第12話:父の記録、姉妹の記憶。

 バスが橋に差し掛かった頃、ようやく柊は目を覚ました。

 携帯を見ると午後三時半前。彼女は前日に決断した熊本旅行での躁転を恐れ、昨夜は睡眠導入剤を飲んで眠り、羽田空港で更に追加、移動中はほぼ妹達に支えられる状態で、上天草の御手洗家が住んでいた島まで辿り着いたのだった。

「柊ちゃん、おはよう。これどうぞ」

 薄めの化粧につば広の女優帽をかぶった麗子が、ご当地キャラのくまがプリントされたペットボトルを渡した。目をこすりながら窓の外を見ると、既に二層の青色が広がっていた。空と海。窓を開け、開放感に思い切り息を吸った。

 東京二十三区以外は、父の実家である長野しか行ったことのなかった要は、目の前の有明海に感嘆の声を上げ、興奮のあまり社会科で習った知識を必死に羅列していた。

 例のネット記事に、御手洗家の蔵を管理している町役場が書いてあったので、その最寄りで降りた。バス停の周りは役場の他にいくつかの飲食店と交番と郵便局、海水浴場の大きな案内板が目に入った。

「よし、海行くか」

 柊の言葉にレイダーが小突いた。

「先に蔵だよ。優先順位」

 眉毛を厳めしくした要が役場の方を指差す。

「行きましょう、柊ちゃん。ちょっと恐いけど、ここまで来たんですもの。それにしても、のどかで美しいところね」

 麗子は一度も来たことがないはずなのに、どこか懐かしそうな、ホッとした表情をしていた。


 役場は外の暑さとあまり変わらず、カウンターの奥で何人かが事務仕事をしていた。

「すみません。御手洗さんってお宅の蔵が見られるって、ネットの記事で読んだんですけど」

 あらまた来た、という声が聞こえ、手前の老齢の男性が対応した。

「見れますよ。もしかして、あなた方も悟くんのフアンですか」

 何と言ったものか、柊は麗子と顔を見合わせた。

「いやぁ、フランスから取材が来た時はたまがったが、それ以来ちょくちょく熱心な方が来るようになってねえ。ご希望なら、すぐご案内します。一応、ここに住所とお名前、よろしいですか」

 柊は一瞬躊躇ったが、脇腹にレイダーのパンチを受け、正直に自分の名前を書いた。麗子も続いた。要は逃亡中の身なので、名前を書くのは気が引けたが、どうやら記入は大人だけでいいようだった。男性は書類を受け取り大きな老眼鏡を掛けて確認すると、おやっと声を上げた。

「あー、えっと、一応、御手洗悟の娘です。こっちは妹。証明するものないんですけど……戸籍謄本とかあっても親父は書いてないと思うしな」

 老人は麗子の顔をしげしげと眺めた。

「失礼ですが、お母様のお名前は」

「京子です。京都の京に子どもの子。旧姓は細谷です」

「御手洗さんのお祖父様は」

「確か、修一郎さんよ」

 老人はあっと声に出さんばかりに、表情が明るくなった。頭の中の回路がつながったようだった。

「遂に来らした。証明なんて必要ない。そのがんばがそっくりばい。柊さんは、修一郎さん。そして麗子さんは京子さん、生き写したい」

 麗子は複雑な顔をした。

「私達の母のことも、ご存知なんですか」

「そぎゃんたい。あの中は、あなた方の写真やフィルムでぐっさりなんじゃから。あ、わしは浜崎と申します。今ご用意しますたい」

 浜崎翁は同僚に御手洗姉妹の来訪を告げ、心なしか浮き足立って支度をし始めた。中には席を立って彼女達の顔を見る者もいた。

 嘘だろ、声にはならなかった柊の言葉を、レイダーは聞き取っていた。

「やっぱりね」

 麗子は要をレイダーごと抱きしめて、ありがとう、と囁いた。要も強くハグし返した。


 島はよく晴れていたが、東京の梅雨明けのうんざりする湿度はなく、完全に真夏だった。蔵は町の中央部から徒歩十五分ほど離れた海沿いにあった。悟の母が死去してから、子ども達はこの土地を手放したが、蔵とその周辺の広場だけは、大昔の当主が好事で建てた立派なものだったので、自治体に寄贈したという。御手洗家が住んでいた頃から盆踊りの会場になるなどちょっとした名所となっていたし、空いているスペースでちょっとした寄り合いを行うなど地域利用もしていたため、今もたまに使っているとのことだった。

