五:
街道を駆け、大森林に踏み入り──マリスがたったひとりで王都を発ってから、3日目の朝を迎えていた。
馬に乗り、林道をひたむきに進むマリスの頭上には、今も絶えず魔原伝送線が見えている。林道の左右に果てしなく続く草木の群生と、頭上に覗くわずかな青空以外には視界の利かない道中だが、
やがてマリスの視界の端、道から少し外れたところに小高い崖のような岩場が見えた。手前にある樹木の背丈よりも若干高さがある。
あの上まで登れば遠くを見渡せそうだ、と勘づいたマリスは、すぐさま馬の鼻先をそちらへ向け、壁のような草木を強引に押し退けて進んだ。
岩場のたもとで下馬し、逃げないように手近な樹の幹に括りつける。宿場を出てから歩き詰めだったので、どちらにしても馬を休ませる必要があった。その間にマリスは岩場のてっぺんまで登ってみたところ、予想通り木々よりも高い目線から行く手を一望することができた。
見渡す限りを埋め尽くす樹木の濃緑に、張りのある朝陽が降り注いでいる。そうした光景の中、ほとんど目の前に、一際高くせりあがった2こぶの丘があった。まるで、緑の海に浮かぶ2つの孤島のように。
2こぶの内、向かって右側の丘は空に突き出したような急峻な形状で、人の気配があるようには思えない。対して、向かって左側の丘はうんと低く台地状になだらかで、頂上付近には四方八方の茂みから無数の糸が取りついた建造物が確認できた。
安堵と共にマリスは岩場を降りた。目指すのは、もちろん左手の丘の頂上だ。
再び馬にまたがり、魔原伝送線伝いに道なりに進むと、さほど時間も経たない内になだらかな長い坂道に差し掛かる。道幅が徐々に広くなり、木々や枝葉はしっかりと道の両脇に追いやられ、それなりの馬車が通れる程度の空間が確保されている。これが源炉施設に至る道だとすぐにわかった。
迷うことなく登っていけば、坂の終わりに入口らしき簡素な門構えが見えてきた。そこには長槍を手にした2名の門番らしき人影も見える。
彼らは来訪者の姿に気づいて誰何し、手持ちの槍で通せんぼを試みた。そこまではごく定型的な動作だった。
だが、間近に迫ったマリスの姿を確認するなり、すぐに顔色が変わった。
ちょうどその時、強い風が吹き込んだ。マリスの服の裾が巨大な旗のようにはためいて、その頭を覆い隠していた外套の頭巾がふわりと脱げると、金色の髪と麗しい容姿が露わになる。
下々の民衆にはありえないほど真白の肌、重ね着越しにも贅肉のなさが見て取れる細身の身体──そしてその身にまとう、朝陽を照り返すほどの極めて上質な純白の布地。それら全てが彼らの目をちかちかと眩ませた。
極めつけは、マリスがかざしてみせた腕章の形状と、そこにさりげなく巻きつけられた魅入るほど鮮やかな瑠璃色の帯。その2つこそ、『賢聖官』なる泣く子も黙る高級官吏にのみ許された高貴な装飾だ。それがわからない王国の民などいない。
何の前触れもない殿上人の出現に守衛たちは呆気にとられた。服飾を見るに、偽装にしては手が込んでいる。それに賢聖官の中には若く見目の良い女がいるという話も聞いている。だが、たった1人とはどういうことだ。
職責を果たすため、その内の1人がおずおずと申し出た。
「け、賢聖官殿? お取次いたします。ここでお待ちを」
「ご苦労、だが不要だ。自分で行く」
ほとんど無視するように先に進もうとしたマリスを、彼はなお引き留めようとした。
「あの、しかし、ここに何用で……」
マリスは彼らに聞こえるように舌打ちし、馬上から一喝をかました。
「貴様、賢聖官の特命査察を邪魔立てするのか」
もちろん出まかせだったが、「特命査察だ」と喚き出した賢聖官になおも食い下がるほど、彼らは命知らずではなかった。
だが、すっかり縮こまった2人の横を通り過ぎた時、マリスは自身のはったりに簡単に屈した彼ら守衛たちの警戒心の弛緩を感じずにはいられなかった。防備に兵を割く余裕もなく、これほどの山奥で常時気を張ることが困難なことは理解するのだが、あのサルディオ源炉もこうした緩みの積み重ねで敵の手に落ちたのだろうかと思うと暗澹たる気持ちになる。
とは言え、睡眠もそこそこに駆け抜けてきた今、執拗な尋問に付き合える気力と時間の余裕などないのだが。
