堅香子の花


「よぅ、紀の才子よ。花の様子はどうだったね? 摘んでみたかね?」

 朝日に照る朱雀門をくぐったところで、治部少輔に捕まり、締まりない顔を向けられた。本来なら、昼には帰れる文使だというのに、広足は馬を引いて登庁した。どこぞの娘と一夜を明かしたものと、からかうのだ。

 広足はつられて緩む口元に力を入れ、寝不足の顔を疲労のためと訴えるように見せると、寺々を巡ることになったとのみ報告した。

「いずれからもよく饗応いただきました。そのため、帰りも遅れまして。花の様子についてですが、青丹よし寧楽の都の春よりも早くはあらじ、奥なればこそ」

「なるほど、なるほど。しかし、紀の殿に歌を詠ませるほどには、花盛りだったわけだな。報告ご苦労」

 肩を叩かれ、馬の寮の方へと押しやられる。広足は、金銀花の残り香が袍にあったのではないかと、バツの悪い心地で袖を嗅いでみた。抹香に混じり、青臭い甘さがある。熱い唇の感触が蘇った。

 その日は仕事の途中に幾度となく、頼姫の声や匂いがちらついた。しかし、文字を読む目は普段よりも速い。仕事を終えたら、また頼姫に会えると思えば、眠くなるような文書の仕分け作業にも精が出る。

 何かあって、あの娘の耳に自分の評価が届くことがあるかもしれない。そのときには、さすが紀の若人わこうどだとの評判を伴っていてほしいのだ。なにせ、自分は登用試験を次席で通過しているのだから。

 没頭のうちに午後の鐘が鳴り、広足は駆けたくなる気を抑えて、ごく澄ました足取りで庁舎を出た。最も上等な着物に着替え、母が表で畑の世話をしていることを見計らい、銅鏡を覗き込む。浮かれただらしない顔が見返してきていた。眉目に賢さと慎みが現れるように、厳めしさを与えてみる。

 帰宅した父へと、明日の夕方には帰る旨を伝え、何かを問われる前に、前庭を足速に抜けた。すぐさま、重ねて母を呼ぶ父の声と、母の驚きに歓喜の混じった叫び声とが挙がったが、広足は振り返らずに、眉根の険しさを保ち続けて歩いた。

 一時もかからぬ道を、時折、駆けて進む。起こされた田の土から上がる湿気が、日差しと相まって汗を流させた。高瀬川を渡る途中で、手巾を濡らし、顔や首を拭った。

 丘陵に差し掛かると、遠く楢の木が見えた。山辺からの東風に乗り、頼姫の歌声が聞こえる。草を分けて走り、袖を振る。頼姫も駆け寄り、広足の腕に身を収めた。


 頼姫の里は、高瀬川を上った奥にあるという。川から山へと、段々に水田がられる谷合の道を進みながら、頼姫は目に付く草木を指して、名を挙げてゆく。それが詠まれた歌を挙げていく。

「あれは、山吹。春のお花は黄色が多いのよ。良いわよね、春らしい、訪れの色よ」

「花盛りなり、の花は何色なんだい?」

「薄紫、かしらね」

「……菫?」

「うふふ、ううん」

「もう教えたまえよ。意地悪だなぁ」

「もう少しで着くから。──ああ、見えた。あれが御館みたち

 谷の奥、集落で最も上にあり、かつ最も屋根の高い屋敷が、石川の居館だという。頼姫は屋敷の裏手へ回る山道をさらに上った。鹿のような軽い足取りだった。

 広足は頼姫の後方を遅れがちに歩く。先程から、大して草木の名前を答えられはしないし、脚の強さでも敵わないしと、ひとつも良いところを見せられていない気がして、自身が情けなく思えた。せっかく、おもしろい話をいくつか持ってきたというのに、息は上がってろくに話せもしない。

 最後、腕を引かれて登った先は、頂上よりも少し下、開けた僅かな平地だった。一面は薄紫色。百合よりも細い花弁を巻き上げて、菫のように俯き加減に恥じらいながらむ花は──

「私の一番好きな花。堅香子かたかご

 頼姫は花の中に腰を下ろした。広足はその隣で脚を投げ出し、ぽっかり空いた春霞の空を見上げて、深呼吸を繰り返した。息が落ち着くころ、頼姫が頭を肩に預けてきた。腰を抱き寄せる。

「……桜かと考えたりもしていた、粗略にもな。この季節に花盛りというんだから。そうか、これが堅香子……美しいものだ」

「ええ、若紫色」

「種を挽いて、粉にするのか?」

「ううん、根をすり潰して水に晒すの。すると、白い澱が下に溜まるから、それを乾燥させるのよ」

「ふぅん……」

 頼姫が指を伸ばし、広足の膝に掛かる薄紫の花を上に向けさせた。

「小さいころから、堅香子が好きだったの。粉を作るのは、それはもう大変なんだけど、丁寧に手をかけてやった分だけ、きれいにできるわ。大切にするほど良いの。そういうところも含めて好き」

「わかる気がする。積み重ねた分が返ってくることは、信を為せる。堅くて好ましい」

「そうね」

 頼姫の指が花を離れて、広足の膝へ置かれた。労るように撫でる。広足は、優し気な労働を知る手を握り込み、抱き寄せて、口付ける。静かに寝かせる。

「……きれいだ」

 堅香子の薄紫、茂る若草、黒い髪と白い肌。頬を撫で、髪を梳けば、赤い唇がいたずらっぽく笑う。

「積み重ねてみる?」

 答えの代わりに、熱い唇を合わせた。


 次の休暇、再び堅香子のなかで会った。また次の休暇、堅香子は既に散っていた。ごく僅かの間しか咲かないのだと知った。


──あさな 思ひたりけり 我が恋は 堅香子のごとは 散らずもあらなむ

(朝ごとに思っているのだ。私の恋は片栗の花のようには散らずにいてほしいものだと)


 広足が山藤を見上げて詠った日から八年が経つ。ふたりには、愛し子があった。上は七つ、下は二つで、いずれも男児。広足は相変わらず縹の袍をまとってはいるが、そこに不満はなかった。

 屋敷の前庭は、頼姫による種々の薬草園となっていた。夏枯草かこそう芍薬しゃくやく烏瓜からすうり益母草やくもそう。今や広足も名を覚えている。休暇になれば、父母が下の息子をあやし、広足と頼姫、上の息子の三人で畑の手入れをしていた。

 息子は頼姫を真似て出鱈目に歌いながら、夏のしぶとい雑草を抜いていく。時折、畑中の薬草を指しては、その薬効を頼姫に尋ねた。薬草と雑草を見分ける目も、力強く引き抜く手付きも、慣れたものだ。

 広足は、息子が小さな背中をさらに丸めて地面と向き合う姿を見るたびに、妙な感慨を覚えるのだった。生きている不思議、長じている不思議。

 ふたりの息子の間には、娘がいた。頼姫と同じ、美しい白い肌をした娘だったが、生まれて十日ほどで亡くなっている。頼姫も肥立が悪く、一時は危うかった。

 今、頼姫の腹には、新たな生命がある。堅香子の花が咲くころには生まれるそうだ。どうか無事に生まれ出で、長じますように。いつか、三人の子らが並び、頼姫と薬草園の手入れをする日が日常となりますように。

 広足は屈んだ腰を伸ばし、大きく息を吸うと、都の青空に詠じた。


──今はただ くあれとのみ 我が子らよ 堅香子のごとは 散らずもあらなむ

(今となっては、幸いであってくれよとのみ願う。我が子たちよ、堅香子のようには散らずにいておくれ)

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堅香子の花 小鹿 @kojika_charme

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