堅香子の花
小鹿
金銀花
昨夜の雨も朝には上がり、
馬上に薫風を受けるのは、
広足の家は、紀の一族の末席。大納言を勤めた曾祖父の、三男の次男の長子として生まれた父の官位は、
初めは、父と同じ深き
重ねた苦学が、この優越をもたらした。報われた。ああ、なんと麗しき人生だろうか。青丹よし。奈良の都は、広足の向後を寿ぐかのごとく、
ところが、感慨も束の間。庁舎の仕事は、単調も単調。日々運び込まれる
今朝も登庁するなり、飛鳥の大寺への牒状を渡され、庁舎を出された。全くおもしろくない。子どもにだってできるお遣いだ。
上役である
まだ七つほどのころ、春の陽に誘われ、都を出でて、野原で遊んだことがある。草花摘みに夢中になるあまり、気付くと日は暮れて、帰り道も見失った。刻々と暗くなる中、足を進める先に家があるともわからない。大いなる孤独、欠如感を抱えて歩き続けた。
今の広足の心境は、それに似ている。道先への信頼がない。このまま省庁の片隅で、公文書を読みさばき、やがて昇進して──それでも、貴族とはなれないだろう。
勉学は苦しくはあったが、それでも楽しみを見出せた。試験の答えはひとつなのだ。読んだ分だけ、本の中身は頭に刻まれて、努力の分だけ、結果は付いてきたというのに、これからの省庁での日々は、確実に結果を与えてくれはしない。父を見ればわかる。出世は、家の力に寄るところが大きいのだ。
広足は、駆けて遊ぶ子どもたちに追い抜かれるほどに、のろのろと馬を歩かせた。
山辺を降る東風が、柔らかな若草を波打たせて迫り来る。風の密と疎が見える。
遊びを遠ざけてきた人生ではあるが、広足とて風流を理解する心くらいはある。歌だって、それなりに
吐いて、また吸う。吐いて、また吸うのだが、思考は
目線を落とした道脇には、ちょうど
──春の野に菫摘みにと来しわれそ野を懐かしみ
童心に帰り、菫でも摘もうかと、珍しくも戯れが頭をよぎったとき、広足の耳は軽妙な乙女の歌声を捉えた。耳を澄まして、ゆっくりと首を振ると、風と草の騒めきに途切れがちながら、明るく伸びやかな歌声が、道の前方よりもたらされていた。
手綱を握りなおし、馬の腹を蹴る。馬は上機嫌に駈け出した。鋤を担いだ農夫が何事かと見遣るが、広足の心は徐々に確かな
──
野原の程中に、大きな楢の木がそびえ立つ。薄絹を掛けたように、花を冠した楢の木の下には、小籠を提げた乙女たちが五人。木に絡まる
下は十二歳ほどのまだ子どもだが、一番年上の娘は十八、九の妙齢だ。背伸びしては花を摘むたびに、歌声が力まれる。子どもの高く硬質な声の中で、年長の娘の声だけは少し低く、艶やかだった。広足の耳は、既にその乙女の声ばかりを拾っていた。
──花の色は
(花の盛りはすぐに過ぎてしまうだろう。人生もまだまだと思っていようと、まばたき数回のうちに過ぎるぞ。少女よ、今こそ摘んでおくれ。今こそ摘んでおくれよ)
広足は騎乗のまま、野原へと踏み込む。末の娘が広足に気付くと、歌声は順々に消え、五人の娘たちは皆、広足へと振り返った。
姉妹だろうか、親族だろうか。そろって白い肌に深く切れ込んだ目頭をした美しい娘たちだった。色のない衣は、お世辞にも上等なものではないが、よく手入れのされた小綺麗な布である。
下の娘たちは突然の来訪者に興味を抑えきれないようで、こそこそと耳打ちしあっては、青空よりも青い絹の官服で騎乗した広足を、上から下まで眺める。上の娘ばかりは、わずかな警戒を見せつつ、小籠を足下へと置いて緩く膝を折り、官吏に対して不足ない礼の姿勢を取った。
広足は口にすべき言葉を見つけられずにおり、焦っていた。この娘へ近付いたその先の思惑があったわけではない。ただ、歌声に惹かれただけなのだ。
娘の目には、みるみる疑念の色が現れる。馬上の官吏が、険しい顔で目も逸らさずに見下ろしてくるのだ。何か咎め立てられることでもあったかと思いを巡らし、妹たちの身を案じる様が見て取れた。
違う、おどろかすつもりはなかった。広足の弁明は、音にはならないが、伝えたい気持ちは湧き出て止まらない。明確な説明はできないが、心が動かされたのだと、この娘に知って欲しい。
「弥生なる──」
広足は口を突いて出た五音に任せ、馬を降りた。深く息を吸いなおす。務めて平らかな声を保ちながら、続きを詠じた。
──弥生なる 野に乙女らが 歌ひつつ 花こそ摘めり えやは過ぎ行く
(弥生の野に娘たちが歌いながら花を摘んでいるんだ。どうして通り過ぎることができようか、できはしないさ)
きゃあと高い笑い声が、娘の後ろで挙がり、下の妹たちは、瞬時に問答の観客となった。娘の耳が赤くなり、印象深い目は若草へと落とされて、艶やかな声が鋭くも音を紡ぐ。
──都なる 人かとぞ見る
(都の人とお見受けしますが、どこへ行かれるのですか? 遠くではありませんか?)
