堅香子の花

小鹿

金銀花

 昨夜の雨も朝には上がり、ならの薄黄色に染まる春日山からは、清かな陽が射し来る。田起こしが進められる上ツ道かみつみちは、湿った土の香りで満ちていた。

 馬上に薫風を受けるのは、紀広足きのひろたり。今年、官吏となったばかりの若人だった。

 広足の家は、紀の一族の末席。大納言を勤めた曾祖父の、三男の次男の長子として生まれた父の官位は、二十年はたとせ勤めてようやく従八位下じゅはちいのげ。もとより出世は望めない。どうか一子、広足だけはと、幼きころより勉学を詰め込んだ。甲斐あって、広足は登用試験を次席で通過。いつの正月よりも盛大な宴が開かれ、治部省じぶのしょうへと送り出された。

 初めは、父と同じ深きはなだほうをまとうことが誇らしく、密かに母の銅鏡を覗き込んで、自らの顔色の映りに合うかどうかを気にしたりもしていた。登庁のため朱雀大路を上るときは、同じ年頃の者たちが浅き縹や黄色の袍を着ているのを見て、彼らの数年、いや十数年先の色を既に着ている事実に、胸がすく思いがした。

 重ねた苦学が、この優越をもたらした。報われた。ああ、なんと麗しき人生だろうか。青丹よし。奈良の都は、広足の向後を寿ぐかのごとく、家園みそのの木々を芽ぐませていた。

 ところが、感慨も束の間。庁舎の仕事は、単調も単調。日々運び込まれる解文げぶみ牒状ちょうじょうなどの公文書をひたすら読んで、上司へと上げるばかり。または、文使として、あっちの省庁やこっちの寺院へと走らされるのだ。

 今朝も登庁するなり、飛鳥の大寺への牒状を渡され、庁舎を出された。全くおもしろくない。子どもにだってできるお遣いだ。

 上役である治部少輔じぶのすけは、広足を送り出すときに、花見でもついでにして来いと締まりなく笑って言った。そのとおり、時は春。枯木の山には、桜や辛夷こぶしが早くも色を賑やかに、朝日に白い道の両脇には、若草が萌えて黄や赤紫の小花を咲かせる。すきを踏む音、遠くで指示を出す若い男の声、揚げ雲雀ひばり。しかし、長閑のどかな風景も、広足の心を晴らしはしない。

 まだ七つほどのころ、春の陽に誘われ、都を出でて、野原で遊んだことがある。草花摘みに夢中になるあまり、気付くと日は暮れて、帰り道も見失った。刻々と暗くなる中、足を進める先に家があるともわからない。大いなる孤独、欠如感を抱えて歩き続けた。

 今の広足の心境は、それに似ている。道先への信頼がない。このまま省庁の片隅で、公文書を読みさばき、やがて昇進して──それでも、貴族とはなれないだろう。

 勉学は苦しくはあったが、それでも楽しみを見出せた。試験の答えはひとつなのだ。読んだ分だけ、本の中身は頭に刻まれて、努力の分だけ、結果は付いてきたというのに、これからの省庁での日々は、確実に結果を与えてくれはしない。父を見ればわかる。出世は、家の力に寄るところが大きいのだ。

 

 広足は、駆けて遊ぶ子どもたちに追い抜かれるほどに、のろのろと馬を歩かせた。菩提泉ぼだいせんの川を渡り、さらに高瀬川も越えたころ。道は丘陵に沿って上がり、野原に至った。

 山辺を降る東風が、柔らかな若草を波打たせて迫り来る。風の密と疎が見える。こずえを揺らし、いずこからの花弁を吹き運び。広足は、道の安全を馬へと任せ、ぼんやりと鞍上あんじょうよりの眺めを追っていた。

 遊びを遠ざけてきた人生ではあるが、広足とて風流を理解する心くらいはある。歌だって、それなりにめるのだ。なにせ、自分は登用試験を次席で通った男。大抵のことは、コツさえ掴めば難はない。秀歌のひとつでも詠んで、ふさぐ心の慰みにしようと思い定めて、一息を吸う。

