ex1 日魚子と爽のはなし (2)

 休日の水族館は子どもから大人までかなりにぎわっていた。

 近くにスカイツリーがあるからかもしれない。そういえば、上京してすぐに爽を引っ張って東京タワーにのぼったことはあったけれど、スカイツリーのほうには来たことがなかった。

 今日の日魚子は、白のブラウスにミントグリーンのキャミソールワンピースを重ねている。それに編み上げサンダル。爪にはレモン色を挿し色にしたネイルを塗った。爽が隣室ではなくなって唯一よかったこととして、外で待ち合わせができる、というのがある。なんだかデートっぽくて日魚子はテンションがあがる。

 水族館の照明を落とした展示室を並んで歩く。

 大小の水槽にふよふよと透明なクラゲが漂っている。なんだか種類がいっぱいいて楽しい。ミズクラゲ、アカクラゲ、ビゼンクラゲ。

「クラゲ、かわいいなー」

 広い水槽に手を置いた日魚子は、「あの子」と爽の袖を引っ張って促した。

「みんながいるとこから離れて漂ってる子、かわいい」

 爽はなぜか軽く目を瞠らせた。

 それから、「どれ?」と尋ね、日魚子から水槽に目を戻す。

「ねえ、いまなに考えたの?」

「え?」

「へんな間あけたじゃん」

「あー。似たこと言うやつが前にいたなって思い出しただけ」

 日魚子は頬をふくらませた。

「それ絶対、前の彼女でしょ」

「ちがうよ」

「ほんとうかなあ?」

 疑い深げにのぞきこむと、「ほんとう」と言って額を押される。

 このはなしはもうおしまいにしたいらしく、爽はクラゲの解説を見上げた。あからさまにわざとらしいので、逆にちょっとかわいく見えてわらってしまう。

 ――手をつなぐだけでどきどきしたり、赤くなったり?

 ないだろう、絶対に。

 でも、爽と手はつなぎたくはなった。爽の指先は細くてきれいで、絡めたらたぶん日魚子よりもすこしつめたい。何気なさを装って手を伸ばすと、「……やべ」と解説から目を外して爽がつぶやいた。

「どうかした?」

「いま、新庄しんじょうさんがいた。奥さんと」

「え、ああ、営業部の?」

 営業部の新庄といえば、爽が仕事で組んでいる三十四歳の主任だ。前にダンボール積み込みまちがえ事件で、埼玉の展示場まで車で向かったときにもいたから、日魚子もよく覚えていた。

「あのひとわるいひとじゃないけど、会うと面倒くさい」

 日魚子の腕を引いて、爽がクラゲゾーンから出ようとする。

 だが、混んでいるせいですぐに抜けられないうちに「あっ、タコクラゲ!」という声がして、新庄の奥さんらしきひとがこちらを指さした。日魚子の背にある水槽でふよふよ漂っていたのはちょうどタコクラゲである。

「あ」

「あ」

 奥さんのとなりにいる新庄と、日魚子と爽、三人の目がばっちり合った。

「あれ?」

 きょとんとして日魚子と爽を見比べた新庄は「えっ、えっ」とこちらを交互に指さし、「ええー!」と大声を出した。奥さんらしき女性が「ちょっと豊くん、うるさい」と顔をしかめる。ストレートの黒髪がきれいな、明るい雰囲気の女性だ。

