第9話 年齢

 米寿――88歳。世間様では祝い事とされる吉日を、六畳一間の木造アパートで一人さみしく迎える。

 今月使える分のお金は残り2万円。年金の次の支給日まであと20日。

 算盤を弾くような音を立てて電卓を打って家計をまとめ、

 出てきた値をノートに書き写して記録を眺めた。


 自分はもう、驚くほど年老いた。

 この家計簿も何十冊目だろうか。誰にも読まれない記録の束が、古びたカラーボックスに詰め込まれている。

 ――旦那だった人は、今はどこにいるのだろう。

 ――息子だった人は、今は何をしているだろう。

 考えてもわからないことばかり考えながら、ふと窓の外を見る。

 柔らかな風がカーテンを押して膨らまし、大して物のない家の中を吹き抜けていく。

 ……昔と変わらないのはこの風と、窓から差し込んでいる太陽の光くらいなものだ。と、わたしは密やかに実感した。


 わたしは田舎の農家の5人兄妹の末の娘として生まれた。

 金はなくとも食うには足りるくらいの稼ぎがあった家で、わたしは人並みに学生生活を謳歌し、人並みの青春を送り、人並みに結婚し、よその家に嫁いだ。

 稼業は長男が継ぎ、次男が分家としてそれを支援する立場になった。

 三女も四女も家庭に入り、一族はどんどんと大きくなっていった。

 ――30歳、わたしに子供が生まれた頃だった。今にして思うと不妊の病を患っていたものと思うが、当時では周りが呆れ果てるほど懐妊するのが遅かった。

 旦那だった人は業を煮やしきり、ついついと若い娘に手を出して、わたしは生まれたばかりの我が子を押し付けられて家を追い出された。

 男尊女卑の村社会というのは恐ろしいもので、元旦那は五女のわたしよりよほど村で重用されている人だったから、わたしは巨額の慰謝料代わりの現金を受け取って、離婚して上京したというていで村を追い出された。

 田舎の噂は回るのが速い。近場に住むことはもう出来ない。わたしはどうせならばと本当に上京し、女手一つで子育てをしつつ、いくらかのお金を使ってお見合いの登録をして機会を待った。

 子供が話を出来るようになる頃合いで保育施設に預けつつ、自分は商店街の八百屋に勤めた。

 ……順調な生活を送るには、全てが遅すぎた。田舎育ちの30過ぎの女で子持ちとなれば、まず良い男など歩み寄ってこない。必然、奇人変人ばかりが相手になる。

 わたしはそれが受け入れられないまま40、50と年を重ね、ついにお見合いすらしなくなった。

 60になる頃には子供も自分の家庭をもって私の手を離れ、あれよあれよという間に定年退職する年になってしまった。

 幸いなことに、大きな病気はなかった。老いてはいても、ボケや物忘れにはならなかった。

 自分に介護が必要になる前に、もう時効だろうし、最期は故郷の近くで過ごそう。と、故郷の村のそばに引っ越し直そうとしてみれば、なんと驚いたことか、村は廃村になっていた。

