第14話 夢境
暗い暗い闇の中、星々のように煌々と光る無数の化け物未満の命の中を、亜光速の電車は走る。
その様はまるで流星の如きもの。車体に生物があたろうが、一寸先が闇だろうが一切の迷いなく駆け抜けていく。
車内には並び立つ男女。男は長身痩躯ながらにスーツを着こなし美麗に見える。女は着丈の合わない上着を脱ぐと、まるで役者のように整った体付きと顔立ちをしていた。
強いておかしな点を挙げるとするならば――それは、男に顔がないことくらいだろう。
『ふむ、もうそろそろ良いでしょう』
男は腕を組んで車窓から外を眺めていたが、そのうち静かに右手を肩上に上げ、指を鳴らした。
すると――電車の向かう先の宇宙が突然、鏡面のようにひび割れる。
そしてひびは欠片になって、どんどんと下へ剥がれ落ちていく。
重力なんて無いはずなのに。まるで――この空間が偽物で、この車内での葛藤は茶番だったとでも言いたげなように。
そして列車は、割れた鏡面の世界へ容赦なく突っ込んでいく。
――衝撃波のように発生する音、まばゆく輝くような車窓。重力による振動が体に伝わって、舞台が変わったんだと直感的に理解できた。
『さあ、目を閉じて――あなたは生まれ変わります。人間の世界での苦しみから今、解き放たれるのです』
異形の存在の手が優しく私の目元を覆う。深い暗闇の中で、突然、全身が脈動した。
内蔵の全てが揺すられるような感覚。胃のものがせり上がり、こみ上げるような吐き気に襲われる。
戻しそうになる。思わず両手で口を覆って膝をつく
えづいた後、内臓が出てきていないかとっさに手のひらを確認する。
吐き出したつもりが、何も手のひらに乗っていない――
左手で地面に触れると、そこにも何も無い。大地はそこに存在したが、土というより灰のような色をしている上、乾ききってひび割れていた。
無意識に、大地そのものが死んでいるかのような錯覚を脳が認識する。
そして、こんなに気持ちが悪いのに、何も吐き出すことが出来ない。
ああ――ここは本当に異世界なんだ。
私は自分の思い通りじゃない世界を見て、ようやく実感した。
『運が良かったですね。ここはレン高原と呼ばれる場所です。
この夢の国において、比較的安全でしょう』
「……夢の国、じゃあ、ここが夢の先にある本当の異世界。誰にも傷つけられない、理想の世界――」
『ええ。ここでは人間社会の法律も法則もありません。
多少変わった先住民は居ますが、私のそばにいれば安全です』
ああ、ここが理想の世界なんだ。
そう思うと、途端に自分を庇っていた疎外感や異物感が消え、吐き気も次第に収まってきた。
ようやく私が立てるようになり、両足でしっかりと大地に立って世界を見渡す。
ここは――荒野だ。しかも大地だけでなく空も、植物らしきものも全てが灰色だ。
まるで、モノクロの写真の中に入ったようだ。
――なんとなく、人間の居ない世界はきっと、犬や猫みたいな生物と、のびのびとした自然で出来た豊かな原初世界みたいなものだろうと、思っていた。
でも――ここは違う。この世界は生きていない。視界の端に映る生物らしい影は蜘蛛のようなものだったり、人にしては動き方がソンビ映画みたいなホラー感を纏っていたりと、私が想像していた楽しげな世界感とは一致しなかった。
それでも――それでもいい。私はもう誰からも害されることはない。
外傷を得ることは、もう無いのだから。
「…………ふふ」
突然、私の口から、私の声で小さい笑い声が発される。
何故笑ったのだろう。口元を触ろうとするが、不思議と手が口元に触れない。
手を見ると、私の手はちゃんと人肌で、5本の指がついた、普通のものだというのに――
何故だろう、その手が震えている。
こんなに幸せなのにどうして?
「……どうして震えているの、私は……?」
元の世界と違って、この世界の住民は皆人じゃない。
私を勝手に美しいもの、傷つけて良いものと断じてこない。
なんなら私は今、不快ではない形で愛を受けている。寵愛と言う名の庇護愛を。
――突然、耳が遠くなる。何故?
――突然、心臓がバクバクと音を立てて動き出す。何故?
――突然、震えが全身に移る、何故?
