第8話:父と、二人のファザコン娘
柊と麗子は幼いときから正反対で、柊は明らかに父親である悟の自由な、時に型破りな気質を受け継いでいたし(見た目は悟の頑固な父・修一郎に似ていた)、麗子はおっとりと女性的で、見た目は母親そっくりだった。悟はコマーシャル制作の現場に出て遅くまで帰らないことも多々あった。京子は出産後、銀行員としてのキャリアを再開していたため、姉妹は所謂鍵っ子であった。だが姉妹の胸にはそれぞれ、ささやかながら亡き父との想い出というものがある。
柊にとって星空は、父と深夜にこっそり出かけた時の記憶を思い起こさせた。
現在の教育現場ではあってはならないことだが、柊はよく小学校で男子生徒と殴り合いの喧嘩をしていた。男子に名字のことでからかわれるので、やめろと言っても聞かない彼らに、武力制裁を加えるのはいつも柊からだった。
その日、柊は男子相手に流血沙汰の喧嘩をしてしまい、放課後担任に呼び出されていた。勿論両親にも連絡が行っていた。悟は一時過ぎに帰宅した。既に彼はディレクターの地位に就いていた。彼は元々フリーランスを志望していたが、プロダクションに所属することにした。京子が妊娠したのがきっかけだった。
その夜は、京子は出張で不在だった。帰宅した悟は柊と麗子の部屋を覗いた。二段ベッドの下段の麗子はすやすやと眠っていたが、上段の布団は丸く盛り上がり、内側からライトが漏れていた。多分、本を読んでいるのだろう。悟は発光するカタツムリのようになっている柊をツンツン、と指でつついた。カタツムリは一度身を硬くして、光が消えた。
「柊。眠れないんだろ」
小声で呼びかけると、柊の瞳が布団の奥から浮き上がった。
「コンビニでも行かないか。アイスでも食おう」
悟の声が優しいのに少し安心したのか、柊は布団の殻から這い出て、ベッドを降りた。ぬいぐるみの相棒を連れて行くのを忘れたことに気付き、慌てて布団から引っ張り出して、麗子を起こさないようにソロソロと部屋を出た。
柊は怒られるものだとばかり思っていたから、父親が何も言わないことが不思議だった。疲れ切った顔をしていたが、それもいつも通りで、呼び出しはなかったかのようだった。
十月の中頃、外はひんやりとしていた。二人ともパーカーを羽織って家を出た。深夜の住宅街は静まり返っていて、虫の音が美しく響いていた。柊は父が何か言うのかと怖くて、道路の白線を見つめ、そこから足を踏み外さないよう慎重に歩いていた。
「そろそろ衣替えしなきゃいけないな」
無難な話題に、父は怒ってないんだなと確信したので、柊ようやく口を開くことが出来た。
「レーコがやってくれるよ。でも、レイダーのマフラーをどこにやったか忘れたから、探さないと」
柊は物心つく前から一緒にいるくまをぎゅっと抱いた。彼女が心細い時には、いつも彼がいた。
「麗子に任せっきりじゃダメだぞ」
「だって、服とかはレーコのが向いてるもん」
「どうだろうなあ」
悟は空を見上げた。柊もそれにつられて、顔を上げた。明日も快晴だろう、星々がくっきりと光っていた。
「お前、自分で自分を決めつけてるぞ。だから、こんがらがってる」
柊は父親の顔を見た。父は空ではなく、もっと先の何かを見つめているように見えた。
「なにそれ」
「自分はガサツだとか、麗子の方が向いてるとかさ」
「シューが服たたむと汚くなっちゃうんだもん。それで、母さんとかレーコに、シューちゃんはガサツなんだから、って言われる」
「うーん。それはお前が普段から服をたたまないで脱ぎっぱなしにするからだろ。練習が足りてないんだ。それで、そう言われるからお前は『自分はガサツなんだ』って思い込んでる」
「でも実際、そうだよ」
柊は右足を伸ばし、今日呼び出される原因となった膝と脛に出来た痣を見せた。それでも悟が何も言わないので、柊はバツが悪くなり、足を戻して再び歩き始めた。俯くと、アスファルトの上の白線は消えかかっている。しばしの沈黙。
「なあ、お前は『ガサツ』になりたいのか」
柊が再度父を見ると、優しいが、とても真剣な眼差しで、柊を見つめていた。
「ガサツになりたいっていうか……元々そうなんだよ多分」
「でも痣はつけたくてつけたわけじゃないだろう」
「それは山下が」