 村の名前は夢ノ崎。その一番近くの夢叶町に小さい部屋を買って、役所で話を聞いたらまた驚いた。

 我が家は最終的に、夢ノ崎じゅうの全ての農村を買収、婚姻で傘下に収め、完全に夢ノ崎を掌握した。

 しかし、跡取りたちが農業にまるで興味がなく、皆上京していってしまった。

 元気だった兄妹たちも介護が必要な頃合いになり、せがれ達を追って東京へ。

 結果、買い手の付かない葦原だけがこの村に残されたという。

 どんなに嘆いた所で、わたしは村に捨てられた立場だから、連絡を取って村を買い戻すことも出来ない。

 そもそも、わたしもそろそろ自由が効かなくなる。子供にはわたしのことなんて気にせず幸せに生きてほしい。わたしは人知れず、残った金で老人ホームに入るのだ。

 ――結局、心虚しいまま故郷は滅び、わたしも滅びに向かって歩みを進める他無かった。


 ……毎日、夢叶神社に祈りを捧げる。

 日々の安息を、一族の平穏無事を。

 その余白に一つ、若返りという願望を。

 ――わたしがもう少しでも若ければ、もっとやれることが沢山あるのだ。

 故郷の修繕、農協と協力しての地方移住による活性化。子供の孫やひ孫を憂いなく見ること。

 どれも東京で八百屋をやっていたから時に抱いた想いから来た願望だ。

 都会の若い者は、誰も彼も田舎でのびのび過ごす人生を夢見ている。

 中には働くことをせず、畑仕事が出来るほどの体力を持て余しているのに何もしない若人もいる。

 そういう方たちを牽引出来るだけの体力が、若さがあれば、どれだけのことが出来るだろう。

 なんて、願うことしか出来ない体たらくで、そんな夢想家気取りの事をまじなってもらった。


 ――目を開ける。霞む目では電車であることしかわからないが、今のわたしにはそれで十分。


「もう、走馬灯かい?」

『いいえ、今のはただの記憶の整理です。さあ、あなたにとびきりのプレゼントを』


 顔の見えない御仁は指をパチンと鳴らすと、不意に視界が安定する。

 左右を見る。椅子も照明も、今まで老眼でぼんやりとしか見えなかったはずの視界がしっかり見える。

 目が若返ったのかしら? 驚いて手を見ると、干からびたようなシワはなく、握る手にもいくらかマシな力が入った。


「あら、なんだか若々しくなったみたい?」

『そうでしょう。あなたは今人間で言うところの60歳。30歳分くらい一気に若返りましたからね。どうですか、調子は』

「とてもいいわ。膝も少ししか痛まない、腰も曲がっていない。

 これならあと10年、20年は働けるかしら。

 でも、まだ足りない。この年ではすぐ定年よ。子供より先に寿命で死んでしまうかもしれないわ。もっと若返らせて頂戴」


 その言葉を聞くと、顔のない男はもう一度指を鳴らす。今度は目に見える変化があった。

 窓に映る自分の髪色が変化する。白から黒へ。腕もハリを取り戻し、顔からはシワが消える。

 これはわたしが子供を産んだ頃、ちょうどの見た目だ。


「ありがとう、不思議な人。もう体がどこも痛くないわ。

 これなら子供の行く末も見守ることが出来る。きっと人生をやり直すことも……

 でも、まだ足りない。やり直したら破滅に向かうだけですから。より良いものにするなら、20歳くらいでなきゃ。30歳はこの時代でも結婚するのに苦労するだろうからねぇ」


 わたしの率直な意見に、意外にも異形のそれは首をかしげる様子をとった。


『矛盾、ではないですが、疑問が一つ。

 これ以上若くなれば、あなたは子供が産めません。

 肉体構造上のバグというべき欠陥があなたの身にはあります。

 そしてそのバグが解消されるのが、今その見た目なのです。

 それでも若返りますか?』

「ええ。だって見返してやりたいもの。わたしに愛想をつかした男を、私を捨てた夢ノ崎を」

『ふむ、生物としての価値より個体としての精神性の問題、ですか。

 有機生物はすなわち産めや増やせやです。そうでなければ種が滅ぶ。

 その上で個人の優越感を優先するのは解せませんが……まあ』


 不服ながらも男はまた指を鳴らす。見た目は今までとは少し変わって緩やかに若返るようになる。

 30,29,28,27……

 23,22,21……ちょうど今20歳に近づこうとしている。

 窓には一端の女性には届かないあどけなさと、瑞々しい体が写っている。

 体ももはや軽いくらいだ。湧き出る活力に若返りを実感しつつ、異形を見た。


『見ての通り、此処から先は緩やかに若返ります。

 止めてほしければストップと仰って下さい』

「わかったわ」


 今すぐにでも言おう、と思っていたけれど、欲が出てしまった。

 これ以上若返る、ということは、もう一度学生をやれる、ということだ。

 学生生活。ああ、臨んでも手に入らないわたしの青春。

 わたしが一番輝いていた時期、人並みに恋をして、人並みに学び、人並みにおちゃめに生きる。叶うなら……その甘い花園にまた飛び込みたい。

