第7話:「"  "はいつまで経っても子ども」

 麗子の会社では、恒例の花見大会があった。全社を挙げて花見を楽しむという伝統があり、有志の花見委員会が開花前からタイムテーブルを組んで、各部署毎に参加日時を組むのだ。これは社内交流の一環で、基本全員参加であり、麗子の部署は木曜日の日中に決定した。出張等で出席出来ない人もいるので、希望すれば土日に振り替えることが出来た。こうした社内行事を嫌がる社員も多くはいたが、経費は全て会社負担、部署全員が望んで承認が下りれば屋形船にグレードアップ出来るなど、どんちゃん騒ぎをしたい人には恵まれたシステムだったし、普段話す機会がない意中の社員とお近付きになれるチャンスでもあった。

 石巻部長が婚約していることに一時失望していた麗子であったが、何も下心があるわけじゃなくって単純にお話しするくらいなら問題ないわよそもそも業務外の交流が目的の行事だし、と自分に名分を立たせ、部署内の出席票を確認した。石巻部長は木曜に外出予定があり、日曜に振替になっていた。

 麗子は思案した。内勤の自分が日曜に振り替えるのはおかしい。なので木曜に「家族の病院付き添い」という名目で有休届を出し、日曜に振り替えた。無用の有給を使ってまでも、この業務外の交流は必要なのだ。

「柊ちゃんの退院後の定期面談ってことにしたのよ。ごめんね」

 麗子は柊に花見の開催概要のプリントを見せた。

「いいよいいよ。妹の恋のためなら、いくらでも発症するよ。会社側がこんなにやってくれるなんてすごいね」

 春うららの夜九時、二人は狭苦しいワンルームで、だらけていた。

「柊ちゃんは会社、どうなの。最近私が帰ってくると、もう寝てることが多かったから、ちょっと心配だったのよ。朝は私の方が早いし」

「いやー、まあ仕事的には大したことないっていうか、むしろ全く問題ないね」

 この時柊は、業務面に関することのみを答えた。事実今のところは、データ入力で大きなミスはない。

「柊ちゃんが事務なんて、向いてるか不安だったけど、それなら良かったわ」

「派遣の麗子より勤務時間が短いんだよ。へこたれてられないよ」

「確かにそうね……」

 麗子はひ表情を曇らせた。彼女なりに、派遣社員であることに不安を感じていたのだ。柊はまだ契約期間とはいえ直接雇用だったから、会社から必要とされている度合いとしてはむしろ柊の方が上なのかも知れない。何だかきまりが悪く、柊は慌てて付け足した。

「でも、確か麗子もあと二ヶ月くらいで雇用形態とか給与の見直しがあるんじゃなかったっけ」

「そうなのよ。でもそう簡単に行くかしら」

「いや、別に普通に毎日行けてるし、残業だってしてるし、査定する人が身長高い女にコンプレックスがあるとかじゃなければ大丈夫だよ」

 麗子は柊がわざとふざけたのに、柊の気遣いを感じ取って、ふふっと笑みをこぼした。

「あとアナスイが嫌いだったりね」

「そうそう、麗子ぱっと見、アナスイ信者なの丸わかりだから」

 麗子はネイルカラーを落とすため、コットンに除光液を染み込ませた。柊は昔から態度が大きかったし、今より躁うつが酷かった時、麗子は多くの迷惑を被って、尻拭いも山程して来た。今も柊は不動産屋に内緒で麗子の家に転がり込んでいる。それでも麗子が柊を憎めないのは、尊大さに似つかわしくない気遣いだった。柊は人間関係の機微をすぐに察知する。確かに人を喰ったような態度を取ったり、見知らぬ男にナンパされたら暴行を働いたりするが、麗子に対する申し訳なさと姉としての面目のなさを常日頃から抱いているのが感じ取れた。柊がファミレスで京子に怒ったのも、立場の弱い要が蔑ろにされたからだった。柊は相手の表情を読み取る能力に長けており、例えば麗子は柊が話を切り上げた時に初めて、今自分が疲れた顔をしていたのだと気付くことさえある。