思わず大きな声を出した柊に、父は人差し指を立てた。深夜の住宅街で、レイダーも、柊を諌めるような目つきをしていたから柊は口をへの字に曲げた。
「つまり、お前は『ガサツになりたい』わけでも『痣をつけたかった』わけでもないだろう。それに、山下君が何も仕掛けて来なかったら、彼をボコボコにしたいとも思わなかっただろう。ボコるきっかけがないんだから」
「そうだよ。でも、あいつが悪いんだよ。あいつはさ、私のこと便所っていっつも呼ぶけどさ、最初はシューだって口で注意したんだよ。でも今日は花梨のことからかっててさ。花梨は目がちょっと普通と違うからって、それだけで。『バカ山下が喋ると世界全体にバカが感染って人類滅亡するからバカ山下はママの腹の中に帰れ』って言ったら、向こうから殴って来た」
花梨というのは柊の友人で、斜視の子だった。二人は名字と身体という、小学生の立場では動かしがたい特徴で、男子からよくからかわれていた。
悟からしたら、柊の言葉選びはどこから来たのか分からなかった。最初は彼がVHSでコレクションしていた『仁義なき戦い』の影響かと思っていたが、普通に影響を受けるならまず広島弁になっているだろうと考えた。悟は語彙や文章には敏感だったが、柊がどこやってそんな「柊節」を編み出しているのか不思議だった。
「お前、どうしてそんな、いつもいつも人の神経を逆撫でするようなことを瞬時にすらすら言えるんだ」
「あいつに分からせたいから」
「どういうことだ」
青白い街灯に照らされた柊の顔に、ぎゅっと力が入っていた。広い額の下の眉間に、皺が寄っている
「シューもムカついてるけど、花梨の方がすげー悲しいんだよ。目のこと、もうずーっと言われててさ。でも花梨は気が弱いし、自分から男子に言い返せないからさ。つまり、花梨とシュー二人分の怒りと悲しみがあるわけじゃん」
「それを山下に伝えるためだよ。『バカ』『うるさい』なんて、あいつにとっちゃただの返事レベルだから。花梨に『気にしちゃダメだよ』って言ったって、これまでの悲しさがつもり積もってるし。シューね、本当に相手を傷つけようと思ったら、工夫が必要なんだって、理科の授業のときひらめいたんだよ。例えばこっちが十のダメージを受けてたら、それをしっかり返してやる。そのためには、言われた悪口に返事をして合わせるよりも、そこに上乗せして、相手のことを傷付けないと、相手はこっちが傷付いてるってことが分からないんだよ。目には目をって言うけど、相手の目の位置をよく確かめてから反撃しないと、効果がないんだ。それでも分からなかったら、殴るよ」
「お前、そんなこと一生懸命考えてるのか」
「授業中は暇だから」
悟は、娘の明らかに偏った、だが自分なりに考えた末の結論に、何と答えていいか分からなかった。悟も不良学生だったが、勉強が出来ず学校に来ないタイプで、柊の様に学業はこなすが暴力を振るうのとは違ったし、しかも柊は息子ではなく娘だったから、一層不可解だった。母親の京子が手を上げることはないし、京子はプライベートで話す言葉に「頭を使う」ということはまずなかった。だから、そうした言葉の使い方や相手の弱点を見極める能力は、教育によって齎されたものではないと判断した。
「それ、一種の才能だよ」
すると柊はパッと顔を上げ、白い顔をますます明るくさせて、笑顔を見せた。悟は言葉を続けた。
「でもなあ、その才能は怒りの表現に使ってると相手もますます怒るし、どんどん状況が悪くなるぞ。もし山下君の家が実はヤクザだったらどうすんだよ。それで『ウチの倅にえらいことしてくれたなぁ』って、お前が今言ってた理屈でヤクザがやって来たら、絶対勝てないぞ。ヤクザが、メンツが傷付いたって言ってこっちに怒りの表現してきたらかなりやばいの分かるだろ。それに、お前が将来総理大臣になってそんなことやってたら、外国から爆弾落とされるぞ。お前だけじゃなくて花梨ちゃんも死ぬぞ」
当時の柊の将来の夢には総理大臣も候補にあったため、この言葉には説得力があった。確かに、自分の力は無限ではない。ヤクザには勝てないことは『仁義なき戦い』でよく分かっていた。
「つまり、お前の能力は怒りを煽るだけの、まだレベルが低い状態なんだ。レベルを上げて、本当の能力を手に入れれば、お前は自分の表現で人を喜ばせたり、感動させられる様な人になれるんだぞ」
