第8話 大金

 ――俺は、疲れていた。

 生きることに、働くことに。


 ……大学を卒業する数ヶ月前に慌てて入社した中小企業で、売れない学習教材を売る営業職に就いた。

 車で現地に行き、チャイムを鳴らし、無視される。

 次のチャイムを鳴らし、罵声を浴びせられる。

 次のチャイムを鳴らし、インターホン越しに怒鳴られる。

 次のチャイムを鳴らし――

 それを数十件。そして運良く対面出来た人に1時間かけて説明をし、名刺を渡して帰る。

 ――電話が鳴る、電話が鳴る、電話が鳴る。

 ひっきりなしに、土日でもお構いなしに、早朝も深夜も関係なく鳴り続ける。

 ――叱られる、叱られる、叱られる。

 対面で、インターホンで、電話で、道端で、会社で、休憩所で。


 ――もう俺には、どこにも安息の地はない。

 両親は不仲だった。俺の就職とともに離婚し、俺も一端の社会人になったからと変な理由をつけられ、両親ともから連絡を絶たれた。

 だから実家なんてものはとうに無い。俺は天涯孤独だった。

 時間も金も無い俺は、地方から上京した時に交友関係も無くしたらしい。

 俺には何もない。得るものも失うものも、何もない。

 ただ、毎日誰かの必要ないものを押し付けて、誰かのストレスのはけ口になる。そんな人生だ。


 疲れた。徒労だ。すべてが無駄だ。

 それならせめて、俺だけでも快適な生活を。

 そう思っても手取りが少ない。宝くじ、馬券、パチスロ、ギャンブルの類は尽く俺を裏切った。

 株、FX、全部駄目だ。そもそも時間がない俺に時流を読む余裕なんて欠片も残されていなかった。


 ある日、俺は昼休憩に小さな町中華屋に入った。

 古めかしいテレビでは、楽しげにワイドショーなんて写していた。

 その時テレビでやっていた内容が――たまたま、夢叶神社のことだった。

 願いが何でも叶うなら、俺ならどうするか。

 少しだけ悩んで、悩みながら食事をし、悩みながら席をたった。

 会計に伝票を差し出し、財布を開いた時、悩みは解決した。

 ――そうか、金か、と。

 金されあれば、こんなクソみたいな仕事を辞められる。

 金さえあれば、快適な暮らしができる。

 金さえあれば、いつでもうまいものが食べられる。

 きっと友人もできる。性的欲求も満たせる。健康的でいられる。

 金さえあれば、全てが叶う。


 それはいい。疲れた頭が冴え渡った気がした。会計を済ませて車に乗り込み、ドライブレコーダーとスマホのGPSを切って高速道路に乗り出した。

 そうしてたどり着いた神社で祈祷を真っ先に予約し、渡された紙には一心不乱に金と書いた。

 ……本当は、お守りを貰ったらすぐにでも仕事に戻らなければならない。

 だが、バスに乗って、この異常事態に飲み込まれてから、そんな気もなくなってしまった。

 今はただ、願いが叶えばそれでいい。それ以外はもう。どうでもいい。


 ――ふと、気づいたら電車の中に座っていた。

 眠っていたのか、気を失っていたのか。現実感のない車内で、終電みたいな街頭の明かりを見送っている。

 その視界に、突然紙の束が飛び込んでくる。

 綺麗に膝の上に着地した紙束は、どうやら一万円札だ。手触り、年季の入り方、匂い、どれをとっても本物の紙幣のソレだ。


「か、金だ!」


 ついに叶ったんだ!ここまで来た甲斐があった!

 その札束をビジネスバッグにしまう間に、もう一つ飛び込んでくる札束。これ2つ、合わせて200万くらいか?

