第3話:助けの電話

 翌日、柊に面接合格の知らせが来た。コンサルティング会社の事務職である。いくら障害者雇用枠だとはいえ、一社目の面接で合格したのには柊も麗子も驚いて、柊は不安を蹴散らすために瞑想を始めると言い出した。一週間後に入社というタイトなスケジュールだったので、麗子は出勤のためのオフィスカジュアルを即刻調べ始めたが、百貨店チックな麗子のチョイスは全て却下された。

「オフィスカジュアルなんて、別にスカートとヒールである必要ないだろ。Tシャツとデニムとスニーカーじゃなければ」

「柊ちゃんそれしか持ってないじゃない。カバンもいかついシルバーのリュックとアニメの絵が描いてある綿のトートバッグ」

「アニメじゃなくてアメコミです。シャツ三枚とチノパン二本で乗り切れるでしょ。カバンまでは見られないだろうし」

「でもその会社の雰囲気ってものがあるでしょう。まさかこんな急だなんて。いいわよ、私のカードで買っちゃいましょう。通販なら安いのもあるし」

 柊は入院前、躁状態がひどかった時にクレジットカードを使い込んで訴訟を起こされかけた経験があり、信用取引の世界では生きられなくなっていた。退院後も金銭管理に不安を抱き、この間まで単発バイトをしていたが、必要な分以外は給料を全額麗子に渡していた。脊髄反射的な浪費を避けるためだ。それを望んだのは柊自身だった。

「ごめんね。ありがとう。出世払いということで」

「いいのよ、この中には柊ちゃんのお金も入ってるんだから。せめて私と体型が近かったらねぇ」

 柊は百五十三センチ、麗子は百七十三センチ。体型も、柊は中肉中背、麗子は胸と腰回りにボリュームがるグラマーな体型で、足も一.五センチ違ったので、ジャケットや靴は合わなかった。更に、麗子はスカートしか履かなかったが、柊はズボンしか履かなかった。

「いいよ、面接の時のシャツと靴もあるんだから、それに適当に合わせるよ」

「こういう時って結構物入りになるのよねぇ。交通費も最初は立て替えだし、お給料貰う前が大変。お付き合いもあるかも知れないし」

「ないよ。そういう部署じゃないし。でもなぁ、麗子の方が四月だから、いろいろかさむんじゃないの。やたらめったら歓送迎会あるって言ってたじゃん」

 柊は麗子に対し非常に申し訳なくなったが、麗子は既にネット注文を始めていた。勉強や理屈は柊の方が秀でていたが、常識や金銭的な感覚は、麗子の方がしっかりしているので、安心して託せた。それは柊が躁うつだと診断される前からそうだった。麗子は自分と違って分を弁えることが出来ると思っていた。

 そんな麗子は、昔の資生堂のポスターの山口小夜子や、編み込みのないクレオパトラや、あるいはこけしのような髪型をしている。彼女は「すごくモテたい」「とにかく彼氏が欲しい」「素敵な男性と愛し愛されたい」と日々嘆いている割には、その髪型と、黒を多用したコーディネートと、会社員としては僅かにアウトな濃いボルドーやパープルの鋭いネイルを変えなかった。そんな見た目の女が、一般社会でモテるのが難しいことは、世間知らずの柊でも分かることだった。だが、それが麗子のアイデンティティなのだ。そして彼女が会社勤めをしているのにも関わらず、占い館とか花園神社付近のバーにいるようなスタイルでありたがるのは、母京子が昔から「仕事も女も、楽しみたい!」みたいなアオリを打ち出した雑誌に出てくるファッションをしていたからだった。麗子はそこまで意識していないかも知れないが、柊にはよく分かっていた。若い頃の京子の容貌は、今の麗子にそっくりだった。無意識の反発なのだ。残念な話、京子のような格好をすれば、少なくとも今よりはモテると断言出来た。だがそれは、麗子のアイデンティティを否定することになる。そんなこと、傍で気付いたって、言わなくていい。

 柊はラップトップを操作する麗子を感謝の気持ちで見つめていたが、だんだんと「やっぱりあの髪型はモテないんじゃないかな。レゴみたいだよな。ぱかっと取れそう」などと考えた。

