第8話 死屍累々
『死の気配』が遠ざかっていく。やがて、完全に気配が消えて、この場で生きている存在が俺だけだと分かった時、俺は安堵の息を吐いた。
「はぁぁぁぁ……すぅ―――」
文字通り、息を殺して身を潜めていたからだろうか。僅かに強張った身体を伸ばし、深呼吸をして酸素を肺に送り込み――――直ぐに後悔した。
鼻の奥まで一気に吸い込んだ為、血と硫黄に似た内臓か何か混ざった生臭い匂いを感じ取ってしまった。
「うっ……!?」
胃酸が喉までせり上がってくる。あまりの気持ち悪さに吐き気を催し、咄嗟に口元を両手で抑えた。ああ、これが〝死臭〟ってやつなんだな……そう、冷静な思考をしながら、俺は我慢できずにその場で吐いた。
「うぷっ、おrrr………!」
吐いた後、変に緊張感が抜けてしまい、思わず自分の吐瀉物に顔から飛び込んでしまいそうになるのを、地面に手をつける事で防ぐ。だが、地面に顔を近づけてしまった事で、吐瀉物から漂うすっぱい匂いから来る不快感から、また吐き気を催してしまう。
これ以上は、駄目だ。まともな食料も探してない内に、これ以上、腹を空かせるような事があってはいけない。そんな使命感から、必死に吐き気を我慢して俺は立ち上がった。
ちょうど、胸元にポケットティッシュがあったので、一枚取り出して汚れた口元を拭う。こんな状況だし、ポイ捨ては駄目だなんて意識を持つ余裕などなかったので、俺は自然と使い終わったティッシュを地面に捨てた。
………改めて、眼前に入って来た惨状に意識を向ける。
「……酷いな」
倒木の枝に貫かれた死体。それは、まだ死んでから時間が経っていないのか、未だに血を流していた。
鉄臭さに顔を顰めるが、俺は誰とも知らぬ死体へと近づきに行く。よく見てみると、その人は目を開けたまま死んでいた。よほど恐ろしかったのだろう。目は限界まで見開かれ、泣き腫らした跡が頬に残っている。
「………」
そっと、俺はその人の瞼を下した。まるで、そうしなければならないと自分に言い聞かせるように、俺は瞑目し、静かに黙祷した。
・・・
・・・・・
・・・・・・・
短い黙祷を終えて、俺は死体もそのままにその場を後にした。その名も知らぬ誰かは、今も倒木に身を貫かれたままになっている。
確かに、俺は名も知らぬ誰かに黙祷を捧げ、その人の死を悼み、祈りを捧げた。だが、それだけだ。俺にはそれだけしか出来ない。俺には、あれだけ大きく太い枝に貫かれた人を引き抜く力も、その身体を地面に埋める時間も無い。
それだけの事をする義理が、俺には無いからだ。それだけの労力を使うことすら惜しいとさえ思っている。
………客観的に見て、俺は非情とも取れる行動をしている。だが、俺は生きていて、あの人は死んでいる。ならば、俺はもっと生きていたい。例え、あの人よりも酷い死に方をするとしても、もっともっと生きていたい。
それに、こんな状況だ。他人の為に尽くす事などする余裕は、俺には無い。無いんだ。
「………こうやって、自分に言い訳する事でしか、己の罪悪感から目を背ける事もできないなんてな………ははっ」
つくづく自分が嫌になる。あまりの愚かさに、渇いた笑い声が出てくる。
でも、俺は歩みを止めない。余裕の無さから、冷静に自分がこれからどう行動するべきか。その思考へとシフトしていく。
さしあたって、コンビニでも探してみようか。スーパーでもショッピングモールでも、飲食店でも良い。まだ昨日の災害から一日しか経っていないんだ。
だったら、一つか二つくらいは食料が保管されている倉庫が残っていても不思議じゃない。この際だ、見た目がぐちゃぐちゃになっていても良い。要は食べられさえすれば良いんだから。
そうして、歩き続けてから暫くして。また――――嫌なものが目に映り始めた。
様々な店が立ち並ぶ駅近くの大通り。倒壊したビルや店舗、または根本から倒れた街路樹が障害物となって邪魔をする。
まるで、大きな地震でも起きて、台風が通り過ぎた後のようなよく分からない惨状だ。だが、そんな数ある瓦礫よりも目につくのは、鼻孔を刺激する鉄臭い匂い。
ポップな文字が印象的なデザインの看板。その傍には、頭が半分潰れた男の子。
