誰とも親しくするつもりはありません。だからもう、放っておいてください。それに今日は警報だって出ているでしょう。こんなところで立ち話してていいんですか」
「まだ日没には間があるし」
「早く帰って安全なところに居てください。さっき手を振りあってた人だって、あなたを心配してるんじゃないですか。日があるうちは絶対大丈夫なんてことないです」
「もしかして八木さんも異層嵐のよく来るところの出身?」
「ふぅん。彼氏さん、そういうところのご出身なんですね」
八木さんの言葉は冷たく、あざけるような色を含んでいる。
「いや彼氏とかそんなんじゃ」
「ないんですか?」
「なくは、ないけど……みんなには言わないでほしいかも」
「だったらこれ以上近づかないでください。そしたら黙っときますから」
私を振り切ってさっさと歩きだしてしまった。反射的に追いかけて訊く。
「なんで急にそういうことになるの?」
「あなたがしつこいからです」
「ごめんなさい。だけど一人じゃ大変なこともあるでしょ? 何か私にできることがあったら」
「これ以上ついてこないで」
叫んで、八木さんは初めて明確に私のほうへ顔を向けた。泣きそうに潤んだ瞳に胸を突き刺された気分になる。
「ごめんなさい、もう帰ります。学校でも話しかけないから、安心して」
なるべく潔く見えるようにきびすを返す。首筋を温かく湿った風が通った。八木さんのため息だったりして。表情を窺うわけにもいかない。とりあえず足元だけを見ながら家路につくことにした。
しかし、どうしてこうも急いでしまったかな。嫌がらせをしたかったわけではもちろんない。最初に断られたときに大人しく引き下がっていればよかったのだ。
点いたばかりの街灯がアスファルトに私の影を落とす。伸びては縮んで消えて、また生まれる。なんだか、帰りたくなくなってしまった。
安全な家で匿われているだけの自分が嫌になるから。八木さんはこれから一人で部屋に帰って鍵をかけるのだろう。誰とも親しくする気がないという言葉を信じるなら、寂しさを埋めあう相手もいないはずだ。私のずうずうしい行動を愚痴ることもきっとできない。
遠回りのルートに足を踏み入れたとたん、影が深くなった。吐息のような、湿って温かい風が肌に絡む。とろりとした闇がひたひたと寄せてくる。
真夜中だってこんなに暗くはないだろう。あとずさりすると自分の影に触れた靴の先からぴしゃんと黒い滴が飛んだ。光を許さぬ水たまりが私の下に現れている。見上げれば空も得体のしれない濃紫に変じていた。正常でないことくらい簡単にわかる。
おそらくは嵐の内側。誰も語らず誰も観測しえない異層嵐のなかに放り込まれたのだと直感する。まだ明るさは残っていたのに。
これは罰なのかもしれない。人の都合も考えずに善意を押し付けようとして。迷惑がられているのに意地を張って、やめようともしないで。
逃げかたなんてわからない。どこから入ったのかも、出口なんてあるのかも知らない。もと来たほうへ自然と足が動いてしまうだけだった。走ることさえできずにふらふらと進む。蹴った闇が散って霧になる。昔からよく知っているはずの住宅街は、まばたきひとつごとに歪んで平衡感覚を狂わせる。
「相川さん」
声が光のように射してきて、それが八木さんのものであるとわかる。彼女はオーバーのファスナーを下げながらこちらに向かってくる。あらわになるのは、長袖ではあるもの薄い布地のワンピース。おそらく木綿で、裏地もついていないようだ。
「ごめんなさい、ちょっと預かっててもらえますか」
言われるままに黒くて重たいオーバーと買い物袋を受けとる。
「親御さんにメールを打ってください。友達の家に泊まるから今日は帰らない、戸締りをしておいてって。でもまだ送らないでくださいね。圏外になってるはずなので。合図したら送信、できます?」
「うん、でも」
「とにかく言う通りに。詳しい説明をしている暇はありません」
彼女は私の目をまっすぐに見る。いかにも事情通といった風情なのが普段の印象とかけ離れていた。守られる立場なのは、実のところ私のほうだった。こんなところで冷静でいられる人が私の中途半端な気遣いなんて必要としているわけがないのだ。