「注文したわよ」

「ありがとう、こけしさん」

「その呼び方はやめてよ。あと何か要るものってあるかしら」

 柊は注文の決済画面を見て、唇を噛んだ。麗子は優しく言ってくれているが、今の生活では数千円の出費でも神経を張り巡らさねばならなかった。この程度の経済的苦境なら柊自身は耐えられたが、妹の負担になっているのが忍びなく、一刻も早くこの部屋を出て一人暮らしをすることが必要だと思った。とにかく物理的に狭いし、深夜麗子の自慰行為の側にいるのは逆に心苦しかった。麗子の計画ではいずれ誰かと付き合って結婚するのだから、いつまでも自分が厄介になるつもりは毛頭なかった。それは、麗子がもっと具合が悪い時の柊の面倒を見てくれていたからこそだった。麗子は柊が四回自殺未遂をしたうち二回を引き止めたし、入院中も最低でも三週間に一回は面会に来てくれた。それでもプライドの高い柊を上手くその気にさせて、いつも姉として立てて接してくれる麗子に、柊は心底感謝していた。自分のためだけではなく、麗子のためにも経済的自立を成し遂げなければならない。

「母親に……言っておくか。それで、ちょっとお金の相談しよう」

「え、あの人に話すの。そんな必要ないわよ」

 麗子はあのファミレスの日から、京子との連絡を一切取っていなかった。柊は退院の手続きをする際や、足りない生活費を貰ったりすることがあって、しばしば連絡を取っていたが、そのやりとりを麗子には伏せていた。

「就職先見つかって、入用だからって伝えれば、多少なんかしてくれるでしょ」

「あの人に頼るってこと自体がもう嫌なのよ」

「いいんだよ、金を貰いさえすれば。それに私、麗子と一緒に暮らしてるとも言ってないし」

「じゃあ、どうやって生活してるって思ってるのよ」

「バイトでやっていけてるって思ってるんだよ」

 麗子は信じられない、と口をひん曲げた。

「そんなこと出来るわけないのに。柊ちゃんの体調や生活の状況なんか何も知らないで、いっつも我関せずで、子どもについて考えるってことをしたくないのね」

「まあ何でもいいよ。とにかくお金だ。メールしとくよ、洋服の代金と交通費と、麗子の不本意な交際費も合わせて請求しておこう」

「あの人と関わるの、本っ当にもう嫌なんだけど」

「麗子が関わってるわけじゃないよ。それに、私も麗子のお荷物になりたくないんだよ。早いとこ、ここからお暇しなきゃいけないわけだから」

「そうやって気遣ってくれるのは嬉しいけど……。私はあの人と人格的に合わないし、出来るなら縁を切りたいわ」

「まあまあ。あー、なんか入社手続きで身分証のコピーが必要らしいから、ちょっとコンビニ行ってくるわ」

 柊はスマホと通帳と財布を持って外に出た。コピーなんていつでもよかったのだが、麗子の近くで京子にメールを打つことは躊躇われた。別にメールの文面を覗き込まれるというわけでもないが、麗子の部屋で不義理を働いているのはいい気がしなかった。

 柊からすると、自分と麗子はどちらかが贔屓されているということもなく、どちらも同じ位京子に関心を持たれていないと感じていたのだが、麗子の方が強く京子を嫌悪していた。それは柊が高校三年生、麗子が二年生のクリスマスに発覚した京子の恋愛、相手が妻子ある身だったので不倫だったのだが、それが拍車をかけたようだった。

 当時柊は大学受験の為に狂ったように勉強に没頭していた。その直前の模試で市民革命の理解が不足していると思い、徹底的に勉強し直しており、勉強時間は一日十五時間に及び、少し感覚がおかしくなっていた。不倫相手の細君(身重だった)が連続でチャイムを鳴らし、玄関での押し問答の末、彼女は土足で乗り込んで来て、怒鳴りながら手当たり次第に物を投げ始めた。彼女をフランスの革命の暴徒と見做した柊は「これは記録すべき事態だ。わが家の歴史的瞬間に違いない」と考え、デジカメで録画し始めた。それに激昂したのが麗子で、相手に一番誠実だったのも麗子だった。姉妹は母の不倫など全く知らなかったし、更に一切非のない麗子がひたすらに謝って、何とか相手に帰ってもらったのだった。京子はその時フライドチキンだかポテトだか、油を使う料理をしていて、危ないから物を投げないでください、などと、また相手の気持ちを一切考えない発言を繰り返していた。

