最終話:I was born. Life goes on.
翌朝も、心澄む晴天に恵まれた。姉妹は海沿いの民宿に泊まっていた。
普段午後から起きる柊も朝早く起きて、「インスピレーションが呼んでる」と言って海に散歩に行った。
要は昨夜から日記を書いていた。生まれて初めて親元を離れただけではなく、自分が知りたかったことの手がかりを、御手洗家の蔵で体験した気がしたからだ。友里の姉が言っていたこと……同じ母を持つ姉達はどう生きてきたのか。要は自分の気持ちをどう書いていいかわからなかったため、とにかく目撃したことを書いた。だが、一点だけ自分の想いを明確に残そうと思った。
根拠があることではないが、相棒レイダーが今自分のそばにいること、これは死後の世界にいる悟の意向なのだと、確信を込めて書き添えた。悟が要の存在を予期するわけもなかったが、柊や要のような子どものそばにはレイダーがいるべきだという血の繋がっていない父の意志を、数々の写真やフィルムから確かに感じたのだ。
麗子は役場に悟の遺品の説明を聞きに行った。写真がジュラルミンケース五十箱分、手紙は四箱分、手記が七箱分、十六ミリフィルムが四十三本、八ミリビデオが百六十九本……中には映画史的に重要なものが含まれる可能性があるとのことだったが、目録を見るとほとんどが家族に関する記録であった。一通り説明を受けて、とてもすぐには相続を受諾出来る量ではないと判断し、柊と相談することにした。
「映像に関してはとりあえず私が全部観てから、処分を決めよう。寄付したほうがいいものもあるかも知れない」
柊は民宿の前の道路で、浮き輪を足踏みポンプで膨らましながら、麗子の報告を受けた。
「全部捨てちゃってもいいかも」
麗子が皮肉めいた笑みを浮かべた。それは毒婦の微笑みより、少し弱々しく見えた。
「バカ言え、そんな作業また大泣きするだろ。それに……」
要が旅館から出て来た。
「お昼ご飯出来たって。食べたら海、行ける?」
「シャチを膨らませたら行けるぞー」
柊はパンパンになったビーチボールを要に投げつけ、二人は笑いながら旅館に入って行った。それに……麗子は柊の言葉の続きを考えた。あれは証拠だわ。パパが私達を愛していたことと、それが伝わっていなかったことの。あの女の、理不尽な八つ当たり。
鯛のあら炊きに舌鼓を打ち、お代わりをしようとする柊を何とか止めて、要は初めての海水浴に気持ちを浮き立たせていた。
柊と要は民宿を出る時点から頭にダイビングマスクを装着し、お揃いのサロペットタイプの水着の上にアメコミパーカーという愉快な出で立ちで、駆け出していった。そのまま波に飛び込むつもりである。
「もう、お子さまなんだから」
麗子は日傘をさして、海風を感じながらゆっくりと海水浴場に向かった。家族連れや、若者、地元の子ども達で、砂浜は賑わっていた。その中に、幼い頃の父の姿を探している自分に気付いて、もう、と自分にも愛想を尽かした。
「ここは地獄だーっ」
浅瀬でウォーターガンを振り回し、ベトナム戦争を再現している姉を見つけ、レジャーシートを敷いた位置を告げようとすると、後ろから要が水を掛けてきた。
「麗子ねえちゃん、早く着替えないとずぶ濡れになっちゃうよ」
要は既に頬を蒸気させて、砂の感触や波の満ち引きが楽しくて仕方ないようだった。
「やだ、私泳ぐつもりなかったのに」
「何言ってるんだ、ここをどこだと思ってる」
「七十年代のベトナムでしょ」
麗子はしゃがんで、両腕で柊に海水を浴びせ、着替えて来るわねと、陣地に帰還して行った。こんな風に無邪気に遊んだのはいつぶりだか、覚えていない。
サロペットの大人と子ども、白いビキニの不思議な取り合わせ三人は、ひたすら遊び続けた。『家族』で自然を満喫する。そんな休暇は永遠にないと思っていた柊、別の家庭でしか起こりえないと思っていた麗子、そして想像したこともなかった要。都会に住む崩壊した核家族の子ども達には、海水浴は無尽蔵の遊び場だった。