「悟くんから依頼されたのは、十四年ほど前で、フランスからばい。当時はこの辺も御手洗さんのお家と繋がりのある家がたいぎゃあで、悟くんのことを知っている者も多かった。わしの弟が同級生だったけん、うちにも遊びに来たけんの」

 十四年前、死ぬ直前だな、と柊は思ったが、言わなかった。恨みがましくなってしまう気がしたからだ。今はそうした言葉を口にしてしまうのが憚られた。それ以上に、蔵に何があるのか、期待感の方が大きかった。それは麗子も同じで、女優帽の下からは、緊張はしているが翳りのない顔が覗いていた。


 民家の間の道を曲がると、反射する海を背に、白い壁の蔵がヌッと出現した。高さは一般住宅で言えば三階建てほどであろうか。近隣の家々はそれなりに近代的な家屋であるにも関わらず、御手洗の蔵は瓦と大きな鉄の門と閂が、白昼を恐れない妖怪の様に異形の風格を醸し出していた。

「元々、別に何を入れるって決めて作った蔵じゃないげな。ふとか蔵だから、空きがあったのを、悟くんは知ってたんだろ。ある時、町に連絡があって『荷物を置かせてくれないか』って依頼されてね。ええしこ手続きはあったんだが、寄贈という形で置くことになった」

 浜崎翁は持っていた巾着の中から大きな黒い金属の鍵を出して、錠前に差し入れた。ガクッという音がして、錠前は外れた。

 中に入ると、むわっと木と埃の匂いが立った。吹き抜けで、二階と三階部分はコの字型になっていた。大黒柱が左右に二本、天井まで伸びて、右側の隅の階段で上の階に行ける造りだ。

「すごい、秘密基地みたい」

 要は小さな喉仏が見えるほど上の方を見ようとしてた。左右の小さな天窓から光が差し込んでくる以外明かりはなく、ネットに掲載されたいた画像よりもずっと暗くて、そのせいか空調がきいているかのように涼しかった。

「村の者を、御手洗の家の子が中に入れてくれてね。子ども達の遊び場になっとった。わしも遊んだよ。ほれ、綱が天井から垂れ下がっとるじゃろ。上の階から、その綱で滑り降りれる按配たい」

「すごい、『ゴーストバスターズ』の消防署みたい」

 柊は要と同じポーズで、面を上げながらぐるぐる歩き回っていた。麗子は帽子を取って、柱の方に寄った。柱には様々な字や模様が刻んであった。きっと父が刻んだ字もあるのだろう。そう思うと、不思議と心が高揚した。

 浜崎翁は用意していた懐中電灯を上向きに持ち、二階の奥の方に当たりをつけて、階段を上り始めた。姉妹もそれに続いた。

「預かる時に、条件があったばい。死後一定期間経過したら、捨てるなり、金になりそうなら売るなり、町に任せますと。ただ、その間に娘達が来たら、権利は全て彼女達に譲ると。私達の方であーた方に引き渡そうとも思ったんだが、あくまで娘が自分の意思で来た時にのみ、譲ってくれと強く決めとったばい」

 二階の一番奥に進むと、木で出来た魚箱が壁一面に積み重なって並べてられており、上から綱がかかっていた。一つの箱は魚屋にある発泡スチロールほどの大きさがあった。側面には全て筆文字で「御手洗悟寄贈」と記載されている。