 柊は双極性感情障害を発症してから、自分を過小評価するようになった。学生時代は、体育以外に苦手な教科はなく、学年屈指の秀才だった。生徒会長を務めて、大抵は彼女の発言で話し合いの流れが決まった。廃部になろうとしていた文芸部の人数を五倍に増やして全国中学作文コンクールで入賞までした。それは、そのコンクールが部活単位でしか申し込めなかったからで、部員同士の交流には一切興味がなく、賞を獲ったらすぐ部長の座を譲った。特に目立つ風貌ではなかったが、身振りと話し方に説得力があり、教師からも生徒からも、一目置かれる存在だった。高校に入り偏差値が落ちていたのは、一日に映画を三本観る生活を丸二年続けていたからだった。

 そんな自分の能力を疑うこともしなかった柊だったが、障害によって、他人の方が自分より優れている、他人が自分を許しているから存在しているのだと常に戒めているようだった。今は症状が落ち着いているが、それでも発症前の、もっと意欲的で、自由闊達、天衣無縫な姉を見てきた麗子には、今の柊は痛ましかった。麗子は柊にコンプレックスを抱いたことは一度もなかった。京子が子どもに無頓着で贔屓がなかったし、中学校から違う進路だったので、比較されることが少なかった。麗子が勝てるとしたら女性としてのルックスだったが、それはお互いに認め合える領域での魅力だった。そして何より、父が失踪してから自分を励まして守ってくれたのは、不屈で自信に満ちた、姉の柊だけだったのだ。


 あんな奴がなんだよ。麗子はキレイなんだからさ、これからあんなクソ親父より、イイ男に山ほど巡り逢えるんだよ。だから、もうそんなに泣くのはやめなよ。親父が私らを捨てたんじゃない。あいつが、人生から脱落したんだ。


「麗子、やばいやばい」

 麗子が手元を見ると、コットンどころか膝にかけていたタオルケットにも除光液が染み込んでおり、部屋中がシンナー臭くなっていた。

「あらやだ、ごめんね」

 麗子が窓を全開にするとどこか気持ちが浮つくような、花の香りが風に乗って漂った。なんだかソワソワする。ただでさえ今日は金曜日だ。高揚して当たり前だな。柊はフーッと息を吸った。

「麗子、明日どっか行こうよ。私も遂に定期収入を得る身分だし」

「まだお給料日来てないじゃない」

「いけるいける。日曜が会社の花見でしょ。明日はデパートで花見のための服か化粧品買いに行こう」

 元気そうな柊の様子を見て、麗子は安心した。柊ちゃんも、何とか軌道に乗ったのかも。私も明るく行かないとね。

「そんなこと言って、自分が欲しいものばっかり見るんでしょ。でもイイわよ。その代わり使っていい金額の上限を決めますからね」

「ヤピー」

 その夜は、日付が変っても、二人はショッピングリストを検討し合った。部屋に横溢した春の空気は除光液の臭気もかき消して、姉妹の心を浮き立たせた。

 春は始まりの季節であり、恋の季節である。だが、賢明な読者諸君はよくご存知であろう。春は、狂気の季節である。

 アナスイのワンピースは高すぎた上にその魅力を中年男性が理解するのは難しいと判断したため、結局量販店でラベンダー色のカーディガンとボリュームのある白いスカートを買った。パステルカラーしかない店頭で、麗子が唯一許せたのはラベンダーだった。こうした頑固さは姉妹に共通するところであった。

「おっさんは全体の雰囲気で女性を見てるってワイドショーで言ってたぞ。普段喪服の麗子が明るい服着てたら、きっと気付いて、話すきっかけにもなるよ」

麗子がアパートを出る際、柊はエールを送った。これは比喩ではなく、彼女は実際にふきんで鉢巻きをし、軍手をはめ、ひとり応援団長を務めた。

「御手洗麗子のぉー健闘をー祈ってーっ。フレーッ、フレーッ、れッ、いッ、こッ」

「大袈裟ね、でも勇気が出たわ。行ってきます」

 麗子が会場となる公園に着くと、既に若手社員が陣取っていたエリアで酒盛りが始まっていた。土日は平日組と比べて羽目を外して飲めるという利点があったので、早いうちから飲んでいる社員がいるのだ。受付で出席のサインをする際、既に石巻部長のサインがあった。彼の力強く滑らかな字を見た瞬間、麗子は緊張で鼓動が速くなるのを感じ、身体に力が入った。紙コップのウーロン茶を貰い、早速石巻部長を探した。彼はこの時間から酔っ払うタイプでもないので、公園を見て回っている可能性もある。役員と別の場所で話し込んだりしてるのかも知れない。会社が用意したエリアに彼の姿がないのを確認し終わると、とりあえず花見ルートを散策することにした。

