第1話 黒い嵐


 突如として地球を襲った未曽有の大天災は、たった一日で星から文明を消し去るだけに留まらず、その環境を大きく変えるに至った。

 もはや、既存の地図など当てにできない程の大変革の後の世界に残ったのは、僅かな文明の名残と……突如として来訪した大自然により生まれた新たな環境だった。


 幸運にも、生き残った人類というのは確かに存在した。それは、何らかの形で天災より逃れた者達である。

 今も、じっと息を潜めて彼ら彼女らはずっと待っている。早く穏やかな日常が帰ってくる事を。


 、もはや帰って来ないという事を、頭の片隅で理解しておきながら。






◆◆◆






 夜――――空も大地の奥深くにも、海中にも地球上のどこにも罅割れた空間が出現しなくなった時。

 は………静かにやって来た。


 寒気がする、頬が凍えて引き攣り、異様な空気に首の後ろがチリチリとひりつく。そんな、恐ろしい程に静寂に支配された夜に、また一つ――――




 黒い嵐という〝天災〟がやって来た。




 空を裂くような風の音はせず、ただただ静かに黒い嵐は吹き荒れる。幾多の深紅を宿した粒子を灯して、世界中に場所を選ばず吹き荒れる。

 落ちた水が広がるように、一つ目の嵐から分裂するように大小様々な黒い嵐が吹き荒れる。


 外界にある幾つもの異様な気配を感じ取ったのだろう。誰よりも敏感に察知していた赤ん坊は、ぐずるでもなく震えて自らを抱く誰かの服を握り締めた。

 まるで、今だけはじっと耐えなければならないとでも言うように。その場の誰よりも敏感に外界の気配を感じ取っていた赤ん坊たちは、異常なほど静かにじっと身を縮ませて震えるのだ。


 赤ん坊ほどではなくても、子供たちも一様に感じ取っていた。今、小さなため息でも音を出したら――――間違いなく

 赤ん坊と同じく身を縮ませて、震える体を抱きしめて、じっと今を耐え忍ぶ。


 子供達の様子を見て、漸く大人たちも気が付いた。誰も入り込めないような、奥深くに避難していても、明確に分かる異様な気配を。

 それらは、どこか普通の獣とは違った気配を放っていた。それが何なのかは分からない。けれど、それが自分達の命を脅かす存在なのだという事は、否応なしに理解できる。

 だから、大人たちもその身を縮ませ、赤子のように身体を抱いて、じっと息を潜めて気配を薄める。


 年齢など関係なく、己の生存本能に従って導き出された最適解を信じて、彼らはお腹の中で胎動する赤子のような姿で、じっと嵐が過ぎ去るのを待っていた。

 それが、彼らの命を救うなど、誰も理解していなかった。

 だが、それがその場における最適解であった事に違いない。





・・・

・・・・・

・・・・・・・





 やがて、黒い嵐が過ぎ去った。一夜を通して世界中に吹き荒れた黒い嵐は何処かへと消え去り、太陽が昇り、あるいは沈んだ頃。

 世界が崩壊してから一度目の朝………翌日の事である。

 ある時、穏やかな朝を迎えた事に安心しきった若者が、隠れていた所を抜け出した。


 確かに、あんな天災が起こった後の外はどうなっているのか、気になる者はいくらでもいた。しかし、あんな天災を経験して、自分から外に出て様子を確認しようという者など誰もおらず。

