第11話:行き止まり。次の目的地
ファミレスで食事をした後、三人は麗子のアパートに向かった。生まれて初めて見る街並みに、要はきょろきょろしっぱなしだった。そば屋やパン屋、床屋などの個人商店が立ち並ぶ商店街は、友里の家の雰囲気を思い出させた。道は、要が生まれ育った湾岸地域よりずっと細くて必ずしも真っ直ぐ通ってないのが、まるで生き物のように感じられた。
「この辺は大きいマンションがないんだね」
「元々は農家さんばっかだからね」
商店街を通り過ぎ、住宅街に入る。要は空を見上げた。
「ビルがないと、空が近く感じるよ」
「お前イライジャ・ベイリかよ、さすが埋め立て地生まれだ」
「何か響きが良くないわよ。ごめんね要ちゃん、柊ちゃんは言葉が荒くって。でも、生まれたときからずっと高層マンションに住んでるなんて、私達とは住む世界が違うのねえ」
「柊ねえは、言葉が荒いというか、いろんなこと知ってるんだって思ったよ」
「好意的解釈だ。要はホントいい奴だよ。ずっと気を遣って生きてきたんだろ」
要には、よく分からなかった。
そこから更に十分ほど歩き、麗子のアパートに到着した。その時要は、ここに姉達が二人で住んでいることが信じられなかった。両隣は戸建てだったが、アパートはそれより小さく、二階建てで壁は漆喰、集合ポストは錆びてチラシが詰め込まれっぱなしのものもあった。階段には屋根がなく、洗濯機は外に置かれ、要は姉達の生活が思っていた以上に困窮しているということを知った。こういう建物は、あくまで要の中では、貧乏学生が一人で住んでいるイメージだった。
「階段が急だから気をつけてね」
ギシギシと鳴る階段を上がると、小さなドアが三つ並んでいて、それぞれ201、202、203と手書きのプレートが掛かっている。柊が鍵を出して203に入る。
「ただいまー」
「まあ、がんばってお掃除してくれたのね。床が大分広くなったわ。さあ、要ちゃんもどうぞ。今クーラー入れるから」
要が狭い玄関から部屋を覗くと、麗子がベッドに上がり、その下の床で柊が既に横になっていた。
二人のいるスペースとテレビ、低いテーブル、小さな冷蔵庫などを除くと、残りは一人分の布団。これで床が広くなったとは、一体どういう状態だったのだろう。これほどまでに狭い居住空間を、要は想定していなかった。
そろそろと靴を脱いで上がると、サラダオイルとヤカンが置かれた小さなキッチンが目に入った。要の家のIHコンロとは異なる、黒い鉄の円盤のようなものの上にヤカンが置かれていた。昔ながらの電気コンロだが、それも要が初めて見るものだった。コンロが一つであることにも、置かれている調味料がサラダオイルだけなのにも、要は面食らった。京子が当たり前のように並べていた料理酒やアマニ油どころか、オリーブオイルもなかった。突如冷気を感じ、その方を見ると麗子が冷蔵庫を開けていた。
「飲み物なかったのね。要ちゃん、喉乾いたでしょう」
飲み物どころか、その冷蔵庫には何も入っていなかった。隅っこに、からしのチューブらしきものが見えたが、すぐに扉は閉ざされた。
「だいたいの物は腐ってたから捨てた」
「あらやだ。じゃあお水しかないのね。後で買ってこないと」
そう言って麗子は蛇口からコップに水を入れた。見る限りウォーターサーバーも浄水器もない。
「ろくにおもてなしも出来なくて申し訳ないわ。来る途中で買ってくれば良かったわね」
「ううん。大丈夫」
要はコップを受け取って一口飲んだ。学校で喉が乾いたとき蛇口の水を飲むことはあったので、水道水に抵抗があったわけではないが(東京の水はよく管理されていると社会科見学で習った)姉達の家に浄水器やミネラルウォーターのストックがないことに多少カルチャーショックを受けていた。
とりあえず空いている床に座り、ぐるっと部屋を見渡すと、要の部屋と同じくらいの広さだった。
「部屋が狭くてびっくりしたろ」