検問を通り過ぎた先に現れたのは、この台地の頂上に建つ人工建造物だった。
周囲の木々に埋もれかけている低層の建築だが、本館と左右対称の分館の配置はまるで大鷲が両翼を広げたように見える。その両翼にあたる分館の最上階の窓からは、樹海に向けて無数の縄が放射状に伸びている。その1本、1本が王国各地へと至る魔原伝送線だった。
マリスもあの内の1本を辿ってここまで来たのだが、控えめに言ってもうんざりする旅路だった。陰気臭い樹木が視界を無限に埋め尽くし、誰ともすれ違うこともなく、風通しの悪い停滞した空気は死と腐敗の気配を感じさせ、日暮れの後に立ち込める闇と静寂は声も出せないほどに深い。林中で立ち休憩でもしようものなら、わけのわからない虫たちが馬にも自分にもかじりつき、幼少期を除いてほとんど誰にも触れさせたことのない肌を這いずり回った。王都育ちのマリスにとって、その不快なおぞましさは想像を絶するほどのものだった。
ただ、心底辟易していたマリスを奮い立たせたものがひとつある。勇壮な言葉や胸に秘めた執念などではない。それは森に入って以来ずっと目の前に広がっていた、もの言わぬ光景だった。
つまり、魔境のような樹海の真っ只中にも関わらず、馬で進める程度の道が続いており、小さいながらも宿場がある──ということ。
必要とあらば山谷の果てまでも道を拓き、水を引き、糸を巡らせてみせた王国土木事業の矜持と威信は、まだここに息づいている。
蚕に差し出した青葉のようにぼろぼろに領土を食い荒らされていく、今この瞬間でさえも。それが息絶えたわけでは、決してない──。
◇
厩に馬をくくりつけた後、施設の戸口まで歩くその間に汗ばんだ額をしっかり手巾で拭い、ほつれかけた黄金色の短髪を整えることを忘れない。目の奥に感じる寝不足の不快感は、眉間を揉んでも気休めにならなさそうだった。
戸口の前に立つ頃には身だしなみも整え終わる。ひと呼吸ついてから、木製の扉をかんかんと叩いた。
「どちら様ですか?」
素朴な声と同時に扉が開いて、中から娘が顔を覗かせた。小柄なマリスよりも頭ふたつ分ぐらい背が高く、長い赤髪をふわりとさせ、のどかで愛嬌のある――だが少し疲れの浮かんだ顔つきをしていた。
彼女はマリスの顔を見るなり固まりつき、目をぱちくりさせた。さらに数秒の間をあけて、ようやく「……えっ?」と素っ頓狂な声をあげた。
幸先がいいな、とマリスは思わず口元が緩んだ。目当ての人物がいきなり現れたからだ。
「ごきげんよう、フラウナ。久しいね」
フラウナ――そう呼ばれた駐在員の娘は「ご、ご無沙汰していますっ」と戸の外へ躍り出て、ぴーんと直立した。
「ま、マリス・フィリアス、……賢聖官? ……で、ですよね? ですよね! えっ、おひとり? おひとりでここまで? なんでっ? ……あっ、将軍へのご訪問ですよねっ、きっと! そこでお待ち頂いて、」
「――待って、待って、待って」
巣穴に逃げ帰るイタチのように引っ込もうとしたフラウナの腕をすばやく掴んだ。背は高いのに相変わらず小動物のようだと思った。「取り次ぎは必要ない。わたしはあなたに用があって、ここまで来たの」
「はいっ!? わ、わたしにっ!?」
落ち着かせるために言ったはずの言葉だが、フラウナの顔はみるみる青ざめ、ぶるぶると怯え始めた。「わ、わたし、何も、悪いことしてないですよ……何も……」
マリスは彼女を掴む腕に力を込めて「落ち着いて。わたしの目を見て」と命じた。
フラウナが滲んだ瞳で見つめてくるまで待った上で、マリスはうんと顔を近づけて、小声で告げた。
「今夜、あなたの力を貸してほしいの。あなたたちの仕事がまだ生きている、その内に」
◇
どういう界隈にも“重鎮”が存在する。
「王国の魔法使い」という界隈の場合、齢70を超え“大師父”と称されるアイヴィ・フィリアスという老人がそれに該当する。温厚篤実で聡明叡智、当代最高にして史上最高の呼び声高い偉大な老魔法使いで、40年前の魔法開放改革を主導した後、王国魔法使いの最高位である首席賢聖官に20年間も君臨する男。
若くして伴侶に先立たれた後、後妻を娶ることもなく子宝には恵まれなかった彼だが、高齢になってひとりの養女を迎え入れた。その少女には海千山千の老魔法使いが惚れ込む素質があり、実の娘、あるいは孫のように愛情を注いで育てあげたという。