柊は顎に手をやり、考えていた。
「人を傷付ける言葉や暴力を『表現』としよう。絵と同じだ。なぜなら、お前は自分の気持ちを伝えるために『世界全体にバカが感染る』とか、山下君にぶつけてる訳だろ。それは感情の表現だ。だが、それじゃダメだ。復讐されるか、逮捕される。まだ『ショーシャンクの空に』は観てなかったか」
レイダーが首を振った。彼が観た記憶はないなら、柊も観ていない。
「まずな、お前はガサツじゃないんだよ。まずこの考え方から始めないか。だって、ガサツになりたいわけじゃないんだから。たまたまそう言われるだけで。お前はいろんな表現方法を持ってるんだよ。言葉や、絵も得意だし、こないだカメラの使い方を教えたろ、暴力は除外するとして……そしてその気持ちを表現したいって思ってるんだよ」
柊はまだ釈然としない顔をしていた。もうコンビニの灯りが見えていた。
「多くの人は、そこまで『表現したい』って思わない。そして、表現の手段もそんなに持ってない。母さんなんか大体『すごい』『いいわよ』『それはダメ』の三種類しか言わないだろ。母さんは人生のうちで表現について考えたことなんか、柊の半分もないぞ。俺は柊が自分を『ガサツ』なんて思うより先に、この情熱こそが、お前の才能だって自覚して欲しい」
そう言って、悟は満面の笑みを浮かべた。柊はしばらく父を見上げていた。父の後ろには濃紺の秋の空と、煌めく星。柊はその時、自分の漠然とした心の中にも、星が一つ見つけられたような気がした。
コンビニに入って真っ先にアイス売り場に直行した。お目当のアイスはすぐ見つけられたが、ちょっとでも父と一緒に居たくて、わざとアイス選びに時間をかけた。チラッと父の様子を見ると、既に大量の安酒を会計していた。
こないだお母さんが、もうお酒飲んじゃダメって言ってた気がする。
でも、そのことは黙っておいた。柊は父の味方だった。成績や外から見た姿でなく、本当の意味で認めてくれたのは、父だったからだ。彼が何も言わず、十三才の春休みに失踪するまでは。
柊にとっての悟は、父親であり、楽しいことを教えてくれる年上の友人であり、ヒーローでもあった。そして、何を以ってしてかは自分でも分かっていなかったが、いずれ追いつき打倒せねばならない存在でもあった。だから、彼が家から消えた時には、捨てられたという悲しみを「見損なった」と転化することで、なんとか覆い隠そうとした。
一方麗子は、父の失踪のショックを長いことどうにも出来ず、心が生傷でズタズタになった状態のまま、中学一年生になった。
母・京子は、柊と違ってあまり勉強が得意ではない麗子の将来を考え、偏差値はそこそこの、私立の女子中高一貫校に入学させた。麗子は日本最強の性的コスチュームである本物の女子学生服を手に入れる代わりに、男性と全く接触のない生活を送ることになった。
現実を生きるのが得意な京子なりの教育方針ではあったが、これが麗子の男性欲求を悪い方に膿ませ、麗子は中学一年生で援助交際に手を出した。当時、家族共有のパソコンが一台あるだけだったので、やりとりのメールを柊が発見したことで未遂に終わる。というのが表向きの歴史。
実際には、麗子はこの時彼女を買った男性と短大卒業まで関係を持っていた。
中学一年の夏の終わりに彼と出会った麗子は、十六才になったらその男性(仮にHと呼ぶ)と結婚しようと思っていた。父親しか知らなかった幼女をいきなり女にし、大人になるまで心の支えとなったのは、Hという、代わりの「パパ」であった。
柊がメールを見つけた時、怒髪天をついたのは、Hが既婚者であることを臆面もなく打ち明けていたという事実だが、むしろそれが麗子を惹きつけていた。彼女は「既にいるパートナーを打倒することが理想の男性を獲得する条件」と思い込んでいる節があった。少年漫画で主人公がライバルを倒すことが宿命付けられているように、「完全で幸福な愛」を手に入れるには、「いい男を捕まえている女」という権威を打倒しなければならないのだ。エディプス・ガールは略奪愛気質であり、不幸な恋愛に向いていた。
Hと会うことを一度阻止された麗子は、どうしても彼を一目見たくて、友達の家でメールアカウントを新しく作った。そこでやり取りを再開し、のちに彼から携帯を買ってもらって、連絡を続けることが可能となった。