 この日は陽射しが強く、五月下旬並みの陽気だった。普段なら絶対に日傘を差す紫外線量を感じながら、麗子は常に周囲を見回していた。石巻部長は抜きん出て背が高いわけではないため、人混みの中で探すのは難しかった。どこを見ても人、あるいは桜。ラベンダーのカーディガンがいささか暑い。

コップのウーロン茶に口をつけながら、麗子はイメージトレーニングに励んでいた。もし部長に会ったら何て声をかければいいかしら。部長、お疲れさまです。今日はお天気に恵まれて良かったですね。うん、完璧。あ、でも役員の人といたら話しかけづらいかな……いや、いくら偉い人でも、どちらも私の上司には違いないし、挨拶は社会人として基本的なことだからやってまずいってことはないわよね。何たって普段接点のない社員との交流が目的なんだし。私以上にこのイベントの趣旨に沿った目的の社員いないんじゃないかしら、これは正当な思惑よ。あら、あそこでベンチに座ってるカップル、素敵ね。五十代くらいかしら。二人ともカジュアルだけど、どこかクラッシーで。歳を取っても男性から見て魅力的な女性であるって、とっても難しいことだけど、憧れるわよね。私も部長と一緒にいて、おかしくないかしら。部長、今日はスーツじゃないでしょうし。別にこっちから何か仕掛けるってわけじゃないわ。婚約してるしね。でもほら、他の人から見た時に、釣り合いが取れてたらいいなって思うのよね。ああいう紳士的なオジサマに見合うレディになれたらいいんだけど……

 その瞬間。

 ズルッ、と大きな音がして、麗子の視界がひっくり返った。息が詰まって三半規管が警報を発したと同時に尻餅をついた直後、後頭部を強か地面に打ち付けた。目の前が明滅し、骨に響く痛みは強い熱を持ちはじめた。頭をトンカチで殴られているような衝撃が続いていた。顎も強く噛み合わせたため、鈍く嫌な感覚が残って気持ち悪かった。

 麗子は痛みで目も開けられず、しばらくその場に倒れていた。濡れた地面に触れてようやく、ぬかるみに滑って転んだのだと気付いた。人々のちょっとした騒めきが聞こえたが、それらはすぐに元の喧騒に戻った。

「う……」

 何とか立ち上がった。身体のあちこちが痛んだが、そのままでは泥が服にどんどん染み込んでくるので、立ち上がらなければならないと思った。

 靴は脱げていなかったが、左足のヒールは折れていた。真っ白だったスカートはお尻から泥だらけになり、裾からポタポタと水が滴っていた。地面にビールを零した人がいたのだろう。それがぬかるみになっていたのだ。

 腕を見ると、昨日買ったばかりのカーディガンに小枝が貫通し、穴が空いていた。ストッキングも枝と石で擦れた部分が破れて、血が滲んでいるところもあった。恐る恐る後頭部に触れると、既にこぶができ始めて血と泥が指先に付着した。

麗子は自分の姿を確認して、痛みと、それに勝るやり場のない戦慄と憎悪を感じた。

 その憎悪は、ビールを零した誰かや、自分自身の不注意や、転んで負傷した人を見て見ぬ振りをする周囲の人々に対してよりも、自分の人生そのものに向けられていた。

 どうして私は、こんな目に遭うの。

 だがすぐに血が首筋にまで伝って来ているのを感じ、さすがにこれはまずいと、芝生の上に吹っ飛んでいたハンドバッグを拾い水場に向かった。

 不揃いなヒールによる歩き方が、麗子の豊かな臀部でさえも守りきれなかった坐骨の痛みと出血している後頭部の痛みの両方を拡張していた。麗子は半ば思考を放棄しながら、蛇口が並ぶ木陰に到着した。

