トーキョー・ロスト・ガールズ

冬野

第1話:血の繋がった他人と、種違いの妹

「私がこしらえようとはしなかった子供たち。もし彼らが、私のおかげで、どんな幸福を手に入れたか知ってくれたなら!」

                                                         シオラン『告白と呪詛』


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 日曜日、午後二時過ぎのファミリーレストランは、親子連れや家庭に手がかからなくなった世代の女性グループで賑わっていた。

 柊(しゅう)は歯を食いしばって、震えていた。固く握った拳が毛玉だらけのスウェットの袖から覗いていた。久しぶりの外出は気分を不安定に昂らせ、ファミレスの喧騒は心をざわつかせたし、それ以上に、これから会わなくてならない人物を待つ緊張で、神経の繊維が千切れそうだった。

「でも、前に比べてだいぶ症状は良くなったわよ」

 麗子は隣で身体中に力を込めて座っている柊に、諭すように声をかけた。着古したジャージを着て、髪に櫛を入れていない柊とは対照的に、麗子は気合い充分で、ボウタイ付きのブラウスを着て、くっきりとしたアイシャドウとたっぷりとしたマスカラ、葡萄色のルージュを引いていた。二人は窓側のソファー席の片側に並んで座っていた。

「先週私が面会に行った時は、大丈夫って言ってたじゃない。大したことないわよ」

 柊は妹に励まされていることを苦々しく思ったが、麗子も少なからず身構えていることは確かだった。

 二人が呼び出された甲州街道沿いのファミレスは、柊の入院する黒森病院から徒歩五分のところにある。柊と麗子の母・京子は姉妹にずっと連絡を寄越していなかったが、再婚した相手との娘を会わせたいと麗子に電話をしてきた。

 麗子は柊に伝えるべきか悩んだ。柊が黒森病院に入院してから一年程経過していたが、食事と睡眠は人並みになったとはいえ、幻聴と無気力状態は続いていた。今でも小さな刺激、例えば他人の会話であるとか、テレビコマーシャルのような些細なものにでさえ、パニックを引き起こすことが往々にしてあった。

 数日悩んだ末、お母さんが何となく会わせたいっぽいのよね、とやんわりと伝えると、柊は予想外に落ち着いた様子で首肯した。そして吐き捨てた。「あの女は生きてる精神の次元が違うからな」

 柊が、母親と、父親違いの(柊は必ず「種違い」と呼んだ)妹に会うと決めたのは、何とか現状を打破したいという思いがあったからだと、麗子は感じていた。柊はろくに働いたこともなく、麗子も派遣社員で一人暮らしがやっとだったので、京子が柊の入院費を出していた。それに対するけじめもあっただろうが、このまま入院を続けていては人生が立ち行かなくなってしまうことは明白であり、そのためには自分自身を変えなくてはならないと、柊は痛感していた。柊が飲んできた薬は数え切れないほどだが、彼女の場合、いくら薬を変えても、自分の意識が変わらなければ社会に復帰することは難しいのだった。柊は、何とか今日をそのきっかけに据えようと考えていた。麗子も麗子で、京子に対するわだかまりを大きく抱えていたが、柊を支えることで自分も京子を許せるようになるかと、少しの覚悟を添えた期待をしていた。

「ごめんなさいね、遅くなって」

 席から数歩離れた位置から間延びした声が聞こえ、ファー付きのコートを着た京子が手を振って近付いて来た。柊は肩を大きく震わせた。

「ママ、久しぶり」

「麗子、ちょっと太ったんじゃない。柊は調子どうなの、固まって俯いちゃって。それにそのジャージ、何年前から着てるのよ。髪も落ち武者みたいよ」

 京子の挨拶は、二人の心に冷たい泥が流入してきたような不快感を与えたが、麗子はすぐ京子の後ろに隠れている少女に気付いた。

「ほら、かなちゃん、お姉ちゃん達よ。さ、奥に座って」

 京子はにこにこしながら連れてきた娘をソファーに座らせた。少女はちょっとだけ頷いて、飯田です、と小さな声で言った。柊はその時ようやく、目だけで母と「種違いの」妹を見遣ったが、その子の緊張した表情を見て、胸に何かが刺さった。彼女は座ってから、もそもそと水色のフリースを脱ぎ始めた。キャラクターが細かく描かれた生地のボディバッグが絡まって、脱ぐのに手間取っていた。

