第4話 赤黒い靴底

 これと言って大怪我を負うこともなく、地下鉄に続き歪んだ家屋から脱出した後、俺は眼前に入って来た光景に衝撃を受けて、暫くの間、混乱からか放心していた。

 脱出する時に蹴破ったガラスの破片が、俺の足に刺さった痛みで何とか正気に戻れたが………以前、俺の胸中はこれからの世界への不安感と変わり果てた事への恐怖でいっぱいだった。


「っ………!」


 言葉よりも、口から飛び出しそうな不快感を、必死に喉の奥へと押し込める。絶えず視界に入って来るが、見慣れぬ光景だからと知的好奇心を刺激されたからか、それとも非日常という光景に対し、いささか興奮しているのか。

 俺はの光景が視界に入る度に、目を引かれる事を自覚しながら目的もなく歩いていた。


 道端に転がる大小、種類も様々な死体の山。それを見る度に、あの時の光景が目に浮かぶようだった。





・・・

・・・・・

・・・・・・・





 突如として起こった謎の大災害――――否、〝天災〟を前にした人々の行動は、至極、単純なものだった。

 圧倒的かつ未知なる大自然の猛威を前に、矮小なる人々は逃げ惑う。天より降り注ぐ無数の木々やら瓦礫、明らかな人工物と分かる石造りの建物………。

 それらは近代都市たるこの街の高層ビル群の一つ一つを抉り、あるいは圧し潰し、あるいは押し流した。スコールなんて生温い、どこから現れたのかも分からない大量の水は、文字通りの大洪水となって建物どと生き物を呑み込み、水圧により歪むまで圧死する。


 必死に逃げ惑う人々。一直線に安全なのだと思い込んだ場所へと走り抜き、周囲の事など考える余裕もなく、自分が何を足場にしているのかも知らずに逃避する。

 彼の青年は――――蓮司は見た。人の波に押し潰される幼子の姿を。助けてとどこかへ手を伸ばし、伸ばしたその手を誰かの足に踏み砕かれ、絶叫を上げる間もなく圧死したあの子の死に様を。

 一度、冷静となった頭で視界に入った事実を認識すれば、もう止まらない。気づけば無意識に探していた。誰か、誰か人の波に呑み込まれた犠牲者はいないか。まだ、助ける事の出来る人はいないか、と。


 だが、現実は容赦なく蓮司の心を締め付ける。余裕のない個人共が、恐怖という感情に支配され、逃避という行動にのみ捕らわれた者共が、果たしてに気づく事が出来ようか。

 かつての震災。あの光景を思い浮かべる人もいただろう。人災による犠牲者たちの山を。誰もがトラウマを植え付けられただろう、あの光景を。


 その惨状と同様の人災が、現在進行形で起こっている只中にあって、人災を認識した蓮司にできた行動は、ただ一つ。


――――逃げる。それだけだった。


 蓮司のいた人の波が行き着いたのは、地下鉄の駅構内の奥深く。鉄道員により解放されたトンネルだ。そこは臨時の避難所として機能し、幸いにも丈夫な壁によって、彼らの命は助かった。

 しかし、ようやく安堵し冷静になった人々は、自分の靴にこびりついた血と肉と臓物、骨の欠片が凝り固まった痕を見て、逃げる途中に自分の感じた違和感に気づく。靴底の痕を見て、瞬時に顔を青褪めさせた者が何人か。


 事実に気づき、嘔吐を堪えて頬を膨らませる男性がいた。彼の近くにいた初老の男性は、心優しい人物だったのだろう。彼の背中をさすり、ゆっくりと落ち着くように介抱していた。

 だが、それを偶然、目にした蓮司には滑稽としか思えなかった。人災の当事者が、当事者を慰めている。そうとしか思えなかったのだ。


 何分かして、ようやく落ち着いたのか、男性の顔は青褪めたままでも呼吸は穏やかだった。その男性は、唐突に自らの背中をさすってくれた人の手を振り払う。手を振り払われた初老の男性は、困惑した様子で「どうしたんだい?」と、「大丈夫かね?」と男性を心配した様子で声をかけている。

 だが、顔を青褪めさせた男性は、どこか怒るように、されど狂ったように目を血走らせながら立ち上がり、こう叫んだ。


「大丈夫だと?大丈夫な訳あるかよ…………俺は、俺は自分の知り合いを踏んでここまで逃げてきたんだからな!!」


 ざわめく人々。いったいどうしたのかと、声のした方向へと顔や体を向けて、声の主たる顔を青褪めさせた男性に注目が集まっていく。

 そんな事にも気づかずに、男性は自分を介抱した初老の男性へと、殴りかかるように怒鳴り散らす。


「俺は、ここまで逃げるまでに、いったいどれだけの人間を踏んで来た?なあ、あんたは何人踏んでここまで来たんだ?俺は分からない。人数なんて気にならないくらい、人を踏んでいる事に気づかないくらい、俺達は混乱してたんだからな」


「俺の靴底を見てみろよ。ほら、赤黒いだろう?まるで血と肉を踏んでここまで来たみたいに、グロテスクで汚いだろう?ああ、そうだよ。このこびりついた汚れは殆ど、俺が踏んだ、あるいは誰かが踏んだ後の人間だ」