フランスのカフェにでもありそうなテラス席のテーブルの下で、うずくまるようにして事切れた若い女性。
瓦礫に押しつぶされて、舌を出して死んでいる犬。上半分が倒壊したビルの壁で、内臓らしきものを吐き出して死んでいる猫。
身体が半分抉られた女。折れた腕から骨が突き出し、首が歪んだ少年。下半身を圧し潰されたお爺さん。頭部を失くしたお婆さん。
どこを見ても、どこを向いても、そこに生きているモノは存在しない。死体、死体、死体の山。
ふと、この光景を見て頭に思い浮かんだものがある。
『死屍累々』
それは、このような光景に対して使うべき言葉なのだろうか、と。いや、違うか。あれは、死体が積み重なっている様を指しているのだから。こんな無造作に道端に落ちているような光景に使う言葉じゃないか。
ああ、ああ、駄目だな。思考が麻痺している。段々と、水の中に入っていくように音が遠のいていく。無意識に、視界を閉ざそうと瞼が下がっていく。
ふと、下を向いてみると、いつの間にか俺は足を止めていた。なぜかは分からない。本当なら、一刻も早くこんな場所から離れたいと思っているのに。
「あ……」
膝から崩れ落ちる。糸の切れた人形のように。俺の身体は、俺の意思に逆らってその場に留まろうとする。
………いいや、分かっている。分かっているさ。これは、この場に留まろうとしているんじゃない。あまりのショックに、思考が、身体が追い付いて行かないんだ。
どうして、こうなったんだろう。一昨日までは、ごく普通に生活していたのに。日常的に地震の起こるこの国では、災害なんて慣れたものだろうに。
どうして、俺だけ生きていて、あの人たちは死んでいるんだろう。
わからない。わからない。理解したくない。理解しようとしたくない。
立ち会がる。だらりと腕を垂らして、その場からどこかへと歩き始める。不思議と吐き気は込み上げて来なかった。それどころか、今は何の感情も湧いてこない。
ただ、フラフラと歩く。まるで、水の中にいるみたいな息苦しさだけは感じている。意味のわからない浮遊感に苛まれ、自分がどこにいるのか不安になってくる。
だけど、現実の自分はしっかりと地に足をつけて歩いているのだ。
今は、何も考えたくなかった。何も見たくなかったし、感じたくなかった。だから考える事も、何かを感じる事も拒絶して、俺は歩くのだ。
いつの間にか、時間感覚さえ拒絶していて、あれからどれくらい歩いて、どれだけの時間が経ったのかわからなくなっていた。
まるで、自分が半透明にでもなったような気分だった。だからだろうか。はっきりと聞こえるまで、その音に、その存在に気づかなかったのは。
ぐちゃぐちゃと、肉を喰らうような咀嚼音が耳朶を打つ。その音に反応して顔を上げて、音のする方向へと目を向ける。
そこにあったのは、目を疑う光景だった。
一心不乱に死体を貪る何か。口の周りをベタベタと血で赤く染めて、腸に鼻先を埋めるように突っ込んで、内臓を啜るように喰らう獣がいた。
喰われている誰かは、首から上が無い死体だった。服装や僅かに残った胸の膨らみから、女性だと判断できる。その女性は、片足が無かった。まるで、噛み千切られたように。
その女性の死体を貪る獣。これは、人目で異形だと分かるものだった。ああ、まるで映画の中から飛び出して来たような、されどしっかりと体温を感じさせる息遣いは、それが生き物なのだと脳に理解させる。
最も近い見た目の生き物は犬………だが、サイズは馬並みか、それ以上か。
こちらに気づいたのか、その異形の獣は死体の腸から顔を上げて、黄色い瞳をこちらに向けた。
「―――っ!」
身体が、凍ったように動かなかった。ただ、その異形の獣は自分から目を離すことを許さないとでも言うように、こちらをじっと見つめている。
「………」
べろりと、まるで蛇のように長い舌で、異形の獣は口周りの血を舐めとり、僅かに口角を上げた。
俺には、それが笑みを浮かべているように見えて………加えて、こう言っているように錯覚した。
『また、獲物が来た』と。
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