お腹が減ったら焼きそばとカキ氷を食べて、柊は砂山を作り始めた。
「ピラミッドにするんだね」
要は友里と建設するはずだった、砂浜の計画を話した。
「よし、一流建築家の御手洗柊が、現代に古代エジプトの遺産を再現しよう」
昼過ぎから夕方にかけて、砂遊びをした。要はスフィンクスのポーズで埋めて貰い、その写真を友里に見せるのだと、麗子に写真を撮ってもらった。
気付けば美しいサンセット。海の家でシャワーを浴びて着替え、民宿に帰ろうとした姉達を、要がレイダーと共に、呼び止めた。要の助けを借り、レイダーが出して来たのは、少し古ぼけたシャボン玉キットだった。要に操られたくまのレイダーが言った。
「シャボン玉だよ。覚えてるよね。シューちゃん、カナメちゃんと約束したもんね。いつか四人でやろうって」
要は口をギュッと結んで、忘れていないよね、と表情全体で、訴えていた。
「ファミレスで買った……取っておいてくれたのね」
麗子はしゃがんで、懐かしそうに、少し折れ曲がった未開封のパッケージに触れた。柊は得意げな笑みを浮かべ、リュックからあの時一緒に買った、同じシャボン玉キットを出した。
「忘れてるわけない」
要は柊に抱きついた。
「柊ねえも、やろうって、思ってくれてたんだね」
「ふふん、これもあるぞ」
柊はリュックから更に、大きな輪が作れるシャボン玉キットも出して来た。
「これが大人の貫禄よ」
「何言ってるのよ、要ちゃんの資金で買ったくせに」
姉妹は夕陽にきらめく海が見渡せる広場に移動し、自分たちの視界いっぱいにシャボン玉を作り出した。シャボン玉は途切れることなく、彼女達の世界を守るように、大小、キラキラ、夢幻の美しさで三人を包み込んだ。泡の儚さを、要はたくさん吹いて途切れさせなかったし、柊は要が中に入るほど大きなシャボンを作ってみせたし、麗子はスマホで記録した。自撮りをすれば、三人全員が写る。
家族写真は、誰かが欠けてたらダメなのよね。パパはプロ意識が強すぎて、そんなところが分かってなかったわ。麗子がそう言うと、見た目に自信がなかったんだろ、別にあのおっさんは顔がいいわけじゃないからなぁ、とニヤニヤしながら返す柊。
要は姉達が、父親へのわだかまりが少しでもなくなって欲しいと祈っていたから、そんな冗談でも泣きそうなくらい安心した。姉達が傷付いているのは痛いくらい分かっていたが、要にとっては、自分と姉達を結びつけてくれた、見えないところで自分を見守っていてくれたような、暖かい存在になっていたから、悟を悪く思わないで欲しかったのだ。直接関係していないからそう感じる、都合のいい考えだとも分かっていたが、彼がいなかったら、こんな風に、家族の幸せを感じられることは決してなかったのだ。
「私、ずーっと、忘れないよ。お姉ちゃん達と過ごしたこと、楽しかったってこと、何があっても、絶対に忘れない」
最後のシャボンのひと吹きがオレンジとスミレ色の空に消えて、要は片方の目から涙を零している自分に気付いた。悲しいわけじゃないのに、何でだろう。
「バカ、私は誰かみたいにいきなり消えて死んだりしないから。要の記憶からも消えたりしないよ」
要の頭を抱き寄せ、髪をクシャクシャと撫でる柊も、若干涙目になっていた。麗子は柊の口から「死んだりしない」という言葉が出たことに、胸が一杯になった。柊は、ずっとずっと、死にたいと言っていたから。
三人は海を後にし、夕食をどうするか話し合いながら民宿に戻った。民宿の入り口にタクシーが停まっているのに気付き、柊は咄嗟に要を背中に隠した。
「柊、麗子」
スーツ姿の京子が荒いコンクリートにヒールを響かせて、駆け寄ってきた。要は身を硬くした。