「俺達は、倒れた人を足場にここまで逃げてきたんだ。その内の一人は俺の知り合いで、来週、恋人と結婚するんだって言ってた。俺は……俺はそいつの未来を奪った当事者だ。俺は、俺はあいつを殺しちまったんだ」


 まるで舞台上で劇を演じる役者のように、顔の青褪めた男性は静まり返った集団の中で、胸の内を叫び続ける。

 血走った目から涙を零し、血が滲むほどに強く拳を握り締めて、いつしか、自分を介抱した初老の男性から、この集団に向けて言葉をぶつけていた。


「は、はははは!はははは!何なんだ!何なんだよ!何でなにもねえ俺が生きてて、幸せになろうとしてた〝あいつ〟が死ななきゃならねえ!?何で俺は、あいつを踏んでいる事に気づきもしないで、ここまで逃げてきたんだよ、ふざけんなよ……ふざけんなよ!!!」


 その怒りは誰に対して向けられているのか。その悲しみはいったい誰を想っての事なのか。涙を流す男性は、青褪めていた顔を真っ赤にさせて、膝から崩れ落ちる。

 その顔には、感情が抜け落ちたように表情がなく、その瞳は熱を失ったように虚ろだった。

 男性の言葉を聞いている内に、心当たりがある者はその場に泣き崩れた。自覚の無い者は自分の靴底を覗き込み、赤黒く染まった何かがこびりついているのを見て、恐怖から顔を青褪めさせて腰を抜かした。


 それは、最初に彼に言葉をぶつけられた初老の男性も例外ではなくて。


 気の沈み、澱んだ空気が立ち込める。人々は悲しみに暮れ、絶望し、罪の重圧に耐えきれなくなったのか、狂ったように泣いて、嗤っている。


 その中で只一人、鏡峰蓮司は悲しみを抱きながらも絶望はせず、自らの罪を重く受け止めていた。唇を噛み、血の滲むほどに拳を握り締めて、じっと痛みを楔に絶望しないよう、堪えて壁に寄り掛かった。





・・・

・・・・・

・・・・・・・





 ……手足を、頭を、腹を踏み潰され、骨を砕かれた死体が転がる道路で、ふと目立つ赤い色の看板が目に入る。

 注視してみれば、看板には整体師の制服を纏った猫が、マッサージをしているロゴマークがでかでかと描かれている。猫の顔がどこかコミカルに描かれているので、思わず頬が緩んだ。

 だが、その下敷きになっている誰かの惨状を見る事で、綻んだ俺の顔は引き締まる。


ぐちゃ、ぐちゃ。


 咀嚼音が響き渡る。肉を喰らう音、臓物を啜る音だ。


ぴちゃ、ぴちゃ。


 血を舐める音も聞こえる。ああ、骨をしゃぶる音も。


 決して直視したくない光景。なのに、なぜか目を惹かれてしまう。犬か猫、それとも猿のように見える小型の生き物たちが、道端の死体を必死に貪っているのを見ていると、なぜだか無性に………。


「…………ごくり」


 …………え?


 口元から零れそうな涎に気づいて、咄嗟に右腕の袖で涎を拭う。なんだ、この感覚は、感情は。

 何で、俺は涎が零れそうになるほどに、死体を貪るあいつらを見つめていたんだ?


「俺は…………」


 分からない。こんな状況になって頭が馬鹿になっているのかと思ってしまう程に、今の俺はおかしい。何で、俺はあの生き物たちを見てだなんて考えたんだ……?

 思えば、俺は何でこんなに冷静でいられる。俺は現実の死体なんて見慣れてないし、スプラッター映画もそれほど好きじゃなかった。こんな死体を貪る光景なんて、非日常でしかないのに。


 まるで、このような惨状を何度も見慣れたか、それとも自分の理性が強靭になったみたいな、ふとした違和感。

 ………背筋が震える。背中に冷や水を浴びせられたみたいな、そんな理由の分からない未知の恐怖に対し、何か異常が起きているのかと考えてしまう。


「…………いや、違う。今は混乱して、感覚が麻痺してるだけだ。きっと、時間が経てば元に戻る。麻痺していた感覚だって治る。そうに決まってる……」


 頭の中の冷静な自分が告げていた。これは感覚が麻痺している訳でも、異常が起こっている訳ではない。俺は〝正常〟だと。


「うるさい……!」


 いつの間にか壁まで移動していたのか、感情のままに俺は倒壊していない建物のショーウィンドウを殴る。

 脆くなっていたのか。ガラスはいとも簡単に蜘蛛の巣状に罅が入る。意味不明な違和感に振り回され、冷静でいられなかった俺は〝それ〟に気が付かなかった。

 鏡のように俺の横顔を反射するショーウィンドウ。蜘蛛の巣状に罅割れたガラスに映った、自分の瞳。


 苛立ちを抑えきれず、俺は自分に言い聞かせるように呟く。


「俺は、正常じゃない………何か異常が起きてるんだ。そうに違いないんだ……」


 そうして、俺は他に誰かいないか探し求める足を速めた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る