蛇口に身をかがめ、ティッシュを少し水に浸し、後頭部に当てると、出血は落ち着いていたが、血が固まって髪の毛にへばりついていた。とりあえずそれを落としていると、隣の蛇口から勢い良く水が跳ねてきた。カーディガンは濡れ、前髪が顔に張り付いた。そちらを見ると、三才くらいの少女が水風船を作ろうとして失敗し、麗子の顔にまで飛び散ったようだった。

 少女は周囲に水を撒き散らしたことを一顧だにせず、水風船の完成に集中していた。麗子はもう、今更顔に水がかかったことなどどうでも良くなっていたので、汚くなったスカートをどうするか考えようとした。

「はなちゃん、そろそろお昼食べるわよ」

後ろから女性の声がした。水風船の少女はその声に振り返ると、急いで女性のもとに向かった。

 淡いピンク色のニットに、白いパンツ。髪は落ち着いた栗色で、セミロングのきれいなウェーブがかかっていた。麗子が絶対に拒否するコーデ。麗子よりは少し年上の女性に見えたが、優雅な微笑みが若々しかった。はなちゃん、の母親だろう。まだ十分ではない毛量のはなちゃんのツインテールを、直してあげていた。

「あれー、パパはどこ」

「パパはね、今会社の人のところに行って、ご挨拶してるの。すぐ戻ってくるわよ」

 頭の痛みと意識の薄れ方からして脳震とうなのではないかと、息も絶え絶えな麗子の理性が主張していた。だがそんな判断よりも、理性以外の部分に宿る意識、思考ではなく、麗子がコントロールし得ない、麗子のこれまでの人生についてまわる影が、囁いた。

「逃げろ。今すぐここから去るんだ」


 麗子は歯を食いしばった。影の忠告が聞こえているのに、動こうとしなかった。予想され得る事態を最後まで見届けようと思った。予感と違う可能性もある。でももう麗子には分かっていた。ここまで転げ落ちたなら、もう一番深いところまで。

「パパーっ」

 はなちゃんと呼ばれた女の子は、ポロシャツを着た男性に駆け寄っていった。

 麗子は、幼い娘を抱き上げた石巻部長を見つめていた。

「こら、走ったら危ないぞ。転んだらどうするんだ」

 石巻部長とその妻子はレジャーシートの上でお弁当を広げ始めた。石巻部長はペットボトルのお茶を注ぎ、細君はお重を開けて並べた。はなちゃん、の表情が、ぱぁっと、明るくなった。

 暖かな陽射しの中でおにぎりや卵焼きを食べる三人家族を、麗子は世界の最も暗い隅から、眺めていた。

 身体の痛みは、麗子から遠のいていた。いや、麗子の存在が、現実から乖離していた。彼女は今誰の手も届かない、自己否定の奈落に堕ち、四肢は砕け散っていた。麗子は問いかけた。

 どうして私はこうなの。

 人生についてまわる影が答えた。

「だから逃げろって言ったのに」

私にも、髪を結ってくれるお母さんが欲しかった。

「まだ母親は生きているじゃないか」

私にも、抱き上げてくれるお父さんが欲しかった。

「もう父親は死んだじゃないか」

どうして、私は誰にも頼れないの。

「お前には姉がいるじゃないか」

頼れないわよ。

誰も頼れない。

でも、疲れちゃった。

わたしは安心したいの。

あったかくて、守ってもらえて、満たされてる、落ち着ける、心の底から信頼できる、わたしを愛してくれる人の腕の中にいたいの。

庇護されたい。

誰か、わたしを受け止めて。もう、立っていられない。

「そんな人は、どこにもいない。お前が望むような形で愛してくれる人なんて、この世にはいないんだよ。お前がお前である限り」


 桜の花びらの色が根元に埋まった死体の血の色だとしたら、麗子の心中は埋められた死体より汚辱されていた。涙なんか流したところで、それが心から流れる血だからといって、化粧が崩れ顔が醜くなるだけで、何の価値も生まない。泣いたってどうしようもない。それは行動を前向きに促すための言葉ではない。声を上げて泣いたところで、誰も気付かないという孤独の証だった。