「ここは観光客には見せなかとよ。ずっと、あーた達を待っていたと」

 麗子は口元を手で抑え、既に泣きそうな顔になっていた。

「パパの字だわ」

 浜崎翁がようやく、悟の遺言を気にしてか、要の方を見た。

「そちらのじょーもんさんは……」

 要は柊の後ろに縮こまったが、柊が彼女の肩を抱いて、はっきりと言った。

「義理の妹です。私達の家族です。彼女がここに連れてきてくれました。立ち会う権利があります」

「そうかそうか。家族というのは他所からは分からんばい。すんまっせんね、えーっと」

「飯田要です。でも今日は、御手洗要です」

 清々しいほどの要の声に、浜崎翁はほっほっほと笑った。

「この箱全てがあーた達のものたい。箱を開けてみなっせ。絶対うったまがっと」

 浜崎翁が網を外してくれ、柊は壁に掛かっていた脚立を使って、まず真ん中の一番上の箱を下ろした。五キロはあるだろうか。

「開けるぞ」

 中にはジュラルミンケースが入っていた。側面に悟の字で、四桁の数字が書いてある。柊と麗子には、それが柊の生年だと分かった。ケースを開けた。

 姉妹は、息を飲んだ。中は一面、名刺入れのように、写真が綺麗に立てて並べて入っていたのだ。月ごとにインデックスが入り、二段になっていた。

 柊は震える手で、一番端の写真を引き出した。

 そこには、永遠の幸せを約束されたかのような笑顔を浮かべた京子と、彼女に抱かれ、永遠の祝福を約束された赤ん坊の柊が写っていた。公園のベンチのようだ。社会人になったばかりで、尚且つ母親になりたてほやほやの京子は、今と違って着るものも質素で、化粧も薄く、あどけなく見えた。そして、麗子に瓜二つだった。特に、今日の薄化粧の麗子に。

「お母さん」

 柊には、それを呟くのが精一杯だった。要は言った。

「あれ、悟パパは」

 柊は、涙声を隠せなかった。

「撮ってるから、写ってないんだよ」

 麗子は、既にハンカチで目元を抑えていた。浜崎翁は隅に座り、一切口を出さず、ただ、責任を全うしたという安堵と栄誉、そして娘達の複雑な環境と今の感慨に、胸を満たしているばかりであった。

「うちに家族写真がなかったのって、こういうことだったのね」

「きっと、全部親父が持って行ってた。ここにあるのが、全部だ。よし、次の年が書いてあるケースを探すんだ」

 柊は脚立からケースを下ろし、麗子が開け、要は中を精査した。要はレイダーが写っている写真を探したが、なかなか出てこなかった。そして、写真がきっちり日付通りに並んでいることを報告した。病院で写したものやお宮参りだけでなく、京子がお乳を与えているもの、風呂場で泣いているものなど、日常の些細なスナップも山のように出てきた。麗子が誕生する年のケースにたどり着くまで、三つケースを開けなければならなかった。つまり、柊が生まれた年だけでも、五千枚以上の写真があった。

「あったわ。私が生まれた日よ」

 麗子の初写真は悟に抱っこされた姿だった。赤い顔の麗子は、父にもたれ安らぎの中熟睡しており、悟は無精髭で、伸びたトレーナーを着ていたが、娘達の記憶にあるよりずっとハリのある笑顔を浮かべていた。

「悟パパだ。麗子ねえちゃんは、ほとんどパパと写ってるよ」

「多分、ママと写るのが嫌だったのね。何だかそれは覚えてるわ」

 実際に、麗子が生まれてからは被写体に悟が増えてきた。だが、写真の量は減らなかった。

「お母さんの撮影で、写りが酷い写真が多いな。指が写っていたり光が入っていたり、これなんか心霊写真みたいになってるぞ」

 神社の鳥居の前で写る父と姉妹の後ろの方に、赤いモヤが写り込んでいた。

「でも、そういう失敗のも取っておいたんだね」

 要の気付きに心を打たれ、浜崎翁はひとり頷いた。ケースをどんどん開けていく。

「あっ、レイダーだよ」

 仁王立ちでレイダーを掲げた柊を中心に、麗子を抱っこした悟と京子が写っていた。

 写真の裏には「柊の二才の誕生日。つまり、麗子が生まれてから初めての誕生日。初ディズニーランド。そして、相棒レイダーを贈る。僕が子どもにしてあげたかったこと。」と、青いボールペンで書いてあった。

 その写真から、ケース半分はその日の写真だった。四人(プラスくま)で写っているものも多かった。きっと他の人に撮ってもらったのだろう。そこには家族の笑顔しかなかった。コマーシャルに使っても遜色ない。むしろ、これがコマーシャルでないなんて、これが自分たちに起こった過去だなんて信じられないくらい、そこには幸せな家族の姿が写っていた。

「うわあ、もうこのアトラクションはないんだよな。懐かしいなあ」

「私はこの時の記憶はないけど、昔から柊ちゃんはいつもディズニーランドに行きたがっていたわね。きっと、この時の思い出が強いのね」

「麗子だって好きだろ。麗子の誕生日にも行ったはずだ」

 姉妹の盛り上がりの横で、要がポツリと言った。

「いいなあ、私、行ったことないや」

 それから、箱を開けても開けても、写真のペースは落ちなかった。幼稚園に行きだした頃から日常の写真は少なくなったが、代わりに行事の様子がしっかりと収められていた。この時も、悟や京子は子ども達を慈しみ、子ども達は両親を心から信頼し愛しているように見えた。

