第9話 狩るもの

 視線を向けられた時、俺は反射的に飛び退いた。怯んだ訳じゃない、距離を取って奴の様子を確認したかったからだ。

 異形の獣は、じっとこちらを見つめるだけで何もしてこない。様子を窺ってるのか?警戒心が高いのか、それとも単に油断しているのか……。


「個人的には、後者の方がありがたいな……」


 小声でそっと呟き、じりじりと前を向きながら後ろにゆっくりと下がっていく。背中を見せるのは駄目だ。すぐに獲物と認識されるのはまずい。

 まあ、あの犬みたいな化物に野生動物と遭遇した時の対処法が通用するか分からないが。


「GURURURU……」


 ザリ、と異形の獣は前足で地面をひっかく動作をする。その動作は、まるで戦う前にする闘牛の仕草のように見えた。

 来る。肌で感じたプレッシャー、そして首の後ろがひりつく感覚を頼りに、俺は咄嗟に左に跳んだ。

 その直後に、獣の爪が振り下ろされる。俺は跳んだ勢いのまま地面を転がり、咄嗟に掴み取った拳大の瓦礫を投げつける。しかし、投げた瓦礫は空を切った。

 既にそこに獣は居なかったからだ。視線を感じて、左の方に顔を向ける。そこには、今まさに着地する寸前の獣の姿が目に入った。


「くっ……!」


 今度は外さない。狙うのは額、通常の生物なら急所とされる眉間だ。転がる時に拾っておいた二個目の瓦礫を、異形の獣の眉間を狙って投擲する。

 だが、異形の獣はこれすらも避けてしまう。しかし、さっきより投げる速度が速かった為か、見切れずに眉間よりズレた箇所に当たった。


「GAAッ!?」


 痛みに悶絶する獣。顔に当たった時に、僅かに飛び散った瓦礫の破片が目に入るのを恐れてか、首を振って破片を振り払う。

 その隙を狙って、素早く二度目の投擲。今度はピンポイントに、前足に向けて握りこぶし程度の石を投擲する。当たってくれれば儲けものだが、これは別に命中しなくても良い。せいぜい、怯ませる程度の狙いしかない。

 俺は次の行動に備えて、異形の獣に注視しながら周辺の瓦礫の山に目を向ける。あそこからなら、あの異形の獣の死角になると、そう頭の中で戦略を組み立てていると―――前足に向けて放った石が当たる瞬間、異形の獣は驚きの行動に出た。


「GURUAAA!!」


 異形の獣は身体を回転させて、その尻尾で攻撃してきたのだ。通常なら犬科の尻尾の攻撃など気にも留めないが、あの化物のサイズは馬並みの巨体だ。当然、質量も倍以上ある。

 避けようにも受け身を取ろうにも間に合わない。ならば……後ろに飛んで、少しでも威力を軽減させるしかない!


「ぐっ!―――がはぁぁっ!?」


 覚悟していたが、待っていたのは予想以上の衝撃だった。身体で受ける部分には力を入れても焼石に水でしかなく、尻尾の一撃は容易に俺を後方にぶっ飛ばした。

 身体に染み込まれた動きが、後ろの外壁にぶつかる時に受け身を取らせた。だが、受けたダメージは相当なものだった。

 肺の中の空気が強制的に吐き出され、一瞬、息を吸う事が出来なかった。それだけじゃない。尻尾の一撃で内臓をやられたのか、空気と一緒に吐血してしまったようだ。


(まずい………)


 甘く見ていた。見た目が犬に似ていたから、単に狼か何かが突然変異で身体が肥大化しただけだろう。そんな思考が俺の頭の隅にあった。

 その結果が、今の俺の現状だ。あばらにヒビが入り、内臓は傷つき、身体中に変な痺れが走ってる。ただの尻尾の一撃で、ここまでのダメージを負ったのだ。


「くそっ………」


 内心、驕っていただろう自分に腹が立つ。しかし、悪態をついていてもしょうがない。今は、まずあの異形の獣から逃げなければ………。

 ズルズルと、壁を頼りに身体を置き上がらせて、瓦礫の後ろの廃墟の中へと進んで行く。幸いにも、廃墟の中へと続く穴は、あの異形の獣が入り込めない程に小さかった。まあ、俺の身体でギリギリだったから、本当に幸運だったな。

 少し首を後ろに向けて、異形の獣が追って来ているかを確認する。瓦礫の影から見た視界には、身体を一回転させて首を何度も振る獣の姿があった。


(良かった……まだ、あいつは気づいてないみたいだ)