 もう立っていられないはずの麗子は、徒歩で駅に向かい、電車で帰途に着いた。途中で新しい服を一式買い替えるお金どころか、タクシー代さえなかった。今は破れて汚れた服を、昨日買ってしまったから。ヒールが折れていても、服が汚れていても、周囲の注目を浴びても、法に反しているわけではない。どうしようもないのだ。お金がなかったら服が汚れていてもそのまま帰る。愛してくれる人がいなかったら孤独でもそのまま生きる。他にどうすることが出来るというのか。

帰宅した麗子の姿を見て、柊は言葉を失った。壊れたハイヒール、破れたストッキング、泥に汚れたスカート、涙に溶けて目の周りを真っ黒にしたマスカラ、穴の空いたカーディガン。ドアから夕陽が射し入って、それを背に立つ逆光の中の麗子は、嘗て栄華を極めた洋館の、廃墟の悲哀を思わせた。

「麗子……大丈夫」

 麗子は何も言わず、服を脱ぎ、全てゴミ箱に入れた。裸のまま全世界に背を向けて、ゆっくりとベッドに沈んだ。

「あれっ、何か頭に付いてるよ。それまさか、血じゃ」

 柊は怪我をしているのではないかと麗子に触れようとしたが、出来なかった。自分にはその権利がない、自分が触れるべきではないと感じ取った。こんなに惨めで切なそうな裸の女性に触れるのは、聖者か、彼女を救う騎士にしか許されない。

「……桜は」

 柊は麗子の言葉に、唾を飲んだ。

「桜は、みんなに愛でられて……羨ましいわ」

 オルゴールのネジが止まりかける直前の音の様な掠れ声に、柊は全神経を集中させた。だが、もう慰めの言葉が意味を成さないことは、うつ病を経験した柊には理解できすぎるほど痛感していた。だから「なるべく普通に」答えた。

「ソメイヨシノなんて、飼いならされた品種だよ。歴史も浅いし、どれも一緒だ」

「でも、雑草よりいいわ。穏やかに晴れた日に、幸せそうな笑顔やカメラを向けられている桜ってどんな気分なのかしら。まして、その下で、両親と子どもが幸せな思い出を作るなんて。そして、その下で踏みつけられる雑草は、どんな気持ちなのかしら、ね」

「麗子……」

「寝る。もう、いいの。さよなら」

 麗子は布団をかぶり、そのまま動かなくなった。

 柊は、冷蔵庫に貼られた花見の開催概要を見た。「土日の参加は、ご家族の方の同伴も可能です。」二人共、読み飛ばしている訳ではなかった。柊も麗子も、部長の細君がいてもそれは問題ないと思っていたのだ。男女の関係はいくらでもどうにでも出来る。母の背中を見て育った姉妹はそれを知っていた。だからまずは挨拶から。そういう結論だった。だが、予想外だった。婚約している石巻部長に、既に、子どもがいるだなんて。麗子は自分を捨てた父親との関係を思い出してしまったのだと、柊は深く同情した。

 眠れればいいが。柊はそれだけを思った。不眠は病気の兆候なのだ。柊は、特に要に会った頃から、自分の狂気が妹達に遺伝していないか心配であった。柊自身は子どもを産む気は更々なかったし、そもそも二十代は症状が重くそれどころではなかった。ただ、絶対的な信念があった。

 全世界の子どもは幸せであるべきだ。

 要も、そして麗子の中にいる少女も。麗子は十分世間を知り男を知り、女性らしい豊満な肉体を持っていながらにして、それでもまだ、父親に捨てられたと思っている幼い少女なのだ。そのトラウマはいつだって、麗子が病気としての「うつ」になる根拠になりえた。だから柊は心配していた。

 そうしたトラウマは大人になるにつれて、例えば家庭を持ち母になることで、乗り越えられるのかも知れない。柊は、麗子が母になったら、甥か姪の躁うつの遺伝を心配するだろう。だがその前に、誰かが、麗子の中にいる少女を救ってやって欲しいと願っていた。同世代の女性は子どもを持っている人も多い。だが、夫が幼い麗子を救えるか。子どもがその少女を救えるのか。母親になればその副作用でトラウマも消える確証があるというのか。