圧されてうなずくと、彼女はポケットから金平糖の粒を取り出す。躊躇なくこちらに向かって振りかぶり、投げた。思わず目をつぶるけれど衝撃は訪れない。おそるおそる瞼をひらくと金平糖は衛星のように私をとりまいて巡っていた。守るように軌道を描いてそばを離れない砂糖菓子は、暗い世界にあって蝋燭のように心を落ち着けてくれる。
「動かないで。怪我だけは絶対にしないように。もし私に何かあったら、逃げたいって強く念じて走ってください。運が良ければ出られます」
八木さんはビニール傘を構える。型もなにもあったものじゃない、ただ攻撃の意思を示すようなポーズだった。
鳥肌が立つ。奥から恐ろしいものがやってくる気配に、震えを止めることができない。正体は見えない。それは波のように押し寄せてくる。私たちをどこかへ奪い去ろうとするみたいに。
彼女は跳んだ。高く、高く、人間の限界なんて遙かに超えるジャンプが放物線を描く。彼女の足元から散った闇はノイズとして私の視界から彼女の戦いの一部を隠す。
波のみなもとを見つめて、迷いなく傘を突き付ける。相手に至ったとわかるのは色が弾けたからだ。傘の先端にパステルカラーの閃光がほとばしる。ピンク、スカイブルー、明るい黄色。至近距離で爆発する花火が歪んだ路地を照らす。彼女は何度も何度も、何度も執拗に傘を刺した。そのたびに光はきらめいて尾を引きながら黒い水たまりに落ちる。
善戦しているわけでもないのは、彼女の必死な様子を見ていればわかった。いくら突いても敵の形ははっきりしない。濃紫のねっとりとした塊が路地の先にうずくまるばかりだ。
影を煮詰めたような針が、そいつから放出される。ワンタッチ式のビニール傘はすばやく開いて八木さんの盾になる。骨のあいだに張られた透明なビニールにぶつかって甲高い耳障りな音をたてた。流れ弾が私の周りを飛ぶ金平糖をひと粒、撃ち落とした。
傘の色が変わっていた。藍色に無数の光点がまたたいて、星空を切り取ったかのよう。八木さんは苦心して傘を閉じ、また相手に向かっていく。
パステルカラーと暗闇をくりかえす明滅に眩暈がした。彼女が振り回すものは既に傘ではない。装飾的な諸刃の剣になっていた。黒い持ち手は花唐草を彫りこんだ銀の柄に変じ、そこから伸びるのは明るい黄金色の刃だ。彼女のスカートの裾は幾度もほつれて、その傷からは植物のようにラベンダー色と忘れな草色のリボンが生える。
ひときわ大きく振りかぶった剣が深々と闇に刺さる。放たれたのは叫びというよりも暴力的な音響だった。とっさにふさいだ手を貫いて鼓膜が裂けそうなほどの音の波が通りすぎる。
目をひらくと、なんてことのない夜の路地が待っていた。体感よりもずっと長い時間が経ってしまったみたいだ。街灯が静かに私たちを照らす。もう暗くなったから、誰も表には残っていないのだろう。話し声も車の音も聞こえない。八木さんが手にしているのはただのビニール傘で、ワンピースの裾も元通りのシンプルなラインに戻っていた。私を守っていた金平糖はアスファルトの上に散らばっている。
「メール、送ってください」
八木さんは金平糖を拾い集めながら鋭く言う。
「私が八木さんの家に泊まるってこと? どうして?」
「こんな時間にほかの家族もいる家の玄関を開けさせるつもりですか」
「ねぇ、さっきの、なんだったの?」
「急いで。じゃないと」
言いよどんで唇を噛み、それっきりになる。本気なのだということは確かだった。それに、彼女は私を守ってくれた。言葉にしないけれど危機は去っていないのだろう。説明するつもりがないなら、問答はただ時間の無駄になってしまう。
「送れましたか」
「うん、大丈夫」
「では行きましょう。くれぐれも怪我だけはしないように」
「さっきも言ってたけど、怪我すると何かあるの?」
「それは」
長い沈黙の後で、八木さんは低い声を絞り出す。
「とても困ったことになります」
私たちは連れだって無人の住宅街を進んだ。どの家もあらゆる扉を固く閉ざして、団らんの灯りは鎧戸の向こうにしかない。街灯の冷たい光はかえって暗がりを強調する。いつまたあれに遭遇するかわからない恐怖が足をすくませるたびに、八木さんは私の肘に軽く触れてくれる。彼女は迷いなく歩く。何度も角を曲がりつつ、常に駅から離れる方向を選ぶ。
「日が暮れる前に来るなんて」
「きわめて稀ですが、ないことはないです。事例を当たればいくらでも出ます」
「いつもああやって……」