「いやだってさあ」

「知り合い?」

「同じ部署でお世話になってます。深木です」

 新庄が何か言い出すよりまえに爽が会釈した。

「いちおう、結婚式でも一度挨拶したことがあるんですけど――」

「ああー、深木くんか! あのかっこよかった後輩の子!」

 結婚式の参列者ってかなりの数がいると思うけど、そこで新婦の記憶に残るあたり、さすが爽である。

「じゃあ、こっちの子も……」

「芹澤さんは去年入社だから、俺らの結婚式には来てないよ。ていうかさあ!」

 うるさいと言われたのに、新庄はまた大きな声を出した。

「芹澤さんまでこいつの毒牙にかかっちゃったの? 俺、芹澤さんだけは絶対ないと思ってたのに……いい子だし……なんで女子って皆こいつを選んじゃうかなあ?」

 悲壮な表情をして、めそめそとつぶやく。いい子って言ってくれているけど、日魚子のほうは新庄とあまり話した記憶がないので、なぜ過大な期待をかけられているのか謎だ。

 えーと、と返答に困っていると、

「あー、芹澤さんの彼氏、別のとこにいますよ」

 と爽が言った。

「えっ、どこに!?」

「……そのへんに」

「どこ!?」

 きょろきょろとあたりを見回す新庄に、日魚子は引きつった笑みを浮かべる。

 いや、ここにいる。

 いるだろう彼氏、ここに。

「え、じゃあおまえは何してんの?」

「そのへんに彼女が」

「どこ!?」

「……彼女とはぐれたら偶然芹澤さんに会っただけですよ」

 新庄に対して、爽がそういう説明をするのはわかる。このひとはプライベートのことを同僚にあれこれつつかれるのがすきじゃないのだ。

 でも、となりに日魚子がいるのに、彼女がいない扱いをされるのはむかむかする。

 べつにいいじゃないかって思う。芹澤日魚子と深木爽がつきあってても。どこもおかしくない。女の子をとっかえひっかえする悪名高い男が彼氏で、日魚子の見る目がないように見えたってべつにいいじゃないか。日魚子はぜんぜんかまわない。

「なんだ、そっかー」

 もともと単純な性格なのか、爽の適当な説明を新庄は信じたらしい。

「こいつ、いいやつだけど、つきあうのだけはやめたほうがいいからさあ」

「あーそうかもしれませんね」

 イライラしているので、日魚子の返事は雑になった。

 水族館なんて来るんじゃなかったって、早くも後悔する。いつものように家にいたら、こんな風に誰かに会って嫌な思いをしたり、爽にむかついたりしないで済んだ。どうして慣れないことをしようと思ってしまったのか。

「芹澤さんの彼氏ってどんなやつなの?」

 なんとなく四人でそぞろ歩きつつ、新庄が尋ねた。

「わたしの彼氏ですか」

 日魚子は爽を横目でにらんだ。

「なんかへんな嘘つきますよね。意味ないやつ」

「へ、へー?」

「あと基本ひねくれてますね。素直じゃないっていうか。口も悪いし、手も結構すぐ出るし。あ、女子は殴らないですよ。でも機嫌悪いと態度に出るし、八つ当たりとかしてくるし」

「そいつ、ほんとうに芹澤さんが好きなひとなの……?」

「ああ、でも料理はうまいです。短時間でよくさっと作るなって感心する。掃除好きだし、いつも部屋きれいなの、えらいなって思います。あと寝顔が隙だらけでかわいいです。すきですよ。ときどきだいきらいだけど」

 息を吐くと、「すいません、引き留めてしまって」と日魚子は新庄に頭を下げた。

 にこやかに微笑を浮かべているつもりだったが、ただならぬ気配にのまれたのか、「こ、こちらこそ……」と新庄は声を小さくした。ほんとうはもう溜飲が下がったし、「じゃあ」とそこでわかれるつもりだった。じゃあわたし、そのへんにいる彼氏探しにいくので。――でも、だめだった。

「そうちゃん、きてっ!」

 爽の手を無理やり引っ張って、歩きだす。

「えっ、そうちゃんって、えっ?」と戸惑う新庄の声が後方から聞こえた。けれど、もう振り返らない。知らない。

 さすがに日魚子の手を振り払いはしなかったが、「なんだよ、いまの」と爽が不機嫌そうにつぶやいた。日魚子はその手をぎゅっと握っている。恋人つなぎじゃない。子どもみたいな引っ張り方だ。はじめのクラゲゾーンですでにぜんぶめちゃくちゃで、眦に涙がにじんでくる。

