殿さまの目
江戸幕府の治世のころ。
ある藩の長子である男がいた。彼は正室の子であり、側室に男子はなく、男は次代の大名となることが約束されていた。
「若!お待ちくだされ」
男は、特殊な目を持っていた。それは、目を凝らして人を見ると、見た人物の資質が見えるというものだ。
男が最初にこの能力に気付いたときは、幻を見ているのだろうと思った。しかし、町で見かけた『剣術の資質がある人物』が道場の師範であり、『理財の資質がある人物』が敏腕商人である……といったことを繰り返すうちに、彼はこの能力が本物であると確信していた。それ以来、彼は暇さえあれば町に下りて、素質のある人物を探していた。
「また町へお出かけですか。もっと稽古などなさった方がよいのでは」
男の側仕えである若い武士が追いかけてきて、そう話しかける。
「この戦の無い世の中で、稽古などしても意味はないであろう。領民のことをよく知ることの方が重要だ」
男はそれだけ言って、騎乗したまま駆け出していく。側仕えはそれを必死に追いかけていった。
男は以前、算術の素質がある孤児を見つけ、商家に預けたことがある。若殿の命だからとしぶしぶ預かった商家だが、その孤児は思わぬ才能を発揮し、今では若いながらに帳簿を任せられているという。その成功体験から、彼はさらに素質のある人物を探すことに躍起になっていた。
(そして、その者たちを登用し、よい治世を行うのだ)
男がいずれ継ぐ藩は、江戸から遠く離れた田舎にあり、石高は低く、万年金欠という有様だ。彼の行動の最終目的は、それを変えることであった。
しかし、周囲の人々からは、「稽古もせずに町に出て遊び惚けている、うつけの若殿」という評価を受けていることを、男は知らなかった。
それから数年後。
「殿、当主就任おめでとうござりまする」
男の父親が亡くなり、彼は大名となった。葬儀や儀式が連日行われ、それからしばらく家中は慌ただしかった。
(これで、この目を活かすことができるな)
父が亡くなったことは男にとって悲しいことだが、待っていたことでもある。藩を良くするために、彼は準備を重ねてきていたのだ。
家中が落ち着いてくると、男はすぐさま改革に乗り出した。まずは彼が直接指揮するための新しい部署を作り、若いころから目を付けていた優れた素質を持つ人材を登用していった。
本当は城中の役人を丸ごと入れ替えていきたいが、いきなり彼らの仕事を奪うわけにもいかない。まずは自分が選んだ人材の素質を証明し、少しずつ改革を進めていくべきだろう。男はそう考えていた。そして彼の期待通り、新部署は財政面で目覚ましい成果を上げていった。
新部署が成功を収めるとともに、男の元には批判の声が届くようになった。曰く、新参者たちは礼儀をわきまえていない、彼らの仕事内容が杜撰でこちらが迷惑している、あんな部署は必要ない、といったものだ。男は最初のころは不安に思ったが、批判を述べる男たちを見るとみな政治の素質がない。仕事がなくなる不安からのやっかみだろうと、男はあまり気にせずにいた。
そんなある日、男の元に筆頭家老が訪れた。この筆頭家老は先代当主が若いころから使えている古株で、男の目で見たところ政治の素質がとても高く、彼は信用していた。その信用から、彼の目について伝えている数少ない人物でもあった。
筆頭家老は、開口一番に切り出してくる。
「殿。集められたかの若者たちをいかがなさるおつもりですか」
男は答える。
「彼らには素質がある。経験を積ませ、いずれは藩政を任せたいと思う」
「それは……やめておいた方がよろしいかと」
はっきりとした否定に、男は面食らってしまう。
「なぜだ?今この藩を取り仕切っているものの多くには、何の素質もない。この藩を大きく強くするためには、彼らが必要であろう」
「波風を立ててはいけないのです」
そう強く言い切り、筆頭家老は続ける。
「この天下は、江戸の将軍家のものでございます。
家柄だけの人物であろうとも、排そうとすれば必ず諍いが起こります。お家騒動につながるやもしれません。そうなれば江戸から良くは見られないでしょう。また、新しい人材を次々と登用していては、謀反の疑いありと思われるかもしれません」
男にとって、その懸念は思いもつかないことだった。彼は言葉で後頭部を殴られたような感覚を受けていた。
「藩の財政を向上させることも、良いとは限りません。江戸はそれを好まないので、金があるならばと城の修築や護岸作業を任じられる可能性があります。そうなれば、我が藩は窮地に追い込まれるでしょう。我らは何もすべきではないのです」
「では、よい大名となるためには、何をすればよいのか」
「稽古をし、作法を学び、大名として体面を保つことです。そして、次代のために子を成すことです。江戸はそれのみを望んでいるのです」
筆頭家老が退室したあと、男も部屋を出て、屋敷の庭をあてもなく散策していた。
自分がやってきたことは、すべきではなかったのだろうか。そう述懐し、虚しさに囚われていく。
歩くうち、男は無意識に庭の隅にある池の前までやってきていた。覗き込むと、水面に彼の顔が映る。
男は今まで、目で自分自身の素質を見たことはなかった。それはその行為に思い至らなかったからかもしれないし、自分の素質を知ることを恐れていたからかもしれない。しかし今の彼には、自分を知らなくてはいけないと思う心が生まれていた。彼は目を凝らす。
そして、男ははっきりと知ることになった。
自分には大名としての素質がないことを。
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