 繰り返す。全世界の子どもは幸せであるべきだ。だから、柊は絶対に子どもを生まないと決めていた。母が自分だという時点で、その子は不幸だ。麗子の子どもも幸せであるべきだ。だがその前に、麗子の中にいる子どもが幸せにならなければ、新しい命を生み出している余裕なんてない。それ以前に、結婚資金も養育費もない。自己肯定感もない。お金も自己肯定感もない人間が、どうして子どもなんか産めるんだ。見切り発車出産なんて、非人道的重罪だ。子どもが可哀想じゃないか。なんたってその子達は、親を選べないのだ。

 麗子が寝息を立て始めたので、柊は少し安堵した。そして彼女が目覚めた時のために食材を買いに行った。少し美味しいものを買おう。そう決めて、家から少し距離のある駅ビルに向かった。

 駅ビルの柱に嵌め込まれたサイネージ(柊は液晶広告と呼んでいる)は、全て大手自動車メーカーのミニバンの映像で占められていた。柊は歩きながら、それを眺めた。

 車が海岸沿いの道に止まる。男が運転席から、少年が助手席から降り、服を脱ぎながら海に向かって走る。後部座席から出てきた女性が、それをやれやれと言わんばかりの、しかし満ち足りた笑顔で見つめている。車のアップ。泳ぎはしゃぐ男と少年。そして、キャッチコピー。

「いつまでも、少年の心を忘れない父親たちへ」

 ブランドロゴで締めくくられる。ありふれた、ファミリーカーのコマーシャルだった。

 柊は、その液晶広告を三つほど通り過ぎた。そして四つ目で、思いっきり、液晶に蹴りを入れた。ゴムサンダルだったから、画面が揺れただけだったので、二回、三回と立て続けに蹴りを入れた。

「なんでいつも、父親ばっかり少年なんだよっ。少年でいることが、許されてんだよおっ」

 絶叫しながら、踵から爪先から足全体を使い、交互の足で蹴っているうちに、徐々に液晶の色が歪んで、三回目の女性の登場の頃には、画面にひびが入って来た。

「なんなんだよこの女も。産んで幸せか。少年二人世話して幸せか。ゴミがっ。これだからコマーシャルはクズなんだよっ」

 時間は午後四時過ぎ。柊は酔っ払いではなく、狂人だと思われていた。周囲の目線から、柊はそれを知っていた。だが、柊は狂っていなかった。狂ったことがあるから、狂ってないと断言出来た。ただ、許せなかった。見た目だけ大人になってしまった少女はどこに行くんだ。現代日本のイメージ世界には、母親かごく若い女しかいない。仕事と金はあるが男だけに恵まれない女も、いるにはいるらしいが、柊はそうした存在を肉眼で観測したことがないので、そんなものは幽霊とかUFOの存在とあまり変わりない。それよりだ。傷付いて歪んだまま育ってしまい、一人で生きていくことになった少女達は、一体誰が気にかけてくれてるのか。せいぜい、しんどい現実から目を反らさせるためにエンタメとやらが金を吸い上げるくらいだ。あとは、理解ある男性と巡り会えたラッキーフュー。宝くじかよ。柊は叫んだ。

「単身女性の貧困率を見ろっ。中流以上の男釣らなきゃ、こんな高いSUV、買えねえよ。CMは、ファンタジーだって言え。CMもドラマも、何もかも、嘘っぱちどころか、人間の幸福観を歪める、デマゴギーだっ」

 柊の心の中は、麗子への同情から父親への愛憎に移り変わっていた。


 映像作家、御手洗悟。コマーシャル制作で糊口をしのぎ、映画監督としては世界的な評価を得た、酒浸りで家庭を捨てたろくでなしの父親。

 柊はコマーシャルが大嫌いだった。それは父を思い起こさせるから、というのが根底にあったが、その一方では、子どもの頃から映画を撮りたいと願っていた。いつかは世界から称賛され、父親に褒められるような作品を。御手洗柊が、唯一無二の存在だと確信出来るような作品を。自分の強烈な自我を表現するのなら、「御手洗柊はここにいる」と宣言するのなら、その手段は絶対に映画だと信じていた。映画は悟の夢であり、その父に憧れていた柊の夢でもあった。