「はじめまして、要(かなめ)ちゃん。私が麗子よ、妹の方」

 麗子がゆっくり、なるべく暖かさをこめて、挨拶した。麗子の声が甘ったるいミルクティーだとしたら、要はプラスチックで出来ているみたいにカチカチで、緊張以外の気持ちは読めなかった。

「もう、そんなに化粧濃くして来たら怖がるでしょ。服も相変わらず真っ黒なんだから。爪も何よそれ、どどめ色」

 麗子は顔をしかめ、要はすまなそうに窓の外に目線を逸らした。

「ほら、柊も」

 挨拶を促されても、柊は黙してテーブルの上で拳を握っていたままだったが、要の視線を感じ、バッと顔を上げ、アイスがほぼ溶け切ったコーラフロートを一口すすってから、生来の、よく通る声で話し始めた。

「御手洗柊です。今年二十六だから、要さんとは二十才離れてる。この近くの病院で……入院してるんだけど、要さんは病気とかじゃないみたいで、とにかくよかった。よろしく」

 さっきまで目の前で縮こまっていた不審者が、突然ハキハキと口を開いたことに要は少し驚いた様だった。それを見た京子は、柊の言い回しに病の片鱗を感じ取って、急いで言葉を重ねた。

「やあね、妹なのに『さん』付けで呼んだりして。メニューあるかしら、お腹減っちゃって。あんたたちも好きなの食べなさい」

 柊は院外での食事を制限されていたし、麗子は食事をする気分でもなかったが、メニューをじっと見ている要は、素直で大人しそうな女の子だった。額が広く、髪をきれいなおかっぱにしていて、赤い頰と山吹色のトレーナーが穏やかそうな性格を感じさせた。そのことに、柊は内心ほっとしていた。注文したのがオムライスだったことも、幾分柊の強張りを柔らげた。

「要ちゃんは、四月に小学校に入るのよね。生まれるって知らされてからもうそんなに経つなんて、早いわよね」

「そうよ。小学校は区立に決めたんだけど、中学からは私立に行かせようと思ってるの。勉強も運動も、全部得意なのよ、かなちゃんは」

「がんばってるのね。私は勉強が嫌いで柊ちゃんは運動音痴だったから。将来が楽しみね」

 麗子は反射的に肯定的な受け答えをすることが苦ではなかったが、柊からしたら自分の母親が「種違い」の妹にかけている愛情や金額などを感じるに充分な言葉だったのか、肘をテーブルに乗せ、親指と中指で両こめかみを抑えていた。柊も同じ母親に育てられたはずなのだが、母は自分が置かれている状況を想像もしていないのだろうなという怒りと憎しみと諦めが混ざった感情が生まれ、自分には価値がないのだと、自己否定の念が噴き出してきた。まさにその予想通りで、滅入っている柊など気にもかけず京子は要に話させようとした。

「勉強が大好きなのよ。なんの教科が一番なんだっけ、かなちゃんは」

「さんすう」

 見知らぬ二人に少し慣れてきたのか、さっきより生気のある声だった。

「もう小学校のお勉強してるの。算数なんて、すごいじゃない。柊ちゃんなんて私に宿題を押し付けてきたのよ、面倒くさいからって。私の方がバカだし一学年上の問題なんて分かりっこないのに、『テストでいい点取ればいいから、宿題なんてバカらしい。適当に数字書いといて』とか言って。ひどいお姉ちゃんでしょう。勉強が好きだなんて、要ちゃんはおりこうさんなのね」

 麗子の柔らかく好意的な返答に要は口をキュッと真一文字に結んだ。きっと嬉しいのだろう。強張っていた肩も下りて、緊張がほぐれたようだった。

 オムライスと、京子が頼んだステーキ御膳が運ばれてきた。麗子はコーヒーのお代わりを頼み、柊に何か要るか聞いた。私が払うわよ、と京子が申し出たので、コーラフロート、と小さな声で注文した。

 京子は箸を動かすより先に、今の嫁ぎ先である飯田家への文句を言い始めた。

「義父さんが田舎の校長先生でしょう。だから結構しっかりしてるのよね。こっちが再婚だってことにいい顔しなくって、まあお互い様ってことで悪し様には言われないけど。要は最初の女孫で喜んでるみたいだから、いろいろ口出したいみたいなのよね、進学先とか」

 明け透けな京子の話に麗子が適当な相槌を打っている一方、柊はどっと湧いたマイナスの感情を制御しようと戦っていた。一旦悪い思考に考えが傾いてしまうと、すぐに切り替えることが出来ない。眉間に皺が寄り、視界が暗くなり、首の後ろが固くなって苦しくなる。他の客の声に混じってザワザワと責め立てる様な音が聞こえる。憂鬱さが重油の様にのしかかって来た。体が重い。早く病室のベッドに戻って寝たい。

