第10話 逃走劇
意識が浮上する。重たい瞼を持ち上げて、ギシギシと硬くなった身体にむち打ち、そこら辺に転がっていた台のような何かを頼りに起き上がる。
両手を挙げて一気に身体を伸ばし、両手を降ろして脱力した瞬間に欠伸が出た。
「ふぁ……どれぐらい、寝てたんだ…?」
段々と意識が覚醒してきた事で、身体が痛みを思い出した。不幸中の幸いか、その痛みによって完全に意識が覚醒する。
「いつっ……」
内側から響いてくる痛みと込み上げてくる吐き気を、歯を食いしばって我慢し、自分が置かれている状況を確認しようと周囲に目を向けた。
頭を動かし、周囲に目を向けていると、鉄臭い匂いに混じった硫黄に似た臭いが鼻孔を刺激し、反射的に顔を
すると、段々と目が闇に慣れてきて、うっすらとだが眼前の光景が見えてきた。
「なっ―――なんだよ、これ!?」
目の前に広がっていたものは、得体の知れない獣達の死体だった。近くによって見てみると、独特の斑点模様の毛皮で、まるでハイエナの毛皮を被った狼のような姿をしていた。
その獣は、どいつもこいつも何かに引き裂かれたみたいに胴体が泣き別れしていて、酷い物だと内臓が垂れ流しになったまま、逃げるように這った血跡が残されている。
………なんだか、薄暗くて見えにくい筈なのに、妙に視界が明るい気がする。流石に色は分かりにくいし、辛うじてそういう色なんだと認識しているが……。
(俺って、こんなに視力良かったか?)
まあ、良いだろう。深く考えても仕方がない。というより、無駄だ。そんな思考をする暇があるなら、どうやったら生き残れるかを考えた方が良い。
思考を切り替えて、まずはどうすれば良いか考えた結果、やはり一刻も早くあの化物から距離を取った方が良いと結論づけた。
しかし、起きて早々に素早い動きが出来る訳もなく。結局、身体に負担をかけないよう自然とゆっくりとした足の歩みになっていた。
なるべく、音を立てないよう慎重に歩を進めた。あの獣のように、この建物のどこかに潜んでいるかもしれないから。だが、こんなものは気休め程度でしかない。
何せ、今の俺はまともに動ける状態じゃない。そもそも、これだけの痛みを味わうのは初めての経験なんだ。
身体の内側で内臓が暴れ回るような衝撃も、肋骨のヒビが入っただろう痛みも、その全てを一気に味わう事になるなんて思いもしなかった。
ああ、冷静になってくると色々と考えちまう。今が現実なのか、それとも夢なのか。信じたくない思いで埋め尽くされる。
でも、この痛みは本物だった。あの化物の息遣いも、生きていただろう人間の死体の冷たさも、全てが現実だと思い知らせる〝本物〟なんだ。
どうして、どうしてこんな事になったんだ。どうして、俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
腹立たしくて、思わず壁を殴りそうだ。何か、この気持ちを発散させてくれるものは無いか。そう考えたけど………
「あの化物に一発いれなきゃ、気が済まねえ」
俺をこんな目に遭わせた、あの化物。人間を餌としか思わず、自分が絶対的に優位だと信じる、あの目。その自信を裏付ける実力は、確かなのは認めよう。
それでも、この苛立ちを発散させるには、お前という生贄が必要なんだ。怖くないと言えば嘘になる。ただ、その恐怖を上回るほどの怒りが、俺を闘争に駆り立てる。
本音を言えば、今まで人間相手に試した事のない技術を使いたい。そういう思いもある。親父から禁じられてきた事を、使ってみたいという思いも嘘じゃない。
ああ、イライラする。こんな思いをするくらいなら、逆にこう考えようか。この状況を楽しむ。生きるか死ぬかの生存競争。
俺は、それに挑むんだと。自分を騙して、楽しもう。あの化物を殺す算段を組む事も、自分の命を賭ける事も、その全てを楽しもう。
楽しんで、楽しんで、楽しみ尽くした果てに勝利すれば良い。まずは、そこからだ。
・・・
・・・・・
・・・・・・・
この時の事を振り返ると、やっぱりあの時の俺は狂ってたんだと思う。立て続けに異常事態に巻き込まれて、自分以外の誰かの事を考える余裕もなくて。
ただ、必死に生きたいという思いで、あの場から抜け出して外に出て………その先で見せつけられた人間の死体に、感情が麻痺してしまって。
初めて触れた死体の冷たさに、背筋が凍る思いがした。硬くなった身体は、これが単なるモノなんだと突き付けられている気がした。
そんな矢先に、人間の死体を貪る化物に遭遇して、あっという間に打ちのめされて、逃げるしかなくて………。
混乱した頭が、精神を保護する為にそうさせたのかは分からない。けれど、はっきりと言える事は、あの時の俺は正気なようで正気じゃなかった。
狂ったように、無理やり楽しもうとしてたんだ。
◆◆◆
ドクン――――――。
それは静かに脈動を始める。
ドクン―――――――。
固く、固く結ばれた毛玉が
ドクン―――――――。
誰かが固く結んで、ひとところに留めておいた力。それは、瞬く間に活動を再開する。
ドクン、ドクン、ドクン。
脈動は緩やかに、されど確実に早く、早く。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
解けた糸の隙間から、赤い眼差しが垣間見える。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――――。
ああ、やっと、やっとここから解放される。ずっと押し込められて窮屈だった空間が、小さな呼吸で破られていく。内側にあったものが裏返るように、今にも這いだせそうなのに。
それでも、この糸は一気に解けない。解けてくれない。
ああ、忌々しい。ああ、腹立たしい。こんなもの、さっさと解いて出ていきたい。外に出て、歓喜の産声を叫びたい。
焦るな、焦るな。今に飛び出たら、先に身体が壊れてしまう。砕けてしまう。
今は、まだ………ああ、だが待つのには慣れている。
あの悠久とも思えた
だが、それでも………この衝動は、抑えられそうにない。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
赤い眼差しが揺らぐ。未だ自らを既定できていないが故に、存在を形作る為の準備に入る。ドロドロとした力の塊は、ゆっくりと形を変えて固まってゆく。
無限に広がりそうな空間で、今にも飛び出しそうな塊を押し込めて、蛹のように糸を紡いで丸くなる。
『待ってイロ』
真っ先に作った、口のようなもので、それは覚えたばかりの呼吸で言葉を発する。
『おレも、もう少シでそコに行く』
ゆっくりと、ゆっくりと。震える口が弧を描く。
とても、嬉しそうな表情で、暗闇の胎内で力は変じていく。
彼は知らない。知り得る訳もない。これが何なのか。これが何を表しているのか。自分がいったい、何者であるのかも………。
◆◆◆
「ぐっ………」
暗がりの中を覚束ない足取りで進んでいる中で、急に胸に痛みが走る。それは、どこか軋んだように響く痛みだった。だが、すぐにまるで嘘のように痛みが消える。
それと同時に身体のどこかに違和感を感じて、反射的に眉を寄せるが………特に気にする程の痛みではなかった為、俺は先ほどの化物にやられた所が痛んだのだろうと思い、歩みを進めた。
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