 しかし、まだ足りない。今どき人間が老後まで生きるには3000万いる。この程度で大金とは呼べないな。

 そう思っていると、壁から天井からドカドカと紙の束が襲いかかってくる。手で払い除けて目で確認すると、塊が約30個……大体3000万くらいだ。

 しかし、まだ足りない。家を買うなら1億、車を買うなら更に倍、毎日晩酌し、毎週風俗に通い、毎月ギャンブルに勤しむならさらにその倍は欲しい。

 そう思っていると、またドカドカとけたたましい音を立てて紙束が遅い来る。音が収まった頃を見計らって見てみると、視界にある紙束が10倍くらいに増えている。もはや自分を取り囲む紙束の壁だ。電車の中であることなんて椅子くらいでしか判別できない。

 しかし、まだ足りない。3億程度じゃ宝くじの一等と変わらない。今どきといるだろう。売れ筋のタレントやスポーツ選手なら1年で稼げる。俺は100歳まで生きるんだ、そいつ等の100倍は寄越せ。

 そうだ、寄越せ。俺に寄越せ、あるだけ寄越せ!

 苦にならないだけ、足るだけの大金を寄越せ!!

 壁は天井も覆い隠し、より厚みを増していく。

 だんだん暗くなる視界、当然だ、明かりも届かないほどの密度になったのだから。

 しかし、まだ足りない。300億円程度じゃ一等地に豪邸を建てて、派手に遊べば無一文だ。


「そうだ、もっと、もっと金を――」


 尽きない財を。国を、世界を買えるほどの財を。


 ――不意に、体が重くなる。

 巨額の紙幣で出来た壁は、厚みを増しながらだんだんとこちらの活動領域を圧迫してくる。

 天井ももう見えないといいうのに、膝の上にまた札束が、どこからともなく現れる。

 まるでコピー機の詰め替え用紙の束で殴られたような衝撃とともに、椅子から叩き落される。

 全身を叩きつくす紙という名の物質的暴力。

 痛い、重い、苦しい。

 軋む骨、自由に動かなくなる体、冗談ではなく金に潰される――


『おめでとうございます。あなたは巨万の富を得ました。この世界で、あなたほど金銭をもつものはいないでしょう。

 では、そのお金でどうしますか?』


 単純な疑問、みたいな軽い口調が頭の中に響く。

 どうしますか、だと……?


「俺は、俺はこの金で自由に生きるんだ!他人に振り回されず、やりたいことをやりたいようにやるための金だ!」

『では、金を得て、死ぬまで生きて、それでどうするのです?』

「それでって……死んだら終わりじゃないか」

『ああ、そうですか……』


 男は心底残念そうにため息を付く。

 途端、天地がつかめなくなるほど激しい揺れが起きる。

 脳がかつて無いほどの震えを検知する。まるで洗濯機の中に入って回されたような激しい衝撃が走る。

 頭が痺れる。視界が定まらない。吐き気が止まらない。だというのに口が開かない。

 いや、それどころか、体に力が入らない――そもそも、体の感覚が、無い?

 嘘だろ、視界は真っ暗、永遠に止まらない回転性の目眩と、頭の痺れでそれどころじゃない。

 痛い、痛い、痛い、痛い!

 どうしてこんなに痛いんだ!


『紙幣の重みに耐えられず、首が折れてしまったのですね』


 痛みが徐々に引いていく。同時に血の気も引いていく。

 あんあに明晰だった思考力が欠損し、損なわれていく――。


 俺はどうして、こんな目にあわなきゃいけない?

 眼の前に、叶った夢があるのに?

 俺は何も、悪いことなんて、していないのに――?

 こんな、馬鹿みたいな事で、俺は死ぬのか?

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ――

 こんな、嫌だと口に出すことすら出来ない、なんて――


 そうして、彼の意識は無へと帰依する。

 最後に残った命の灯火が煙のように消えるのを、異形の男は静かに見守った。


『富を得て、それを使って死ぬまで生きる。それは理にかなっていて素敵な夢でしょう。

 しかし、その先がない。死後どうなりたいか。彼が思い描いたものの中には一切、その構想がありませんでした。

 ならば、それすら彼の思い描く夢なのでしょう。

 与えうる最大の富を。願い叶った幸福な生を。そして、願いすらなき完全な無を。

 ――それが、あなたが望む本当の夢。

 ……全く、理解できない。生きている間だけ幸せなら良いなんて、人間はどうしてこうものでしょうか。魂を軽んじすぎている』


 異形の男は亡骸の周りから、もはや不要になった紙屑の束を消す。残ったのは、無惨に潰された圧死体だけ。

 魂の抜けたゴミに、もはや男は興味がない。

 そうして男は次の夢へと渡っていった。

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