「あれ、このケースは年が書いてないよ」

 要が新しいケースを開けると、乱雑に詰め込まれた手紙が大量に出てきた。ほとんどエアメールだった。麗子がそっと、そのうちの一枚を取った。読む前から、手が震えていた。


「『柊、麗子へ。元気にしていますか。何度送っても手紙が戻ってくるのですが、この手紙こそ届くことを祈ります。何度謝っても、おまえ達には謝りきれません。だから何度も手紙を書きます。死んでも書きます」

 麗子は一度言葉を切った。柊からペットボトルを受け取り、喉を潤した。

「お父さんは、新しい仕事をするためにフランスに来ています。この仕事は、お父さんが子どもの頃から人生を懸けてやりたかった仕事、映画監督の仕事です。そして、日本では決して一緒にできない人達と働いています。お父さんは夢を叶えるために上京しました。そこでお母さんと出会い、おまえ達を育てました。はっきり言います。お父さんにとっては、おまえ達はこの仕事と比べ物にならないくらい大切な存在です。だから、決して捨てたわけではありません。確かにお父さんは家を出ました。それは急ぎだったからです。おまえ達に直接説明をする必要があったのですが、時間がなかったのと、お母さんがそれに理解を示してくれなかったからです。お父さんは日本に戻っておまえ達と話そうとしました。ですが、お母さんに帰ることを許してもらえませんでした。でも、お母さんを責めないでください』」

「どういうことだ」

 慄きにも似た柊の呻き声が蔵の中に響いた。麗子は続きを読んだ。

「『お父さんとお母さんは、気持ちが一致していませんでした。少なくとも、お父さんはお母さんに対して、以前のように大事に思えなくなっていました。これはお父さんのワガママです。でも、お母さんはお父さんと一緒にいたい、とても好きだと思ってくれていました。だから、お父さんが出て行ったことに、深く傷付いたのです。お母さんは、お父さんに捨てられたと思っています。これもはっきり言います。それは事実です。』」

 麗子はしばらく続きを読むことが出来なかった。自分でも名状できない衝撃が、現実に、フィジカルな痛みとして、後頭部から背中まで走っていた。柊はその手紙を取って、続きを読んだ。


「『お父さんは、お母さんのことが今は大好きではありません。お父さんにとっては、仕事が、夢が大事です。でもお母さんはそれを理解しないし、また、お父さんはお母さんのおまえ達に対する接し方も、どうかと思っています。お父さんはおまえ達を引き取ろうとしました。ですが、大人の問題がいろいろとありました。その間に、フランスでの仕事を持ちかけられ、一旦お母さんと争うのは止めようと思いました。お父さんが出国する時に、おまえ達はお母さんの方のおばあちゃん家に連れて行かれていました。それがあって、説明のタイミングを失したのです。もっと早く説明していれば良かった。もっと早く家庭の状況を話していれば良かった。でも、幼いおまえ達に嫌な話を聞かせたくはなかったのです』」

 柊は手紙の最後に書かれた日付を見た。

「居なくなってから、四年後だ」

 麗子は木の床に座り込んで、記憶がもぬけの殻になってしまったように、呆然していた。手紙の内容を聞きながら、要はケースの中の他の手紙を見ていた。

「他の手紙も、ほとんど同じ内容だよ。日付が違うだけ」

 柊はケースの中に小さな落し物でもしたかのように手紙を漁って、少しでも違うことが書かれている手紙を探した。だが、僅かな表現の違いはあれ、全て夢と娘達を大切に思っていて、タイミング悪く、彼女達を失ってしまった、という反省の言葉が綴られていた。締めくくりは必ず同じだった。


『誰よりも、柊と麗子を愛しています。とても会いたい。おまえ達のお父さん、御手洗悟より』


 封筒を見ると、宛名は必ず柊と麗子宛になっていたが、悟が日本を離れた直後の手紙は丁寧にラベルを貼って送り返されており、途中から転送不可になっていた。二人の手元にこの手紙が届かなかったのは他でもなく、京子の意志だった。