Hは、麗子と出会った時に自称三十九才で、自称会社役員で、自称目黒区在住の、自称子どもがいない、自称妻とは冷めきった関係を引きずっている長身の優男だった。どことなく頼りなさそうなのと、もさもさとした髪の質が、悟に似ていた。彼女の意向はすぐに決まった。単なる金銭目的ではなく、彼と付き合おうと。
麗子はその男と二十才で別れた後、二十九才の今まで一度も誰かと付き合ったことがない。全ての出会いの運をその男との巡り合わせに注ぎ込んでしまったのかというくらい、Hは彼女の全ての願望を満たしたし、その逆も然りだった。
Hは歳の割にくたびれて見えたが、清潔感があり、身につけているものもそれなりだった。何より、身振りや話し方に気品と知性があった。麗子の肉体や感覚については知り尽くしたがったが、素性を詳しく聞いてくることはなかったし、勿論金の無心など一切しなかった。アダルトロリータ趣味で、麗子が「子どもであるのに肉体だけが大人になっている」ことに異常な愛着を示した。平日は新宿で制服デートを楽しみ、休日は表参道で待ち合わせてお茶をして、原宿で麗子が可愛く見える服を買って、渋谷に移動し、ホテルで着替えてから性交に及ぶのがいつもの流れだった。事後、「お洋服、お家に持って帰るとバレちゃう」と麗子が言うと、彼はそれを引き取って保管しておくと言っていたが、それも彼の嗜好品になっていることは想像出来た。
麗子が好きだったのは、着衣した状態で、露出したところから、徐々に脱がされて舐められることだった。「麗子は可愛いね」「いやらしい子だね」と囁かれながら舐められると、ゾクゾクしてしまう。幼い頃、悟は酔っ払うとよく麗子の頬や太腿を舐めたのだ。本当はもっとたくさんやって欲しかったのを、いつも京子が止めた。今や誰にも邪魔されず、他の人には見せないようなところまで「パパ」が愛撫してくれるのだ。舐めるだけじゃなくて、もっと気持ちいいこともしてくれる。「大好きだよ」と甘い声を浴びせかけてくれる。
十三才の時の麗子はHとの性的な行為が、変態的だとは思わなかった。娘のように、且つ性的に愛されることは、麗子が幼い頃からぼんやりと望んでいたことだったので、それが実現して幸せを感じることはあっても、アングラであるとか反社会的であるとかはあまり思わなかった。なんせ彼女は結婚を前提にしていたのである。
会うのは月に一回の時期があっても、蜜月は続いた。だが麗子が高校に入る頃、Hの振舞いに陰りが出てきた。それは麗子が「老けた」からではなく、(性風俗をサブカルチャーの範疇に入れるのなら、内閣総理大臣や人間国宝の数億倍は誉れ高い地位に君臨するのがJKである)現実的に「自分のものにしてしまえる」年齢になってしまったからだった。遊びの時間が終わったことに、彼は戸惑った。Hは彼なりに、麗子を愛していたのだ。
Hは自らの体験を基に、麗子が夢見る結婚というものは、現実のそれとは全く異なることをよく知っていた。甘い日々は続かず、愛や性の甘美な時間に、瑣末な、しみったれて所帯染みた問題が浸食してきて、嗜好品として完璧な二人の関係がぞんざいに扱われる事務用品のようになってしまうのだ。Hはそんな下賎なことのために、この関係を終わらせたくなかった。
折角一貫校に入ったのに中卒では勿体無いし、学校に行きながら家庭に入るのは大変だからと、Hは麗子が社会人になるまでは待つ、と説き伏せた。麗子は不満ではあったが、待つと言われたことと、Hが遂に離婚し自宅に呼んでくれたことで、一層の信頼を寄せた。麗子は高校からヴィジュアル系バンドの追っかけを始めたが、ライブに行くと言ってHの家で逢瀬を重ねた日々は数え切れない。
Hが変なところで常識人だったから麗子は学校にも行き、表向きはまともな生活を送れていた。実際は、肉親そっちのけで素性さえ分からない男が、彼女の人生を決定していたのである。回り回って一般常識に沿う結果となったが、Hが麗子との関係性に性愛の完璧を求めなければ、彼は世間知らずの麗子をちょろく若妻に迎えていたかも知れない。京子の不倫相手の細君が家に来た時に、麗子が柊より真剣に受け止めたのは、自分自身も「危うい恋愛」を生きていたからで、京子の杜撰さが許せない気持ちも、強くあった。Hに愛されていると信じていたからこそ、麗子は自分や周囲の人を不幸にさせるようなことはあってはらならないと思っていた。
