第4話:泣きたい時に泣く、その時間

 朝七時。

「かなちゃん、おはよう」

「おはよう」

 要がリビングに入ると、母親の京子は英会話の早朝レッスンを終えて、パソコン周りを片付けていた。父親の優一は出張で、ここ数日顔を合わせていない。

「ママ今日帰ってくるの十一時くらいだから、夜ごはん先に食べててね」

「うん」

 テーブルを見ると、既に朝食が用意されていた。ラップがかけられたサラダとソーセージとベーコンエッグの皿に、食パンの袋が添えてある。ベーコンの脂が白く凝固して、ラップにへばりついていた。レッスンを始める前に作り置いてあったのだろう。朝から会議がない時はいつもこのメニューだった。会議がある時は、要は一人でパンを半分だけ食べる。要は同年代の女の子の中では小柄で、小食だった。

 手早く出社の準備をする京子を要はぼんやりと眺めていた。京子は何事も自分でルールを作って遂行するタイプだった。段取りを決めて、テキパキとこなす。ゆったりしてない方のマイペースだ。髪型や口紅の色にもパターンがあった。つまりそこには目的があるのだろうなと、要は子ども心に何となく気付いていた。一度表計算ソフトで、京子の髪型と口紅と帰宅時間の関係をグラフにしたらどうなるだろうと考えたことがあったが、そんな時間があったらもっと楽しいことをすべきだとレイダーにつっこまれて、やらないで済んでいた。

「じゃあ、かなちゃん。ママ行ってくるから」

 玄関に向かうドアのところで、京子は要に向かって両腕を広げた。要はダイニングチェアから上体を起こし、眠気の覚めきらない足取りで京子の方に歩いた。一日の中でこの時が最も重たく感じられた。京子のそばまで行くと、彼女は要を抱きしめた。出勤前に要を抱きしめるのが京子の習慣になっていた。今日はスパイシーな柑橘系。自己主張の強い香水の匂いに包まれて、低血圧で寝起きの悪い要は正直、この儀式があまり、というか、かなり苦痛だった。そして、一日のうち京子と接している時間が一番長いのは朝だったので、肉体的にも精神的にも憂鬱な時間帯だった。会議のある月曜と水曜は、土砂降りでも軽やかな朝だ。

 要は理論的思考や説明が非常に得意であったが、同時に人の顔色を伺うことも必要だと思っていた。母の京子は自分のペースで生きている人間だが、父親の優一は気難しいところがあった。仕事に明け暮れて、家で過ごしている時間はそんなになかった。家にいる時があっても、ラップトップに向かって仕事をしており、要は彼の機嫌を測ってからテストの点数を報告したり、出かけたい場所をそれとなく伝えたりする必要があった。

 要の記憶に強烈に残っているのが、要の幼稚園の卒園式の夜のことだ。両親はワインを飲んでいて、少し酔った京子が前夫の飲酒癖をちらっと漏らしてしまった時、優一はアルコールで紅潮していた顔が青ざめるほど激怒した。流石に暴力は振るわなかったものの、ワイングラスどころかワインボトルにも当たり散らし、京子がお祝いで作ったミートローフやデパ地下の小洒落たケーキも全てべちゃべちゃになってしまったことだった。部屋に逃げた要は、ぬいぐるみのレイダーを抱き寄せて『アンネの日記』を読んだ。ナチス占領下のユダヤ人達が迫害される理不尽さに想いを馳せ、泣いて、寝た。

 京子が出かけた後、要は朝食のラップを剥がし、既にドレッシングがかけられたサラダの油分が少ないところだけつまんだ。それから皿ごと持ってマンションの部屋を出て、屋上までエレベーターで上がった。要の住むタワーマンションは地域の緑化活動に参加しており、屋上に花壇があるのだった。備え付けのスコップで三十センチほど掘って、朝食を埋めた。食べ物を無駄にするのは、良くないことだ。要は、植物が育っていくのを見るのが好きだった。そして自分がやった「肥料」が植物の養分になることで、植物が母親への嫌悪を清めてくれるような気がしていた。

「今日はいい天気だなあ」

 母親と過ごした朝はいつもこの儀式をすることによって、気持ちを入れ替えていた。そして七時五十分には家を出る。

 学校に到着し、教室に入るや否や、前の席の沙奈江が駆け寄ってきた。

「かなちゃん。大変だよ」

「おはよう。どうしたの」

「友里ちゃん、昨日交通事故に遭ったんだって。今入院してて、まだ目が覚めてなくて、重症なんだって」

「うそっ」

 要は持っていた体操着入れを落とした。友里は要が転校してきた時から仲の良い親友だった。

「さっき友里ちゃんのパパが来てたよ。朝礼で話があるかも……」

 沙奈江の言った通り、朝礼で校長と担任の重森先生から説明があった。友里は昨夜おつかいの途中、横断歩道で暴走するダンプカーに轢かれてしまい、現在も意識がなく、面会謝絶の状態が続いているとこのことだった。

 要はどうしてもお見舞いに行きたいと重森先生に訴えたが、友里の母親でさえ、友里がいる治療室に入れないのだと告げられた。

 要は呆然としてしまった。昨日一緒に笑っていた親友が、いきなりいなくなって病院で生死を彷徨っているなんて嘘のようだった。だが先生達の深刻そうな話ぶりや、クラスの落ち込んだ雰囲気、そしていつも二人でおしゃべりしていた休み時間が来る度、友里がいないということの実感がじわじわと湧いてきた。

 塾の学習進度が速いため、要にとって授業は退屈なものだったが、学校の休み時間や課外活動などで友だちと話すのは楽しかった。小学校二年生で転入してきた要は、新しい学校でうまくやって行けるか不安だったが、友里が声をかけてくれたおかげでうまく馴染むことができたし、彼女は誰とでも明るく接するクラスの中心的存在だった。頭でっかちな要にポジティヴさと大らかさを教えてくれたし、友里の方では、主に忘れ物などを要に助けられることがしばしばだったので、二人はいいコンビだった。

 帰り道も同じ方角で、要の住むタワーマンションのロビーでずっと話し込むこともあった。昨日もそうだった。

「かなちゃん、今年の夏休みに海に行こうよ」

「うーん、塾の合宿がなくって、パパが良いって言ったら行けるよ」

「海、行ったことある?東京湾じゃなくて」

「海水浴の出来る海のことだよね。ない。行ってみたい」

「海はおっきいよ。ものすごいおっきい。友里なんてもう、ミジンコだよ」

「ウケる。でも確か、地上の七割が海だもんね」

「友里のおじいちゃんち、海の近くにあって、夏休みに泳ぎに行くんだ。遠浅でそんなに波も高くないんだけど、夜は、灯台がないとこは暗いっていうか、もう真っ黒なの。光がないから、暗いっていうよりは、黒いんだよ。荒れる時はめっちゃくちゃ怖いんだって。津波は自分たちじゃどうしようもないから、とにかく山に逃げるんだって」

「そうなんだ。津波はテレビで見たけど、すごく怖かった」

「でも、普段はすごくきれいだよ。かなちゃん泳ぐの得意だし、結構遠くまで行けるんじゃないかな。友里は従兄弟と砂のお城作ったよ。一メートルくらい」

「そっか。砂浜も行ったことないや。従兄弟とも、会ったことないな」

「じゃ、かなちゃんが来たら、ピラミッド作ってあげる。ピラミッドは普通に作って、かなちゃんはスフィンクスなの」

「えーっ、砂に埋めるって、その形なの」

 ロビーに響くくらい大笑いをした。その時の友里の顔一面に広がった明るさを思い出して、要は泣いてしまった。五時間目の社会科で、地図帳の太平洋にぽたりと涙が落ちた。要は何とか声を出すまいとしたが、鼻をすすっている音で沙奈江が気付き、隣の席の義孝が重森先生に小さく声をかけた。彼はすぐに察して、みんなにプリントを渡してから、要を指導室に連れて行った。

 指導室のソファーに座っても、まだ涙が止まらなかった。重森先生は要の肩に触れ、ティッシュ箱を差し出した。要はティッシュで涙を拭いて、鼻をかんだ。

「友里ちゃんのことだね。友里ちゃんはみんなと仲良かったけど、要ちゃんとは一番仲良しだったからね。落ち着くまでここにいなさい。帰りにランドセルや持ち物、持ってきてあげるから」

「ありがとうございます。でも」

 要は目元から腕を離して上森先生を見上げたが、白いフサフサの眉毛を下げて微笑んで先生の顔を見て、いよいよ声を上げて泣いてしまった。うぐっ、ひっく、うう……と、悲しさと苦しさの混じった嗚咽に、重森先生も胸が締め付けられる思いだった。

「私が、事故に遭った、わけじゃ……ない、のに……友里が、大変なのに……ううっ……」

 重森先生は要が転校してきてからずっと担任だったが、要が優秀で年の割にしっかりしているのを頼もしく思う一方、自制心が強過ぎる子どもだと認識していた。だがこの瞬間に、要は本当は感情が豊かで、人の気持ちを強く察することが出来る子なのだと考えを改めた。先生はティッシュ箱をそばのテーブルに置いて、要の背中をさすってから、五時間目が終わったら来るからね、と暖かさと威厳ある声で告げた。この言葉に要は、例え地球が爆発しても先生は来てくれると思いながら、必死にしゃっくりと戦っていた。