 あらかた手紙を広げ切って、退色した手紙の中に座り込んだ柊はただ事実を理解することで必死だった。


 親父は、私達を捨てたんじゃなかった。あの女が、連絡を取らせなかったのか。親父に見捨てられていたのは、むしろあの女だったのか。


 麗子は涙をボロボロ流していた。自分がずっと愛されていたということ、父は娘より仕事を選んだわけではなかったこと、そして何よりショックだったのが、不思議なことに、あんなに憎いはずの京子が父に捨てられていたということだった。これまで京子は一度たりとも、父を恨むようなことは言わなかったし、娘達の前で悲しそうな素振りも見せなかった。父が居なくなった時も、「仕事に没頭したくなったみたいよ」としか言わなかった。

 柊と麗子の頭に、両親が言い争っていた記憶はない。父がいきなり消えたという印象だった。今思えば、京子の反応は淡白過ぎた。何もかも知っていたかのようであったが、居場所は知らないと言い続けていた。だが実際は、京子は悟から実質絶縁を食らっていたのだ。しかもそれを、娘宛の手紙で何度も読んでいた。その手紙を送り返す作業は、どんな心持ちだっただろうか。


 姉妹は、母が憎かった。柊と麗子は今まで事実を黙っていた母を、これまで以上に憎もうとした。だが、込み上げてくるのは、心の無垢なところから出てくる、どうしようもなく哀しい涙だった。同情なのか、思い込んでいたものが破壊された衝撃なのか。

「この写真は、何だったんだろう」

 柊は、しゃっくりを抑えながら言った。

「お母さんも親父も、こんなにたくさん、幸せそうに写ってたのに」

 暫しの沈黙の後、浜崎翁が口を開いた。

「あーた達がいたからじゃよ」

 ゆっくりと立ち上がっって、散らかった手紙をたたみ始めた。

「きっと悟くんも京子さんも、自分なりに柊さんと麗子さんを大切に思ってたばい。それが、お互いの考えや人生と絡み合って、今の形になってしまったと」

「じゃあなんだよ、私達」

 柊はもう言葉が継げなかった。呻き声ばかりで、麗子も時折細い声を上げ、床に涙の染みを広げていた。

「間違いなく、愛されていた。そのやり方がどうだったか、それをどう受け止めたかは、また別の話だど」

 要は、動けなくなった姉達の代わりに、箱の調査を続けようと思った。まだ二十箱はあった。低い位置にあった箱を開けると、中には世界地図の柄が描かれたトランクが出て来た。外に出して開けた途端、古いスナップ写真がドサドサと流れて来た。

 写っていたのは、子どもが生まれる前の京子だった。妊娠中の京子、ディスコで踊る京子、一番古いものは制服の写真だった。四十才を過ぎた京子しか知らない要だったが、遠慮がないほど天真爛漫な微笑みが、母親であることを物語っていた。


「ねえ、何でだろうね」

 隣にいたレイダーが、要に凭れ掛かってきた。

 レイダーの言葉はいつも心の中で聞いていたから、要は生まれて初めて、レイダーの声を耳で、確かに聞いた。

「何で好きじゃない人の写真を取っておいたんだろうね」

 要は恐る恐る、声に出して答えた。

「思い出だから?」

「悟パパがママを好きだったことは、本当だからだよ」

 レイダーは手を伸ばして、要に別の写真を差し出した。白いタキシードを着てピースをしている悟。照れながらも、歯を見せて笑っている。寄り添っているのは、ブルーのドレスを着て、左手の甲をカメラに向ける京子。二人の薬指には指輪が光っている。披露宴の写真だ。

「ウソじゃないんだね。家族は、ウソじゃないんだ」

 要はレイダーと、自分に言い聞かせるように、心の奥まで染み込ませるように呟いて、レイダーを抱っこした。

「嘘じゃないよ。僕はずっと見てきたんだから」

 大きな音がして要が顔を上げると、浜崎翁が吹き抜けの向こう側で、何かの機械を据え付けていた。もう一度レイダーを見ると、彼は既にいつものぬいぐるみに戻っていた。要は小さな声で、「パパ、ありがとう」と言って、レイダーの鼻先に自分の鼻をくっつけた。