「かなちゃん!やっぱり、ここにいたのね」
要に触れようとする京子に、柊と麗子が無言で立ち塞がった。京子は、全て知られたということを、知ったようだった。何か言いたくても言えない、心の中に様々な思いが詰まって、京子はただ柊と麗子の顔を見ているばかりだった。ハイブランドのコスメで仕上げたその顔には、くっきりと、老い、そして後悔が滲んでいた。ただ無言の娘達に、がっくりと頭を下げた。
「蔵に行ったって、浜崎さんから聞いたわ。見たんでしょう。私、本当に……」
突然、柊が京子に詰め寄り、胸ぐらを掴んだ。右手が上がる。拳を見て要が小さな声を上げようとしたが、それは振り下ろされることはなく……目を見開いた柊は、歯を食いしばって、必死に殴ろうと試みていた。だが、目の前にいる女が、あまりにも哀れだった。
この女は、母親ではない。母親になれなかったのだ。そう思っていた。だから、殴れなかった。
ゆっくりと、柊の拳が力を失っていった。要が息を吐いた。その瞬間。
パンッ
麗子が、京子に張り手を食らわせた。衝撃でよろめいた京子の髪を掴んで、真っ直ぐ顔と顔を突き合わせた。京子は震えていた。涙を流しアイメイクも皺に沿って滲んでいたが、心を傷める者は誰もいなかった。
「私と柊ちゃんは、もう大人だから許してあげるわ。でもね」
地獄の奥底から響くような、嘲りと怒り。
「これから要ちゃんを不幸にしたら、絶対に許さないから。お前の人生を滅茶苦茶にしてやる。絶対に不幸にしてやる。よく覚えておきなさい。子どもは、あんたの道具じゃないのよ」
それは、悪意の力に満ちた、確かな呪詛だった。麗子は京子の頭を乱暴に打っちゃって、穢れたものに触れた後のように手を払い、落としていたつば広帽を拾った。
砂利の上に打ち拉がれた京子は、すすり泣いていた。それは娘達にとって、いつもの演技じみたその場限りのものとも、またかつて娘達に見せたことのなかった弱い自分を曝け出しているとも、どちらとも受け取れた。
要は、自分のこれからを考えた。多分、家出はそろそろ終わりなんだ。
「私のこと、探しに来たの」
「ええ。あなたと、柊と麗子、三人ともよ」
今更、と柊は鼻を鳴らした。だがその意に反して、泣きべそのような音になっていて、柊は振り払うように頭を掻きむしった。
「お姉ちゃん達、辛かったんだよ。すっごく悲しかった。私も、そうなるの」
「ならないわ」
「嘘だよ、お母さん、何にも考えてないもん。いつも」
生まれて初めて、母親に本音を言った気がする。どうしてこれまで、お母さんに思ったことを言わなかったんだろう。お母さんは、他人だから。話が通じないって、ずっと思ってたんだよ。血が繋がってても他人だし、血が繋がってなくても……要は強くレイダーを抱きしめた。
「お母さん、悟パパのことしか、考えてなかったんだって思ったんだ。でもそうしたら、何で私がいるんだろうって思ったよ。蔵にはたくさん写真があった。でもうちにはない。ディズニーランドにも海にも行ったことない。お母さんはどうして、私のお父さんと結婚したの。どうして私が生まれたの」
姉達が、蔵で幸せだった時の思い出と向き合っている時に感じていた疎外感が、一気に溢れ出た。
「お母さん、私、愛されてないと思っているよう」
瞬きもせず、拭うこともせず、要はただボロボロと涙を零した。目が勝手に、悲しみや不安を感じるより先に、一生懸命知らせていた。
寂しかった。
でもそれを感じまいと心が頑張るから、他の臓器が知らせるのだ。身体が怪我をした時に血を流すように、心が怪我をしたら、涙が知らせるのだ。魂のインクが、パーカーやレイダーや地面に、要の不安と孤独を描いた。美しくもない無色の染み。だから見過ごされがちだ。今や京子も、同じく傷を負っていた。古い傷と、新しい傷。だが大人には、望まずとも責任が伴う。柊が要の肩を抱いて、言った。