「レイダー、ほら、オムライスだよ」

 その声にぱっと顔を上げ、要の方を見ると、彼女はスプーンですくった一口分のチキンライスにきちんと卵も乗せ、くまのぬいぐるみに食べさせていた。ぬいぐるみは茶色い頭を皿の方に向け、太い手縫い糸でバッテンになっている口でもぐもぐとオムライスを食べている、かの様に、要が片手で動かしていた。

「レイダー」

 要は自分のくまの名前を呼ばれて柊の方を向いた。ワンテンポ遅れて、レイダーも柊を見つめた。要が手でぬいぐるみの首元を動かしたのだ。

「要はどこに行くにもこのぬいぐるみを連れて行くのよね」

 京子はさして興味がなさそうに解説した。彼女はどうもぬいぐるみが苦手で、もし買ってくれるとしても人形の方であったことを麗子は思い出した。

「もう小学生なんだから、お姉さんらしくしないと」

 要はスプーンを置き、レイダーを椅子に座らせた。そして目を伏せてオムライスを食べ始めた。柊は無気力なうつ症状に引き込まれかけていたが、今の京子の言い方は、柊の心に怒りというエネルギーを芽生えさせた。

「要さんはひとりっ子なんだから、相棒がいた方がいいじゃん」

 新しく来たコーヒーフロートのストローを咥えて、息を吹いた。ブクブクと音が鳴り、アイスがゆっくり上下した。大人になってもこうした仕草を持ち出すのは、心の弱り切った柊の、せめてもの反抗だった。

「やめて、お行儀悪い。あなたもほんとに、昔から子どもっぽいんだから」

「レイダーは要さんの大事な友達だよね。理解者のはずだ」

 柊の確信を込めた口調に釣られ、要はこくりと首を縦に振った。柊は座高を伸ばしてぬいぐるみを観察した。

「あれ、リボンは」

「リボンは、今洗って干してるの。昨日洗う日だったから」

「そうかそうか」

 柊は大仰に頷いた。初対面なのになぜリボンのことを知っているのか、要は疑問に思ったが、柊に対してはまだ些かの警戒心があったせいか、何も言わずオムライスを食べ続けた。麗子はレイダーを見て柊の気分が少し上向きになったことに安堵しながら、気になっていた話題を切り出した。

「ママ、今日会おうって言ってくれたのって、どうしたのよ。そっちの家で何かあったの」

 京子は紙ナプキンを取って丁重に口元を拭いた。

「いえね、別にどうってことないんだけど……飯田の義母さんがもう長くないみたいなの。胃癌で、もう寝たきりでね。義父さんは今のところ元気なんだけど、それだって何十年生きるわけじゃなし、お迎えの準備っていうのかしら。そういうのを強く意識し出したのよ」

「終活っていうんだよね」

 要は自分も当事者だという意識を母親に伝えた。口の端にケチャップをつけてはいたが、ナイーブな話だと理解しているのか、真剣な顔つきだった。だが京子は大人の話題に口を出すんじゃないと言わんばかりに顔をしかめた。

「もう言葉ばっかり達者なんだから。いいから食べてなさい」

 俯いて口を窄めた要の顔を見た瞬間、柊はたまらなくなって、テーブルに爪を立て、京子を睨みつけた。

「あのさぁ、自分で要さん連れて来といて、その言い方はないでしょ。大方、飯田に遺産の話とかされたんじゃないの。飯田の家の遺産がお母さんに入ってきた時、要さんに多く配分したいってことを暗に私らに伝えてほしいとかさ、そういう話でしょ。要さんだってさ、見も知らない、種……父親違いの姉二人にいきなり会わせられてさ、家のことが自分にも関係してるってこと、しっかり感じてるんだと思うよ。それを、都合いいとこだけは大人しく、いや、子どもらしくしてろって、ほんとさ、何なの。私はいいですよ。大人の事情も分かるしお母さんがどういう人間かってことはよく知って、おりますので。病院の近くまで来て頂いてありがとうございますって感じですよ。でも要さんはさ」

 柊は一息にそこまで言って、はっと我に返った。要が怖がっていはしないかと思ったからだ。恐る恐る要を見遣ると、彼女はレイダーを膝の上に固定させ、きれいに焼けた目玉焼きのように目を見開いて、柊を一生懸命見つめていた。レイダーは平然とした様子だった。