 全てに当事者意識がなく、自分の人生もワイドショーのように捉えている京子なので、その時のことは笑い話として覚えているかどうかさえも分からないが、麗子の京子に対する断絶はその時に修復不可能になった。なぜ麗子が母の不倫に対し、柊よりも強い嫌悪を示し、不倫相手に誠実に対応したかを柊が知るのは、もう少し後だった。

 長いこと母子家庭だった御手洗家は、京子が優秀なメガバンクの行員だったことで経済的逼迫はそこまでなかったものの、京子はもともと子どもに興味がなかった。それに強い不満を抱いていたのが麗子で、父がいなくなったのも京子のせいだと思い込んでいるようだった。

 麗子は、京子にとても近いところがある、と柊は思っていた。二人とも、古い言い方をすれば女性的で、美しくあることに重きを置き、男性にちやほやされることを求めた。背が高くてグラマーな体型も似ていた。だからこそ、麗子は京子に強く「母」であることを求めたし、京子はいつまで経っても「女」なのだった。麗子は父親を手に入れることが出来ず、母である京子が「女」であり続ける限り、「母親」を手に入れることも出来ない。柊は思った。

「これ、女版エディプスコンプレックスに近いんじゃないかなぁ。ユング派の人らはエレクトラコンプレックスって言ったんだっけ。フロイト的には女はこのコンプレックスを打破できないらしいし、エレクトラ女王は一生結婚できなかったらしいし……大丈夫かなぁ」

 コピーを終えて、今日も自殺しなかったという自分へのご褒美としてソフトクリームを買ってコンビニの外のベンチで食べていた。夕方だったが、アイスを食べても寒くはない。もう春なのだ。

「まあ、フロイト的に考えるなら、ペニスが万事解決してくれるでしょ。早いとこ、あいつに彼氏が出来るといいよな。私も仕事、がんばろう」

 精神分析の世界は奥が深かったので、呆れるほどざっくりと考えた。柊はかつて精神分析の本を随分読み漁っていたが、躁うつが顕著になり始めた頃、医者に止められた。

「柊さんは難しく考える過ぎるところがあります。具合が悪い時に自己分析をするとろくなことになりません。とりあえず精神分析に関する本を読むのは一旦止めてください」

 翌日古本業者への引き取りをやってくれたのも、麗子だった。柊からしたら、麗子が母親のような存在だった。勿論それも、絶対に口には出さなかった。


 入社前日。昼過ぎから雨が降り出し、夜には土砂降りになった。姉妹がスーパーのお惣菜中心の穏やかな夕食を食べ終えくつろいでいると、柊の携帯が鳴った。京子だった。柊は外に出るのも億劫だったので、一旦切ってメールを入れようとしたが、またすぐに鳴った。

「それあの人じゃないの。出たら」

 露骨に嫌悪を示しつつ食器を片付けている麗子に頭を下げ、せめてイヤホンを使って向こうの声が聞こえないようにした。

「どうも」

 よそよそしい挨拶が精一杯の配慮だった。

「あっ、柊。どう、見える」

 画面に京子の笑顔が映し出された。画面から少し距離があるから、パソコンのカメラを使っているのだろう。

「何でビデオ通話になってるの」

「ネットで英会話始めたのよ。それで、あなたから連絡があったから、携帯相手でも出来るか試してみたくって」

「そんなん、普通に出来るよ」

「ちょっとあなたの顔も出しなさいよ」

 麗子の部屋だと気付かれたくなかったので断ったが、それでもせがむので、何もない壁を背にしてカメラをつけた。

「よかった、ちゃんと見えるわよ。前より顔色良くなったわねぇ。仕事決まったんでしょう。おめでとう」

「いやあ、ありがとう。悪かったね、突然」

「いいのよ。お金振り込んでおいたから。給料日までそれでつないでね」

 柊は、この京子の軽さを、かつては憎んでいたが今となっては気にしないようにしていた。京子にとって柊が無価値なら入院もさせてもらえなかっただろうし、今回のような金策も無下に断られていただろうが、この様に快く迅速に対応して連絡を寄越す限り、彼女も彼女なりに、娘を娘として認識しているのだ。ただその範囲が、自分の興味があること、もしくは自分の興味を妨げない範囲のことに限られる。入院中面会に来なかったのも、新しい家族と過ごす時間を、双極性感情障害を悪化させた長女の見舞いに割きたくなかっただけなのだ。毎日値引き品を食べ、自力で交通費の立て替えも出来ず、六畳半のアパートに二人暮らししている身からしたら、豊洲の高級マンションでオンライン英会話をしているなんて自慢話でしかないが、それは無神経ではなく、(当てつけがましいくらいではあるが)ポジティヴなのだと捉えると、彼女の長所ではあった。気のいい太っ腹なやつ、だが親としての責任感はない。それが柊の母に対する認識だった。