 俺は安堵の息を吐いて、そのまま奥へ奥へと進んで行った。なるべく、あの異形の獣から離れるように。






◆◆◆






 薄暗い廃墟の中、ガラスの割れた窓から差し込む光を頼りに、身体を壁に預けながら歩く。胃の中からせり上がる不快感と、全身を苛む痛みに喘ぎながらも、足を止めないよう必死に足を動かし続けた。


「はぁ……はぁ……!!」


 だが、我慢しきれずにその場で膝から崩れ落ちる。初めて経験した痛みは、思ったより自分の心身に負担をかけていたようだ。

 冷静な思考ができない。ただ、どうすれば生き残れるのか、この苦しみはどこまで続くのか、あの化物をどうやったら、そんな思考ばかりが頭に浮かんでは沈んでいく。

 分からない。普通じゃない。本来の自分なら、そもそも考える事すら出来ずにうずくっている筈なのに。なぜだか、頭が考える事を止めない、止められないのだ。


 ああ、痛い、苦しい………憎い。殺したい。あの化物に俺と同じ苦しみを味わわせたい。俺の身体を吹き飛ばし、痛みを与えた尻尾を引き千切りたい。

 潰したい、壊したい、殺したい、殺したい、殺したい。


――――危険だ。これ以上は駄目だ。嫌な事ばかり考えてしまう。自分が意図せず狂暴な思考になっていくのが、よく分かる。

 休まなければ……今はとにかく、身体を休めて、回復を………。

 ゆっくりと、身体を地面に降ろしていく。眠る為に、少しでも楽な姿勢になるように。倒れ込んでいく。

 小さな衝撃で砂埃が舞う。けれども、今はそんな事を気にする事すら、疲れると考えてしまう。


 無駄な思考は止めて、今は眠ろう。パソコンの電源を落とすように。照明のスイッチを落とすように。ぷつり、と……。


――――そうして、俺の身体は眠りについた。暫しの間、少しでも身体を回復させる為に。


 ぼやけた目で、ゆっくりと意識が沈んでいくさなか。何か、唸り声のようなものが聞こえた気がする。それに対し、俺は煩わしいと感じた。

 だから、あっちに行けと。ハエを追い払うように、俺は片手を振るつもりで、地面から上げた手を小さく振った。


 その時、断末魔のような声が聞こえた気がしたけれど、もう、どうでも良い。今はただ、眠りたい………。





・・・

・・・・・

・・・・・・・





――――この時、蓮司は気づいていなかった。自らに近づく、ハイエナの如く獣の群れを。彼が遭遇した、あの化物に似た雰囲気の獣共。それらは確かに唸り声を上げて、自らの縄張りに侵入した何者かを排除しようと、牙を剝き出しにしていた。


 ちょうど、獣共は腹が減っていたが故に。剥き出しにした牙から、零れ落ちそうな程に涎を垂れ流し、今にも飛び掛かろうと足をたわめていたのだ。

 だが、蓮司が小さく手を振った、その次の瞬間――――薄暗い闇が支配する廃墟の中を、なお濃い闇が獣共に襲い掛かった。


 獣共は闇夜も見通す目を持っていた。だが、あまりにも闇に眼が慣れ過ぎていたが故に、その闇に気づく事が出来なかった。それは、景色と同化して音もなく駆け抜ける。奇妙な事に、空気の揺れも起こさずに。


「GYAッ――――!?」


 蓮司に最も近い獣の一匹が、短い悲鳴を上げた。その胴体は、何かに無理やりように泣き別れる。

 どさりと、鈍い音が廃墟に響き渡る。遅れて、既に事切れた獣からドクドクと血が流れだした。

 異変に気づいた一匹が、他の仲間に知らせようと喉を震わせた瞬間、その頭が吹き飛んだ。獣の群れから一メートルも離れた距離に、地面をコロコロと転がる何かが落ちた。

 続けて、二匹目、三匹目、四匹目………いったい何匹いたのだろうか。薄暗い廃墟の中では、それを把握する事すら難しい。


 けれど、確実に言える事が一つ。この場に、新しく死体の山が築かれた、という事である。それは、少し前に道端に転がる死体の数々を見て、蓮司が思い浮かべた言葉に相応しく。


 それらの獣の群れ肉塊は、歪に積み上げられた〝死屍累々〟の景色を作り上げていた。


 穏やかに寝息を立てる青年は、自らが起こした所業に気づくことなく。薄暗い廃墟の中、彼の下に帰って行く濃い闇があり。それを目撃した獣の群れの生き残りは、キャンキャンと怯えた鳴き声でその場から走り去って行った。



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