柊が枕を差し出して、敷き布団の方に誘導した。白熱灯の下で見る姉の顔は、さっきよりもやつれて、目の下のクマが濃く見えた。
「要ちゃんさえよければ私のベッドで寝てもいいからね」
「大丈夫」
ラベンダー色のシーツに要の動揺を読みとり、柊は要の荷物から勝手にレイダーを敷き布団の方に移動させた。
「私、床でもいいよ」
「いやいや、せっかく遠路はるばる来て貰ったんだから、とりあえずそっちに」
要はおずおずと布団にあがり、レイダーを抱き寄せ壁にもたれるように座った。
「ちょうどそこにいたんだよ、前ビデオ通話したとき」
「そっかあ。あのときお姉ちゃんが電話番号教えてくれたから、今日家を出られたんだよ」
「あの時から、要ちゃんがあの家でうまくやれてないように思えてね。実家なのにうまくやれてないってのも変な言い方だけど、でも何となくね」
「どうして分かったの」
要は姉達が自分をとても心配していたらしいことが、少し不思議でもあった。彼女達に要を世話する義理はないのだ。
「うーん。要がレイダーと一緒にいたからさ。ずっとレイダーを大事にしてくれてるね」
要は訳知り顔のレイダーを見つめ、すぐ柊に向き直った。
「柊ねえ、やっぱりレイダーのこと知ってるんだね」
「知ってる。というか、要が産まれる前まで私とずっと一緒にいた」
要はえっ、と大きな声を出し、レイダーを目の前に抱き上げた。
「レイダー、お姉ちゃん達のことずっと知ってたの。早く言ってよ」
「いやいや、レイダーには口止めしておいたんだよ。あんまりボロのくまさんだと思われたくなかったからね。要はレイダーと初めて会った時のこと、覚えてる?」
「ううん。でも生まれたときから一緒にいたって」
「ははん、やはり言ってなかったな。要が産まれた時に、私は出産祝いを持っていこうと思ったんだけどお金がなくて……でもせっかく家族が増えたから、何かしら渡さないと、と思って、ずっと一緒にいたレイダーを生まれたての赤ちゃんに引き継ごうと思ったんだ。私がちっちゃいときから一緒にいて、辛いときはいつも側にいてくれたから、きっと要のことも支えてくれるだろうって。あの母親の元に産まれるってことは苦労が多くなるだろうし、相談役が必要だろうと思ってね」
要は、はぁーっと感嘆の息をついた。しばらく感慨深げにレイダーの顔を見つめた。
「じゃあ、レイダーって名前も私がつけたんじゃなくて、元々ついてたんだね。名付けた覚えもなかったし、変わった名前だなって思ってたんだ」
「うん。渡した時は、すぐ捨てられちゃうんじゃないかって思ってた。ぬいぐるみが要らなくなる子もいるし、新しいおもちゃにどんどん換えて行っちゃう子もいるし。でもその時は『トイ・ストーリー3』を観て……要は観たかい」
要は首を振った。
「まあいいや。この年になるまでずっとレイダーを大事にしてくれてて、私はすごい嬉しかったんだよ。しかも、多分お母さんはあんまり快く思ってないだろうから」
「ぬいぐるみ、あんまり好きじゃないって言ってた」
「それだけじゃないけどね。まぁ、それでも大事にしてくれてるってことは、両親にも言えないようなことをレイダーにたくさん打ち明けてるからじゃないかなって思ったんだ。テレビ電話の時も、浮かない顔つきだったし。SOSなんじゃないかってうっすら不安だった」
要はこくこく、と頷いた。レイダーは自分の側にいるべくして人生を共にして来たのだと、不思議な縁ではあるが、得心が行った。
「それに、よくお母さんに捨てられないなと思った。それはレイダーを大切にしてくれてたから、取り上げることが出来なかったんだろうね」
「お母さんはひどいけど、そういうことはしないよ」
柊は胡座をかいて、顎を引き、要を真っ正面から見据えた。
「レイダーは、私が親父からプレゼントされたくまなんだ。名付け親も、私のお父さん。だからお母さんはレイダーをあんまり良く思ってない。でも私達を三十年以上、見守ってくれてるくまさんなんだよ」