戦っているの、と訊くつもりだった。けれど続きは舌に乗せる前に形を失い、出ていくことはなかった。
「異層嵐に巻き込まれた後遺症には、失語というものがあるんですよ。といっても一時的なものがほとんどですけれどね。でも、その瞬間のことは誰も話さないんだそうです」
私は黙ってうなずいた。言わんとすることは察せた。異層嵐のなかのことは話すことができない。だから、誰も正体を知らない。
「言及不能という特性については、研究がないではないんですよね。マイナーですけれど論文を見たことがあります」
「けど、」
喋れないなんて、それじゃあ戦いかたすら共有できないじゃないか。
「大丈夫、相川さんは今日のこと、全部忘れたらいい。私とも今まで通り、普通に接してくれたらいいですから。親しくしようなんて馬鹿なことは考えないで」
また地面をどろりとした影が侵す。空の色が変わって生ぬるい風に満たされる。ビニール傘は剣に、スカートの裾にはリボンがあしらわれる。八木さんは例によって金平糖を私のお守にして向こうからやってくるものに対峙した。濃紫のシルエットは八木さんと同じ背格好の人型をとっている。
彼女たちはどちらからともなく跳びあがった。剣が交わるところに金属質な音と菫色の火花が生じる。相手はまるで八木さんの鏡像だった。等質な動きで戦いを演じ、身のこなしはわずかな癖まで再現される。重ねたらひとつになってしまいそう。だけどそれを拒否するように、近づいては離れて、ふたたび絡みあう。
彼女たちは背丈の何倍も高く跳んだ。スローモーションめいた宙返りで身をかわした。空を蹴って軌道を変えた。剣に重さがあるようには感じられない。舞台の上ではりぼてを振り回すみたいな軽さで切っ先は不安定な弧を描く。
人間に可能な速度も、重力も無視してふたりは踊り狂った。影が八木さんのワンピースを裂けば、すぐさまリボンやフリルが愛らしい色で傷を埋める。スニーカーだって例外ではない。ちぎれた靴紐の代わりにローズピンクの幅広リボンが足首を留めている。衣装のように華やかに戦闘を彩りながらも、その造形はどこか歪で不気味だった。否応なしに飾り立てられていく八木さんは笑わない。アニメのヒロインのように愛にあふれた台詞を吐くこともない。いっそ泥臭いほどまっすぐに、正面から向かっていくだけだ。
八木さんの華奢な脚が、飛び散る光のなかで螺鈿のような色を見せることがあるのに気づく。鋭い線やこすったような跡としてあるそれが傷あとだとわかったのは、濃紫の剣が彼女のふくらはぎを掠めたときだった。
血は赤でなくマゼンタ。噴き出すのではなく涙のように滴を作って脚をつたう。でもそれもつかの間のことだ。虹色のゆらぎを持つ白っぽい光が傷を埋めて、彼女は何ごともないように走る。一切の痛みを感じられない戦いはやっぱり即興のダンスに似ている。ふたつの等しい人影は互いを出し抜こうとしだいにその動きを複雑なものに変えていく。
先に空中に足場を作ったのは八木さんだった。跳びあがったときにばらまいた金平糖が星のように漂っている。彼女の手を離れた瞬間、小さな砂糖菓子はほんの指先ほどの大きさから、両手で抱けるくらいに膨らむ。蹴ったくらいではびくともしなくて、彼女は自在にその間を行きかった。手で、足で金平糖をとらえて軌道を変える。ぶつかりあうのではなく追いかけっこの様相を呈しはじめた。八木さんと影の距離は次第に離れていく。彼女は星を増やすのを止めなかった。いったいどれだけの数を懐に忍ばせていたのだろう。金平糖の優しい色が視界を埋めていく。私からはもう、ふたりの様子が捉えられない。
ひときわ大きい、耳障りな音と一緒に八木さんが金平糖の檻から飛び出してきた。マゼンタの滴が尾を引いている。剣は胸に抱きしめて、身を守るように丸くなったまま抵抗もせずに落下するのを、私は助けることもできない。彼女が私にあてがった金平糖の衛星は、素知らぬ顔で周囲をめぐっている。出し抜くすべもわからない。触れてしまえばどうなるのかも教えられていない以上、かえって状況を悪くするのは目に見えていた。
八木さんの身体が地面に触れる寸前で、かつてない光の洪水があたりをさらった。無音の爆発だった。色とりどりの金平糖は弾けて輝き、闇を拭う。眩しさに閉じた目をひらいたときにはもう終わっていた。今が冬であることを除けば常識的な服装の八木さんが冷たい手で私をいざなう。