「お母さんは、自分の一番好きだった人に、愛されてなかったからね」
京子は、ずっと見てこなかったものを、今まとめて、自分自身の経験として、娘達に突きつけられていた。
「だから、無視される気持ちが、どれだけ辛いか本当は知っているはずだ。せめて今からでも、子どもに出来ることをしてやってくれ」
京子は頷いた。何度も頷いた。
「悟さんが、言いそうだわ。柊、あなたは本当に大きくなったわね」
「もう大人だからな。あんたもそうだろ」
要はしゃがみこんで、レイダーを顔の前に上げた。
「僕、蔵で見たよ。ママのたくさんの写真。セーラー服のも、結婚式のもあった」
京子はハッと顔を上げた。そのことは知らなかったようだ。
「要ちゃんは生まれてなかったけど、僕は知ってるよ。パパのこと。ママとの二人の頃の思い出、捨てなかったんだよ」
地べたの上で子どものように泣きじゃくる五十女を見下しながら、麗子は思った。パパは何でこんな女を選んだのかと。だがこうなるなんて、本人達だって分かってなかったのだ。二人が結婚したのは、今の柊や麗子からしたらずっと若い二十二才。分かるわけがなかった。
もし私が最愛の人に捨てられたら、どうしてた?
間違いなく、子どもなんか放っておいてパパを追ったわ。
そう思うとなぜだか笑いがこみ上げて来て、自然と、声を出して笑っていた。パパのお嫁さんにならなくて良かった、私がママじゃなくて良かった、不幸な子ども達を生み出さなくて良かった……ふふ、うふふ、あはははははは。
「柊ちゃん、本当に、良かったわ。私達、きっとこれまでの私達で、良かったのよ」
柊は思わず彼女を抱きしめた。
「バカだな、これから、もっと良くなる、良くしていくんだよ。まだまだ、生きなきゃいけないんだからな!」
月日は流れて……十月。南青山のフレンチレストラン。
ディナーメニューのメインディッシュをお得に食べられるランチのセットが人気で、平日とはいえ店は女性客で一杯だった。
久しぶりの有休で、ゆっくりと午前中を過ごした麗子は少し遅れて店に着いた。
「麗子、こっちよー」
能天気に間延びした声。秋物のストールに薄手のニットの京子が手を振って、ついさっき美容院でセットしたようなセミロングのカールをなびかせている。
「よく来てくれたわね。どうしてもこのお店来たかったのよ。平日じゃないと予約が取れなくて」
京子は以前に比べてなるべく休みを多く取っているらしかった。うちもとにかく働き方改革なのよ、と言っていたが、以前のワーカホリック気味の京子からは考えられないくらい、喜んで有休を消化しているように見えた。
「青山なんて来ないから迷ったわ」
麗子は相変わらずのこけし頭だったが、おろしたてのベージュのワンピースを着ていた。ベージュという色を身につけるのが生まれて初めてなのだった。
「あなた昔から原宿とか新宿よね、ヴィジュアル系好きだったものね」
「最近は銀座とかにも行きますう。有楽町の方が多いけど」
「でもこうやって、二人で食事をするなんて、想像がつかなかったわ」
「私もよ」
悟の故郷・上天草では……結局京子が要を連れて帰った。京子は初めから、家出の件は優一には伏せており、要の話を聞く気があったということが分かって、柊と麗子が要を引き渡した。また、それに一番驚いていたのは要で、京子は父親への不満を一緒に解決していこうとまで言ったのだった。勿論、自分自身のあり方も改めると約束した。要は「お姉ちゃん達のお母さんとしてもちゃんとして」と付帯条項もきっちり承諾させた。
悟の遺産は、必要な手続きは京子が手助けし、柊と麗子の所有となった。一部を映像の専門家に寄付し、家族の記録は今でも上天草の蔵の中に置かせてもらっている。