 唇を噛んで、「いいじゃない」と日魚子は低い声を出した。

「なんで隠さなくちゃならないの。そうちゃん、わたしが彼女だといやなの?」

「……そういうはなしはしてないだろ」

「じゃあ、いいでしょ。わたしの彼氏、そうちゃんだもん。そのへんにいるひとじゃないもん。どうしてそのへんにいるひとにしちゃうの!?」

 ほんとうはわかっている。

 爽は自分を守るために適当なことを言ったわけじゃない。日魚子がとやかく言われるから、その場しのぎの嘘をつくのだ。でも、べつにいいじゃないかって日魚子は思う。日魚子が誰とつきあっても、それが悪名高い深木爽でも、日魚子は爽の格好悪いところをたくさん知ってるし、やわらかなところもたくさん知っている。あいつばかだな、見る目ないなって思われたって、そうちゃんがいちばんいいんだって誰に対しても言える。

「なんで泣くんだよ」

「泣いてない」

「……わるかったよ」

 途方に暮れたような声を爽は出した。

 日魚子が一方的に引っ張っていた手をそっと握り返す。

 いつの間にかクラゲゾーンを抜けて、天井まである大きな水槽のまえに立っていた。振り返ると、ばつがわるそうに下方に視線を落とす爽が見えた。

「さっきのは俺がわるかった」

「……わたしの彼氏、ここにいるでしょ」

「いるよ」

 観念したように爽が言うので、「ならいい」と日魚子は言った。

 それですこし落ち着きを取り戻して、ごめん、と謝る。

「『そうちゃん』って、おっきい声で新庄さんのまえで言ってしまった……」

「まあ、もうどっちでもいいけど」

「ときどきはきらいだけど、いつもだいすきだよ」

 手を握り直して、大きな水槽を仰ぐ。

 ゆうゆうとマンタが青い水のなかを泳いでいる。銀色の魚の群れが眼前で折り返して後方に過ぎ去る。爽が口をひらく気配がしたけれど、結局言葉はかえってこなかった。ただ思ったより熱い指が絡んできた。

 爽の指はほっそりと長くて、いつもきれいだ。前はただきれいだと思っていた手とこうして手をつないでいる。きれいというよりは、あたたかいと思う。しあわせの波がひたひたと満ちてくる。なんだか無性に泣きたくなる。ほんとうはこのあと、おしゃれなレストランに行きたいなとか、夜景が見れたらいいな、とか思っていたけれど、ぜんぶ、どうでもよくなってしまった。ただ、ずっとこうしていたいなあって思う。ずっとこうして、手をつないでいたいなあって。十年後も、二十年後も、もっと先も。

 ――などと思っていたら、ほんとうにふつうにごはんを食べて夜景も見ずに帰ってきてしまった。

 マンションの前の外灯は最近切れがちで、ちかちか点滅している。

 いつものようにエントランスまで送ったところで、爽の手が離れそうになったので、「帰るの?」と日魚子は訊いた。

「帰らないでいいよ」

 後ろから手をつかむと、爽が振り返った。目が合う。相手の眸の奥にも、自分とおなじ、じりっとした熱を感じ取って、日魚子はすこしほっとした。

「今日、勝負下着だし。見たい?」

「しょうぶしたぎ。ってほんとうに言う女にはじめて会った」

「勝負してないことが多くて、ただの下着になりさがるとこでしたよ」

 大仰に息をつくと、日魚子は爽と手をつなぎ直した。

 自分より背が高い男にこそっと耳打ちする。

「あのね。えろいのと清楚なのがあったんだけどね、清楚なほうにした」

「ふうん。そっちのほうがすきなの?」

「だって、そうちゃん絶対わらうじゃん……」

 すでにわらっている男を軽く睨んで、日魚子はマンションのオートロックを解除した。


 ・

 ・


 枕元に置いた水時計をひっくり返す。

 上下に別れた四角い水槽のなかで、こぽこぽと青い水が下方へ落ちていく。ぜんぶ落ちてしまうと、日魚子は時計をまたひっくり返した。水族館のおみやげ売り場に並べてあったものだ。誕生日祝いになんでも買ってくれるというので、じゃあこれがいいといちばんちいさいサイズを買ってもらった。子ども用のおもちゃみたいなそれをひっくり返して遊んでいると、首の後ろにあった手が離れた。