 なので仕方なく、一人の若者が外の様子を見に行こうと、避難した場所を抜け出して外界へと飛び出したのである。

 勿論、その若者は自身の好奇心を抑えきれなかったというのもあるが、一番の理由は胸に抱く希望を妄信しての事であった。


 今、外に出ればそこは変わりない光景が広がっているのではないか。

 例え、変わり果てたとしても、そこには穏やかな世界が広がっているのではないか。

 もしかしたら、今までの窮屈な世の中から伸び伸びとした生き方が出来るのではないか。


 そんな妄想を抱きながら、若者は慎重に――――されど、急ぐように避難した場所の瓦礫の山の隙間を抜けて行く。

 途中、瓦礫の山を補強するように昇る植物の蔓を掻き分けながら、僅か一日にしてここまで成長した植物に、若者は驚愕する。

 興奮が抑えきれなくなってきた。若者は、まるで未知の大陸を冒険するような気持ちになって、隠しもせずに笑みを浮かべる。

 植物の根を足場にして、やっと見えて来た光の筋を目の当たりにし、若者はドクドクと煩い鼓動を無視して、光の筋から外へと飛び出した。


 光の筋の先に、何の警戒もせずに外へと飛び出した若者の未来を待ち受けていたのは――――――断じて、希望などではなかった。


 やった!………そう、喜びを声に出そうとして、違和感を感じた若者は、光の先へと伸ばした自身の右腕を見る。


「………え?」


 ボタボタと、赤い液体が溢れ出る。熱い血潮が噴き出す右腕を――――肘から先が右腕を見て、若者は呆けた声を出した。

 段々と、熱い血が流れるのに反し、自らの身体が冷たくなっていくのを、若者は感じ取った。

 やがて、ようやく脳が現実に追いついたのか。若者は、自身の現状を理解した。


「う、腕ええええええ!?」


 遅れてやってくる強烈な痛みに、若者は失った右手を掲げるように、左手で支えて右腕を挙げた。

 痛みに涙を流し、鼻水を垂れ流しながら、若者は現実を理解したくないと喚き立てる。


「う、うう腕、お、俺の…俺の腕がぁぁあああ!?痛い痛い痛い痛い痛いぃぃぃぃ……!!」


 何で?どうして?俺の腕はどこへ行った?何で右腕が無い?何で痛い?何で痛い?何で何で何で何で何で。


 繰り返し疑問が脳内を駆け巡る。右腕を失った事の恐怖と驚愕、そして痛みに頭の中を支配された若者は、自らに迫る危険に気づく事が出来なかった。

 ひたひたと、地面を歩く獣の足音が聞こえていながら、若者は失った右腕を探す事よりも、右腕を失った事への疑問で頭がいっぱいだ。


 故に、この結末は必然だったのだろう。


「あああああああああああああ……!!?」


 歯を食いしばり、必死に痛みに耐えようと、溢れ出る血を止めようと右腕を握り締める若者の頭上が暗くなった。

 若者はに気づかない。なぜなら、今の彼は痛みを我慢する事に必死だったから。

 ぽたぽたと、青年の頭と頬に何か透明な液体が降り注ぐ。


「ああああ……?」


 頬をつたう生温かい粘着質な液体に不快感を感じて、若者はゆっくりと、顔を上げた。

 顔を上げた事で視界に入ったのは、彼の拳ほどもある牙で生えそろった、巨大な化物の口内だった。細長い舌が若者の頬を舐めて、ゆっくりと青年の首へと伸ばしていく。


「あ、ああ……あああああああああ」


 喰われる。そう、頭の中で理解した若者は、動く事もできずに化物の口内を見つめ続ける事しかできなかった。

 否、顔を動かす事も出来なかったのである。目を逸らしたら……一体どうなるのか。そういった未知への恐怖から、若者の視線を化物の口内へと釘付けにしたのである。


 何もできず、ただ為されるがまま。若者の首を、吟味するかのように化物は舌を這わせる。そして………その舌を蛇の胴体のように伸ばし、若者の首を締め上げる。

 「ごっ!?」急に喉を潰された事で、反射的に首を絞める舌へと若者は両腕を伸ばす。右腕は何度も化物の舌を滑り、逆に左腕はしっかりと化物の舌を掴んでいた。


 だが、傷口から溢れる血を、何度も化物の舌に擦り付ければどうなる事か。生き残る事に必死な若者には、それが分からなかった。


 化物は、舌に擦り付けられた甘味な味わいに目を細め、我慢できぬと一気に若者を穴から引きずり出した。

 声を出す事もできず、徐々に首を締め上げる力で、若者の顔はトマトのように真っ赤に膨れ上がっていた。


 悲鳴を上げる事も出来ず、若者は化物の口内へと引きずり込まれる。そして、そのままあぎとは閉じられ――――若者の身体は、ぐちゃぐちゃと咀嚼されていく。


 肉を噛み、骨を砕き、内臓を磨り潰す。吹き出し溢れ出る血で喉を潤し、味わうように食べながらさっさと若者モノを飲みこんだ。

 長い舌で口の周りを舐めとり、食欲を刺激されて獰猛な笑みを浮かべた化物は――――――まるで、狼に酷似した姿をしていた。


 辺りに漂う匂いを嗅ぎ、耳を澄ませた化物は、次なる獲物の元へと歩き出す。


 その化物の体躯は、まるでだった。



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