四:
守戒派。マリスがそのたった一語を口にした時、冷たい風が吹き抜けて、向き合った彼女の赤い髪をさらさら揺さぶりながら、血色だけを連れ去った。
──“……あ、あの、待って! 聞いてください!”
その顔に緊張をみなぎらせ、彼女は身を乗り出した。
慌てふためいたその第一声が「否定」ではなかった、という事実だけをマリスは受け取ったが、まだ口を閉ざしていた。
──“た、確かに、故郷の老人たちはそうでした、王国に黙って本当は埋めなきゃいけない
──わたしが訊きたかったのは、
そこでマリスはねじ込むように口を開いた。
──君の故郷は守戒派の息づく地域だったのか、ってこと。君は守戒派かとは訊いてないし、そんなこと訊くつもりもないよ。……言ってる意味、わかるよね。
同時に、周囲にも目を配り誰もいないことを確かめる。マリスがどう受け取るか以前に、大人たちの耳に入るのだけは避けねばならなかった。
守戒派とは、この学校の創立者――つまりマリスの養父が主導した魔法開放改革に対する反動勢力だった。彼の改革は古き戒律に基づく旧習の破壊を伴った。それが敬虔な者たちの逆鱗に触れたのだ。
だが、彼ら彼女らが権謀術数を尽くして改革派の排除に勤しむ間に、王国は前王時代に食い破られた10の失地を回復し、新たに10の都市を陥落せしめた。
その全ては彼の改革がもたらした成果だった。王国軍の行く手に魔原伝送線を敷設して魔原を供給しさえすれば、たったひとりの魔法使いが数十の騎兵を打ち倒すことができることを実証してみせた。例え――戦場にて適切な大きさの
同時にそれは、戒律の定めた神聖性と希薄な実用性とによって、血生臭い戦場から潔癖でいられたはずの魔法が、史上初めてその力場へと組み込まれた瞬間でもあった。
翻って、立つ瀬を失くしたのは守戒派だった。口を開けば戒律、戒律と講釈を垂れ、既にあり余る実益をもたらし始めた改革を執拗に妨害する
やがて静かに粛清が始まり、守戒派と目された者たちは何かしらの罪に問われ、閑職にその身を移すか、牢屋か地獄に追いやられることになる。王都の中枢からその勢力が一掃された後、地方や辺境に散らばってなお改革への反抗を試みた者もないではなかったが、彼ら彼女らの根性が報われることはなく、ただ容赦のない弾圧に晒されるのみだった。
マリスの養父が設立したこの魔法学校もその一環だった。津々浦々の才ある子弟子女に門戸を開き、戒律の秘密主義から解き放たれ体系化の進んだ「技術としての魔法」を教育する──という公明正大な理念は嘘ではないが、表向きの言い回しでもある。
その本当の使命とは、戒律に対して容認されざる解釈を主張する守戒派の影響を斥け、再び反動の連中をのさばらせないための思想的拠点たらんとすることだった。
そういう空間において、マリスから『守戒派』との関わりを問い質されるということが何を意味するか。
少なくとも赤髪の彼女の頭によぎったのは、放校――いや、投獄だった。マリスの言い回しひとつで処刑もあり得る、とすら思った。この学内でマリスの言葉を疑う大人など誰もいない。だから彼女は顔を強張らせている。
なだめるようにマリスは声を掛けた。
──そんなに身構えないでよ。わたしは君が話しかけてきた理由を確かめたいだけだから。告げ口は趣味じゃないし。
──“で、でも、そのことと守戒派がどう……、”
──さっき君が自分で言ったでしょ。故郷の老人たちが
──“う……、”
──それに、君は意外だったんじゃないの? わたしが
彼女の表情には動揺がはっきりと見て取れた。口元がまごついている。気まずさをごまかすように赤髪の毛先を指先でくるくる絡めてもいる。
マリスはそれ以上責めも促しもしない代わり、それまであてもなげに中庭の虚空眺めていた目線を、にわかに彼女の瞳に遣った。
──ひとつ言っとく。父があの改革を実行したのは、
マリスの想像した通り、彼女は意外そうに目を丸くした。
──“わたし、てっきり
──その認識も違ってはないよ。未だに
──”も、申し訳ございません……。”
──本題に戻るとね、わたしは君の話にかなり興味があるの。それは本当。
マリスの目が煌めいたように見えた。
──しかも、それが守戒派由来の価値観ならなおさら。彼らの文献はもう残ってないし、わたしもお家柄その手の情報はほとんど知らされてこなかったけれど、改革後の3、40年分の文献でわかることなんてたかが知れてる。わたしはただ、
そこで彼女はようやく、これまでのマリスの言葉に何の裏もないことが確信できたかもしれなかった。
自身を見つめるマリスの目に猜疑や憎悪はない。宿っているのは、ただ純粋な知的好奇心だけ。そう感じたのは気のせいではなかった。
──“……仰る通り、わたし、故郷のことを思い出したんです。
彼女がそう語り始めると、マリスは励ますようにはっきりと頷いた。
──きれい、か。君の故郷でもそういう扱いだったということ?
──“はい。と言っても普通の宝石の扱いとは少し違います。
──
──“理由はありますよ。
──だけど、それなら建国神話にもある通りじゃないの。
──“そうですね。実際、あの光は俗人が浴びるには害ということもありますし……里の中心地からは少し遠ざけ、場所を知らないと行けないような森の奥に静置して、素養と人格を備えた選ばれし人々の手で祀らなければならないとされました。ただ、ひとつ、建国神話との違いがあるんです。”
──違い?