「助かるよ。社会復帰に向けてがんばる」

 気のない声で柊は母親に答えた。

「そうねえ。やっぱり体が資本よ。私もたるんできたから、またジム入ろうかと思って。会社、どんなところなの」

「アビココンサルの事務。会社は日比谷にある」

「あら、大企業じゃない。最近好調だから、人員削減とかもそうなさそうだし」

「障害者雇用枠なんだ。だから具合が悪くならなければ、多分瞬時に首切りにはならないと思う。大きな企業はある割合の人数を雇用しなきゃいけないらしいから」

「あら、ちょっと待ってて。家の電話が鳴ってるわ」

 そう言って京子は、コードレスフォンを取って廊下に出て行った。やれやれと柊がため息をつくと、画面の横からもそもそと動くものが見えた。

「お姉ちゃん」

「あっ、要さん」

 柊は急いでスピーカーに切り替え、麗子を呼んだ。麗子がエプロンで手を拭き拭きしながら柊のところまで行くと、液晶画面の向こうで要が安心したような笑顔で手を振っていた。前よりしっかりとした印象で、髪が伸びて肩までのセミロングになっていたが、広い額はそのままだった。眉と目がきりっとしていて、それでも上の歯が抜けているのがやはり子どもらしかった。

「要ちゃん、お久しぶりね」

「お姉ちゃん達、元気だった?」

「元気だよぉ、私らのこと覚えててくれたんだね」

「もうすっかり大きくなって。今十才よね」

 要は笑顔で何度も頷いた。嬉しさが画面越しに伝わってくる。

「会いたかった」

「私らもだよ。要さんどうしてるかなって」

「そうそう。最後に会った時、私たちあんまりいい印象じゃなかったから悪かったわねって、柊ちゃんとよく言ってたから、お話し出来て嬉しいわ」

「うん。大丈夫だよ。でもママが……」

「ああ、多分会わせたくないのね。パパは、どうしてるの」

「今は出張。あとはずっと会社にいる」

 要は遣る瀬無い顔をした。事実を述べただけだが、そのために一層寂しさが感じられた。

「要さん、友達とはよく遊んでるの」

 柊の質問に、パッと顔を上げた。

「うん。学校だと、友里が一番仲いいよ。塾だと更紗ちゃん」

「何して遊んでるの」

「うーん、大体テレビとネットの動画の話かなあ。忙しいから、あんまり遊びには出かけない」

「なんで」

「毎日塾と、あと水泳もあるから」

 柊は要の目の動きが、冷たくざらついているように感じ、一呼吸置いて、要の目を捉えた。そして問いかけた。

「要さん。今、何が一番辛い」

 要は下を向いて固まった。この質問は、柊にとっては、被告に重要な証言をさせる裁判官か、もしくは、神の人智及ばぬ所業の理由を問いかける信者と同じくらいの真摯さだった。

「……分かんないや。友だちもいるけど……辛いことはあんまり話さない。友だちといるのは楽しいよ。水泳はまあまあ。でもママとはほとんど話さない。パパは」

 突然、要は振り返った。そしてすぐに席を立ち、画面から消えた。

「お待たせー」

 京子が部屋に戻ってきたのだ。柊は再びイヤホンを接続し、急いで元の壁際に戻った。麗子もまた流しの方に戻った。要が何も言わずいきなりパソコンから離れたということは、京子の目を盗んで接触を図ってきたのだ。柊は胸がギュッとなった。

「電話、飯田の妹さんからよ。家を買ったから、今度私達を招きたいんですって。見せびらかしでしょう。兄妹で何を競い合うようなことしてるのかしらねぇ。お義父さんたちも来るだろうから……」

 裕福な身内を馬鹿にするという下衆な自慢、と麗子であれば評するような京子の話を、柊は大人しく聞くフリをしていたが、全く頭に入っていなかった。姉である自分達に会えないのはまだしも、電話も憚られるのか……と思うと、「要さんは要さんのやりたいことをさせてもらえてないのでは」という印象が強く残った。

 ふと画面に意識を戻すと、京子の頭の後ろ側でぴょこぴょこ跳ねているものが見えた。茶色いくまのぬいぐるみだった。

 レイダー……

 柊は危うく口に出しそうになったが、咳き込んでごまかした。

「あら、あなた風邪なの」

「いやいや、私は万事大丈夫」

 向こうのカメラに映り込むにはある程度上背が必要だから、要は背伸びをしてレイダーを動かし、自分がまだ居ることを京子に気付かれないように伝えているのだ。柊はペットボトルの水を飲んだ。考えを巡らせた。

「ところでさ」

 柊は大きな声で、ゆっくり話した。

「結構前に教えた、私の携帯の電話番号、間違ってたかもしれない。今から言うから、お母さんの控えと合ってるか確認してくれないかな」

 一層声を大きくした。

「もし、私の電話番号が分からなかったら、今、メモしてよ」

 後半は、要へのメッセージだった。要は賢いから、きっと気付くはずだ。

「あらほんとに。ネットでの通話ばかりになると、番号なんて忘れちゃうわよね。ちょっと今携帯見るから……はい、登録はありました。番号を教えて」

「〇九〇の………」

 そう言い始めると画面からレイダーが消えた。よし、作戦は上手くいっている。

「あら、別に間違ってないわよ。その通り登録されてる」

「あ、じゃあよかった。何人か、途中の六を九って伝えてちゃってた人がいたみたいでさ、一応いろんな人に確認してるんだよね」

 こんなのは全てでっち上げである。柊はそういうありもしないト書きを作るのが得意だった。

「万一困ったことがあったら、電話からでもいいから話してよ」

 遠くでレイダーが頷いた。首には真紅のリボン。そうそう、レイダーにはあれがないと。しっかり伝わったようだ。京子は自分に言っていると思っているので、ツッコミで返した。

「あらやぁね。困ってるのはいつもあなたの方でしょ」

「ああ、そうでした。いや、でもわざわざ電話ありがとう。お金もありがとう。助かりました」

「こう言っちゃ悪いんだけど、飯田はあなたのことあんまりよく思ってないから、あの人がいる時は連絡出来ないけど、それ以外だったら出れますから。ああ、そういえば、麗子はどうしてるかしら、あなたは何か聞いてない?」

「んー、最近私も就活してて会ってないしよく分からないな」

 勿論ここは麗子の家だし、すぐ隣で洗い物をしている。

「そう。まあ、あの子もいろいろ難しいから。もし会ったら、たまには連絡してって言って頂戴」

 おめーから連絡しろよ、と柊は心の中で突っ込んだが、多分してたとしても麗子は出ないのだろう。着信拒否してるかも知れない

「分かったよ。お母さんも身体に気を付けて。要さんにも、元気で頑張れって『こっち』が言ってたって伝えて」

 「こっち」には麗子のことも含めていた。京子の頭の後ろでレイダーがぴょんと跳ねた。京子が振り返りそうになったので、柊は慌てて、英会話も頑張ってよ、と大声で気を引いた。呑気な京子の笑い声で、通話は終わった。十分程度の会話だったが、すっかり気疲れした。

 イヤホンを外してごろっと横になると、麗子も自分のベッドに戻っていた。ハートのクッションを抱きしめて、京子の存在は全くなかったかのように柊に言った。

「要ちゃん、頑張ってるみたいだったけど、ちょっと不安な感じがしたわね」

 柊は天井から釣り下がる白熱灯をぼんやり見つめた。要の態度。柊は要と二回しか会っていない。母から「種違い」の妹を妊娠したと聞かされた時、柊は大学生で、麗子は短大の卒業を控えており、京子はほぼ飯田の家にいる状態だった。要が生まれた時も、母親に呼ばれたから行った、という形式的な対面だった。麗子は行かなかったが、柊だけ、説明し難いぼんやりとした責任を感じて、産まれたての要に会いに行ったのだった。