しばし沈黙。要が口を開きかけた時、柊が床に置いてあったトートバッグから財布を出して、中から小銭を数枚、敷き布団の上に並べた。百円玉が三枚、十円玉が八枚、五円玉が一枚に、一円玉が二枚。
「これが今、私が所有する全財産である」
要は最初、冗談かと思い、顔に笑いを浮かべたが、柊は問いかけてくるような面持ちで、要を見つめ返していた。
「え、えっと、銀行にもないの」
「ない。チャージもない。ポイントカードに四百ポイントくらいあるけど、他にはそれしかない」
要は想像がつかなかった。三十才にもなった大人が、全財産が四百円以下とはどういうことなのか、どうしたらそうなるのか、そんな存在を考えてもみなかった。
「ど、どうするの」
「来週給料日だから、それまでこれでしのぐ」
目の前のコインを呆然と眺め、要は自分の財布にある現金を渡すべきか逡巡した。だがそれも、何だか大人である柊に失礼な気がして、どうしたらいいか分からず、ただ口を噤むばかりだった。
「予め余裕はないとは伝えたけど、この家に来るまで、要は私達の生活の想像がつかなかったと思う。古くて狭い家だと思うだろうけど、私の具合が悪くなったら部屋はもっと荒れるし、収入が増えないのに食い扶持が増えたら、まともな生活は送れないと思う」
再会した時とは打って変わって、柊の顔つきや口調は厳しくなっていた。
「普通自分の子どもがいなくなったら、警察に届け出るな。あいつら要が私達のところに来るなんて思ってないというか、私達のことを思い出すのに時間がかかる。警察が先に見つけるかも知れない。でも、とにかく見つかる。そうすると、私達に養育権とか能力がないって分かるから、親元に帰す方がちゃんと育てられると判断されるだろうね」
「お姉ちゃん達には、そんなに長いことお世話になろうと思ってないよ」
「じゃ、どうする予定だったの」
「夏休みの間にどこか、遠くに行って、施設とかで暮らそうと思ってた」
「うーん。正直なところ、親の身元を調べられて判明したら、速攻帰されると思う。家が金あるし、酷い虐待を受けているわけではないし、あまりに放置してると見做されれば行政の観察が入るかも知れないけど、あの親からは離れられないと思うよ」
目に見えて落胆した要に、少し柊は気の毒になった。
「せっかく出てきてくれた初日なのに、暗い話になって申し訳ない。ただ、これが実際のところなんだ。このことだけは要に直接知ってもらわないと、と思ってね。あの親から逃げて来たいって気持ちは、痛いほど分かる。ただ、姉達の状況もそこそこヤバいってことを伝えたかった」
要は黙って頷いた。どっと疲れが出て、ほんのちょっぴり涙が出た。クーラーの冷却音が、じんわりと空気を重たくしていた。
「辛いのは、私だけじゃないって分かってたはずだったんだけど」
「本当に姉として不甲斐ないよ。ただ一つだけ、これだけは絶対に守る。何があっても要の味方だよ。だから、したいことがあれば叶えてあげたいし、誰にだって証言する。あの親は最低だ、要のためにならないって」
要が鼻をすすると、玄関のドアが閉じる音がした。麗子がいつの間にかコンビニから帰って来ていた。
「アイス買って来たわよー」
麗子の長閑な声に、要はハッとした。
「あら、どうしたの。もしかしてお邪魔しちゃったかしら」
「我々の経済実態について説明していたところだ」
「いやだ、家出した早々そんな話して。せっかくなんだから寛いでもらいましょうよ。家主が言ってるんだから、ゆっくりして頂戴」
麗子はパックの飲み物を冷蔵庫に入れた。ビニール袋の中にはいくつアイスが入っており、まず要に選ばせた。
「じゃあこれ」
「ハーゲンダッツとかにすれば」
「ううん、これ、食べたことないから、これにする」
と言ってパピコを選んだ要に、貧しい方の姉妹は顔を見合わせた。
「えっ、何か間違ったことしちゃったかな」
要は慌ててパピコを袋に戻そうとしたが、柊が袋をもぎ取った。