田舎娘をからかっていないで先を急げ、との意だが、広足も声をかけた以上は意地がある。馬の口を取ったまま、一歩だけ歩み寄った。妹たちも歓声を抑えつつ手を握りあって一歩寄り来るが、娘は顔を挙げずに、血色通ったまぶたを伏している。
今はそれが幸いだった。娘の緊張に影響されては格好が付かない。とはいえ、遊びに慣れた都なる男とは思われたくもない。
──君が名を
(あなたの名をいきなりは尋ねません。どうか花だけでも指して教えてください。なんという花ですか?)
「見たことのある気もするが、気にかけてこなかった。君たちは、なぜこの花を摘む?」
あくまで、花に興味を持ったのだと取り繕ったところで、目は娘にばかり向けられているのだから、広足の意図は、妹たちが期待するとおりのものと見え透いていた。
偉い人かしら、どこぞの公達かしら。少女たちは勝手に噂しては、はしゃぎあう。
「姉さま、恥ずかしがりじゃないくせに」
十六歳ほどの妹が、クスクスと笑って娘の脇腹をつつく。娘は弱々しい力にて妹の手を払い、逃れる術はないとの諦めと、それでも捨てきれない恥じらいとの間に迷いながらも、籠の中へと手を入れた。
「
小さな手を出して、差し寄せる。緩やかに伸ばされくる腕、袖口を揺らす東風。名に宝物を冠した花は、まだ蕾。鞘状の先端は膨らんで、わずかに赤く、触れれば弾けそうなほどに張りがある。
「──干して薬にするのよ」
黒い目が広足を見た。広足は妙に冷静な心地で、胸へと訪れた恋を迎えた。
「……私は、行かなければならないが、昼過ぎには用を済ませて戻って来れるはずだ。君は、このあたりの娘かい?」
広足の耳も目も、娘の後ろで甲高い声を挙げあう妹たちの存在を捉えてはいない。広足と娘とで交わされる視線のみが、ふたりにとって、今の全てだった。
娘の喉許が震え、赤い唇が開かれた。すぐには音は生まれない。一度つぐまれ、再び離される。細い喉に一息が吸い込まれた。
──行き向かふ 人送りなば 金銀花 摘みて待つらむ 匂ひつるまで
(お行きになる人を送ったなら、金銀花を摘んで待ちましょう。花が匂うときまで)
詠ずるなり、娘は
飛鳥へと下る道、馬はよく走った。雲雀が高く啼き、水路の水も華やかに音を響かせたが、広足の耳は、娘の気の強さがうかがえる艶やかな声で占められていた。
広足の幾度かの恋は、勉学を優先したがために続かなかった。今、我が身を阻むものはない。あの娘に惹かれた心に従いたい。脳裏に浮かびくる数多の歌も、留める術のないままに流れ消えた。
上の空で御寺へと着く。事務方の者へと牒状を渡してすぐに帰るつもりが、図らずも
無下になどできるはずもなく、それぞれに接待を受け、よく勤めよとの訓示を低頭して聞くうちに夕空となり、野辺に戻るころには、日は
野の草を分けて馬を走らせ、耳を澄ませて、乙女の歌声を探す。しかし、聞こえるのは烏と葉擦れの音ばかり。じきに日も陰り、山辺の空が藍色に暗む。野辺に人影は見えない。馬上の身は風にさらされて冷えていた。
もう帰ってしまったのだろうか。どこの娘かだけでも聞いておけばよかった。必ずまた会えるともわからないのに、なぜ儚い約束のみを交わして別れてしまったのか。
焦りと後悔に駆られ、疲労を見せ始めた馬をさらに走らせようと手綱を握り込んだとき、強い風がひとつ吹き、柔らかくも甘い香りに包み込まれた。
昼間に出された甘茶にも、御堂の
誰だろうか、あの娘だろうか。広足が鞍から身を乗り出して目を凝らすうちに、人影は木の影へと駆け入った。
「──君!」
声を挙げたときには、馬を走らせていた。遠くにあった木の姿が、すぐ見上げるほどに近付いて、広足は馬を飛び降りる。四尺はある幹の後ろへと廻るが、裳裾はさらに広足から逃れて、姿を見せない。
「待ってったら! なぁ、金銀花!」
熱さを錯覚するような甘い香りのなか、広足は足を止めて、見えない人の浅い呼吸を耳にしていた。お互いに口を開かない。楢の葉陰は濃い闇を抱き、揺れる。
広足は自らを落ち着けるため、木の幹へと身を預けた。蔓の葉が首をくすぐり、甘い匂いは青臭さとともに鼻へと迫りくる。少し離れたところにて、馬が草を食む。高安の山を見れば、山の上の赤い空に、幾筋もの炊煙が昇っていた。
「……遅くなってすまなかった。もう帰ってしまったかと」
返事の代わりに、ためらいがちな足音が広足へと近寄る。