 19,18,17……

 高校生は良い。勉学も実り、仲間も安定していて、恋模様も少し大人びてくる頃合いだ。

 でも、すぐに終わってしまう。折角の青春なら、もっと若い頃が良い。

 16,15,14……

 中学生は良い。大人な恋愛に憧れながらも初心うぶな頃。手をつなぐだけでもときめいてしまうような、甘い甘い日々。

 それでも、勉強に部活に習い事に、とても忙しい時期だ。どんなに楽しくとも、あっという間に終わってしまう。折角若返りなんて千載一遇の機会なら、もっと若い頃が良い。

 13,12,11……

 小学生は良い。みんな笑顔で、素直な頃だ。

 色恋沙汰は気軽に好きと言って、気軽に相手と一緒にいられるくらいが関の山。

 勉強も部活にも縛られない。ええ、このあたりにしましょう――


「す…………」

『どうしましたか?』


 ……言葉に詰まる。

 小学生から人生を始めるくらいなら、幼稚園からやり始めたほうが良いのではないだろうか。

 神童、天道。今この頭で戻れば、絶対に優秀な人間になれる。

 お受験で私立の小学校に入る人は息子の頃でもちらほらいたが、羨望の眼差しで見られたものだ。


「な、なんでもないです」

『ふむ、そうですか』


 ――欲が出てしまった。わたしはここでストップと言うのをやめた。

 異形の輩はもう興味がないのか、顔らしきものをよそに向けて考え事をしている。

 ……しかし、もうわたしにとってそんな些末なことはどうでもいい。

 刻一刻と若返る体。

 どこまで行けば納得できるだろう。わたしはカバンの中から手鏡を出し、初等部くらいになった自分の幼い顔を凝視し、見極めなければならない。

 10,9,8,7……

 小学校が終わる。手鏡は私の手のひらより当然大きく、重く感じる。

 6,5,4,3……

 幼子の顔つきが鏡に映る。よし、今だ――!


「しゅろっぷ!」


 喉から妙に甲高い音が出る。ストップ、と確かに言ったはず。

 わたしはボケていないから、呂律が回らないはずもない。きっと緊張したのだ。

 もう一回言い直そう。


「す、すろっぷ!しゅとー!」


 おかしい、何度言い直そうとしても声が正しく出ない。正しい発音の形に成らない。

 ――不意に、手鏡が自身の手から滑り落ちる。

 驚いて手を見ると、それもそのはず、手鏡の握りが片手で覆い切れないほど、手は小さくなっていた。

 覗き込んで鏡を見ると、そこには産まれたばかりの息子によく似た顔が映る。

 ああ、これが自分なんだ。と理解して――ようやく、事の重大さに気づいた。


「おおおー!」


 正しく発音が出来ない。重い頭を上げて前を見ると、異形の男は何も言わずにこちらを見ている。

 ストップ。というだけの合図を、ただ、いつ言うのかを見守っている。

 違う、違う、違う!

 見守られた所で出来ないのだ。

 欲をかきすぎた。わたしは失敗した。だって知らなかった。赤子がこんなに発音に苦労するなんて。

 身振り手振りで止めるよう伝えようとして――不意に、視界がぐるりと回り天井を映す。

 後頭部に走る痛みが、後ろに倒れたのだと気づかせてくれた。

 頭が重くて起き上がれない。今、わたしは何歳だ?2歳……いや、1歳くらい。

 首がすわらないのだ。左右すら向くことが出来ない。生後半年、もう、半年――

 徐々に視界がまばゆく輝いてくる。ああ、視力が産まれた頃に戻るのだ。

 もう――駄目だ。

 息子を見守りたかった。旦那を見返したかった。何よりわたしは、わたし一人の人生をちゃんと生きてみたかった。

 家族にもしがらみにもとらわれず、まっさらな日々を求めて――

 ああ、神様、仏様。

 わたしは結局、若返って何がしたかったのでしょうか――


 ついには胎児の姿に戻り、一片の生命となって、この世界から消滅する。

 何も残らなかった座席を見て、異形の男はため息をついた。


『若さを求め、100ある寿命に抗った。最後には、100から0になり、消えてしまった。

 彼女は自分が生きたことを否定してしまったのでしょうか。

 なんて無意味、なんて無価値。

 人というものは生きてさえいれば、いずれこの世界に記録されるもの。

 あなたの想う子供だって、きっと覚えてくれていたでしょう。

 その存在を、自ら手放すとは……愚かの一言に尽きますね』


 男は右手の指先で帽子のつばを軽く叩きながら、眼の前で消えた存在の"消えた理由"に想いを馳せる。

 しかし男は人でないがゆえに、人の真など理解も憶測も出来ない。

 だからこそ、彼は人を研究し、愛玩するために欲していた。

 ……さて、次は。と、人間基準で美しいとされるであろう女性の方に歩みを進める。

 今度こそ、彼女こそ――私とともに夢の先についてきてくれるだろうか。

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