「いやいや、パピコ食べてくれ。それを独り占めすることはハーゲンダッツを食べるのの倍くらい贅沢なひと時を過ごせる」
「柊ちゃんの言うことは話半分でいいですからね。要ちゃんの好きなように、過ごしてね。飯田さんのお家では大変だったんでしょうから」
麗子が要の頭を撫でると、要は恥ずかしそうに肩をすくめた。気が抜けたところで、ポロリと言葉が出た。
「麗子ねえちゃん、ママみたいだね」
柊と麗子は、固まった。ギクッという音が聞こえたかと思うくらいだった。
「あっ、また間違ったこと……ごめんなさい。私のママに似てるって訳じゃなくて……普通に、他所の優しいお母さんってこんな感じなのかなって」
要は必死にフォローを入れたが、帰って来た時に一瞬、京子の雰囲気を感じ取ったのは否定出来なかった。ただそれは「もし京子が自分を蔑ろにしていなかったら、こうだったかも知れない」という、明るい、幸せなIfを想起させる、肯定的な意味合いだった。
「ごめんね、変なこと言っちゃって……もう黙ってる」
「いいのよ、要ちゃん。そうね、柊ちゃんと一緒にいるとついお世話おばさんになっちゃうから……そう思われるのも仕方ないわね」
麗子の微笑みは哀れっぽさが滲んでいた。
「要には難しいかも知れないけど……麗子はファザコンだからな。さっき親父の話したろ。私もだけど、麗子は親父がすごく好きだったからな。だから『ママ』ってものが嫌いなんだよ」
「柊ちゃんたら、また重たい話して」
麗子は明らかに困惑顔だった。要は柊の言ったことはよく分からなかったが、どうしても彼女達の父のことが気になっていた。
「お姉ちゃん達のパパって、どこにいるの。麗子姉ちゃんが嫌だったら話さなくていいんだけど」
柊は麗子をちらりと見た。レイダーの話をしたんだよ、と言うと、麗子は何度か頷いた。
「私も、いい加減向き合わなきゃいけないのかも知れないわね。要ちゃんが来たってことは、そういうことなのかも」
麗子は残りのアイスを冷蔵庫に仕舞い、フランボワーズ味のアイスを手にベッドに座った。そして要を手招きした。要はレイダーと共に、麗子のベッドの上に上がった。柊でさえも、そこに上がったことはなかった。
「私達のパパは、もうとっくに亡くなっているの。最後に会ったのは、小学生の時よ。その後失踪して、会わないまま、死んでいたことが分かったの」
思いも寄らない事実に、要は急いで謝った。
「ごめんなさい、変なこと聞いて。言わなかったことにして」
「いいのよ。私達はパパを恨んでいるけど、ママへの気持ちとは違うの。大好きだったのに、突然消えちゃったから、裏切られたような気持ちに近いわね。それが解消されないまま二度と会えなくなっちゃったから、パパへの気持ちをどうしていいか分からないのよ」
要は麗子の言ったような気持ちを想像してみたが、あまり実感が湧かなかった。
「写真とかはないの」
「ネットに上がってるよ。『御樽覚』って偽名を使ってて、それで検索すると出てくる」
「えっ、有名人なの」
「マイナーな映画監督らしいのよ。私は映画のこと詳しくないけど、柊ちゃんがそうとは知らずパパの映画を観たのがきっかけで分かったの。うちから居なくなった後、外国で映画を撮っていたんですって」
柊は映画監督としての父について、いくつか分かっていることを話した。高校一年の時、カルト映画を片っ端から観るノルマを立てていた柊は、新宿のレンタルビデオ店で運命的な出会いを遂げる。パッケージにある名前は「監督:御樽覚」。それを見た瞬間、すっかり忘れ去っていた父との会話が脳裏に浮かんだ。
「御手洗って名字で何度もからかわれてな。お前にも麗子にも申し訳ないと思ってる。今は本名で仕事してるけど、もし俺が映画監督になったら絶対に名字を変えるんだ。御樽、御樽悟にする」
「ごだるって、変な名字」
「個性的で良い。ゴダールから取ったんだ」
「ゴダールって誰」
「おまえにはまだ早いよ」