 吐いて、また吸う。吐いて、また吸うのだが、思考はかすみがかってまるで冴えず、初めの五音さえ浮かばない。

 目線を落とした道脇には、ちょうどすみれが咲いていた。美しい紫だと認められるだけ、まだ自分はちていない。良い歌は心を慰めるからと、さっきとは打って変わって萎れた心で、一首を思い出していた。


──春の野に菫摘みにと来しわれそ野を懐かしみ一夜ひとよ寝にける


 童心に帰り、菫でも摘もうかと、珍しくも戯れが頭をよぎったとき、広足の耳は軽妙な乙女の歌声を捉えた。耳を澄まして、ゆっくりと首を振ると、風と草の騒めきに途切れがちながら、明るく伸びやかな歌声が、道の前方よりもたらされていた。

 手綱を握りなおし、馬の腹を蹴る。馬は上機嫌に駈け出した。鋤を担いだ農夫が何事かと見遣るが、広足の心は徐々に確かな旋律せんりつを見せてくる歌声のみへと向かっていた。


──乙女子おとめごよ 今は摘まさね 今は摘まさね


 野原の程中に、大きな楢の木がそびえ立つ。薄絹を掛けたように、花を冠した楢の木の下には、小籠を提げた乙女たちが五人。木に絡まるつるの白い小花を摘み取っていた。

 下は十二歳ほどのまだ子どもだが、一番年上の娘は十八、九の妙齢だ。背伸びしては花を摘むたびに、歌声が力まれる。子どもの高く硬質な声の中で、年長の娘の声だけは少し低く、艶やかだった。広足の耳は、既にその乙女の声ばかりを拾っていた。


──花の色は く過ぎぬべし 人の世も 未だと思へど まじろぎの 幾たびのうち 乙女子よ 今は摘まさね 今は摘まさね

 (花の盛りはすぐに過ぎてしまうだろう。人生もまだまだと思っていようと、まばたき数回のうちに過ぎるぞ。少女よ、今こそ摘んでおくれ。今こそ摘んでおくれよ)


 広足は騎乗のまま、野原へと踏み込む。末の娘が広足に気付くと、歌声は順々に消え、五人の娘たちは皆、広足へと振り返った。

 姉妹だろうか、親族だろうか。そろって白い肌に深く切れ込んだ目頭をした美しい娘たちだった。色のない衣は、お世辞にも上等なものではないが、よく手入れのされた小綺麗な布である。

 下の娘たちは突然の来訪者に興味を抑えきれないようで、こそこそと耳打ちしあっては、青空よりも青い絹の官服で騎乗した広足を、上から下まで眺める。上の娘ばかりは、わずかな警戒を見せつつ、小籠を足下へと置いて緩く膝を折り、官吏に対して不足ない礼の姿勢を取った。

 広足は口にすべき言葉を見つけられずにおり、焦っていた。この娘へ近付いたその先の思惑があったわけではない。ただ、歌声に惹かれただけなのだ。

 娘の目には、みるみる疑念の色が現れる。馬上の官吏が、険しい顔で目も逸らさずに見下ろしてくるのだ。何か咎め立てられることでもあったかと思いを巡らし、妹たちの身を案じる様が見て取れた。

 違う、おどろかすつもりはなかった。広足の弁明は、音にはならないが、伝えたい気持ちは湧き出て止まらない。明確な説明はできないが、心が動かされたのだと、この娘に知って欲しい。

「弥生なる──」

 広足は口を突いて出た五音に任せ、馬を降りた。深く息を吸いなおす。務めて平らかな声を保ちながら、続きを詠じた。


──弥生なる 野に乙女らが 歌ひつつ 花こそ摘めり えやは過ぎ行く

 (弥生の野に娘たちが歌いながら花を摘んでいるんだ。どうして通り過ぎることができようか、できはしないさ)


 きゃあと高い笑い声が、娘の後ろで挙がり、下の妹たちは、瞬時に問答の観客となった。娘の耳が赤くなり、印象深い目は若草へと落とされて、艶やかな声が鋭くも音を紡ぐ。


──都なる 人かとぞ見る 何処いずこにぞ 行き給ふらむ 長手にぞあらむ

 (都の人とお見受けしますが、どこへ行かれるのですか? 遠くではありませんか?)


 田舎娘をからかっていないで先を急げ、との意だが、広足も声をかけた以上は意地がある。馬の口を取ったまま、一歩だけ歩み寄った。妹たちも歓声を抑えつつ手を握りあって一歩寄り来るが、娘は顔を挙げずに、血色通ったまぶたを伏している。

 今はそれが幸いだった。娘の緊張に影響されては格好が付かない。とはいえ、遊びに慣れた都なる男とは思われたくもない。


──君が名を にわかには問はず 花をだに 指して告げてよ 如何にぞ呼ばるる

 (あなたの名をいきなりは尋ねません。どうか花だけでも指して教えてください。なんという花ですか?)


 容花ひるがおのように細長い首をした小さな白い花。多くは白色だが、黄色も混じる。風をはらんだ帆を思わせる立ち上がった花弁の根元からは、幾本ものしべが走り出し、力強く天へと上向いていた。花の下で対を成す葉は滑らかに照り、楢の幹を抱き込むように絡みついて茂る。

「見たことのある気もするが、気にかけてこなかった。君たちは、なぜこの花を摘む?」

 あくまで、花に興味を持ったのだと取り繕ったところで、目は娘にばかり向けられているのだから、広足の意図は、妹たちが期待するとおりのものと見え透いていた。

 偉い人かしら、どこぞの公達かしら。少女たちは勝手に噂しては、はしゃぎあう。

「姉さま、恥ずかしがりじゃないくせに」

 十六歳ほどの妹が、クスクスと笑って娘の脇腹をつつく。娘は弱々しい力にて妹の手を払い、逃れる術はないとの諦めと、それでも捨てきれない恥じらいとの間に迷いながらも、籠の中へと手を入れた。

金銀花きんぎんかというの」

 小さな手を出して、差し寄せる。緩やかに伸ばされくる腕、袖口を揺らす東風。名に宝物を冠した花は、まだ蕾。鞘状の先端は膨らんで、わずかに赤く、触れれば弾けそうなほどに張りがある。

「──干して薬にするのよ」

 黒い目が広足を見た。広足は妙に冷静な心地で、胸へと訪れた恋を迎えた。

「……私は、行かなければならないが、昼過ぎには用を済ませて戻って来れるはずだ。君は、このあたりの娘かい?」

 広足の耳も目も、娘の後ろで甲高い声を挙げあう妹たちの存在を捉えてはいない。広足と娘とで交わされる視線のみが、ふたりにとって、今の全てだった。

 娘の喉許が震え、赤い唇が開かれた。すぐには音は生まれない。一度つぐまれ、再び離される。細い喉に一息が吸い込まれた。


──行き向かふ 人送りなば 金銀花 摘みて待つらむ 匂ひつるまで

 (お行きになる人を送ったなら、金銀花を摘んで待ちましょう。花が匂うときまで)


 詠ずるなり、娘は裳裾もすそを翻して駆け去り、蔓茂る幹の向こうに身を隠した。空いた広足の面前には、妹たちが駆けて詰め寄り、遠慮もなく口々に、どこから来たのか、どこへ行くのか、勤め先、名前、年など尋ねくる。広足は紀の一子であることのみを伝え、馬へと飛び乗った。


 飛鳥へと下る道、馬はよく走った。雲雀が高く啼き、水路の水も華やかに音を響かせたが、広足の耳は、娘の気の強さがうかがえる艶やかな声で占められていた。

 広足の幾度かの恋は、勉学を優先したがために続かなかった。今、我が身を阻むものはない。あの娘に惹かれた心に従いたい。脳裏に浮かびくる数多の歌も、留める術のないままに流れ消えた。