八木さんが住んでいるのは、小さな公園に面した古いアパートだった。湿ったコンクリートの階段をそっとのぼって表札のない扉に辿りつく。私が預かっていたオーバーのポケットから取った鍵には、こぶし大のうさぎのぬいぐるみがぶら下がっている。
「上がってください。それと荷物、持ってもらってありがとうございました。その辺に置いてもらっていいので」
「こちらこそ……ええと、色々、ありがとうございました」
「お礼を言うようなことじゃないですよ」
戸締りを確かめながら八木さんは首を振った。物の少ない部屋だった。廊下にキッチン台、奥に六畳くらいのフローリングの部屋がある。家具はローテーブルと箪笥、小さめの本棚はほとんどが空いていて、教科書のほかは文庫本が一冊おいてあるきりだ。
「ここにあるものは好きに使ってください。キッチンの上の扉にお茶とコーヒー、食器も全部入ってます。鍋とかヤカンは流しの下に。何か食べたかったら冷蔵庫見てください。大したものはありませんけど」
「八木さん、どこか行くつもり?」
「私は外へ戻ります」
「どうして」
「……ここのところ、異層嵐の頻度が増していませんか?」
「確かに、そう話してる人が多いような」
「いつ頃からだったか覚えてますか?」
「今年、えっと、春くらい。私が大学に入ったあたり」
ということは、八木さんがこちらにやってきた時期でもある。息を呑んだ。静かな部屋のなかで、その音は間抜けなくらい響いた。八木さんはかがみ込んで流しの下の戸を開ける。小さなヤカンに水を少し入れて、火にかける。換気扇が唸った。
「そういうことです。だからお礼を言われる筋合いはないってこと」
「でも、どうして」
「詳しいことはわかりませんが」
彼女は唐突に部屋の電気を消すと、袖をめくって腕をさらす。ガスの青い炎の前でゆっくりと動かせば角度によって微かな艶を帯びている部分がわかる。紛れもなく、戦いの間に目にした傷痕と同じものだ。
「だから、私は行きます。朝までには帰りますから、じっとしててください。暇をつぶすようなものもなくて申し訳ありませんが。布団は奥の収納にあるので、良かったら使ってください」
言うと、装飾のない白いマグカップをひとつ取ってティーバッグを沈めた。スーパーの袋を探ってクッキーの箱を開け、ローテーブルに個包装をいくつか並べる。湯気の立つ紅茶を添えて彼女は手で示す。
「どうぞ。外にだけは出ないように。戸締りさえ守ってくれたらほかは好きにしてください。何でも使っていただいて構わないので。本当に、お願いします」
「本当に行ってしまうの」
「大丈夫ですよ」
ポシェットだけを身につけて上着も羽織らず、八木さんはドアをするりと抜けて出ていった。ローテーブルの前に座ってみても、マグを取ろうという気になれない。主のいない部屋は私の存在を吟味するようによそよそしい態度で佇む。
無個性な部屋だった。白っぽく、飾り気がなく、素性も好みも捨て去ったレイアウト。必要最低限のものだけが仕方なく置かれている。まるで、いつか消えてしまうことを諦めているみたいに。学校でだってそうじゃないか。誰とも仲良くしないで、人に近づきすぎないようにして。確たる証拠もないのに、自然災害であるところの異層嵐を全部自分の責任として背負い込もうとして。
唯一、彼女を示していそうな文庫本を手に取る。古本なのか、ページは茶色くなってざらつく。三分の二あたりにレシートが挟まっていた。折りたたまれているのを開くと、駅前のスーパーのものだ。食品に日用品、おびただしい数のお菓子。きっとそれらは彼女の武器だ。
どうして私は戦えないのだろう。誰にでもできるようなことではないのだろうか。説明してもらうことも、戦いかたを教えてもらうことも不可能だ。だけど、どうして私は八木さんの部屋で、安全に閉じ込められているのだろう。こんな寂しい部屋で。彼女は理解してもらう気なんてなくて、誰も巻き込むつもりもなくて、知りあう人すべてを遠ざけておきたくて、この町に異層嵐が来ることに責任を感じていて、いつか嵐のなかに消えていくつもりで生きているんだ。
箪笥の引き出しをひとつずつ開いてみる。どこでも見ていいって言ったんだから、と自分に弁明するくらいには後ろめたかったけれど、彼女の本意をかけらでもいいから知りたかった。この部屋に彼女の心を見つけなければ気が済まなかった。
