ex2 大地のはなし
「大地くんって、モラルある釣り人みたいだよねー」
大学生の頃、短いあいだつきあっていた子に言われたことがある。
「つりびと?」
大地は呆けた顔をしたはずだ。だって釣りなんてしたことない。
「キャッチ・アンド・リリース」
彼女はやたらきれいな発音で言った。ご丁寧に魚を釣り、川に戻す仕草もつけて。
「大地くんとつきあった子、みんな別れるとき前よりきれいになってるって聞いたことある。すごいね。大地くんの社会貢献がすごい」
「……べつに社会貢献したつもりはないけど」
でも、その子も結局数か月つきあったあと、わたしもっと大地くんにつりあう女になる、とかなんとか言って去っていった。つりあうもなにも、最初からちゃんとしていたと思う。数年後にその子自身から、語学勉強のために留学した先で出会った彼氏と結婚したという報告をもらった。添付された写真には、ウェディングドレスを着た元カノが弾けんばかりの笑顔で旦那とピースサインをしている。ちなみに当時の大地は、ブラック企業から逃亡するべく転職活動の真っ最中でへとへとだった。
釣った魚とやらを川に返したら、自分はヘドロ沼に沈んでいた気分だ。
しかも魚のほうは龍になって空からゆうゆうピースサインをしている。
これが社会貢献……なのか?
複雑な気持ちに駆られつつ、とりあえず、おめでとう、とメッセージを返した。
こっちがヘドロ沼に沈んでいたって、結婚がめでたいことには変わりない。
「総務部の芹澤さん、結婚するらしいって聞いた?」
外回りから帰ってきた大地が給湯室でコーヒーを淹れていると、経理部の同期が声をかけてきた。「ああー」と大地はうんでもううんでもない返事をする。もう話題になっているのか。
「しかも相手が営業部の深木。芹澤さん、かわいいのに見る目ねえなー」
爽は社内恋愛はしない主義だそうだけど、むやみやたらに女性社員を落としまくっていたため、あいつさえいなければ、と思っている男たちは多い。下手なことを言うとやりこめられるので、表だって何かを言う奴は少ないけれど。
「見る目ないってこともないんじゃない?」
「そうかあ? 絶対、うっかり子どもができたとかだろ。あいつ、じゃなきゃ結婚なんてしなさそう」
「そうかな」
大地は三分待ったペーパーフィルターをマグカップから引き抜いた。
その絶対結婚なんてしなさそうな男を会社からだいぶ離れたジュエリーショップで見かけたのはつい先日のことである。
大地が通りがかったのは偶然だった。外回りを終えて直帰しようとしていたら、ショーウィンドウを外からじっと偵察している同僚を見つけたのだ。
「なにしてんの?」
深く考えずに声をかけてしまうのは大地のわるい癖だ。
声をかけたあと、ショーウィンドウに飾られているのがジュエリーだときづいた。爽は思いきり肩を跳ね上げたあと、大地を振り返った。このときにはもういつもの深木爽に戻っていて、動揺したそぶりは見せない。でも、不機嫌だった。
「大地こそ、なんでこんなとこいるんだよ」
「偶然通りかかっただけ。深木、宝石買うの?」
訊いたあと思いついて、「ああ」と大地は顎を引いた。
「芹澤さんに買うとか?」
「買わない。帰る」
仕事をするうえではだいたい落ち着きはらっていて、ふてぶてしい部類の爽だが、ときどきこういう子どもっぽいところがある。べつに、買うつもりだったなら入ればいいのに。大地は気にしないし、会社の人間に言いふらしたりもしない。爽が見ていた場所に目を向けると、シンプルなタイプの婚約指輪が飾ってあった。
「指輪って一緒に相手がいたほうがいいと思うけど」
「は?」
「サイズちがったら大惨事じゃん」
「はかってるから、寝てるときに」
「え、定規で?」
「メジャーに決まってるだろ」
真顔で爽が言い返す。
その絵面が思いのほかはまって、大地は噴きだした。
――あれから数か月。
どうやら無事サイズの合った婚約指輪は買えて、プロポーズも済んだらしい。とくに詮索はしないけど、大地と日魚子が別れたあと、日魚子と爽がそうなったのは知っていたし、あれからもう二年が経つが、別れたというはなしも聞かなかったから、相手は日魚子なんだろうなって思っていた。同期の話を聞いて最初に思ったのは、やっぱりな、だ。
となりでぶつくさ言ってる同期に、ジュエリーショップのまえでうろうろと婚約指輪を見繕ったり、寝てる彼女の指をメジャーで測ってたりする深木爽のはなしをしたら、結構好感度が上がるんじゃないかと考えたけど、やめた。爽がそういう自分を絶対ひとに見せたくなくてがんばっているのを知っている。
大地のほうは