──“わたしの故郷では、あの光を『神の国』からの預かり物だと捉えます。”
マリスの表情が少し動いた。
──『預かり物』か。『授かり物』じゃなくて……。
──“はい、還さなければならないんです。ですから神祠は受取の場であるのと同時にわたしたちから捧げる場でもあって、人の手できちんと管理しなければなりません。建国神話にはそこまで書かれていないと思います。”
──還すって、どこへ。
──“もちろん『神の国』へ。……つまりそれが、年に一度の<
彼女の顔からは緊張の色はすっかり消えていた。話に夢中になってきたようだった。
──“あれが起こる時、夜空に蒼い光の筋がいくつも浮かんで、それまで現世に留まっていた光たちが祠の中の
──光の話もそうだけど、<
彼女は同感とばかりに頷いた。
──“はい、わたしも驚きました。王都にはどこにも
例えば王都の夜を照らし出す照明は、今や松明の火ではなく魔法による光が担う領域だが、<
その時になって、マリスは今さら思いついたように訊ねた。
──それで君は、
彼女はまずじっくりと考え込んだ。それでもさほど時間はかからずに、照れ笑いを浮かべながら答えた。
──“子どもの頃、何度か
──「何度か」?
──“はい。その時わたしは神祠の参詣を許された子どものひとりで、長老会に認められる魔法使いに選ばれるかもしれなかった。いろいろあって結局わたしは選ばれなかったのですが、それからは<
彼女は軽やかに答えたが、「選ばれなかった」の箇所はどこか引きずった言い方のように聞こえた。マリスも、そこに踏み込む気にはなれなかった。
──“そういうわけで、わたしも含めて、長老会の認めた魔法使い以外の人たちは、1年の中で<
魔法の存在を皆で思い出す、なぜかその言葉が自分の中でも不思議と響いたようにマリスは感じた。
マリスが知る、王都での<
蒼から赤へ。たった一夜で王都の夜を照らす色彩の支配者が代わる。
そうした年に一度きりの光景を眺める度に、マリスは淡い喪失感にも似た感情を抱くのだった。それまで魔法が確かに存在していたことと、その瞬間には存在していないということを。
当然存在するものが一時的になくなることも、当然存在するものが一時的に見えることも、人の心に抱かせる感情は近いらしい──。
──“……マリス様の方こそ、何かあるのですか?”
もの思い中、不意の逆質問だった。
ほんのわずかに、マリスも言葉に詰まりかけたが、沈黙の時間は長くはならなかった。
──わたしは、そもそも魔法の持つ可能性が好きなのかもね。
口に出てしまえば、後は滑らかだ。
──夜に光をもたらすことも、冬に熱をもたらすことも、害なす敵に雷を喰らわすことも、魔法なら全部できてしまうでしょ。それだけの不思議な力が魔法にはある。
──“それで、マリス様はそんなに魔法の御勉学に励まれているのですね。”
──調べてもわからないからね。
マリスはどこか楽しげに肩を揺すり、彼女はまじめな顔でじっと聞いた。
──遠い国で産出された
──“それは、この王国の地が神々の祝福に恵まれたからでは……。”
──確かに建国神話にはそう書いてあるし、そうやって言えば全ての謎は片付いてしまう。だけど、わたしは好きじゃなくてね。例えば、神々の祝福に恵まれないはずの周辺国が最近はずいぶん力をつけてる。逆にこの頃の王国が再び衰退しているのかもしれない。神々がよそに浮気してるだなんて思いたくはないけれど、建国神話の理屈じゃその理由は説明できない。
──“ですが、説明のつけようがないこともあるのでは? 王国の
──確かに、意味はわからないかもね。それが神話の役割かもしれない。でも、仕組みはあるはずだと思う。神話はそこを説明しない――。
マリスの言葉をかき消すように、屋根の上から大鐘が鳴り響いた。
まもなく始業になる。教室に戻る時間が来たのだった。
話の腰を折られたマリスも、興味津々で聞き入っていた彼女も、どちらも少し恨めしそうにごんごん鳴る大鐘の方を見上げた。
ただ、そのまま講義をさぼって話し込むという不真面目な発想にはならないのがふたりに共通する性分だった。
──ありがとう、楽しかったよ。また話そう。
そう言って、マリスは微笑みを向けた。それは誰にでもするような行為ではなかった。最大限の感情表現であり、お礼のつもりで。
彼女は少し残念そうな顔をしたがすぐににっこりと愛想よく笑い返した。「また、ぜひ」と小さくお辞儀すると、マリスの目を振り切るように足早に教室へと去っていった。
その急な様子を見て、マリスは思い出した。そもそも取り巻き連中から逃げたくて教室を出てきたのだった。そういう手前、ひとりで教室に戻るならともかく、2人並んで話し込みながら戻れば、自分はまだしも彼女の方にも面倒が降りかかりかねない。
それで彼女がすばやく去ったのだとしたら、それはそれで納得がいくことだったし、気遣いなのかもしれなかった。
みるみる遠のいていく彼女の揺れる赤髪を見つめながら、マリスはふと、あの子の名前を調べて、きちんと覚えておこう、と思ったのだった。
◇
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