叶わぬ願い

烏丸千弦

“垂乳根の ありていさめし ことのはゝ”

 あれはいくつの頃だったろう。手を引かれ、大勢の人が往き交うなかを歩いた、七夕の夜。


 髪をおだんごに上げ、流水に金魚模様の浴衣を着せてもらった私は、灯籠が滲ませる淡い光に照らされた青もみじと笹飾りのあいだを、半泣きになって歩いていた。浴衣といっしょに新しく買ってもらった下駄で神社の石段や砂利道を歩いているうち、鼻緒に擦れて皮が剥けてしまったのだ。

 痛い痛い、もう歩けないとぐずつく私に、母はせっかく連れてきてやったのにとぶつぶつ云いながら、持っていた紙バッグからはい、といつも履いているサンダルを出してくれた。

 そうだった。足いとぅなるからやめとき、と云われていたのに、下駄を履くと云って聞かなかったのは私だった。むすっと膨れっ面をしたまま、私はサンダルに履き替えた。足は楽になったが、せっかく浴衣やのになんでこんなん履かなあかんの恰好悪い、なんて思い、すっかりつむじを曲げていたのだ。だからごめんなさいとも、ありがとうとも云わなかった。


 鞍馬の山に囲まれた神社は、ライトアップされた竹藪がなんだか不気味で怖かった。石段には赤い灯籠がずっと向こうまで続いていて、母は綺麗やなあと云ったけれど、やっぱり私は怖かった。

 境内で短冊を書いて飾ったあと。幼かった私は、もう帰ろうなぁ、と袖を引いて母をがっかりとした表情にさせた。ほんま、せっかく連れてきたったのに、値打ちのない子やなあ。母はそう云ったけれど、私は浴衣にサンダルというのがどうしても気に入らなくて、でも下駄を履くのは痛くて無理で、早く家に帰りたかったのだ。

 あのとき私は、短冊になんと書いたのだったか。きっとたいしてなにも考えないで、適当にそれらしいことを書いて済ませたに違いない。





 あれからもう、何年経ったのだろう。


 私はすっかりおとなになり、いい出逢いに恵まれて結婚し、子供を産んだ。離れて暮らしていた母のところには年に二、三度しか会いに行かなかったが、孫を抱かせてあげることはできた。お盆とお正月、他に予定がなければ五月の連休と、上の子が四歳になるまではそんなペースで顔を見せに行っていた。なんとなくそうしなければいけないような、義務感のようなものだった。母は孫にいろいろ買ってやったりして喜んでいたけれど、相変わらず私とはあまり反りが合わなかった。

 そして、母は二人めの子が喋るようになるのを待たずに、突然逝ってしまった。


 その後、何度か夏が巡っては過ぎていった。


 下の子が五歳になったとき、家族で近所の神社まで出かけた。七夕祭りをやっていたのだ。子供の頃、母に連れられて行ったような立派な神社ではなかったけれど、そのかわりに境内の外までずっと的屋が並んでいて、とても賑やかだった。

 甚平を着せてはいたが、足許はいつも履いているスポーツサンダルだったので、息子たちは普段と変わらず走りまわっていた。下駄など買いすらしていなかった。男の子は恰好に拘りなどまったくないようだ。私もジーンズ姿だった。息子たちは七夕だろうがなんだろうが的屋さえ並んでいればご機嫌で、渡されたお小遣いを如何にして最大限に有効活用しようかと懸命に考えながら、境内を何度も往復していた。


 篝火や提灯飾りの向こうに、たくさんの人が集まっていた。広い境内の真ん中に、とても大きく立派な笹飾りが立ててあった。その脇には短冊やペンの置いてある台があって、浴衣を着た小さな女の子が満面の笑みでペンをとっていた。

 振り返って息子たちを探した。どうやら家では滅多に食べられないものを選んだらしく、ふたり揃って顔ほどもあるとうもろこしに齧りついている。傍にいるパパも、イカ焼きとビール片手に楽しそうだ。私もあとでたこ焼きを食べようと思いつつ、ふらりと吸い寄せられるように笹に近づいた。


 赤、青、白、黄色に紫。願い事の書かれた短冊と、折り紙で作られた吹き流しや提灯、輪繋ぎが風にゆらゆらと揺れている。


 子供の頃の願い事ってどんなのがあっただろう。時期になると決まって学校で書かされた短冊には、テストでいい点がとれますようにとか、走るのが速くなりますようにとか、そんなおとなに受けのいいことばかり書いていたような気がする。自分の本当の願い事はなんだったのか。そんなものはなかったのか。子供の頃なんて、あったとしても仔犬が飼いたいとか新しい自転車が欲しいとか、その程度なのかもしれない。


 ――じゃあ今は? ぱちぱちと爆ぜる篝火の音を聴きながら、私は昏い空を仰いだ。少し撓りながら揺れながら、笹は天上を目指し細い梢を伸ばしている。彦星は織姫に逢えただろうか。短冊に願いを込めれば、それは本当に空へと届くだろうか。決して叶わぬ願いであることを知りながら、私はそれを短冊に託してみたいと思った。女の子が嬉しそうに離れたあと、私はその台に近づき、短冊とペンをとった。


 一年に一度だけ逢瀬が許される特別な日の、特別な願い。ひょっとしたら、叶うかもしれない。そう思ってみるのも悪くない。

 短冊に想いを込めて。高く、天まで届くように、高く。


『おかあちゃん、逢いたい。』









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〝 垂乳根の ありていさめし ことのはゝ なき跡にこそ 思ひしらるれ 〟

 ―― 新後拾遺和歌集巻 雑 前大納言為氏

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