邯鄲の夢

「はぁ……」


 男は溜息をつきながら、生ける屍のような猫背で家へと歩いていた。

 辺りはもう真っ暗だ。男の家は最寄り駅から遠く、辿り着くころには日を跨いでしまうだろう。これは今日に限ったことではない。ただ、それだけ遅くまで働いているにも関わらず、残業代が出たことはただの一度もなかった。


 ようやく家に到着した。小学校の鳥小屋のように狭いワンルームで、シャワーだけ浴びてすぐ死んだように眠る。

 本当なら晩酌でもしたいところだったが、明日も早くから仕事がある。何より、男に贅沢をするだけの金はなかった。




 その日の夜、男は夢を見た。

 夢の中の男は、輝いていた。男が現実にやっている雑用のような事務作業ではなく、昔から憧れていた広告業界で新人ながら責任をもって働いていた。鏡に写る顔は現実より幾分か整っており、頭もいつもより冴えていた。仕事は大変だが、楽しかった。

 そして、家に帰ると、最愛の妻が待っていた。


 そして、目が覚めた。




 普段は夢をほとんど覚えていない男だが、なぜか細部まではっきりと思い出すことができた。

 夢の内容は、男にとってまさに夢のようであり、常日頃から夢見てきたことだ。


「あれが現実だったらいいのに……」


 寝起きすぐは夢の余韻に浸っていた男だが、余韻はだんだんと悲しみや虚しさに上塗りされてしまう。結局のところ男はいつもと変わらぬ足取りで、朝早くから仕事場へ向かっていった。




 それから、次の日も、その次の日も、男は同じ夢を見続けた。

 男は喜べばいいのか悲しめばいいのか分からなかった。夢の中で幸福を感じて、現実でどん底に突き落とされる。強制的に双極性障害にさせられているようだった。

 感情の狭間に押し潰され続ける男は、やがては現実から逃げることを選択するようになった。


 毎日同じ夢を見るのなら、どちらが現実でも同じようなものだろう。

 男はそう考え、自分に暗示をかけるようになっていった。

 夢の中では現実かのように物事に取り組み、現実ではこれは夢だと思い込んで蔑ろな生活を送る。夢の中の彼は着実に人生を歩んでいくが、現実はまさにその対極になった。仕事をやめ、多くはない貯蓄を切り崩しながら暮らし、どうせこれは夢だからいいやと信じ込んで万引きやスリにも手を染めた。暇な時間があれば眠り、できるだけ理想の世界にいるようにした。そうやって、逃避行のような人生を続けていった。

 そして……




 死の間際、男の周りには家族が集まっていた。

男は過去のことを追想する。


 思えば楽ではない人生だった。

 仕事は忙しく、挫折も多かった。

 悪夢に悩まされたこともあった。あれはどんな内容だっただろうか、今ではもう忘れてしまったな。

 ただ、仕事仲間や家族に恵まれ、幸せな人生を送れただろうとは自負している。


 走馬灯が駆け巡る。

 嗚呼、何も思い残すことはない。

 まさに夢のような人生だった。

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