 上の空で御寺へと着く。事務方の者へと牒状を渡してすぐに帰るつもりが、図らずも和尚おしょうがお出ましになり、ちょうど降誕会ごうたんえの甘茶が届いたとのことで、菓子と共にきょうされる。新たな治部じぶの官吏ならば、近隣の官寺へも挨拶して来いと、紹介状を持たされる。

 無下になどできるはずもなく、それぞれに接待を受け、よく勤めよとの訓示を低頭して聞くうちに夕空となり、野辺に戻るころには、日は高安たかやすの山際にかかろうとしていた。

 野の草を分けて馬を走らせ、耳を澄ませて、乙女の歌声を探す。しかし、聞こえるのは烏と葉擦れの音ばかり。じきに日も陰り、山辺の空が藍色に暗む。野辺に人影は見えない。馬上の身は風にさらされて冷えていた。

 もう帰ってしまったのだろうか。どこの娘かだけでも聞いておけばよかった。必ずまた会えるともわからないのに、なぜ儚い約束のみを交わして別れてしまったのか。

 焦りと後悔に駆られ、疲労を見せ始めた馬をさらに走らせようと手綱を握り込んだとき、強い風がひとつ吹き、柔らかくも甘い香りに包み込まれた。

 昼間に出された甘茶にも、御堂の香烟こういんにも劣らぬ芳しさ。風上に顔を向けると、あの楢の木の下に小柄な影があった。

 誰だろうか、あの娘だろうか。広足が鞍から身を乗り出して目を凝らすうちに、人影は木の影へと駆け入った。

「──君!」

 声を挙げたときには、馬を走らせていた。遠くにあった木の姿が、すぐ見上げるほどに近付いて、広足は馬を飛び降りる。四尺はある幹の後ろへと廻るが、裳裾はさらに広足から逃れて、姿を見せない。

「待ってったら! なぁ、金銀花!」

 熱さを錯覚するような甘い香りのなか、広足は足を止めて、見えない人の浅い呼吸を耳にしていた。お互いに口を開かない。楢の葉陰は濃い闇を抱き、揺れる。

 広足は自らを落ち着けるため、木の幹へと身を預けた。蔓の葉が首をくすぐり、甘い匂いは青臭さとともに鼻へと迫りくる。少し離れたところにて、馬が草を食む。高安の山を見れば、山の上の赤い空に、幾筋もの炊煙が昇っていた。

「……遅くなってすまなかった。もう帰ってしまったかと」

 返事の代わりに、ためらいがちな足音が広足へと近寄る。

「君は、家はどこだね? 送ろう、もう遅いから。あ、いや……私はすぐに帰るから」

 広足の声は落ち着かないが、足音は静かに迫っている。

「──金銀花、君は」

 振り返ったとき、今日、眼前から離れなかった娘の深い眼差しが広足を迎えた。暗闇に、娘の白い歯が微笑みの形となって浮かぶ。

「来ないかと思った」

 いたずらっぽく詰られ、広足の胸が最高潮に騒めく。

「すまない……」

「花の匂うまでは待つって言ったのに、こんなに香るまで待ってしまった」

「匂う……さっきは、これほど香りはしなかったはずだが?」

「ええ。夕方になると、新しい花が咲くの。それで一段、匂い立つの」

 娘は広足の視線を誘うように、小さな手を持ち上げて、金銀花をひとつ摘み取った。

「このお花、スイカヅラと言うのよ。広く知られている名は、スイカヅラ」

「スイ……かづら。スイ、とはなんだね? どこら辺がいていると?」

 娘に差し出された白い小花は、立ち葛とでも名付けたいほど、その蕊を上へと向けて咲いているのだ。

 娘は疑問とおかしみをひとつにした鼻にかかった声を漏らすと、花を摘んだ指先を、さらに広足へと寄せた。

「吸うのよ。甘いの、ねぇ?」

 花の軸、細い首が広足の口許へ迫る。娘の目は、夕闇にまして暗く、しかし美しく光る。広足は、娘の指先までをも唇に含んだ。甘く、柔らかな心地。指先が離されてもなお、脈打つ熱は引かない。