作品の発表年は一昨年、つまり悟が家を出てから七年後だった。パッケージには「コマーシャルを撮っていた監督ならではの印象的な映像と、壮大且つ綿密なシナリオ、そして画面から滲み出す叙情性」が絶賛され、画面の作りや描いたモチーフから「日本のエイゼンシュテイン」と評されていた。柊はとりあえずレンタルして、帰宅するなり再生した。
「ゴダールではないが、いかにも親父が作りそうな暗い話だ」
確信を得た柊がネットで調べたところ、御樽覚は死んでいた。父は御手洗悟という人間を辞め、映画監督の御樽覚としてフランスに渡っていた。フランスの著名な映画監督の元で仕事をしながら作品を撮り、初監督の『黒』がフランス映画界で太鼓判を押され、続けて『白』を撮影。だが、発表間際に急性アルコール中毒で死んだのだという。ネットに御樽覚の渡仏以前の経歴はどこにも書かれておらず、もちろん御手洗悟についての記述は皆無だった。
「私達が知ってるのは、ここまでだよ」
そう言って柊はラップトップを引き寄せ、検索結果の画像を見せた。要は自分の父の様な厳格そうな男を想像していたが、意外にもネットに載っているのは、笑顔の写真ばかりだった。
「見た目は優しそうだね」
「実際優しかったんだよ。一度も理不尽なことをされなかったし、すごい忙しかったけどなるべく遊んでくれたしね」
要は口を尖らせた。
「なんで急に居なくなったか、分からないの」
「分からない。ただ推測では、日本での生活が嫌になって海外に映画の働き口を見つけたんだと思う。詳しいことはあの女もなぜか教えてくれなかった」
要は納得が行かない様子で、しばらくマウスを片手に検索結果の続きを見ていた。
「熊本がお父さんの出身なんだね」
「そうよ。私達は行ったことないんだけど、漁師さんのお家だったみたい。パパは田舎の暮らしが嫌で、高校生の時に東京に出てきて、そこでママと出会ったんですって」
「この写真の場所なのかなあ」
要が開いたのは、フランス語のサイトだった。小洒落たフォントで本見出しが書かれ、広い海や漁船、大きな蔵が写っている画像が掲載されていた。
「あれ、これ親父の田舎かな。サトルゴダルって書いてあるし、親父の家に蔵があるのは聞いたことある。待て待て……シネフィルのみなさんへ……僕はゴダルの生家に来ています……ここで世界的天才が生まれたのです……日本の漁村に興味があるみなさんにも読んでいただければ幸いです」
「えっ柊姉ねえ、フランス語読めるの」
「言ったでしょう。柊ちゃんは何でも出来るのよ」
「大学で習っただけだよ。フランスのアート系雑誌のウェブ版みたいだ、二ヶ月前の記事だよ」
なぜフランス語が読める能力があるのに、小銭しか持ってないのか、要はまた一つ世の中の不思議を見るような気がした。悟のことといい、御手洗家は自分の全く知らない社会の仕組みで動いているような気がした。
柊は忙しく目を走らせて、ところどころネット翻訳をかけながら記事の読破に勤しんでいた。
「うわあ、きれいな海」
サイトに載っている写真は太平洋の様々な色彩を見せており、カメラマンによる作品のようだった。
「私、海に行ったことがないんだ。親友の友里と行こうって言ってたんだけど……友里、事故で身体が動かなくなっちゃったから」
要はレイダーを抱き寄せた。麗子が要の肩に触れ、そのまま要は麗子に凭れ掛かった。麗子は石鹸の香りがした。ホテルで禊をしてきたのであるが、そんなことを知る由もない要は、その淡く優しい香りに抱擁されていた。
「待てよ。おい。『ゴダルの実家、御手洗家が所持していた蔵は、今は村の所有となっているが、中を見ることが出来る。堆く積み上げられた木箱はかつて漁業に使われていたものだが、ゴダルが村に預けた品々が眠っているそうだ。これはごくプライベートなものなので、公開はされていない』だってよ」
これには、父に対して全てを諦めていた姉妹も、表情を変えた。姉妹が口に出すことを躊躇っていた言葉を、要が興奮気味に投げかけた。
「この中に、家族の記録があるかもよ。お姉ちゃん達宛の手紙とか」