 柊は、もう蹴るのを止めて、割れ目に光の筋しか表示されなくなった液晶の前で、項垂れていた。涙がぽたぽたと地面にシミを作った。だが、遠くからどよめく声が聞こえて、警備員や駅員が来ていることに気付き、猛スピードで逃げ出した。ひどく興奮してはいたが、正気だったから、この行為の正当性を証明出来ない上に、弁償を求められることは分かっていた。これはれっきとした器物破損。犯罪だ。


 私は狂人じゃない。間違ってるのはこの世の中だ。

 たかが女二人のトラウマを救えない世界のくせに、偉そうに現実なんて名乗って、のさばってやがる。

 バカか。現実なんて、アホだ。望んでもいないのに女の股からこんなところに放り出されて。

 現実とやらにヘコヘコして、生きるなんてことに執着しなきゃいけなくて。

 全員全部全世界、クズもいいところだ。


 柊は麗子に迷惑をかけることだけはしたくないと思ったから、死ぬ気で走った。服装の印象を変えるため途中で着ていたパーカーを脱ぎ捨て、家とは反対方向に向かって走った。転んでも、そのまま走り続け、ある程度距離を保ったと確信したところでタクシーに飛び乗り、手持ちの金で許す限りの距離を指示して降りて、通りがかった大学の構内に入り込み、下校時の学生の間を彷徨いて、とにかく追っ手を撒いた。日比谷のナンパの時とは比べ物にならない必死の逃走。そして、もう逃げ切れたろうと確信出来た時には、すっかり夜になっていた。住宅街の中にある小さな公園を通りかかり、時計を見ると午後八時になっていた。その瞬間、どっと疲労を感じた。

 佗しい灯りの公衆トイレに入り鏡を見ると、髪がボサボサで、顔色が土気色になっていた。転んだ時に付いた汚れを洗おうとしたが、念のためカモフラージュしようと、敢えて花壇の植え込みから土を取って、顔に塗った。これなら変質者も近寄り難いかも知れない。この地域は来たことがなかったが、住所を見る限りちょっとした高級住宅街なので、猟奇的殺人者にさえ出会わなければ何とかなると思い、かまくらのような遊具に入り込んで一夜を明かすことにした。遊具の中で横になった時、今日は生理じゃなくてよかったな、などと、珍しく女性的なことを考えた。かまくらの頂点には穴が空いており、そこからはくっきりと星が見えた。

 誤解がないと信じたいところだが、一応断っておくと、東京でも星は見える。東京では星が見えないとか空がないというのは誇張、または比喩表現だ。地上に灯りが多ければ夜空の星が見えづらくなるのは当たり前で、柊に言わせれば、東京の空よりも自然が豊かな地域の星はもっと美しく見えるだろうが、それはおふくろの味のハンバーグより一流シェフのステーキの方が美味しいと言われているようなものだ。まあ、その通りでしょうけど。つまり、東京に空がないと言われても、東京生まれなら、東京の空が空なのだ。

 柊はかまくらの中から、右から二番目に見える星を見つめ、暖かい気候に感謝し、どうか麗子の元に警察が行っていませんように、と祈った。携帯の充電は切れていた。そして、今自分が生きていることを、不思議に感じた。


 私は死ぬべきだったのになぁ。入院中も、あんなに死ぬことばっかり考えていたのに、なんで死ねなかったんだろう。


 そして、次に要の顔が浮かんだ。また、涙が出た。私は今間違いなく、躁だ。でも要のことや、麗子と自分の中にもいる親の愛に飢えていた少女のことを思うと、嗚咽が止まらなくなった。

 誰か、助けてくれ。

 もう貧乏とか病気の話じゃない。

 私達は、心細すぎる。

 こんなに大人になったのに、生きることに余裕がない。

 どうか、誰か、手を差し伸べて、一言でいいから抱きしめて、声をかけて欲しい。

 もう大丈夫だよ、と。

 私も麗子も要も、精神的な孤児なのだ。

 誰か、誰か、守ってくれる人はいませんか。


柊はいつしか泣き疲れて眠った。みすぼらしい姉妹をよそに、東京の春の夜は暖かく、高慢で、優美だった。

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