もともとひっきりなしに彼女がいるタイプでもないから、これくらいがふつうである。べつにずるずる引きずっていたわけではないと思う。というのか、大地は結構早い段階で、なんとなくこの子とはうまくいかない気がする、と予感していた。そのときははっきり自覚してたわけじゃないけど、あとから考えるとそうだった。
芹澤日魚子は大地にとって、ちょっとふしぎな女の子だった。
かわいいんだけど、それだけじゃないかんじ。声が甘くて弾むようで、表情豊かで、すきだってまっすぐ伝えてくる子で、だけど、それなのにつかみどころがない。そういうアンバランスさも含めて、大地は日魚子に惹かれたのだと思う。日魚子のはなしを聞きたかったし、日魚子のことをもっと知りたかった。
結局、あんまり聞けずに終わっちゃったけど。
「――大地くんじゃん」
仕事終わりにときどき寄る日本酒バーでひとり飲んでいると、となりに見知った女が座った。
二年前、合コンと奥飛騨温泉郷で二度だけ会った女だが、あのあとも数か月にいっぺんくらいバーで居合わせる。一度だけ、奥飛騨温泉郷で彼氏役をやったお礼におごる、と言われて連れて行ったのがこのバーだったのだ。
以来、美波もここの常連客になったらしく、タイミングが悪いと鉢合わせてしまう。とくに会いたいとは思わなかったが、美波のために大地が気に入りの店を変えるというのもちがう気がして、放っておいている。
「今日、元気ないね」
美波は結構鋭い。
「そう?」と大地は冷酒に口をつけつつ流した。
元カノが結婚するんだから、さすがに上機嫌ではない。
別れて二年が経つし、いまさらへこんだりもしないけど、やっぱりあのときもっとああしていたらちがったのかな、とか、別の未来とか、考える。ふんわりと。
「わかった、ふられたんだ?」
日本酒とつまみを何品か頼むと、美波が言った。今日の美波はベージュのリボンタイのブラウスに、小ぶりのパールのピアスをつけていた。出会った頃よりほんのり落ち着いて見えるのはメイクの加減か、この場所の雰囲気のためか。
「ふられたの、もうだいぶ前だけど」
「え、まだ引きずってるの。きも」
ほんとうに気持ち悪そうに美波が顔をしかめた。
大地はいぶりがっこをぱりぽり食べる。
「さすがに引きずってはないけど、考えない? あのとき、より戻せてたら結婚してるの俺って未来もあったかも、とか」
「えー。考えないなあ」
美波は顎に手をあて、きっぱりと言った。
「こいつとはもう無理―って思うから別れるんだし。あーあのとき別れておいてよかったあ、とかはあるな」
「だれとつきあったら、そういう考えになるんだ……」
「深木くんとか?」
いじわるい顔をして、美波は流し目を向けた。
そういえば、美波は一時期爽とつきあっていたんだった。というか、絶対爽と日魚子が結婚するのを知ってて言っている。情報が早い。美波のまえで無防備にぼやいてしまったことをさっそく後悔した。自分から酒のつまみを提供するようなものだ。
「大丈夫。芹澤さんと大地くん、より戻しても絶対どこかで別れてるし、結婚しないよ」
「もしかして、いま慰めてる?」
「慰めてないよ。ただそうなるってはなし。大地くんは相手が自分に気持ちないなって思ったらすぐにリリースしちゃうでしょう? 無理に引き留めない。絶対、別れ話でこじれないタイプ。ちがう?」
美波のこういうところが大地は苦手である。
愛らしい顔でぐさぐさ胸を刺すことを言ってくる。ちがう、と言いたいけど結構当たっている。だから言い返せない。大地は目をそらした。美波はにこにこわらっている。性根がわるい。
「……別れ話でこじれたことは確かにない」
「わたしもないけどね」
「土屋さんはされるんじゃなくてするほうでしょ」
「うん。でも最初からずるずる長引きそうなひとは選ばないの」
「心が動くからつきあうんじゃないの?」
美波のわりきりは大地には不可解に映る。
「心ねえ……」と美波はカウンターに頬杖を倒した。猫が伸びをするような姿勢。
「じゃあ訊くけど、心ってなに? 胸がどきどきとかそういうはなし? わたしは、あーこのひととなりにいたら周りのやつらに自慢できそうーとかで選ぶな。心は動いてるかも。自慢できそうーとかいう意味で。ちなみに大地くんには心動かないな」
「ああ、俺も土屋さんには動かないから」
大地としては素直にうなずいただけなのだけど、美波は若干機嫌を害したらしく眉をひそめた。
「え、芹澤さんは心動いたのに、わたしには動かないわけ、心?」
「そういうもんでしょ」
ふーん、と美波は口をへの字にしてスパークリングを手に取った。
「大地くん、やっぱり芹澤さんとより戻しておけばよかったんじゃない?」
「さっきと言ってることがちがわない?」
「だって、わたしだったら、あの手この手を使って離さないなー。深木くんと争うんでしょ? 楽勝じゃん。あの子におまえはふさわしくないくらいは言うな。客観的に見ても、遊びすぎでしょあいつ」