 要は写真を仕舞い、浜崎翁の方に向かった。陽が傾いてきて、蔵の中はだいぶ暗くなってきていた。

「この機械、何ですか」

「映写機ばい。昔はこれで、映画を観てたばな」

 瞼を重たげに腫らした柊が、気持ちの高揚を隠せない様子で近づいて来た。いつの間にか浜崎翁は手袋をして、物陰でフィルムを確認していた。

「この町から一番近か映画館で、上映のアルバイトをしていたばい。わしは上映技師だった。悟くんをこっそり入れてやったこともあった。この蔵にあーた達を連れて来たのがわしなのは、そりゃ悟くんを知ってるのもあるからばってん、これを使えるからが第一たい」

 これでよか、と呟いて、浜崎翁は映写機にフィルムをセットした。要は何が始まるのか分からなかったが、目の前の壁がパッと明るくなった。側に何も置かれていない広い壁はスクリーンの役割を果たすのだ。

「蔵に保存を頼んだのは、すぐに上映が出来るようにというのがあったんだろ。これは、柊さんが五才の時の誕生日たい。タイトルは『将来の夢』ったい」

 ガザガザと音がして、壁のスクリーンに少女が映し出された。五才の柊は胸を張って、花柄のカーテンの前に立ち、今と同じようなパーカーを着て、左腕にレイダーを抱いている。悟の声がした。

『お名前と、歳を言ってください』

『御手洗シューです。今日で五才ですっ』

『表情が固いよ、もっとリラックスして。深呼吸、深呼吸』

 監督の指示が入り、幼いシューはうんと伸びをした。

『今日は、五才になった柊さんに、インタビューをしたいと思います』

『なんで』

『偉大な人には、記録がいくつあってもいいんだよ。写真とか、ビデオとか』

 シューは既に大物の貫禄で、満足の相槌を打った。

『では、シューさん。シューさんは、将来の夢はありますか』

 シューは一瞬レイダーの方を見た。偉大になる予定なので、既に有能なブレーンまで備えていたのだ。

『今、迷ってます。総理大臣と、映画監督』

『なるほど。どうして、総理大臣と映画監督になりたいのですか』

 シューは腕組みをした。

『偉くなりたいからです。柊は偉い人が向いてます。映画監督は、総理大臣ほど偉くないけど、自分の映画が作れます』

『なるほど。映画が作りたいんですね』

 シューは鼻先を上下させた。三十才の柊が見失っていた夢を、五才のシューは当たり前の目標として、掲げていた。

『なぜ映画が作りたいんですか』

『映画は、カッコよくって面白いから。シューが偉くなれば、シューが死んでもカッコよさが残るから』

『生きた証ということですね』

 父の感心した声に、シューはいまいち要領を得てはいないが、不遜な、自信に満ちた表情をしている。蔵のスクリーンの前では、二十五年後の彼女が、まるで幼い子どものように、泣きじゃくっていた。見逃すまいと目を開けたまま、投影された光を全身に浴びて、偉大な啓示を受け入れるように、しっかりと二本の脚で立ちながら。

『どんな映画を撮りたいんですか』

 父の質問に、シューははっきりと確信を得た顔になった。

『秘密です。完成したら最初にお父さんに観せて、ビックリさせたいから』

 フィルムはそこで終わった。既に陽が沈んだ蔵の中で、要は映写機の光と、柊の嗚咽だけを全身で感じ取っていた。次のフィルムが始まって明るくなった時、柊がへたり込んでいて、麗子が背中をさすってあげているのを見て、突然、要の目からも涙が出てきた。駅に迎えに来てくれた時の覇気に満ちた頼もしさは、今の柊にはなく、要はこの気持ちをなんと表現したら良いか分からなかった。身体が先に反応する感情……。


『お名前と、歳を言ってください』

 いつの間にか浜崎翁がフィルムを入れ換えていた。

「今度は私ね。こんなの撮ったかしら、全然記憶にないわ」

 そこには、リボンとフリルのついたワンピースを着て、着せ替え人形のような愛らしさと、ちょっとませた表情を浮かべた幼い麗子が映っていた。

『御手洗れいこです……五才』

 カメラが恥ずかしいのか、身体をくねらせて悟の方をチラチラと見ている。

『パパと一緒がいい』

『パパはカメラの方にいないといけないからね。麗子の可愛くてきれいなところを撮ってあげたいんだ』

 柊は、悟が明らかに自分の時と接し方が異なるのを感じた。柊に対しては、将来を期待している父親の声だったが、麗子に対しては……

『女優さんみたいにね。麗子は将来、何になりたいのかな』

『れいこは、パパのお嫁さんになるの』

『困ったなあ』

『だいじょうぶ。ママとは、りこんすればいいのよ』

 五才のれいこは、既に毒婦の笑みを身に付けていた。これも誰から教わったものでもない、「才能」というものだと、柊は父の言葉を反芻していた。

『そうだね。麗子が大人になったらママと離婚して、麗子と結婚する』

 遠慮のない快諾。この言葉がその場限りの子ども騙しであったのか、本心であったのかは、想像するしかないが、麗子にとっては記憶から失われた今も、魂に刻み込まれた、実現し得ない永遠のプロポーズだった。