 ファミレスで会った時、精神病患者と、厚化粧の毒婦という、エッジ効き過ぎな種違いの姉二人と相対しても、彼女は不快な顔せず柔軟に受け入れてくれた。それがどれだけ入院中の自分を救ったか、柊は噛み締めていた。そして今の電話。もしかしたら要は飯田の家の中にあって「レイダーと二人で」暮らしているのかも知れない。柊と麗子が幼かった時と同じように。そして今も二人で暮らしているように。

 柊は少し間をおいて、自分に言い聞かすように語り始めた。

「私らからしたらさ、要さんは他所の子じゃん。一緒にいた時間なんてほぼないし、あんまりよく知らないしさ。それに私らは、もう家族なんてまっぴらだったはずなんだよ。私と麗子はこうして一緒にいるのは、両親がクソだったからだし、麗子は私のことをお姉ちゃんだからって大切に思ってくれてるけど、本当は結婚して別の家庭に行きたいの、よく分かる。私も自立しないといけない」

 麗子は柊を見つめた。クッションを抱きしめる腕に力がこもった。柊は続けた。

「そういう私らなのに、こんなに要さんのことが気になるのはさ……要さんが、昔の私らと似て見えるからなんじゃないかな。もし要さんが、家で辛い思いをしてるんだったら、助けてあげたいって思ってるからなんじゃないかなって。金持ちの家の要さんが、レイダーみたいな古いぬいぐるみを今でも大切にしてるのは、レイダーにしか言えないことがたくさんあるからなんだよ。父親や母親や、友だちにも言えないことがね。私は、自分のこともろくに世話できないくせに、それでも、要さんが寂しがってたら、助けてあげなきゃいけないって思うんだ。じゃないと……」

 柊は鼻の奥に塩気を感じた。目頭が引っ張られて熱くなる。

「あの子が私らみたいになっちゃうかも知れない。親をずっと許せない、いつまでも恨みや悲しさを引きずる人間に」

 麗子は鼻をすする姉の肩を起こして、抱きしめた。

「柊ちゃん、そこまで考えていたのね。でも、そうね。私達、傷付き過ぎていたのよ。柊ちゃんは人より感性が豊かだからそう思ってしまうのだろうけど、私だって要ちゃんが、確証はないけど、もし不安の中にいたら、何とかしてあげたいって思うわよ。私には柊ちゃんがいたわ。でも要ちゃんは、一人ぼっちよ。お友だちがいるのは救いだけど、お友だちに家の事情って言い辛いし。要ちゃんのことよく知らないけど、家庭で辛い思いしてるんじゃないかって、心配するのも当然よ。何せあの女が親で、再婚相手の飯田って男も胡散臭いし。こういうの老婆心っていうのよね、いやだわ……」

 麗子も泣いていた。二人はお互いの寝床の間にあるティッシュ箱を引き寄せる余裕もなく、涙を溢していた。

「要ちゃんを見てると、私らのことちっちゃい時のこと、思い出す。で、いい大人になった今も、ことあるごとに、辛くて、悲しくて、不安なんだって、気付くんだよ。うちの家庭の問題なんて世の中の悲劇と比べたら大したことじゃないはずなのにさ。だってもっと辛い目に遭ってる人なんて山ほどいる。なのに、乗り越えられないんだよ。私はずっと、そういう自分が弱いと思っていたよ」

 柊は嗚咽を漏らした。この涙は病気の症状によるものではないと、麗子は分かっていた。この悲しみは躁やうつではない。麗子も、同じ悲しみを共有していたからだ。

「私達、ずっとずっと、囚われてるのね。でも柊ちゃんは、良くやってるわ。お仕事も決まって、これからじゃない。私だって、もうあの女の世話にはなってない。逃れましょう。いい加減、断ち切るのよ。私達は自分の人生を生きるの。あの親から学べる唯一のことは、それだわ。人生は、自分のためにあるのよ」

 柊は麗子の胸に抱かれて泣いていた。涙は止まっていなかったが、既に気持ちは別のところに移っていた。柊は頭の回転が速過ぎて、身体の反応が遅れることがよくある。これだけ胸があるのにモテないなんて、女に性行為目的で近付いてくる男が実在するのか、不思議になるくらいだった。麗子を見上げると、濃いアイメイクが溶けて、SF映画の悪役みたいになっていた。

「頑張ろう」

 二人は目を瞑って深く頷き合った。

 柊、三十而立。明日、生まれて初めて会社員になる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る