柊は二人が別れた時にHの存在を知ったが、今更詳しく聞こうとも思わなかったし、そこは自分には理解できない領域なのだと思っていた。中学生の時は妹の身を案じるあまり全力で援助交際を否定したが、成人になっても交際を続けた麗子に、もう怒りや心配が湧くことはなかった。
柊は退院後、自分の同級生にその話をした。
「柊の妹って、結構誰とでも寝ちゃうタイプじゃんじゃないの」
その通りであった。だが柊は答えた。
「ヤリマンでもさ、自殺するよりは得体の知れない男に救われる方がマシだよ。金を貢いで借金苦になったわけでもない」
柊は確信を持って言う。
「私みたいな奴は、つい人に気を遣って、止められたら自殺はしない。本当に自殺する奴は、精神病んで入院どころか、誰にも相談せず死ぬことだってある。麗子はそういう奴。今でも覚えてるよ。親父が失踪した春休み、あいつは毎日、マンションの屋上の手すりの上に座って、足をブラブラさせてたんだよ。下手に声を掛けたらそのまま飛び降りるんじゃないかって怖くて、ずっと見てるしか出来なかった。途中長雨があって、部屋に籠るようになったからまだ安心したけど。あの時くらい、麗子が、何て言うかな、希薄に見えたことはないよ。ふわふわしてて、消えそうだった」
少し思い出し泣きをして、同級生からハンカチを借りつつ、はっきりと断言した。
「そんな麗子を生かしてくれたのは、その不倫相手だよ。常識や倫理観では、必ずしも人を救えない。まして家族が何の役に立つんだよ。父親があいつを傷付けたのに」
麗子が短大を出る頃には、以前より男というものを学んでいた。それでも、Hとの結婚は彼女の目標ではあった。しかし、Hはどうしても、家庭という沼地に麗子を引きずり込むことを良しとしなかった。しかし結婚をしないでこの関係を続けることは、麗子をずっと不安の淵に置くことになってしまう。
Hは麗子と別れることを決意した。君に魅力がなくなったからではないと、泣き崩れる麗子を昼夜宥めた。麗子は、性愛によってのみ紡がれる「上澄み」の世界と、実生活での夫婦の生態がイコールになると信じていたが、Hは一度失敗した経験から、それが難しいと分かっていた。ずっと麗子に夢を見せ続ける自信がなかったし、二十七才も年下の女性に子どもを産ませるとか、自分の老後の世話とか、想像したくもなかったのだ。性的関係こそ、Hにとって純粋で、美しいものだった。
「君が可愛くて仕方ないから、僕のところなんかにいるのは勿体無い」
麗子はHとの別れに深く落ち込んだが、Hの言葉を「元々結婚なんかしたくなかった責任逃れ」として片付け、新しい男を探そうと思うくらいには、精神的に強くなっていた。別れは不本意だったが、愛してくれたという実感と自信を与えてくれたのは、Hの真心だと受け取ることが出来た。それほどに、Hは麗子の愛欲の飢えを満たしていたのだ。
だが、麗子の悲劇はここからだった。長年、金銭的にも生活的にも余裕があり、知性がある年上を相手にしてきたがために、社会に出て周囲の男性を見回すと、幼く未熟に見えて仕方なかったのだ。
彼らの多くはお金もなく堅実だったため、地味なデートプランを立てるのが精一杯で、労働の疲労が抜けないために、濃密な性行為に耽ることにそこまで興味はなかった。麗子にとってはアブノーマルな性行為が常態化していたので、一般的なセックスがあまりにも淡白で、何の満足感も齎さないのである。
麗子が「誰とでも寝る」タイプなのに「男がいない」のは、自分の口に合った一級グルメしか受け付けないからである。例え飢えたとしても安物は食べない、身の丈に合わない男性像を追い求めて、彼女は常に男日照りで欲求不満だったし、皮肉にもそれが彼女の人生を堕落させずに済んでいたのである。
柊の同級生は呆気に取られながら、こう返すのが精一杯だった。
「柊もだけど、麗子ちゃんは、ほんと拗らせてるよね」
「ファザコンの化物だよ。救ってやりたいけど、父親が同じだから……難しいかも知れない」
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