美波は好奇心まるだしで、口の端を上げた。
「ね、やらなかったの、そういう修羅場」
「……やらないでしょ、ふつう」
呆れて嘆息する。
正直に言うと、一度もそういうことを思わなかった。というわけじゃない。
奥飛騨温泉郷のあと、爽が大地のアパートを訪ねてきたときとか、なにしにきてるんだろ、こいつ、とはちょっと思った。おまえも日魚子が好きなら、日魚子と大地がくっつくようにたきつけるなよな、とか。すごくいい迷惑である。大地も大地で見事に日魚子に落ちるし。日魚子もはじめは大地がすきだって言っていたくせに、知れば知るほど、心がちがうところにあるようだし。そして、日魚子の心を占めてるのはこいつなんだろうなあってわかっちゃう自分がいやだ。
でも、当の爽本人は日魚子を庇うのに一生懸命で、大地のそういう複雑な気持ちとか、いたたまれなさとか、苛立ちにはぜんぜんきづいていない。爽は結構ばかだ。それでも、こいつがここに来るのにむちゃくちゃ勇気が要ったことがわかっちゃうし、途中でなぜか泣くし、絶対誰かのまえで泣くの嫌がりそうなのもわかっちゃうから、結局大地のほうが負けてしまう。もう負けでいいやって思ってしまう。喧嘩は先に戦意喪失したほうが負けなのだ。
「というか俺が嫌。そういうの」
「大地くんは善いひとだなあ」
「……善いひとじゃあ、ないよ」
なんともいえない苦い笑みがこぼれる。
「そうだね」
そんなことないよ、というお決まりの慰めを美波は口にしなかった。
「君はすこし忍耐力があるだけのふつうのひとだよ」
「それ嫌味?」
「んーん。わたしは大地くんがそこにかけているコストがわかる。善いひとで済ますのは不敬というやつ」
美波はクリームチーズをのせたいぶりがっこをつまんだ。
振り返って、くすっとわらう。
「今心動いた?」
「うーん、人間的な意味でなら」
「人間かあー」
美波は残念そうである。
急にまともなことを言い出すと思ったら、さっきの心が動いただのなんだのが尾を引いていたらしい。執念深い。……それとも、ただの負けず嫌いなのか?
「土屋さんは人間力、意外と高いよね」
「ひとを見てるの、すきだからね」
「でも、誰も掬い取ろうとしないの、もったいない」
「見てるのがすきなのであって、ひとがすきなわけじゃないんだよ」
美波は箸を置いて、会計を呼んだ。
カードで支払いを待っているあいだ、くりっとした眸が意味深に眇められる。
目が合うと、美波はつん、と大地の腕をつついた。
「このあと、二軒目、どっか行く?」
「いや、結構です」
即答した。
コンマ一秒も迷わなかった。
「つっまんない男ー! そこは乗っておけよ、くそまじめ」
「だって君のこと、ぜんぜん好みじゃないんだよ」
「わたしだって君なんか好みじゃないけど、芹澤さんには勝ちたい」
「こだわるね、そこ」
思わずわらってしまい、大地は追加の酒を頼んだ。
さすが引き際がはやいというか、美波はもう大地を誘ってこなかった。あーあ、とぶつくさ言いながらコートを羽織っている女の横顔に目を向ける。正面から見ていると、いまどきのフェミニンな女子なのに、横顔だと印象が変わる。尖った透明な硝子みたいだ。
「――さみしくない? そういう生き方」
また深く考えないで口にしてしまった。自分のわるい癖だ。
案の定、美波は整った眉をきりきりと吊り上げて、何かを言いかけてから――最高に意地のわるい顔をした。
「その言葉、そっくりそのまま君に返すよ」
言われてはじめて自分の状況を思い出す。
元カノが結婚。ひとりで居酒屋。大地のほうは恋人どころか、そんな予感のする相手すらいなくて、帰宅したら待っているのは半日ぶん空気を澱ませた部屋とこたつでぐうすか寝ている飼い犬だ。
確かに自分のほうがよっぽどさみしい男だろう、少なくとも世間的には。
「いま、ちょっとムッとしたでしょ」
「したね。そうかもしれないけど、おまえが言うなって思った」
「そういうこと。言われて嫌なことはひとにも言わないようにしよう」
華麗に逆襲を決めた美波はふんと息をつき、「じゃあね」とドアに手をかけた。
「大地くんにはもう会わなそうだけど」
「そう言いつつ、どうせまた会うんだろうけど」
運ばれてきた酒を持ち上げ、大地はうんざりと言う。
「もう絶対会わない」と顔をしかめて美波は捨て台詞を吐いた。
がちゃんと勢いよくドアが閉まる。遠ざかる迷いのない足音を聴きながら、まあでもどうせまた会うんだろうな、と大地はちょっとわらいつつ肩をすくめた。
病的な恋のロンド 糸(水守糸子) @itomaki
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