「こう言うと重くなっちゃうけど、昔っからあなたに本っ当に憎まれていると思ってたわ」
京子は見た目に幾分落ち着きが出てきた。エナメルのピンヒールはローヒールのパンプスになり、以前より生き急いでいるハキハキ感がペースダウンしていた。
「昔からあなたのことが良く分からなかったの。柊は、我は強いけどお話はしてくれたのよ。でも麗子は本能的にお前が嫌いなんだって、悟さんはよく言ってたわ。親を憎む、でもそれも子どもの権利だって」
京子にとっては苦い記憶であっても、話をする時の表情から、京子はずっと悟の話をしたかったのだと、そして今でも悟を愛しているのだと、麗子には分かった。
「あなた達が羨ましかったの。悟さんは、私に対しては年を経るごとに興味を失くしていたけれど、あなた達のことはいつまでも変わらずに愛していたわ。特にあなたには、本当にお姫様みたいに接していて、あなたを主演にした脚本、蔵から出てきたでしょう」
「柊ちゃんが見つけてくれたわ。酷い話よ。幼女が義理の父親の酒代を稼ぐために働かされて慰み者にされて、ズタボロの状態でスラムで大人になるみたいな……でもあれって、パパの願望だったんじゃないかしら」
「そう、あなた達、かなり危なかったのよ。ホントに愛し合ってたわ。羨ましかった」
「でも、親子じゃ結ばれないでしょ……不幸よね。愛されたいだけなのに」
「映画があの人の全てだったのよ」
変な男に引っかかっちゃダメよ、と母親から今更のアドバイスを受けたところで、メインの鹿肉のソテーが運ばれてきた。
「ねえ、結局、要ちゃんに聞かれたことには答えたの」
「どれかしら。たくさんあったわね」
「どうして今の旦那さんと結婚したの。パパより愛しているようには見えないけれど」
麗子の質問に、京子はナイフを止めて、ワインを一口飲んだ。いつもなら赤だったが、今日はスパークリングワインを頼んでいた。いつになくぎこちないのは、大人になった麗子を目の前にした緊張の表れだった。
「そうね……変な話になっちゃうけど、でも、大人になったあなたになら話せるかも。私って昔から人に愛される感覚がなかったの。今もよ。とにかく、自分が好きな人を愛する、その感情でいっぱい。そうやって高校生の時から、悟さんに夢中だったのよ。信じられないくらい一途でしょ、笑っちゃう」
京子はナプキンで口元を抑えた。また一口飲んで、続けた。
「私が柊を産んだ時……新卒で入社した直後に出産したの、家族も、会社の人もみんな驚いたわ。何より悟さんがね。でも、あれは全て私の計画だった。高校の時から好きだった悟さんと大学で再会して、結婚まで漕ぎ着けたけど、どんどんあの人は仕事にのめり込んでいって……私は捨てられるのが怖くて、とにかく何かつなぎとめるものが欲しかったの。それで年子のあなた達を生んだ……結局仕事に逃げていたのは私だったのにね。最低よ。最低な母親だと思うわ」
「私もそう思うわ」
京子と麗子はそっくりな、凶々しい唇の形で笑った。
「でもね、今の旦那は、飯田は、ものすごく私を愛してくれたのよ。私は、あなた達がいたから、と言うと白々しいけど、長い間その気持ちに応えなかった。事情が複雑なのは確かでしょう。あなた達二人のことは、自分でなんとか養えると思ったし、だから何度も断ったの。それでも求婚されたわ。何度も乞われるうちに、まるで、この人私みたいって思っちゃったの」
冷めるわよ、と促され、麗子はソテーを口にした。柔らかかったが汁気が多く、血の味が強いように感じられた。