 胸元で揺れるそれに目を向ける。

 曲線を描くヘッドに淡い水色の石がついたシンプルなデザインのネックレスだ。

「うわあ、かわいいー。これ何の石?」

「ラリマー」

「どんな意味があるの?」

「忘れた」

「えー、ほんとうは覚えてるでしょ」

 身を起こすと、日魚子はとなりで寝ている男に呆れた目を向ける。

 べつに水時計が誕生日プレゼントでよかったのだけど、爽はちゃんと別に用意していた。ちなみに日魚子はおいしい日本酒しか準備してなかったので、若干後ろめたい。爽と日魚子の、あっさり変えられる部分となんだか変えられない部分はそれぞれ微妙にちがうようである。数年もすれば、引きずられたり、自分が引っ張ったりしながら次第に凸凹も埋まってそれらしいかたちになっていくのか。

 手元に鏡はなかったけれど、淡い石の色は日魚子がすきなものだった。穏やかなときの海の色みたい、と思う。新潟の港町で育った日魚子はやっぱり海を連想させるものがすきだ。

「そうちゃんは、わたしの裸体には興味ねえんだよってやつかと思ってた」

 カーテンのあいだから射し込む遠方のビルの灯りが、爽の背中に波のような模様を描いている。零時をすこしまえに越えていた。街は寝静まっていて、ときどき走り去る車の音以外、外は静かだ。

「はあ? なんで?」

「ぜんぜんしなかったから。そうなのかなあって」

 爽は瞬きをして、日魚子を見た。

 なにかを口にしかけてから、ためらった風に視線をよそにやる。

「それはないけど。……日魚子にいやがられたらどうしようかと思って」

「え、どうして?」

「俺はおやじに似てるから、生理的に無理かも……しれないし」

「そんなこと考えてたの?」

 日魚子にすれば、思いもよらないはなしだ。

 清文に似ている? そんなことを爽はずっと考えていたのか。

 爽は自分のことをあまり口にしないから、ぜんぜんわかってなかった。そういえば以前、風邪をひいてまちがえてキスしたときも、日魚子がそこにいるってわかると、爽は異常なくらいおびえてこわがっていたけれど。……そうか、とふと腑に落ちた。このひと、そんなことでずっと苦しんでいたのか。

「わたし、そうちゃんのおとうさんの顔、もうほとんど覚えてないけど」

 だって、あのひとがとなりに住んでいたの、九歳の頃だ。

 日魚子と爽は今年二十七歳になった。もう十八年前のことなのだ。

「もうずっと、あなたはあなたでしかないけど」

「……え、そういうもん?」

「そんなもんだよ」

 呆けた顔をする爽に、日魚子は微笑んだ。

「ふふっ、深木くんは奥手でかわいいですね。水城さんに言っておこう」

「水城さん?」

「相談にのってもらったんだよ。……でもやっぱり言いたくないな」

 かわいいという表現が気に喰わなかったのか、爽にこめかみのあたりをぐりぐりされる。あまり痛くない。甘えるように手に頬をくっつけると、腕を引かれて唇が重なった。ああ、やっぱり言いたくない。よそでは隙がなくて完璧で悪名高い男がとてもかわいいのは、日魚子だけのひみつにしていたい。口の端に笑みをのせると、手のなかの水時計を押しやるように倒して、日魚子は爽の首に腕を回した。

 腕に満ちたあたたかさは、子どもの頃遊んだ故郷の海に似ていた。



                             Fin.

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