わからない、わからない。点で思いつかない。
何故、何故、何故、何故――
「あ――」
――そうか、私、ずっと目を背けてきたんだ。
人が居ないということは、人の営みがないということ。
誰にも害されないということは、誰にも関心を持たれないということ。
寵愛されるということは、価値がなくなれば見捨てられるということ。
この世界にとって、私は存在しないものだ。
唯一の存在理由は風前の灯火で、私自身は私をまるで制御できていない。
私は生きているの?
これからどうするの?
何を着るの?何を食べるの?どこに住むの?誰と話すの?寿命は?酸素は?太陽光は?水は?昼夜は?
――一体どうやって、安心感を得るの――?
私は現実の世界でひどい仕打ちを受けてきた。誰にも守られず、誰も理解されなかった。
不要な好意を持たれ、不要な敵意を持たれ。散々な扱いを受けた。そんな日々に戻ろうという気持ちは一切ない。
ただ――この新しい現実も、何も変わらないということが解っただけ。
むしろ、自分で自分の身を守る方法もない。趣味になることも出来ないんだ。
なぜならこの世界は全て灰色で、見渡す限り人間的文明は何も無いのだから。
『おや、そんなに衝撃でしたか。
あなたの心は今にも砕けそうだ』
「あは、あははは――あはは――だって、私、より悪くなる選択をしてしまったんです」
絶望だ。絶望に尽きる。
スマホもない、ネットもない。食事もおやつもない。
こんな灰色の世界が現実だという事実にだけがここにあり、それに心が耐えられない。
しかしこれは、片道切符で乗り込んだバスだ。
引き返すことはもう、出来ない。
元の世界、何一つ安心を得られない世界――それでも唯一、自分だけでいる時間は安全で居られたというのに。
私は私自身の心のなかに敵を作って、頑なに安心しなかった。
自分を寸分も幸福がないかのように欺いて、安心しないようにした。
自分を悲劇のヒロインに仕立て上げた。
だから、こんな世界に来てしまった。明日生きていられるかもわからない、全く意味不明な世界へ。
「あは――間違った、間違えました。私、こんなつもりじゃ――」
『では、一旦冷静になるまで口を剥奪しましょうか』
彼はとんでもないことを口にして、電車の中と同じようにまた指を鳴らした。
視界が一瞬軋んだ――鏡面が割れるように脳が割れた。割れたんじゃないかと錯覚するほどの衝撃から悲鳴を上げた。
でも、声は出ない。出なかった。出せなかった。
口にいくら触れようとしてみても触れない。まるで、そこには何も無いとでも言うかのように――。
今の私はどんな顔をしている?
……わからない。
もう、見る手段さえ、無い――
『さあ、それでは私の領域に行きましょう。
――ああ、申し遅れました。私の名前はヒュプノス。
この世界における神のような存在です。』
そう言って彼は、顔面の空洞を制御し、ヒュプノスという上位存在の顔を形成した。
それは――ギリシャ神話に名高き神の名を冠しているのに――
文献や書物で見るような人の顔ではなく、なく、なく、なく――
全く別の、人間ではない何かだった。
目も人間、鼻も口も人間。だというのに、真実味がまるで無い。
それが本当に人間ではないのだ、という事実を突きつけられているみたいで――
――あ、駄目だ。
「――――」
叫べない。
視界が充血で赤くなり裂ける。脳が処理限界を超えて腐り落ちる。
首から下の感覚がなくなる。恐怖に耐えられない。だというのに、この存在から目が離せない、
『ようやく自然体の顔で居られますね。良かった。
――おっと、心が砕けてしまいましたか。人はこれを発狂というのでしたね。
――では目と心を補強しましょう。
ああ、今すぐに戻してはまた割れてしまうでしょうから、一度目も心も剥奪しましょう。
体はもっと小さいほうが良い。大きいと場所を取りますからね。
良いですね――そうか、そういえば口が無いのでした。道理で反応がないわけです。
まあ、私のものになったのですし、私が良いなら良いでしょう。
それでは、この世界での二度目の生を、どうぞ心ゆくまでお楽しみ下さい――
――我が愛しき愚かなる人間よ』
そう言うと、眼球がが彼の顔に引きずり込まれていくような感覚がして――
心も何もかも、自分ではなくなっていく感触がして――
全ての感情が溶けて混ざって、泡立って潰されるような気がして――
――そうして、何も感じなくなった。
ジョウシャケン 那須高 @NasuTaka
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