「そうやって情が湧いて、一瞬気を許しちゃった時に、妊娠したの。それが要よ。堕ろそうかとも思った。でも、そう考えたとき悟さんのことを思い出して……『全ての子どもは祝福されるべきだ』って昔言ってたの。あんなに忘れたかったのにね。見たでしょ、私が送り返した手紙の量。でも、あれだけ執着してたってことなのよね。悟さんが死んだのを知って、ようやく呪縛から抜けられると思った。妊娠をきっかけに、再婚して新しく生きようって、そういう風に捉えようと思ったし、これまで逃げてきた自分へのけじめだと思った。再婚したからってあなた達を切り離すつもりはなかったのよ……再婚前は、飯田も今よりはマトモだったんだけど。でもそれも私の責任よね」
麗子はこの店の自慢のメニューの味が良いのか悪いのかも分からなくなっていて、相変わらず憎らしい母が弱々しく見えていることの方が驚いた。話している間、麗子は五十三才になる母の顔を見ていたが、記憶で形成された彼女の姿よりも、ずっと老いていることに、ようやく気付いたのだった。
要と出会い、上天草でのことがあってから、大人になった、という自覚が生まれていたのだったが、麗子が望まずとも大人になったのであれば、京子が老境を迎えるのは必然なのだ。
麗子は、自分の中でいかに京子が「女」として圧倒的な存在を占めていたか、女王の座に君臨していた京子の姿が小さくなったことでようやく、その圧政の息苦しさを思い知った。逆に言えば、もう恐るるに足る存在ではなくなっていた。それは麗子に、肩透かしにも似た、一抹の安堵を齎した。所詮京子も、麗子と変わらない、ただの「愛されなかった」女なのだ。
「この歳になって、よくお母さんみたいな人が子どもを育てたなって思ったわ。それも三人も。今の時代なら子どもを生まないって選択肢はメジャーだけど、お母さんは……家庭を築こうとしたわけでしょ。私には到底無理だわ」
「向こう見ずだったのよ。逆に、よくあなた達は……」
京子はナプキンで目頭を押さえた。それが涙なのか、年によるかすみ目か。どちらにしろ、麗子の哀れみを誘った。
「あなた達は、こんな両親でよく頑張って、生きてるわ。特に、柊は病気なのに」
「柊ちゃん、自分から言わないだけで、色々大変なのよ。精神のことって、見えないから」
「言わないのは、あなたもでしょう。そうだ、これ」
京子はロエベのハンドバッグから、封筒を差し出した。
「来月、柊の誕生日でしょう。要がお祝いしたがってるわ。これは、私からのプレゼントよ。あなたからってことにしてもいいわ」
麗子が手に取ってみると、麗子の家の近くのトランクルームのパンフレットと、カードキーが入っていた。
「どういうこと」
「持ち運べる大きさじゃなかったから、預けておいたの。絶対に驚くわよ。私が嫌いだって言っても、物に罪はないでしょ。必ず渡してね」
京子はウインクをして、食事を再開した。肉を美味そうに頬張る彼女は、既にいつもの貪欲な「女」に戻っていた。
「あなたの誕生日までには、お見合い相手を見つけておくから。バツイチの部長クラスがいいかしらね」
「余計なお世話よ、ママ」
麗子もシャンパンを注文した。柊の誕生日パーティーの準備をしよう。景気付けの一杯。もう自分を投げ捨てるために酔ったりはしない。パパとも違う。私はもう大人の女性だから。
十一月も終わりに近付き、夜空を切る木枯らしの音がアパートの中にまで聞こえて来る。
「うぅ寒い寒い」
柊は帰って来るなり布団に潜り込み、テレビをつけた。珍しく地上波で洋画が流れていた。『スターウォーズ』……柊だけでなく、そんなに映画に興味がない麗子も、何度となく観た映画だ。
「『ジェダイの帰還』か」
ストーリーは佳境にさしかかっていた。主人公ルークが実の父であるダース・ベイダーと対決するシーンだ。
「いいお誕生日会だったわね」
麗子はコートに消臭スプレーを吹き掛けていた。いつからか髪を伸ばし始め、脱こけし化が進んでいた。
今日は二人で豊洲まで出掛けて、要と会っていた。柊の三十一才の誕生日だということで、ららぽーとでショッピングをし、要の提案で、焼肉屋でパーティーをしたのだった。