「君は、家はどこだね? 送ろう、もう遅いから。あ、いや……私はすぐに帰るから」
広足の声は落ち着かないが、足音は静かに迫っている。
「──金銀花、君は」
振り返ったとき、今日、眼前から離れなかった娘の深い眼差しが広足を迎えた。暗闇に、娘の白い歯が微笑みの形となって浮かぶ。
「来ないかと思った」
いたずらっぽく詰られ、広足の胸が最高潮に騒めく。
「すまない……」
「花の匂うまでは待つって言ったのに、こんなに香るまで待ってしまった」
「匂う……さっきは、これほど香りはしなかったはずだが?」
「ええ。夕方になると、新しい花が咲くの。それで一段、匂い立つの」
娘は広足の視線を誘うように、小さな手を持ち上げて、金銀花をひとつ摘み取った。
「このお花、スイカヅラと言うのよ。広く知られている名は、スイカヅラ」
「スイ……
娘に差し出された白い小花は、立ち葛とでも名付けたいほど、その蕊を上へと向けて咲いているのだ。
娘は疑問とおかしみをひとつにした鼻にかかった声を漏らすと、花を摘んだ指先を、さらに広足へと寄せた。
「吸うのよ。甘いの、ねぇ?」
花の軸、細い首が広足の口許へ迫る。娘の目は、夕闇にまして暗く、しかし美しく光る。広足は、娘の指先までをも唇に含んだ。甘く、柔らかな心地。指先が離されてもなお、脈打つ熱は引かない。
「甘いでしょう?」
「ああ」
広足は、唇に残された花を惜しくも捨てた。代わりに、胸の前で浮いた娘の右手に指を絡ませて、強く握る。引き寄せて、頬へと至らせる。娘の指先が、広足の耳を温めた。
「……名は?」
「石川の
「そんな名では嫌だ。僕は広足だ、紀広足。君の名を問う」
拗ねた口振りに娘は笑う。温かな手に力が込められた。
「──
「頼姫」
「ええ」
広足の手に埋もれるほど小さな手に口付けすれば、一日、葛の蕾を摘んだ指先は、甘い香りで染まっていた。
「吸い葛、こんなに甘いとは知らなかった」
「小さいころ、吸いはしなかった?」
「うん」
幼少期、野花との思い出は、迷子になった一件のみだ。それからは学坊に過ごすばかりで、山野に遊ぶことはなかった。
広足は頼姫の手を下ろして、静かに離すと、ほとんど見えなくなった目で、ひときわ白い小花を摘み取った。細い首先を、頼姫の唇へと押し当てる。頼姫は抗いもせずに目を閉じて、花を咥えた。広足は、花諸共に頼姫の熱い唇に自身の唇を重ねた。甘さと熱とは、近しい感覚だと思った。
ゆっくりと唇を離すと、頼姫の口許から小花が落ちた。
「……明後日は休みなんだ。だから、明日の夕方前に、またここに来る。待っていてくれ」
「ええ、遅れちゃ嫌よ」
「う、うん。すまない、気を付けるよ。頼姫、一番好きな花は? 携えて来るから」
「うーん」
遠慮とも迷いとも異なる声が返され、広足は頼姫の肩を抱き寄せる。
「きっと持って来るから」
「でも、あなた……あんまり、お花知らなそうだし」
否定できない一言に広足が窮すると、頼姫は広足の手から逃れて、再び幹の向こうへと隠れてしまった。
「頼姫──!」
「──足引の」
艶やかな声が、黄昏の野に渡る。
──足引の 山の下草 踏み分けて 我が
(山の下草を踏み分けて、私の家へおいでなさい。花盛りですから)
「なんのお花か考えてみて。じゃあね」
頼姫が山辺へと向かって駆け出す。しかし、すぐに駆け戻って来て、
「嫌だぁ、籠忘れてったぁ」
と恥ずかしそうに弁明してから、手籠を拾い上げると、再び軽やかに駆け出した。広足は遅れて訪れた笑いを堪えながら、大きく手を振り、歌う。
──足引きの 山道ぞ行く 妹がため 草も結ばむ 露に
(山道を行くあなたのために、草を結んで無事を祈りましょう。夜露に濡れるまで)
山辺の黒い裾野にて、わずかながら浮かび立つ影が袖を振り返す。
「見送られるのも、悪くないわねー!」
良く通る声は、それきり風に消えた。広足は幹にもたれ、座り込む。金銀花の香りは、むせ返るほどに立ち籠めていた。あの娘は男を見送ったことがあるのだなと、早くも湧いた嫉妬心を鼻で笑った。
実体のない熱が唇から離れない。虚しさを紛らすように、咲いたばかりの若い葛花をむしって、蜜を吸う。いくつも、いくつも吸うころには、縹の袍に打ち捨てられた小花の数々もおぼつかないほどに、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます