第7話 遭遇
茫然と、地面に膝をつけて空を見上げている間にも、時間は過ぎていく。それは、スマホの充電が切れていく事と同義だった。
本当なら、この場で立ち止まって、どこかの建物の中にでも入って閉じこもっていたい。恐らく、それが正解なんだろう事も朧気ながら理解している。
それでも、何か行動を起こさないと気が狂いそうなのも事実で………結局、俺はスマホの電源を切り、当てもない行動を再開した。
・・・
・・・・・
・・・・・・・
あれから二時間たった頃。もうスマホの充電も切れて、完全にネットから遮断された。充電の目途も立っていない今、俺には外部の情報を入手する方法が存在しない。
いや……そもそも、インフラが完全と言っていい程に崩壊した上で、電波が繋がったこと自体が奇跡なんだ。もう、スマホは使えないものと考えて良いだろう。
ズボンのポケットから、何の装飾もないカバーをつけたスマホを取り出す。手に持って、それを見つめていると、このスマホを手に入れた経緯を思い出し、無意識に眉を寄せる。
「もう、これはガラクタも同然なんだけどなぁ」
だからこそ、俺はどうしてもこれを捨てる気にはなれなかった。
一度、短いため息をして、俺はスマホを元のポケットに入れ戻した。自分がここまで、ただのモノに未練を持っていると思うと、自然と笑えてくる。
「……俺って、けっこうドライな方だと思ったんだがな……」
案外、そうじゃないのかもしれない。
時折、風に吹かれた砂埃が服に付着して汚れたのを、素手で払って落としながら歩いていると――――――瞬間、全身が硬直したような錯覚がした。
咄嗟に、横に跳んで瓦礫の影に身を隠す。自分でも理由は分からない。だが、本能から感じた危機感から、身体が自然と行動に移らせた。
数秒後、俺は自分の本能に感謝する事となる。
好奇心から、あるいは危機感から、自らに退避の行動を起こさせた存在が気になり、そっと………静かに瓦礫の影から辛うじて見える程度に顔を出す。
その後、俺は視界に入った光景を見て後悔した。
ギッ……ギッ……
軋むような、独特の音がする。記憶の中から、それに最も近い物音を立てるものを掘り起こし、ロッキングチェアだと当たりをつけた。
ああ、確かにそうだろう。あれはロッキングチェアだ。
(最も……あれほど悪趣味なロッキングチェアは、見た事がないがな)
ギリッと、無意識に奥歯を嚙み締める。その光景は、奥歯を嚙み締めた事に気づかない程、俺に怒りと恐怖を感じさせるのに十分だった。
まず最初に目に入るのは、木目を塗りつぶすどす黒い赤。歪に曲げられた太い枝を濡らし、ねっとりとした粘つきが枝葉に絡みついている。
てらてらと、日の光を反射してピンクに輝くそれは、人目で何らかの内臓だと分かるもの。
規則的に揺れている様は、何かがそれを意識的に揺らしている事を示唆している。
ああ、つらつらと観察結果を並べるのは止めよう。そうだ、俺の視界に入って来たモノ。それは………胴体を枝に貫かれた人間の死体だった。
上半身が、もたれかかるように別の枝に垂れ下がっている。腹から生えるようにして刺さった枝は、まるで杭のようだ。
死体の状況から見て、恐らく背中側から枝に落ちたのだろう。死体より後方に目を向ければ、重みで歪んで垂れ下がる枝が目に入る。
ぶらんと、力なく伸ばされた左腕は、必死に助けを請うたのだろう事が理解できる。
ああ、違う。俺が怒りを感じているのは、全く別の事だ。助けられなかった事の無念とか、間に合わなくてすまないと思う自責の念でもない。
これは、この怒りは――――今もなお、死者を弄ぶように名も知らぬ誰かの身体を揺らして遊んでいる奴への憤りだ。
枝の揺れる音に混じって、僅かに「きっきっき」と、楽しむような声が聞こえる。とても小さく、耳を凝らしてようやく聞こえるかどうかといった程度だが、その声に込められた感情が何なのかを理解するには、十分だ。
拳を握る手に力が入る。皮が破けて、血が滲み出そうな程に。怒りを通り越して、顔も知らない誰かへの憎悪が募るようだ。
ああ、もしこのまま、己が衝動に任せて飛び出せたならどれだけ良かっただろう。今にも、俺は死体を弄ぶ行為を止めさせたいと、そう思っているのに……。
(足が、動かねえ……それどころか、震えが止まらねえ………!?)
なぜか俺の身体が動かなかったのか、動けなかったのか、はっきりとした理由は思いつかない。だが、朧気ながら理解できた事がある。
これは、本能だ。身体が精神による支配を越えて、肉体を抑制する生存本能。今、この場から一歩でも足を踏み出したら………物音の一つでも立てようものなら―――――俺は、死ぬ。
そんな、訳のわからない確信だけが俺の行動を自制させた。
こんな時に、なぜか幼い頃に親父に言われた言葉を思い出す。
『蓮司。頭の隅から隅、胸の奥底、細胞に至るまでの全てに刻み付けて覚えておけ。今、お前が感じているもの―――――それが〝死の気配〟だ』
ああ、親父。今になってようやく分かったよ。今、俺の肉体を抑制するものの正体、これが――――己の死を感じ取った人間の行動なんだな。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。時を感じる余裕もなく、ただ〝死の気配〟が遠ざかる事を、必死に願いながらも、俺の五感は瓦礫の向こうから感じ取れる情報を入手していた。
やがて、枝葉の揺れる音が聞こえなくなり、代わりに何かが地面を這いずるようにその場を去っていく音がした。
俺は、その這いずるような音が完全に聞こえなくなるまで――――〝死の気配〟が遠ざかるまで、一時も安堵せずにじっとその場を動かなかった。
◆◆◆
ぐちゃり、ぐちゃり。肉を咀嚼する音がする。骨まで砕き、内臓も磨り潰す音がする。
それは、そこかしこから聞こえてくる。その場の中心にいる男の耳に、否応なく侵入していくる。
「はは、ははは、ははは……」
音は百足のように、男の全身を這いずり回る。何度も、何度も、何度も。
巨大な何かが、肉を引き摺る音がする。明らかに体格の良い男。筋肉質で、街で遭遇すれば萎縮してしまいそうだが、少し前の時には逆に頼もしく感じた。
体格の良い男は言っていた。「俺は格闘家だ。サバイバルの経験もある。安心しろ。俺が絶対にここの全員を生かして見せる!」と。
自信満々に語っていた。だからこそ、不安ではあったが信じられた。頼りになる存在として見る事ができた。何があっても、この人が何とかしてくれる。そうに違いない、と。
「その結果がこれか……?あは、あはははは!あはぁーはぁーはははは??!」
ただしぶとく生き残った男は、狂ったような笑い声を上げる。泣きながら、頭の中では「どうしてこうなった」、「なんで私がこんな目に」、そんな事を考えながら。
男の周囲は地獄絵図そのもの。人が餌として喰らわれる光景そのもの。
それを何度も目に焼き付けて、咀嚼音が耳から離れなくなる程に聞き続けて、恐怖と不安と助けを求める声を上げようにも、絶望感に打ちひしがれ………。
そうして、男は狂った。自分を守る為に、自ら心を壊した。これ以上、痛みを感じないように。これ以上、ぐちゃぐちゃとした感情に苛まれないように。
男は自らが食い尽くされる時まで、嗤い続けた。声を出して、意味もない命乞いなどせず、狂った嗤い声を上げ続けた。
「あははは!!」
(嫌だ)
壊しきれなかった心にしがみつく、正反対の生存本能を思考に浮かべながら。
「ひゃひゃはははは?!」
(死にたくない)
自らに群がる化物共。それは、砂糖に群がる蟻の大群の如く。
「あひゃははひゃひゃ!?あはハははハはひゃは!?――――がぺっ」
(俺は、まだ―――)
男の頭に喰らい付く化物。頭蓋骨を砕き、脳髄を啜りながら肉を咀嚼する。
考える頭さえも失った男は、ただ口元だけに笑みを浮かべながら、化物共に全身を貪られて死んでいった。それは、ある意味、幸運な事だったのかもしれない。
ここで終わる事ができて、この先に待ち受ける激動の日々を送らなくて済むように。この先に何度も待ち受ける、絶望の日々に打ちひしがれ、苦痛を味わわないように。
――――2019年1月20日 未曾有の大災害の翌日
廃墟化した都内のアパートにて、十数名が死亡。死体の損傷が激しく、正確な人数は不明。
だが、約一名。執拗に肉体を捕食された痕跡のある人物あり。その人物の死骸には、砕けた結晶状の物質が残されていた。
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