「自分が三十一になっちまったのは遣る瀬無いけど、食べ放題は嬉しかった。メンタルやられてても、なぜか消化器官が元気なのは有難い」
麗子は部屋着に着替え始めた。半年前までアナスイ信者だったはずだが、今やせっかくの休日に、無地のグレーのセーターを着ていた。ネイルも、ヌードカラーが多くなっていた。
「柊ちゃんだけでカルビ二十皿は平らげてたものね。そんなに食べられるって幸せなことよ」
「もう身体は若くないし、薬漬けだし、内臓とかやばいかもな。要が大きくなったら、安く診てもらうよ。その時まで生きてればだけど」
「要ちゃん、お医者さんになりたいだなんて、立派になったわね」
焼肉屋で、要は将来の目標を発表した。夢と呼ぶにしては、少し現実的過ぎるようにも聞こえたのだが、それが今の要が現実を生きる上で一つの拠り所になるのだとしたら、頼もしい決意だと柊は受け止めた。
「あいつは元から立派だったよ。この家にひとりぼっちで逃げて来た時から。懐かしいな」
柊は麗子のベッドの上を眺めた。彼女がそこで悟の話を持ち出さなければ、上天草に行くこともなかったのだ。
「医者になるって決めたのも、友達の事故の後遺症を見たからって話してたけど、父親に中学受験を強制されてるから、自分の中で擦り合わせて決めた目標だと思うよ」
着替え終わった麗子が、ベッドの上の毛布に包まった。節約のため、十二月になるまで暖房を入れないことにしていた。
「きちんと、現実を生きてるのね。あの歳で、本当に偉いわ」
柊は目を細めて、テレビを見るともなくぼんやりと考えごとをしているようだった。
「でも柊ちゃんも良かったじゃない。お母さんからあんなに立派なビデオカメラ貰って」
豊洲からの帰り、麗子は、京子から預かったプレゼントを柊に見せたのだった。麗子の財力では到底買えないことは明白なので、誤魔化さず京子からだと伝えると、それまで満腹の幸せに浸っていた柊は、神妙な顔つきになった。
「あんなの、映画学校でやたら威張ってる大学八年生が持ってて、自慢してた印象しかないよ。いきなり三十五万の業務用カメラとか、あの女も何考えてるんだろうな。いろいろあったけど、相変わらず一方的というか」
「でも柊ちゃんはプロの監督さんのお手伝いしてたじゃない。撮り方も分かってるし、映画監督の夢を諦めたわけじゃないんでしょう」
麗子の言葉に、柊は布団の上に仰向けに倒れた。
「要にも『悟パパを超える映画監督になるんだよね』って言われたもんなあ」
「そうよ。柊ちゃんは、もう目標が決まってるじゃない」
「って、言ってもなあ」
「何もないよりマシよ。私なんて、夢とか目標なんかないもの」
麗子もパタリと横になった。眉のところで切り揃えていた前髪は今は横分けになっていた。柊は麗子の方を向いた。
「確かに、今の麗子は自分を見失っている気がするよ」
「柊ちゃんと違って、『これが自分だ』ってものがないもの。それに……」
麗子は言葉を探したが、上手く出てこなかった。
「やっぱ、あの上天草のことがでっかいよなあ。あれから、ちょっと調子狂ってる。体調はいいけど」
少し黙ってから、麗子は口を開いた。
「柊ちゃんは、ただ振舞っているだけで『自分』ってものがあるけど、私には元々何もないから……基盤が崩れてしまった感じがするのよ。親のせいにしたり、憎んだり、求めたりすることがベースにあったのに、もうそれがなくなっちゃったから」
以前だったら、悲劇を生きていると思っていた二人のアパートには、今や淡々とした生活が流れていた。麗子は風俗まがいのことを止めて派遣社員を続けていたし、柊は通院しつつ近所のレンタルビデオ店でバイトをしている。
「大人になったんだな。麗子は」
「柊ちゃんもよ。あの人達には、子どもを育てるなんて無理だったの。それを理解したからよ」