『パパのどこが好きですか』

 要は麗子の方を見たが、泣いているのかと思いきや、正座をして、冷静な様子なのに驚いた。自らのたどたどしい言葉を預言者からの言葉のように、神妙に聞き入っている麗子は、自らの業、父性と異性への複合的憧憬、ファザコンであることと、真摯に対峙していた。その姿は、毅然としたものさえ感じさせた。いつまでもファザコンではいられない、限界を突破しなければ、自分に幸せは訪れない。自分の根幹と向き合うことで、過去に蹴りを喰らわせなければならない。

『パパはかっこいいし、優しいし、れいこのこと大好きって言ってくれるから好き』

『お姉ちゃんはどうですか』

『シューちゃんも優しいし、れいこのこと好きだけど、女の子だからイヤ』

 柊が噴き出した。

「現代なら、差別表現だ」

 それはほんの冗談だったが、麗子の声は怜悧に響いた。

「お姉ちゃんとは結婚できないでしょう。もちろん、お父さんともね」

 フィルムの中の悟が、問いかける。

『麗子はお嫁さんになりたいんだね。でも、それはどうしてかな』

 このフィルムを観ている麗子は、その問いに窮した。彼女はずっと、父、そして父がいなくなってからは男を求めて来た。どうしてそこまで、こだわるのか。世間一般の結婚への焦りとは異なる、まるでそれは飢餓だった。

『だって、さみしいんだもん。いっつもひとりぼっちなんだもん』

『柊や、お友だちがいるじゃないか』

 れいこはまだ発育を迎えていない華奢な身体全体で、イヤイヤをした。

『ギュってしてくれないとイヤ。パパみたいに、ほっぺにチューしてくれないとだめ。触ってくれて、好きだよって言ってくれる人がいて欲しいの』

『でも麗子』

 性愛の告白とも取れる言葉に、悟の厳しい声。柊は、要は、麗子の方を見た。麗子は、必死にそこに存在していた。心の中では大きな濁流が彼女を翻弄しようと襲いかかっているに違いないのに、現実の、今ここにいる二十九才の麗子は、身体を微塵も動かすことなく、目の前の過去に向き合っていた。

『麗子が大人になって、誰かと付き合って、結婚しても、いつかはひとりになるんだよ。それは、パパもそうだ。いつかはひとりで、この世を去らなきゃいけない』

 れいこは首を傾げた。

『麗子もパパも、柊もママも、いつかは死ぬ。そして、いつ、何が起こるか分からない。だから麗子、どうか自分自身で夢や幸せを手に入れてほしい。誰かを待ったり任せたりしないで……』

 悟の声より、五才のれいこの泣きじゃくる声が大きく聞こえてくるようになった。れいこは肩を上下させ、ぎゅっと握った手を目元に押し当て、頭を振っていた。

『やだ、やだ。死ぬなんて、イヤ。パパが死ぬ、なんて、ダメ。そんなこと言わないで。パパが死んだらどうしたらいいの。れいこ、死んじゃう』

 ようやく悟が、フレームの中に姿を見せた。れいこを抱きしめて、頭を撫でて、ごめんね、もう言わないよ、泣かないで。顔中にキスを浴びせた。れいこは泣き止まないまま、フィルムは終わった。

 陽は完全に落ち、天窓からは星が覗いていた。誰からも麗子の顔は見えなかったが、つぶやく声ははっきりと、全員の脳裏にまで響いた。

「パパが死んでも、生きてるわよ」

 要は、麗子が泣いているのだろうと思った。だが、柊には、麗子が泣きながら笑っているのが分かった。


 ちっちゃいれいこちゃんたら、おバカさんね。親が死んだくらいで、子どもまで死ぬわけないじゃない。

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