第3話 変わり果てた世界
「嘘、だろ…………」
崩落の一歩手前のような地下鉄の駅構内から、歪んだ家屋といういつ崩れるかも分からない家屋を抜けて、漸く外へと脱出した。
その直後、俺が目の当たりにした光景は、あまりにも現実離れしていて……されど幻想的で美しかった。
日本の経済の中心地として相応しい、高層ビル群が規則正しく乱立した都市の面影を感じさせるのは、崩れ落ちた巨大な瓦礫となったガラス窓の
ジャックの豆の木に登場する、巨大な緑の蔓の如く植物に呑み込まれて、一夜にしてガラスの廃墟は自然の一部へと成れ果てていた。
山のようにでかいサイの角の如く隆起した大地は、土石流の如く周囲の建物を――――まるで見覚えのない建物さえ飲みこみ、大地の一部へと変貌していた。
だが、無事とは言えなくとも、幾つか崩れる事なく聳え立つビルは、確かに存在していた。しかし、それもまた自然に飲みこまれて、いっそ芸術的とさえ言えるほどに天空から落ちる滝を受け止めている。
膨大な降水は太陽の光を反射し、ビルを囲むように虹の円環を生み出している。その色彩豊かな輝きを、鏡の如くガラス窓は映し出す。
さながら、自然と一体化した虹の摩天楼。そんな詩的な言葉が脳内に浮かび上がる。
…………ああ、何もかもおかしい。俺の視界に入って来たのは、現代において発展した都市などではなく、大自然の猛威が都市という人間の世界を、そのまま出来の悪いパズルのように作り替えたような光景だった。
俺は、俺はどこか別世界にでも迷い込んでいるのか?
いいや、違う。ここは地球で今、俺が立っているのは日本という島国の大地だ。
そう、冷静な部分の俺が告げてくる。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
鼓動が早まる。繰り返し刻まれる鼓動が、強い動悸を起こしているような気がして呼吸がおぼつかない。視界が歪み、見たくないものを遮るように額から滲んだ汗が流れ落ち、強制的に瞼を閉じさせる。
もしかしたら、もう一度……目を開けたら、元の都市の光景に戻っているのではないか。そう、妄執に近しい希望を抱いて、俺は瞼を開いた。
しかし、そこにあるのはさっきと変わらず、現実であるのに現実離れした世界のみが広がっている。俺の浅はかな希望など、取るに足らぬと打ち砕く。
「痛っ」
今頃になって、ようやく膝の痛みを認識した。奇しくも、その痛みは俺の思考を混乱から冷静へと引き戻す。滲んだ血が僅かに地面に広がるが、それを無視して俺は痛みに顔を顰めながら立ち上がる。
パラパラと、俺の膝を切った細かなガラスの破片が地面に落ちる。
瞳を閉じて、また目を開ける。だが、視界に入る光景は変わらない。三度目の正直という諺があるが、俺はようやく三度目にて目の前の現実を受け入れる事が出来た。
それでも、まだ俺の頭の中に混乱が渦巻いていたが。
「いったい何がどうして、こんな風になっちまったんだ……」
幻想的とも呼べる、自然に吞み込まれた都市。いや、単に自然に呑み込まれたというよりは、何か別のものと混ざり合ったような印象を受けたが……今の俺にはそんなこと、どうでもいいことだった。
「無事な人は、この中で俺以外に生きている人はいるのか?」
このまま立ち止まって考えていても仕方がない。
俺は、ひとまず他に生きている人間がいないかどうか、この変わり果てた世界を見極めるという意味も含めて、散策しようと歩み始めた。
◆◆◆
その獣は、決して弱くない生物だった。しかし、食物連鎖という大きな面で見れば………強者とは言い難い生物だった。
狩り狩られ、奪い奪われる事など、ざらにあること。もし、その獣を上中下の評価で細かく分類するならば………下の中と言ったところ。
だが、より小さな面で見れば、彼の獣は弱者と侮れない実力を有している。せいぜい、桑か鉈でも持った大の大人が数人でようやく追い払える程度の実力だ。
彼の獣の扱いを例えるならば、熊に近い扱いをされていると言えば良いか。
腕の良い猟師を相手にすると、一対一で互角の戦いを繰り広げられるくらいには強く、賢い。
だが、真に怪物、化物と称される獣共と比べると、彼の獣は弱者に成り下がる。そうした真に強き獣を相手取る戦士と比べると、彼の獣は犬畜生に成り果てる。
どうして、自分は強く賢いのに。
どうして、自分は群れの中でも長く生き延びているのに。
どうして、自分は戦士を嚙み殺した事もあるのに。
どうして、どうして、どうして――――。