柊は顎に手をやって首を傾げてるばかりだった。
「そうね、確か熊本にはもう御手洗の親族はいなくなってしまったわ。最後に住んでたおばあちゃんが他界したのが私達がちっちゃい頃でしょう」
「日本に荷物を置いておきたくても、あの女に預けられなくて、故郷を頼った可能性はあるな。いや、でもこれは知らなかった。そんなに地元にゆかりがあるとも聞いたことなかったし、まさかフランスから来た人がこんなこと書いてるなんて」
「パパ、田舎は捨てて来たってよく言ってたものね」
その後何分か、柊と麗子は、モニターをじろじろ見てばかりいた。だが要の肚は、すっかり決まっていた。
「私、ここに行きたい」
一瞬、姉二人は今の要の発言が、適当な相槌「そうなんだ」「びっくりだね」の類だと思って聞き流してしまうところだった。今の彼女達の衝撃は外側からは分からないものの、積年の恨み悲しみ叛逆を矜恃に変えてようやく立脚して来た身としては、その立っている足元にヒビを入れられ、また「優しかった父」に「認められたい、愛されたい幼い自分」のトラウマワールドに引きずり込まれていたのだった。
父が娘である自分に、何かを残してくれたかも知れないという希望は、一方で忸怩たる思いも沸き起こした。
遺品が今更何になるのだ。幼い頃失踪しておいて知らないうちにポックリ死んでる人間が何を言っても、傷ついた心や嘆いた時間は戻らない。
しかし誇り高き精神的孤児も、やはり生前の悟からの愛情を忘れることが出来なかった。この世に親の愛情があると知っているが故に、彼女等は愛に飢え、母を憎み、父を許せないのだ。戸惑う二人をよそに、要は使命を帯びたような声色で続ける。
「お姉ちゃん達に優しかったのに突然消えるってやっぱりおかしいよ。何か事情があったのかも知れないし、ここにその手がかりがあるって考えるのは非現実的なことじゃないと思うよ」
要は柊の膝上にかぶさる形でラップトップの画面を眺めた。群青色の海に、光がきらめいて、友里の田舎ではないが、要が夢見た海がそこにあった。そこに姉達のルーツが繋がるというのなら、この場所こそが次なる目的地なのではないかと確信した。
「私、そのうち親に連れ戻されちゃうかも知れないけど、すぐには見つからない。それに柊姉ちゃん言ってたよね、したいことがあれば叶えてあげたいって。私、ここに行きたいよ。ずっと海に行きたかったけど、それはきっとこの場所なんだよ」
曇りなく、迷いなく、自分のしたいことを伝えたのはいつぶりだろうか。
要は自分の荷物から、現金、交通系ICカード、クレジットカード、通帳を出して、柊のコインの横に並べた。
「私の全財産。これで三人分、明日の飛行機を予約すればいいよ」
歴戦の賭博師のような威勢の良さは、塾通いに疲弊した小学三年生ではなかった。行き詰まった自分の人生に、何らかの糸口を求めようとする真摯さ。当てずっぽうだとしても、動かないよりは、戻るよりはいいという覚悟。柊や麗子が、見まいとして生きて来た父親の姿を、今幼い妹が暴こうとしている。麗子は柊を見た。柊は瞼を閉じ沈思黙考していたが、カッと目を見開き、要の横のレイダーを抱き上げた。
「三人……レイダー入れて四人で行く。御手洗悟……親父に、会いに行くぞ」
わあっと声を上げ、要は柊に抱きついた。麗子も抱きついた。
「何があっても、もうウジウジしない。蔵に何もなかったら、海水浴と花火するぞ。よし、麗子と要はカードで飛行機の予約。出発は何時でもいい。私は今から必要なものを買って来る」
要は麗子の膝の上に載って、母のカード情報を伝えた。
「私、家族旅行って生まれて初めてだよ」
浮きたつ要の声に、玄関のドアを開けた柊が、ドアの外の電線を震わすほどの声で返した。
「こっちは三十年生きて来て初めての家族旅行だぞ。もう二度とないと思ってた!」
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