モノトーンばかりの服。畳んである状態でも、凝ったデザインには無縁のものばかりだとわかる。一段を埋めている白い木綿の服にどきりとする。さっき着ていたものの、たぶんスペアだ。毎回捨てているのだろうか。嵐に繋がってしまうことを恐れて。作り付けの収納は二段に分かれていて、下には彼女が言った通りに布団がおさまっている。シーツも布団カバーも模様のない生成色だった。ここでも、意図したようなシンプルさは共通している。上段にはティッシュやゴミ袋、日用品のストックが整頓して置いてある。百均のヘアゴムとアメピンがたくさん入った箱が、妙に目立つところにあった。それから、学校に来るときにいつも持っている黒いリュックサック。
キッチンに移動して冷蔵庫を開ける。自炊はしているらしい、卵と牛乳、にんじん、葱、それから鶏肉のパックと、常備菜なのかタッパーがいくつか。冷凍室には食パンと白ご飯、レンジ調理ですぐ食べられるパスタ。流しの上の棚には食器と常温の調味料なんかが置いてある。ティーバッグにインスタントコーヒー、砂糖に塩、カップ麺。食器はどれも白くて、ただ皿であるとかカップであるとか、役目のためだけに作られているようなものばかり。逆にどうやって見つけたんだろうと思う。百均のものでも、もう少し飾り気があるんじゃないだろうか。
隅のほうに押しやられて、何か銀色のものが覗いている。引っ張り出してみると鍵だった。ストラップも何もついていないけれど、形からすると彼女の持っていたものと同じで、スペアキーに違いない。
これがあれば外から施錠できる。たとえ彼女を追いかけていっても、家を無防備なまま放り出すことにはならないだろう。誰のものでもありえそうな、個性の脱臭された部屋が悲しい。それでもにじみ出る生活感が痛い。八木さんがたった一人で戦っているのに、私は、私たちは何も知らないで家に閉じこもって、実際には大した危機感もなく習慣として怖がっている。
私は許せるだろうか。学校で八木さんに、顔見知り程度の学生同士として会って、何もなかったみたいに今までと同じふるまいをすることを。彼女の言う通りに安全圏に戻されてしまうことを。わからない。隣に立つ人を求めていないって、本当に?
思いかえすほどに八木さんの瞳はほの暗く感じられて、唇に重すぎる決意を想像させられてしまう。あんな場所で孤独に立つには華奢すぎる手足。薄い布のワンピース、どんどん冷えていく指先。怖かったのに、ずっと後ろから見ていたのに、嵐のなかの光景はだんだん像を結ばなくなっていく。漠然としたイメージだけが胸にわだかまって重苦しい。
影、そう、深くて暗いところ。何を聞いて何を見たのか、具体的な部分から消えていく。言葉にならないイメージの断片に分解される。忘れてしまう。指先をすり抜けて、八木さんと共有した時間を失ってしまう。助けてくれたのに。文字通り命をかけて。
限界だった。座っていることも立っていることもできない。自分の鞄から使えそうなものを探す。キャンディがいくつか、それから折り畳み傘。どれほど使えるかは微妙なところだけど、ビニール傘が剣になるのだ。やりようはあるはず。玄関のチェーンに手を伸ばす。外す。鍵をそっと開ける。体一つ分ドアを押しておもてに出る。
そこはただの夜だった。ほっとしてあたりを見渡す。八木さんはどこに行ったのだろう。
公園のなかに動くものがある。色は白っぽくて、目をこらせばちょうど小柄な人影のように見えた。コンクリートの階段を駆けおりる。公園にはまだ、白くゆらめく誰かが歩いている。もう少しで追いつけると思ったときに足元の影が一気に濃くなった。
闇を払う剣をたずさえた八木さんの視線に射すくめられる。ふんわりと広がるスカートに細い腰、過剰なまでにあしらわれたリボンにフリル。ピンクにラベンダー、空色、光り輝くヒロインの衣裳。幻想的ないでたちに似合わず、彼女はこの上なく険しい顔をしていた。
「どうして、来ちゃったんですか」
「私も、一緒に行きたい。そばにいたい。独りでなんて、寂しすぎるよ。私が嫌なんだ。放っておきたくない」
「駄目なんだよ」
どうしてわかってくれないの、と彼女は呟いた。濡れた瞳に星がいくつも宿っている。