柊がテレビを観ると、ルークがシスの暗黒卿からダークサイドの攻撃を受けていた。それでも彼は、父親の善なる心を信じていた。ルークはヒーローだ。私はあんな風になれるだろうか。カッコよくなりたい、柊はそう思った。三十一才にしては、漠然としたライフプラン。だがそれが、昔からずっと変わらないのだ。
再び自分の妹に目をやると、ひどく疲れた顔をしていた。彼女が自分の本当の姿に納得するのは、いつのことなのだろうか。「子ども」であること、「娘」であること、「女」であることに迷ってクタクタになった麗子。ルークがレイアに「自分達は双子の兄妹だ」と説明して三部作が円満に終わったように、麗子が自分自身の存在に納得出来る定義を手に入れられる日は来るのだろうか。
「あと四ヶ月でお前も三十だぞ」
意地悪な指摘に、麗子は布団を被って身を隠した。
「信じられない、最低。彼氏もいないし」
彼氏なあ、と柊はつぶやいた。柊は万能感に包まれる時もあるが、今は自分が撮りたい映画も具体的に思い浮かばないし、麗子が男を見つける方法も分からない。どうしたらいいのか、何もかもよく分からなかった。
「I was born……受動態で生まれて、人生が勝手に進んでいくなんてな。能動的じゃあないよな」
柊の言葉に、麗子はため息をついた。
「ここまで生きて、親を許してみたけれど、残ってるのは昨日の続きだけ。でも、今年でようやく親の呪縛は解けたって思えたわ。要ちゃんのおかげでもある。要ちゃんがいたから、私達大人になったって思えたんでしょうね」
画面の向こうでは、ダース・ベイダーが自分の死期を悟りながらも、息子に語りかけていた。柊はこのシーンを数え切れない位観た。ビデオテープが擦り切れて、DVDを買って、ブルーレイも持っている。観る度に泣いた。だが、今日は泣かなかった。柊はぽつりと呟いた。
「とりあえず、スタート地点に立ったのかもな」
麗子もテレビの画面を見ていた。映画のラストシーンは、つい二人とも黙ってしまう。子どもの頃、両親が仕事でいない時は、いつも映画を観て過ごしていた。父のコレクションが豊富にあったからだ。久しぶりに姉妹で映画を観ていて、麗子は、映画が二人の子守をしていたのだなと感じた。そして麗子から父を奪った映画は、姉である柊を支えている。結局、真剣に観入っている柊を見て、麗子の心には微笑ましい諦めが生まれていた。
「生きるってことを、続けるほかないみたいね」
映画がエンディングに入り、有名なテーマ曲に被せて、柊が大きなクシャミをした。麗子はリモコンに手を伸ばして、暖房のスイッチを入れた。柊は鼻をすすりながら言った。
「まだ暖房は入れなくていいよ」
「風邪をひいたらいけないわ。とりあえず健康に気をつけないと。そうでなくても柊ちゃんは病院通いなんだから」
柊はその言葉に何と返したらいいか分かなかったので、口をモゴモゴ動かした。そして布団を被ったままぴょんとベッドに上がり、麗子にくっついた。柊が麗子のベッドに入ったのは、これが初めてだった。ちょっと照れているような柊に、麗子は甘い笑みで抱擁した。
「私達、一心同体なら良かったのかもね。柊ちゃんが精神で、私が肉体なの」
「バカ言え!私らが一人の人間だったら、とっくに人生破綻して自殺してたろ」
柊が寝そべって、麗子も一緒に横になった。麗子は、柊の髪を撫でて、言った。
「そうね。柊ちゃんが居なかったら、私、死んでたわ」
二人は身を寄せ合って、そのまま眠った。身を切るような東京の冷え込みは、これから一段と厳しくなっていく。
おわり
トーキョー・ロスト・ガールズ 冬野 @fantillusion
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