その養女が、マリス・フィリアスだった。
稀代の魔法使いに選ばれた唯一の後継者――そういう境遇に、彼女は逃げも潰れもしない気性と、相応しい魔法の技量とを有していた。魔法学校在学中からいくつもの研究業績を発表し、魔法使いの最上位官職となる12名の賢聖官の一角に最年少で就任。複雑怪奇な政治力学が支配する宮中で務めを果たしているのは彼女自身の並外れた才覚を示す何よりの証拠だった。
一方、フラウナの人生は全く正反対と言えた。
彼女はこの人里離れた源炉施設で基盤整備を担当する下っ端の魔法使いに過ぎない。その出自も特筆すべきことはなく、王国属州のとある集落にて平民の三女として生まれている。幼少期より魔法の素質を見込まれていたが、守戒派気質の残る村に留まるのではく、はるばる上京して魔法使いの卵たちが集う魔法学校に飛び込んだのだった。
その後、マリスを筆頭に級友たちのほとんどが宮廷や地方領主を支える賢聖者や魔法兵団といった華やかな花形職に任じられていく中で、フラウナは源炉施設や魔原伝送網の整備にあたる基盤整備職に任じられることになる。そこは花形職からの退役者が行き着く先として知られた役目であり、劣等感めいた感情を全く感じなかったと言えば嘘になるが、地道な取組を厭わない根気強さが取り柄の彼女の気質にはよく馴染むものだった。彼女としてはこれもこれで、そんなに悪い人生だとは考えていなかった。
◇
「あの……わたしたちの仕事がある内に、と仰ったのは、どういうことでしょうか?」
最初にフラウナの脳裏を駆け巡ったのは、自分のことよりも職場のことだった。賢聖官命令として手を貸してほしいと請われても、今のバルトゥルカン源炉がそれを許す状況にあるかは別問題だからだ。
そもそも源炉施設は、
40年以上も前に大師父アイヴィ・フィリアスがこの仕組みを構築できた要因は、彼が開発した特殊な糸──「伝糸」にあった。伝糸を使えば、長距離であっても魔原の高速伝送が行えて、途中の減衰や損失もほとんど見られない。それは画期的な大発明だった。
なぜなら、伝糸によって遠方にも高速で魔原のみを運べるのなら、
こうして国を挙げて伝糸が増産され、国中に
だが、この基盤整備では戦乱の影響をまともに受けていた。魔法兵団が盛んに出兵すれば湯水のごとく魔原も消費される。敵軍は魔法兵団そのものではなく、むしろ源炉施設や
そうした中で、分厚い樹海に囲まれたバルトゥルカン源炉は戦火の直撃を逃れているものの、右肩上がりの魔原需要に対応するために目が回るほどの忙しさになっていた。フラウナの着任当初の配置人員はわずか8人だったはずが、現在では24人になり、それでもなお増員を求めている有り様だった。
そういうわけで、フラウナは訝しむ視線を投げかけたのだが、マリスも当然そこは予想している。
「曖昧な言い方をしてしまったね」
そう言うと、咳払いをしてから付け加えた。「正確に言おうか。みんなクビになる。ここの将軍もそう、わたしもそう、うちの父もそう。この国の魔法使いはみーんな、お役御免ってこと」
「……どういうことですか?」
猜疑心と共にフラウナは一歩詰め寄ろうとしたが、その目鼻の先へマリスは人差し指を突きつけて制した。
「あまり他人に聞かれたくない。少し場所を変えたい」
「それもそうですね」
フラウナは大人しく引き下がった。どう考えても戸口で立ちながらする話ではない。「使われていない部屋がいくつかあります。滅多に人も来ませんし、そこで?」
「――せっかくだし、外はどう?」
マリスは設備の周りに広がる森を眺めながら提案した。「王国随一と名高いバロトゥルカン源炉、この近くなのよね? 一度はこの目で見たいと思ったのだけど」
そこには彼女なりのちょっとした遊び心の響きも含まれていた。
「源炉、そのものですか?」
フラウナは少し考えるような素振りを見せたが、すぐに何かを思い出したように笑みを見せた。
「――わかりました、賢聖官様の仰せのままに。とびきり美しいですよ、ここの
浮かぶ水平線 文長こすと @rokakkaku
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