「関わるのはもうどうしようもなくなった人だけでいいんだよ。友達も恋人もいるんでしょ? 大切にしなよ。悲しませたりしないでよ。捨てるなんて馬鹿だ。なんでそれがわからないの」
「助けてくれたから。でもそれだけじゃないよ。八木さんのことが気になる。私だって八木さんを助けたい。力になりたい」
「私は、頼りたくなんてない」
剣を握る手をわななかせて彼女は言い切った。薄氷のような声だった。
「目の前で失うくらいなら他人のままでいい。もう後悔したくないんだよ。よく知らない人のままでいてよ。責任はちゃんと取るから。私がわがままで来てしまったこの町を、見捨てたりなんかしないから」
「私……」
「帰って。食器のところに合鍵、あったでしょう。持ってる?」
「……うん」
「ならよかった。ここを出たら急いで部屋に戻って。今夜だけは泊めてあげる。だけど二度と関わらないで」
「学校でも駄目なの?」
「言ったはずだよね。誰とも親しくするつもりはないって。理解なんてしなくていいよ。なんでも持っていて、しかもその価値に気づいていないようなあなたには絶対にわからないから。黙ってぬくぬくと守られていればいいんだよ」
八木さんは剣を置いた。空になった両手で髪を留めているピンを次々に抜いていく。引っかかったおくれ毛が顔のまわりに落ちる。ひざまずいて、土にピンを刺していく。一本、二本、三本、四本。最後のひとつをつまんで宙を掻く。世界が裂けた。奥に覗くのは当たり前の夜だ。褪せた色のアスファルト、白々とした街灯に、扉を閉ざした家やアパート。
八木さんは手で裂け目を広げる。細かったすき間が人ひとり通れるくらいになった。
「ほら、早く」
背中を押された。掛ける言葉も、もう思いつかない。コートごしに触れた手のひらからでさえ、拒絶がにじんでくる気がした。
もとの世界に足を踏み出す。唇を噛んで、振り返らずに八木さんの部屋まで小走りに戻る。鍵を挿すときに指が震えた。玄関に滑り込んで施錠して、やっと深く息を吐く。胸がずきずきと痛むのは、酸素が足りないからじゃない。
届かなかった。私を私という個人として見てもらうことさえできなかった。顔も名前も知らない町の人と同じ枠のなかに入れられて、一歩も踏み出すことは叶わない。
手を洗って、鍵を元の位置に戻して、主不在の部屋に座り込む。彼女が淹れてくれた紅茶はすっかり冷たくなっていた。マグカップを手のひらに包んでみても、つるりとした陶器は安心を与えてくれない。そっと唇をつける。香りも薄らいで、ひどく渋い。
時間をかけて飲み下す。彼女が帰るまであとどれくらいだろう。閉めきったカーテンに光が差す気配はない。外は静まり返ったままだ。カップを念入りに洗う。ほかにすることがない。夜が明けてしまえば私たちは他人になる。親しくなることも、名前を呼び合うことも永遠にないと宣言されてしまっている。
床に丸まって目をつむる。散らばる金平糖が、躍動する小さな身体が、振り回される剣の軌跡が瞼の裏をよぎる。逃げないように記憶をつかまえたくて、だけど思いかえすほどに細部から崩れていく。私は結局忘れてしまうのかもしれない。彼女が戦っていることも、彼女が助けてくれたことも、どこか痛々しい拒絶も。それでも私以外は異層嵐と彼女の関係すら知らない。投げ出していた手を胸の前に集めて、胸の前で自然と祈りの形になる。
外は嵐なのに、彼女は迷わず出ていった。小さくて冷たい手を取りたかった。私が彼女の支えになりたかった。うぬぼれかもしれないけれど、そのくらいはできるんじゃないかって思っていた。
失うくらいなら最初からなくてもいいと彼女は言った。恐怖も寂しさもないわけがないのに。経てきた喪失を思い描くことはできない。私は彼女の何を知ったわけでもない。具体的に願うことも許されなくて、私はただ漠然と祈る。もっと強かったら、拒絶さえ押しやって一緒に戦えたのだろうか。もっと思慮深かったら、傷つけずに話せたのだろうか。
色のない部屋によこたわる。聞こえるわけもない彼女の声を、まだ耳は探している。
外は嵐なのに 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba
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