彼の獣は餓えていた。勝利の愉悦に飢えていた。
自らが強者であると証明する戦いを。
己が足は弱者を踏み躙り、己が爪は哀れな肉を引き裂き、己が牙は戦士の喉笛さえも噛み千切る…………そうした、強者の矜持を味わえる〝実感〟とでも言うものを、彼の獣は切に求めていた。
一度だけ、心の奥底から生存本能が訴える死の恐怖に怯え、獲物と定めたものから逃げた事がある。それは彼の獣の
それからというもの、獣は勝利の愉悦を味わえず、どんなに美味い血肉を喰らおうとも、死闘の果てに手に入れた勝利を得ようとも、美しい番を得ても………彼の獣の心は満たせなかった。
否、欲望は満たせなかった。
征服を、尊厳までも己への感情で染め上げる、征服を。
自分こそ、貴様の敵だと思い知らせるように。
蛇のように長い舌で、顔の周りに飛び散った血を舐めとりながらも、獣は満たせぬ欲求に歯がゆさを感じて、地面に組み伏せた人間の顔を己が爪で引き裂いた。
既に事切れていたとはいえ、苛立ちをぶつけるには丁度良かった。だからこそ、意味の無い行為を獣は平然と行ってのけたのである。
再び、顔の周りに飛び散った血飛沫を舌で舐めとり、甘味な血の味に獣は笑みを浮かべる。幾分か、腹の歯がゆさが晴れた気がしたから。
地面に組み伏せ、逃げられないよう押さえつける為に座り込んでいた体を起こし、獣は地面の死体を丸呑みにする。
「GURURURURU……」
次なる獲物は何処か。
我が空腹を満たす獲物は居るのか。
獣は今さっき食い殺した獲物の事など忘れて、次なる
◆◆◆
風が吹き、枝葉の擦れる音や砂の舞い上がる音が時折ある中。ぐちゃぐちゃと、何かを喰らう咀嚼音は嫌に響き、耳を塞いでも隙間から入り込んで来る。
隠れ潜む人々は、声を押し殺して決して音を立てないよう、細心の注意を払って〝それら〟が過ぎるのを待っていた。
姿形は四足の獣、犬や狼に猫などの動物に似通っていたが、決定的に異なる特徴を有していたり、微妙に形態が違っていたりしていた。
普通の動物と異なる特徴は、足の本数であったり、瞳の数――――果てや、明らかに馬としか思えない体躯であったりと様々だ。
しかし、〝それら〟には普通の動物とは決定的に異なる点がいくつも存在する。
一匹の犬に似た獣の尻尾の先は、刃状のナイフになっている。黒豹に似た獣の頭部の両耳の先から伸びた触手からは、弾ける火花が飛び散る。
梟に似た鳥は、擦れる度に金属質の音を響かせる硬質な羽を羽ばたかせて、翼の先端で柱ごとカラスを串刺しにしている。
奇形と言うには、おかしな生態をした獣たち。驚くべきは、そのサイズだ。
明らかに、上記に上げた特徴の中の梟の体躯は、ヘリコプターに近しい大きさをしている。ギョロギョロと忙しなく動く瞳は、次なる獲物を見定めようとしているのか。
柱に突き刺した翼を引き抜き、先端に突き刺さるカラスの死骸を無造作に投げ捨てて、異形の梟は鳴き声を上げた。
「KYOOOOOOOOO!!」
異形の梟に呼応するように、そこかしこから続けて鳴き声が上がる。それは犬のようであったり、猫のようであったり……中には、衣擦れを大きくしたような奇妙な鳴き声を上げる獣もいた。
獣共の上げる鳴き声を耳にした人々は、ガタガタと恐怖で震える体を抱きしめて、必死に身を縮こませる。
どうか早く去ってくれと。心の安寧を返してくれと。
無言で瀧のように流れ落ちる汗を拭おうともせず、どこかに隠れ潜む人々は恐怖に震える。
なぜなら、彼らは目撃者だから。廃墟も同然の瓦礫と化した街中に、無数に転がる
隠れ潜む人々の大半は運よく生き残り、自衛隊か消防隊だかの救助を得ようと、どこかに避難しようと移動し損ねた者達だ。
この大災害で、自ら生きようとせず他者の力を借りようとする、弱者の集まりだ。
弱者とは、決して蔑称ではない。これは、単なる事実を述べたまでに過ぎないからである。
今この場において、彼らは等しく弱者なのだ。抗う術も持たず、無防備の裸に等しい猿に過ぎないのだ。
また、鳴き声が上がる。
薄暗い建物の中で、一人の小声が響いた。
「何なんだ、何だってんだよ…………あの黒い嵐は、いったい〝何〟を運んで来たんだよぉ……!?」
いずれ、この事態は分かる事だ。いや、彼らが理解する事だ。しかし、これだけは言える。
今この世界に、安全な場所など、とうに存在しないのだ、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます