第5話:男性への、父性への飢餓


 金曜日。仕事を終えたサラリーマン達が今夜の一軒目を探し始める時間帯。新橋の烏森神社は、繁華街の中にあるとはいえ穢されることなく、かと言って息詰まる厳かさもなく、夜の庶民的な熱気の中にゆったりと鎮座していた。

 鳥居のそばの石段に、麗子は倒れていた。目を瞑り、ショルダーバッグを枕にして、仰向けに横たわっていた。意識はあった。

 麗子は、幼い頃に父親に観せてもらったモノクロ映画の『ノートルダムの傴僂男』を思い出していた。美しいジプシー、エスメラルダが処刑されるまさにその瞬間、せむし男のカジモドが彼女を大聖堂に運び入れ、「Sanctuary! Sanctuary!」と叫ぶシーン。横たわる麗子は、咎なく罪を着せられるエスメラルダと自分を重ね合わせた。新橋の喧騒は、パリの民衆の喝采に聞こえた。だがそれは、単なる悲劇のヒロイン願望、つまらない自分に対する慰めに過ぎなかった。

 新橋のエスメラルダは、一方的に慕っていた上司の石巻部長が婚約していたことを知って深い悲しみに沈んでいたのだった。石巻部長は四十代半ばで部長、同業他社から引き抜かれた非常に有能な人材である。とにかく頭がキレるが謙虚さを忘れず、部下からの信頼も厚い。襟元から靴や体型に至るまで一分の隙なく身綺麗にしているエリートビジネスマンだった。よって、相手がいない方がおかしかったのだが、事実を知った彼女はショックのあまり会社を出る足取りも覚束ず、適当なバーに入って自棄酒をあおった。大した量ではないが、飲んだ以上に涙を流した。陽気な客を優先したがる店員が不快な対応をしたので、怒って店を出たところ、酔いが回りすぎて歩行困難、視界は点滅、休めるような場所は飲み屋しかなく、万事休すと思ったところにお社が見えたので、倒れこんだのだった。

 いくら飲み屋街とはいえ、境内で休むことに気が引けたが、あまりに情けなく哀れな人間だから神様も許してくださるわね、と自分を納得させ、座ろうとした。だが全身の体液が地面に吸引されるような気持ち悪さに、薄手のセーターに砂利がつくことも気にせず横たわった。エナメルのピンヒールが片方脱げた。これでエスメラルダ兼シンデレラだ。

 気温は暖かく地面も乾いていたので、スカートの乱れと引ったくりだけに注意すれば、アルコール分解に専念することが出来た。

 麗子は酒に弱い。一定量以上飲むと気持ち悪くなってしまう。母の京子はザルとはいわないまでも、ワインを一本空けるくらいは難なく出来たが、姉妹は酒に関しては父親の血を引いた。柊は昔から酒の味を嫌悪し、薬を服用するようになってからは全く受け付けなかった。麗子も酒は嫌いだった。付き合いで飲むことはあっても、自分からは飲まなかった。それでも、今日は自ら手を出した。二人の父、悟も、酒は弱かった。弱いくせに、ずっと飲んでいた。弱いからこそ、酒を手放さなかった。ずっと酔っていたかったのだ。麗子は杭が打ち込まれる様な脈動を身体中に感じながら思った。パパは自分を傷付けたかったのね、今の私みたいに。

 時間が早いせいか、酔っ払いは麗子だけで、心配して声を掛けてくれる人が何人かいた。邪険に扱う人は誰もおらず、新橋の人は酔っ払いに寛容だわ、と感謝した。御手洗姉妹は根っからの都会っ子だった。

「東京の人間は冷たいって言う人いるけど、東京にいる人間のうち何割が東京生まれなんだ。地方の人間の方が暖かいなら、上京してきた連中によって東京はとっくに暖められてるはずだ。上京してきた人間がそこかしこにいるのに、東京を冷たい、地方を暖かいと考えるのは短絡的だ。言葉においても同様だ。標準語が冷たく感じるって、全国放送のテレビを見ないで生きてきたのか。教科書はみんな方言で書かれていたのか。悪いのは、人口過多による余裕のなさだ。だがそれは上京してきた人間が多かったために齎されたものだ。それに私からしたら、車がないと生きていけない方が人工的な生活に思える。更に地域全部が親族なんていうのは、東京よりも恐ろしい監視社会だ。それも、一種の余裕のなさだ。一概に決めつけるな。私の故郷を悪く言うな」

 柊は最近よくこうした屁理屈を捲し立てていた。内容の正当性はどうあれ、入院中より頭の回転が良くなって来たのだと、麗子は肯定的に聞き流していた。発症前の調子が徐々に戻って来た証拠だ。酔った頭で柊のことを思い出すと、なぜだか分からないが、左目の端から一筋、涙が流れた。

 こうしてヤケになる時、柊ちゃんは強いなって思う。辛い状況でも、お酒に頼らず、男にも……ううん、何にも頼らず、勿論家族にも……だから病気になっちゃったのよね。柊ちゃんはいっつも自分を責めてるけど、私の方がよっぽど自堕落なの。今だって、自分なんかどうだって良くて、それをこうして人前に晒してるんだもの。柊ちゃんは誰にも何も言わなかった。でも、私はだらしない。そういう自分が嫌いだけど、誰かが私のこと助けてくれるんじゃないかって、結局他人に甘えちゃうのよ。

 麗子は、さっきから自分の隣に男が座っていることを知っていた。見上げると、その中年の男は煙草をふーっと吐き出して、わざとらしく麗子が見つめていることに気付いたふりをした。

「あ、起きた。だいぶ飲んだんでしょ。これ、お水」

 彼はペットボトルを差し出した。麗子は中年男を観察した。疲れて弛んだ顔だけでなく毛が生えた指まで真っ赤だった。ペットボトルは冷たく水滴が付いていて、封が開いていなかった。つまり、麗子に飲ませるためにさっき買ったのだろう。

「ありがとうございますぅ」

 舌を縺れさせ、横になったまま水を飲む麗子は、男が自分をどう見ているか分かっていた。うまく飲めず、唇の端から漏れた水が喉に伝って胸の方に落ちていく。実際、まだ起き上がれそうになかった。

「ああ、服に砂付いちゃってるよ……いつからここにいたの」

 中年の男性は見たところサラリーマンで、ジャケットもネクタイもなく、ハリのないシャツを肘まで捲り上げていた。彼の胸元は大きくはだけて、下着と数えられる程度の胸毛が見えていた。いつもの麗子なら目を背けて存在していないことにする男性の格好であったが、今の彼女は敢えてそうした存在のそばにいることを選択した。

「んーと、会社を出たのが……五時すぎ……。で、お店にいたのが……わかんないけど……たぶん一時間くらい。だから……多分……十ぷんくらいだと、おもいます」

「えー、俺が十五分前にここ通った時には、君もう横になってたけど。声掛けたら、だいじょぶですって言ってて、でも心配だから、また様子見に来たんだよ」

 男は薄っぺたい腕時計を見た。結婚指輪はしていなかった。日焼けして痩せており、襟足は不揃いに伸びて、煙草が入っている胸ポケットが垂れ下がっていた。とにかく全身が安っぽい男だった。

「えーそうなんですかー。ありがとうございますー」

「いやいいんだよ、俺が好きでやったことだから」

 男はまた煙草をふーっと吐き出した。麗子は既にセーターが土で汚れているくせに、タバコの臭いがついたら嫌だなと思った。意識は醒めつつあったが、まだ肝臓がアルコール分解に手こずっているようで、全身のだるさは取れない。

「君、一人で飲んでたの」

「はい」

「何杯くらい飲んだの」

「いっても信じてもらえないとおもうので……」

 にへらっ、っと男は笑った。酒好きの女と思われるのも、一つの自傷だった。

「そんなにたくさん飲んで、会社でなんか嫌なことあったの。それとも恋愛の方とか」

 麗子は少し考えた。

「もう……人生そのものってかんじ」

「あー、分かるよ。いろいろあるよな、俺が君くらいの頃も大変だった」

 麗子は自分の考えより先に、柊がここにいたら「初対面の人間の人生だぞ。ぜってー分かんねーだろ、アホか。エスパーかお前」と怒鳴る様が目に浮かんで、ふふっと笑った。中年男はそれを親密さの表明と取ったのか、へへへっ、と笑い返した。酔っ払って女に話しかけてくる男は大概にして、何もかもポジティヴに受け止めるものだ。

「俺が君くらいの頃はさ……とにかくしゃかりきに働いて、仕事仕事で他になーんも考えてなかったわけ。でも怪我しちゃってさ。その会社辞めて、今の会社入ったんだけどね」

「それは……大変でしたね」

 怪我をして転職というのは人生にとって想定外の困難だ。怪我をしたくてしたわけではないのだし、怪我は大抵予測がつかないからだ。もし自分にもそんなことが起こったら、と考えるのは、人間としての共感能力である。これは、そうした人生の不条理さに対し真摯な気持ちで発した、謂わば「人道的な」感想に近いものであるが、やはり酔っ払いにはそこの冷静さが欠けているようで、団扇で煽られた炭火が燃える様に、話は加速し始めた。

「いやいや、それは俺の不注意だったわけよ。でもそれでちょっと荒れちゃってさ。まー酒ばっか飲んで、金ないのに競馬パチンコ通いね。家族もいなくなっちゃってさ。こりゃダメだと思って、一念発起して職探し。もうこの年だし、なっかなか大変だったけど。でもたまたま今の会社入れて、今試用期間なわけ」

 麗子の身体はだいぶ冷えていた。だがそれ以上に、今の男の言葉に心が凍り付いた。こいつは仕事がうまく行かなくなって……家庭を破壊したのだ。麗子は硬くなって、男が次に何を言うか、警戒した。

「試用期間で、契約社員なんだけど。まあ君も契約でしょ、分かると思うけど」

 麗子には柊が飛び蹴りをかます様が見えた。「何だよその決めつけ。契約社員かどうかなんてどうでもいい。何も知らないのに決めつけるな。クソ野郎、殺すぞ」幸いにして柊はいなかったので、彼は続けた。

「契約から正社員になるための試験があって、全部で三回あるんだけど。今日一回目め、それ落ちちゃったのね」

 ここで更に男の口調が速まった。

「でも一回目では六割くらい落ちるのよ。落ちる人も別にいておかしくないわけ。俺と同期入社の奴も、さっきまで一緒に居たんだけどね、俺が君のとこ行くって言ったら薄情な奴で、帰っちまったんだけど。それで早々から飲んでたわけよ。で、一人で二軒目行くかってなった時に君がここで倒れてたからさ……ごめんねおじさんベラベラ喋っちゃって。具合どう」

 その瞬間、麗子ははっと息を呑み、男の問いかけを無視して尋ねた。

「あの、失礼ですけど、おいくつですか」

「何才だと思う?ああ、じゃあ当てっこしようか。君が言って、俺も君の年齢を予想する。で、誤差が少ない方が勝ち。どうかな。ヒント、一応四十は超えてる」

 石巻部長と歳が近い。麗子は顔を歪ませた。彼女自身は気付いていなかったが、冷えで手が悴んで、少し震えていた。

「大丈夫、やっぱ寒いよね」

 男は麗子の手を取った。麗子はそれをしかと見た。ざらっとしているのに湿っている触感。今夜はどうなってもいいと思っていたので、覚悟はしていた。自分を粗末に扱うことが目的なのだと、理性も納得はしていた。勿論不快でない訳がないが、これは自傷なのだ。そのはずだった。

「ここで話すのもなんだよな。どっかあったかいところが飲めるとこでも行くってのはどう」

「いえ、もういいんです……。寒くないですし、寒かったとしてもどうでもいいんです」

「だいぶ傷付いたんだね。辛かったね」

 その瞬間、眉で切りそろえられているはずの麗子の前髪が、目にかかった。麗子は一瞬何が起こったか分からなかった。

 中年男は麗子のこけし頭を撫でていたのだ。もっと今風の言葉で表現するなら、「頭ポンポン」である。

 麗子は稲妻に、一直線に撃たれた。それは男の欲望に身を任せようとした麗子に対し、彼女の中の天空神が下した制裁だった。天空神、曰く

「おまえはいかに弱くてもよい。惨めでもよい。汚れてもよい。だが、おまえが求めた男というものは、果たしてこの男だったか。如何に売女の真似事をしようと、おまえの頭を撫で、肯定する男はこの様な男だったのか。そもそも、おまえは何がため傷付いたのだ。人格の優れた上司への憧れを捨てなければならなかったからだ。弱い心から家庭を破壊した酔っ払いに頭を撫でられるためではない。おまえは例えこの男の精液を全身に浴びたとしても、頭を撫でられてはならない。麗子よ、おまえが真に求めるものとは何だったか」

 突如、跳ね上がる様に立ち上がった麗子は、天空神の在す虚空に向かって叫んだ。

「こんなの、間違ってるわっ」

 呆気に取られて麗子を見上げる男を尻目に、彼女はバッグをひっ掴んで汚れを払った。

「すみません、ご迷惑かけました。ありがとうございます。もう大丈夫なので」

 頭を下げて、麗子は一目散に駆け出した。男が何か言った様な気がしたが、聞こえなかった。柊が日比谷で駆け出した時は七センチヒールだったが、今日の麗子は九センチのピンヒールだったので、神社から駅前のSL広場までがせいぜいだった。SL広場まで来て、麗子の目には涙が溢れてきた。

「ひご……」

 自然と、嗚咽に混じって声が出てきた。

「ひご……、庇護されたいよ……」

 うう、と、外であることも気にせず、彼女は泣き始めた。

「もう無理だよ……私には、守ってくれるお父さんがいない。お母さんは大キライ。柊ちゃんも、友だちだって、たよれない」

 彼女は道の隅にしゃがんだ。ヒールが不安定でガクガク揺れるので、すぐへたり込んだ。

「庇護されたい、守られたい」

 マスカラが目に入るくらい泣けて来て、両手で顔を隠したが、指の間からも涙が流れた。

「だれか、だれか、私をたすけて……」

「ねえ、ホントに大丈夫」

 声がしたので顔を上げると、先程の中年男がそこに居た。麗子はまたしても跳ね上がった。

「すみません、酔ってたんです。でももう大丈夫なんで。ほんとに」

 状況の異質さと不釣り合いな、はっきりとした受け答えに、男は明らかに狼狽していた。彼の顔からは麗子に対する下心よりも、本気の心配の色が伺えた。

「すごい泣いてるけど……」

「いえ大丈夫です。すみません、ご迷惑お掛けしました。いろいろと、お気遣いありがとうございました。失礼します」

 麗子はまた走った。新橋駅から帰ろうと思ったが、付いて来られるのは嫌だと思ったので、会社のある汐留まで人混みを通って遠回りしようと思った。せいぜい十五分くらいだ。それに、電車賃が勿体無いので、定期券で帰りたい。汐留駅に着く頃には酔いは完全に冷め、涙も止まっていた。メイクは溶けきっていたが、もう気にしなかった。都会の匿名性は弱き者を守りたもう。彼女は電車に揺られ、無事に帰途に就いた。

 この日麗子が飲んだのは、グラスホッパー一杯と、シャーリーテンプル一杯。酔うには充分だったが、一日に使っていい食費の額は大幅にオーバーしていた。柊にこの話をすると、ひとしきり大笑いされ、「無事で何よりだよ」と呑気な言葉が返ってくるばかりだった。

 麗子の異性に対する飢えは重症であり、確実に人生を蝕んでいた。

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