「甘いでしょう?」

「ああ」

 広足は、唇に残された花を惜しくも捨てた。代わりに、胸の前で浮いた娘の右手に指を絡ませて、強く握る。引き寄せて、頬へと至らせる。娘の指先が、広足の耳を温めた。

「……名は?」

「石川の大郎女おおいらつめ

「そんな名では嫌だ。僕は広足だ、紀広足。君の名を問う」

 拗ねた口振りに娘は笑う。温かな手に力が込められた。

「──世理比売よりひめ

「頼姫」

「ええ」

 広足の手に埋もれるほど小さな手に口付けすれば、一日、葛の蕾を摘んだ指先は、甘い香りで染まっていた。

「吸い葛、こんなに甘いとは知らなかった」

「小さいころ、吸いはしなかった?」

「うん」

 幼少期、野花との思い出は、迷子になった一件のみだ。それからは学坊に過ごすばかりで、山野に遊ぶことはなかった。

 広足は頼姫の手を下ろして、静かに離すと、ほとんど見えなくなった目で、ひときわ白い小花を摘み取った。細い首先を、頼姫の唇へと押し当てる。頼姫は抗いもせずに目を閉じて、花を咥えた。広足は、花諸共に頼姫の熱い唇に自身の唇を重ねた。甘さと熱とは、近しい感覚だと思った。

 ゆっくりと唇を離すと、頼姫の口許から小花が落ちた。

「……明後日は休みなんだ。だから、明日の夕方前に、またここに来る。待っていてくれ」

「ええ、遅れちゃ嫌よ」

「う、うん。すまない、気を付けるよ。頼姫、一番好きな花は? 携えて来るから」

「うーん」

 遠慮とも迷いとも異なる声が返され、広足は頼姫の肩を抱き寄せる。

「きっと持って来るから」

「でも、あなた……あんまり、お花知らなそうだし」

 否定できない一言に広足が窮すると、頼姫は広足の手から逃れて、再び幹の向こうへと隠れてしまった。

「頼姫──!」

「──足引の」

 艶やかな声が、黄昏の野に渡る。


──足引の 山の下草 踏み分けて 我がいおに来よ 花盛りなり

 (山の下草を踏み分けて、私の家へおいでなさい。花盛りですから)


「なんのお花か考えてみて。じゃあね」

 頼姫が山辺へと向かって駆け出す。しかし、すぐに駆け戻って来て、

「嫌だぁ、籠忘れてったぁ」

と恥ずかしそうに弁明してから、手籠を拾い上げると、再び軽やかに駆け出した。広足は遅れて訪れた笑いを堪えながら、大きく手を振り、歌う。


──足引きの 山道ぞ行く 妹がため 草も結ばむ 露にるまで

 (山道を行くあなたのために、草を結んで無事を祈りましょう。夜露に濡れるまで)


 山辺の黒い裾野にて、わずかながら浮かび立つ影が袖を振り返す。

「見送られるのも、悪くないわねー!」

 良く通る声は、それきり風に消えた。広足は幹にもたれ、座り込む。金銀花の香りは、むせ返るほどに立ち籠めていた。あの娘は男を見送ったことがあるのだなと、早くも湧いた嫉妬心を鼻で笑った。

 実体のない熱が唇から離れない。虚しさを紛らすように、咲いたばかりの若い葛花をむしって、蜜を吸う。いくつも、いくつも吸うころには、縹の袍に打ち捨てられた小花の数々もおぼつかないほどに、大和国原やまとくにばらは真闇に包まれていた。

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