 五時間目が終わり、重森先生が様子を見に来た。要はまぶたが膨れ上がり、鼻から唇の先まで真っ赤だったが、もう落ち着いた様子で、先生にお礼を言った。すると先生はしっかりと要の目を見て、言った。

「要ちゃん、悲しくて耐えられない時は、誰にでもあるからね。悲しい時は、悲しいって言っていいんだよ」

 要は俯いたまま、何も言えなかった。

 その日は沙奈江と義孝と一緒に帰った。沙奈江はわざわざ遠回りをして、要のマンションの前まで付き添ってくれた。

「飯田の家、すっごい大きいよな」

「何階建てなの」

「五十五階かな。うちは二十九階だけど」

 遊びに行きたいと二人は言ったが、今日は塾があるからまた今度、と答えた。すると義孝は半ば叫ぶように言った。

「お前、そんなに泣いて、今から勉強出来るのかよ」

「もう泣いてないよ」

「うちの母さんが言ってたけど、涙っていうのはただの身体の反応なんだぞ。気持ちとはズレる時があるんだって。泣き終わったからって、悲しいのが終わったわけじゃないだろ」

 沙奈江もおずおずと要に言った。

「かなちゃんち厳しそうだけど……今日は塾お休みしたいって言ってもいいと思うよ」

「ママもパパも、今家にいないんだ」

「じゃあ携帯に電話するか、あとで言えよ」

 要はすっかり塾に行く気だったが、友人達の言葉に逡巡した。その時ふと、マンションの入り口から昨日友里と話し込んだソファーが見えて、熱いものが胸に込み上げた。

「さっき……悲しい時は悲しいって言っていいんだよって、先生に言われた」

 心許ない要の言葉に、沙奈江と義孝はそうだそうだと口を揃えて賛同した。要はその声に後押しされ、彼らと別れた。エレベーターの中で、両親のどちらに連絡するか考えたが、絶対に母親の方が得策だった。彼女は無理は言わないタイプだし、押し切れる自信は少しあった。

 帰宅して家の電話から連絡を取ろうとしたが、どちらにも繋がらなかったので、要は自分の部屋に戻って折り返しの連絡を待った。呼び出し音が何となく怖くてレイダーを抱きしめて身体を固くしていたが、そのうち疲れて眠り込んでしまった。

 玄関のドアが閉まる音で目が覚めた。部屋は真っ暗で、時計を見ると九時半過ぎになっていた。いつもなら塾から帰宅する時間だった。ドアの音は、両親のどちらかが帰ってきたのだ。予定が早く終わった母親だったらいいのだが。要は、もし自分の在宅が気付かれていなかったら、そっと家を出て塾から帰ってきたフリが出来るのではないかと考えた。その瞬間、部屋のドアが開いた。

「要、ちょっと来なさい」

 逆光でほぼその顔が見えなかったが、父親だった。鞭を打たれたように、緊張が走った。要がのそのそと暗い部屋から出ると、身体中が重く、リビングの光が刺すように目に入った。まだ目元が熱を持っている。父親はソファーの一番端に座っていた。要はその前に正座した。カーペットが敷かれていないその位置は、要が怒られるときの定位置だった。優一は、眉間にしわを寄せて、埃っぽい場所にいる様に目を瞬かせていた。彼が口を開くまで要は身体を強張らせていた。

「塾からお前が来てないってパパのところに連絡が来た。ママに電話しても繋がらないって言ってね。それでお前に電話したらお前も出ない。家の電話にも携帯にも出ない。だから慌てて帰って来た。お前に何かあったのかと思ったからな」

 要は塾に連絡を入れることをうっかり忘れていた。自分で欠席を連絡したとしても、確認のために保護者に連絡が行くことにはなっていた。だが少なくとも家から電話すれば家の番号が表示され要が帰宅していることは塾には伝わるので、親から電話が来たらそこで事情を説明するつもりだった。深く眠り込んでいて、電話の音に全く気付かなかったのだ。

「ママに留守電を残したけど連絡もないし、もう心配で。帰ったら玄関にお前の靴があったから安心はした。でも何で無断で塾を休んだんだ」

 いつもは低い声がたまにうわずるのが、優一の怒っている時の特徴だった。

「電話はしました、パパとママに。でも、出なかったから」

 優一はぱしっ、と彼の腿に手を置いた。

「何で休んだんだ、と聞いてるんだ。休んだ、り、ゆ、う」

 要は歯を食いしばった。怖かったが、先生や友人達のことを思い出した。あと、何となく父親の聞き方に腹が立った。

「塾に行くどころじゃなかったから。今日学校に行ったら、友里がダンプカーに轢かれたって聞いて、友里のママもお見舞い出来ないくらい重症だって言われて、すごい悲しくて、ちゃんと勉強出来ないと思ったから」

 質問に一息に答えた。ひどく苦しかった。ほら、ゆっくり呼吸、呼吸、と、どこからか聞こえた気がして、とりあえず吸って、吐いた。それでも父親の反応がなかったため、顔を上げると、怒っているというよりは不愉快な顔をしていた。要はその表情がただ怖いだけではない気がして、その僅かな違和感を探ろうとしたが、すぐに苛立ちを帯びた声が降って来た。

「友達が事故に遭って塾に行くどころじゃない。悲しくて勉強が出来ない。かな、お前そんなこと言ってたら、何にも出来ないだろ」

 優一はもう一度自分の腿を叩いた。その音が、いつか自分の身に降りかかるんじゃないかと思ってビクビクする一方、さっきの違和感が要の心に金属タワシのような形をして何かを主張しているのを感じた。

「今こうやってパパとかなが話してる間にも、貧しい国では戦争や飢餓や病気で苦しんでいる人もいるんだぞ。他の人に何かあったからって、いちいち自分が影響受けて悲しい何も出来ませんじゃ、世界中の人みんなが何も出来なくなるんだぞ」

 優一は早口になっていた。要はちょっとだけ眉を顰め、「来るぞ」と心の中で構えた。

「パパだって、人生で悲しいことたくさんあったよ。仕事中におばあちゃんが倒れたりな。でも、やらなきゃいけないことがあるんだよ。パパにはかなもママもいるし、働かなきゃいけない。だからおばあちゃんが倒れたって聞いても、自分の仕事はやる。やるべきことをやってから、悲しむなり、何なりすればいいんだ。やらなきゃいけないことをやる。それが責任ってもんだ。かなはもう十才なんだから、もう責任を持ってもらわないといけない。パパもママも働いてるんだから、自分のことは自分でやらないと」

 要は説教を聞いている間、大きな音を出すことをされていない時だと、妙に頭が働くことに気付いた。しおらしく聞いているように見えている自信はあったが、相手が話せば話すほど要は冷静になり、その理屈(がいかに通っていないか)、更には相手の価値観まで考えるようになっていった。なので、平謝りすればいいとは思ったが、こちらも主張しないといけないと金属タワシが訴えていた。怒られるからには、正当な理由でないと納得出来ない。

 優一が、要の責任、つまり両親が「あくせく」働いて稼いだお金で塾に行かせてもらってるのだから自分の感情より塾での勉強を優先すべきだ、ということを一頻り力説して、途切れたところで、要は首を垂れて呟いた。

「分かりました。どんなに悲しくても、例えば、もしパパが死んでも、真っ直ぐ塾に行くよ」

 優一はソファーの肘掛けを全力で叩いた。

「そういうことを言っているんじゃない」

 怒鳴り声に要の小さな身体がビクッと震えたが、心の中は恐怖よりも金属タワシの存在感が強くなっていた。え、そういうことじゃないの。じゃあどういうことなの……。

「いいか。とにかく無断で休んだことが良くないんだ。俺がどれだけ心配したか」

 え、悲しくて塾を休んだことが悪いことなんじゃないの。何だっけ、こないだテストに出た四字熟語。あ、「首尾一貫」。首尾一貫してないってやつだ。

「かなが心配で、お父さん会議の途中で出てきたんだからな。誘拐とか、物騒なことに巻き込まれてないかって。GPSで携帯が家にあるのは分かったけど、お前自身がどうなったんじゃないかってな。お父さん、明日会社の人に謝らなきゃいけないんだぞ」

「ごめんなさい。電話したけど、出なかったから。また連絡しようと思ったけど」

 要の口調に小さな棘を感じ取ったのか、優一は苛立ちを露わにした。

「あのな、そういう判断は、パパやママがすることだ。そこを通すまでは、要はとりあえず塾に行かなきゃいけないし、もし動けないとかだったら、連絡を取り続けなきゃいけない。しかも何だ、友達が事故に遭ったくらいで」

 要の金属タワシが、心の最も固いところに擦れて、ギギギ、と音を立てた。さっきから感じていたのは、これだ。悲しくて塾を休んだことは、要の弱さかも知れない。連絡を入れなかったのは、要の不手際だったかも知れない。親に迷惑をかけた責任は、要にある。だが、この男は、自分の子どもの親友が事故に遭って重症だと聞いても、そのことに全く興味がないのだ。友里のことも知らない。友里がどれだけ要と楽しい時間を過ごしてきたかを知らない。要がどれほど友里と海に行きたかったかなんて、太陽が爆発したってこいつにとってはどうでもいいことなのだ。

 要は生まれて初めて、親に耐えられない怒りを覚えた。

「じゃあ私は、悲しくても塾には行くし、大人になって悲しいことがあってもパパみたいに仕事をする。もし」

 要はここで言葉を切って、眉毛をぐいと上げて優一を見遣った。

「もし仕事がなくなったとしても、逃げたり泣いたりしないで、ちゃんとみんなに連絡して、自分のやるべきことをやるよ」

 要は引っ叩かれた。正座したままだったから、上半身ごと傾いた。ものすごく痛かった。それでも、悲しくはなかった。要の心は金属タワシに守られている。何より、親友が交通事故に遭って意識がないのだ。指導室で泣いていた時の気持ちこそが「悲しみ」だ。この男が失業した時、一ヶ月会社に行くフリをして、最終的に自分の妻に泣きついていたことを揶揄して叩かれたことくらい、真の「悲しみ」に値しない。だが、涙は出た。義孝のお母さんの言ったことは正しかった。涙は単なる身体の反応なのだ。優一はさすがに自分のしたことを後悔したのか、ソファーに座って口元に手をやって言葉を探していたが、要は優一の存在を無視してリビングを出た。頬はヒリヒリするし涙もぼろぼろ出た。しかし何よりとても疲れたので、このまま寝ることにした。全ては明日の朝、起きてからにしよう。

「ただいまー」

 要はげっそりした。一瞬にして頬がこけたかと思ったくらいだった。帰宅した京子は玄関でピンヒールを脱いでいて、香水とアルコールの匂いを漂わせていた。要はごく小さい声でおかえり、と呟いて速攻で部屋に入ろうとしたが、一応は優一からの留守電を聞いていたようだった。

「かなちゃん、よかったー、家にいて。塾とパパから留守電があって、塾来てないっていうからビックリしたけど、何事もなくて良かったわ。まあGPSで家にかなちゃんの携帯あるみたいだったから、事故じゃないと思ってたけど。でも留守電であんまりにもパパが必死なもんだから、気になってたのよー」

 京子は結構飲んでいたようだった。いつものハキハキが、ホワホワという感じになっていた。

「おい、何でそんなに悠長でいられるんだ。それもかなが塾に行ってないって連絡を入れてたのに、酒まで飲んできて。お前、親としての自覚はあるのか」

 優一はさっき要にしたことを上手く誤魔化す形で、感情の矛先を京子に向けた。

「何よ、そこまで。大袈裟ね。私だって接待で抜けられなかったんだから。別に何もなかったんだからいいじゃないねぇ。たまには塾に行きたくなくなるときだってあるわよね」

 京子のこういう柔軟性は、ある面では要を救ってくれる時があった。

「あら、かなちゃん泣いてるじゃない。パパに叱られたのね。まあ、無断欠席は良くなかったけど、無事だったんだしいいわよ。もう十一時になるし、寝た方がいいわ。ほら、こっち来なさい」

 京子は今朝と同じように、腕を広げて要を抱き寄せた。いつもは好ましくないこのハグも、今日ばかりは暖かさを感じられて、要も強く抱き返した。父親に手を上げられたことを報告するのも忘れた。香水とアルコールにまみれた胸の中でも、今の要には安らぎが必要だった。だから、素直な気持ちが口をついた。

「ママ、ごめんなさい。もうしないよ」

「そうね、とにかく無事で良かったわ。今日はゆっくり寝なさい。明日はママが起こしてあげるから」

 要は母の匂いと身体の熱を感じながら、頬ずりをした。少し呼吸を落ち着けてから、部屋に向かおうと離れた瞬間、京子のブラウスの襟から覗いた鎖骨の下に、二つ、小さなアザのようなものを見つけた。今朝抱きしめられたときにはなかったものだ。もう一度鼻をすすると、香水の匂いも嗅いだことがないものだった。要の世界の果てで、何かが鋭い悲鳴を上げた。その声をかき消すように、要はバッ、と頭を下げ、早口で「ごめんなさい。おやすみなさい」とだけ吐き出して、自分の部屋に戻った。とにかく、眠りだけを欲していた。服のままベッドに雪崩れ込んだ。そのはずみでレイダーが床に転がり落ちた。要が深い眠りに落ちる中、レイダーは一晩中、窓から見える夜空を眺めて過ごしていた。

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