 要の呼吸が浅くなってるのを感じて、麗子が要の背中を擦った。

「柊ちゃん、コーラフロート飲んで。ほら、ゆっくり呼吸、呼吸」

 麗子は声を出さずにごめんね、と要に伝えた。要は小さく首を振って、レイダーと顔を見合わせた。

 京子は柊が自分に敵意を持っていると予想はしていたが、これほど要のことを気にかけるとは予想していなかったので、少し口をつぐんだ。一家に沈黙が流れた。ファミレスの喧騒が遠くに聞こえる。京子が黙ったのを見て、麗子は柊の指摘が正しいのだと理解した。

「遺産のことなのね。法的な仕組みはよく知らないけど……ママが亡くなった後で、柊ちゃんと私と要ちゃんが、変に争うのは避けたいって考えたってことでいいのかしら」

 麗子が聞くと、柊は麗子を睨んだ。

「そういう好意的解釈をこっちから与えると、それを利用されるだけだ」

「柊ちゃんは今落ち着くことに集中して」

 反論しようがなくなり、柊は顔を顰めるに留めた。要はまたばっちりと柊を見つめており、それに気付いた柊は何だか泣きそうになった。要を見ていると、とにかく泣きたくなる。だがそれは今現在母親に目をかけてもらっている嫉妬ではなく、要が素直そうな「子ども」だったからだ。柊は「種違い」であれ、この妹に魂が癒されるような気がしていた。それについて後で麗子に伝えると、麗子はもっともだという顔をした。「要ちゃんは、柊ちゃんのちっちゃい頃に似てるわよ」

 憂鬱は依然として柊の心の中を占めていたが、ちょっとでも暗闇を打破したいと思った心が、柊に本来の陽気な性質をもたらした。

 柊は要と視線を合わせてから、ちらちらと、だが大げさに京子と麗子を見遣って、二人が会話をしているのを確認した。そしてくしゃくしゃにした顔の鼻に指を立て、前歯を見せてブタの顔真似をして見せた。

 一文字に結んでいた唇の両端が破れ、要はプフッと笑いを漏らした。柊も眉を下げて頬を緩めた。柊の心に、これほどの暖かさとやすらぎ、そして小さな達成感をもたらした出来事に、長いこと出会っていなかった。健康な心では気付きにくいが、日々自分に無力感を覚えていた柊にとって、緊張している要に吹き出し笑いをさせたのは、些細なことだが自分の力で成し得たことだった。子どもを笑顔にさせることは、要にとって金銭を得るより誇りが持てることだった。

「どうしたのよ、急に笑って」

 京子が聞いても要は首を横に振るだけだった。大人しく、いや、子どもらしくした。麗子が話を戻した。

「飯田さんのお家は大きいからそこまで考えるのは分かるけど、その辺は任せるわよ。そっちの家のことだし、ママが亡くなる頃には要ちゃんだって大人になってるでしょう。私だって結婚するつもりでいるから。ただ柊ちゃんの病気のことだけが気掛かりだけど」

「あなた、結婚出来るの。家事もろくに出来なかったじゃない」

 麗子は露骨に京子に敵意の視線を送った。睫毛はさながら漆黒の針になった。

「関係ないわ。話を逸らさないで。つまりね、私はママに頼る気もないし、同じ母親とはいえ、別の家のこんなに年の離れた子からお金を奪ってやろうって考えもないし、もし不安だったら遺書でも弁護士さんでも用意して、勝手にやってちょうだい」

 麗子のはっきりとした主張は、京子を些か驚かせたが、すぐ安心につながったようだった。

「ならよかった。いえね、飯田の家がいろいろうるさいのよ。今の時点で、遺産が実際どうなるか、どのくらいの額になるかなんてはっきり分からないのに、すごく気にしてて。とりあえずでもいいから、あなた達の意見が聞きたかったのよ」

「柊ちゃんの病気が良くなるまで、その分助けてもらえればいいわよね」

 柊は頷いた。京子を睨めつける瞳は、コントラストの強い三白眼になっていた。二人の姉妹は似ていない点がたくさんあったが、母親に対する敵対心は固く一致しているのだ。

「病気になって申し訳ないと思ってる。病気さえなければ、私に煩わされることなくそっちの家で幸せにやってもらえるだろうし。私と麗子は、もうお母さんに助けてもらおうとは思ってない。というか、極力、関わりたくないんですよ。一刻も早く、とっとと退院しまして、お母様にはご負担いただくことのないように致しますので」

 柊の敬語は京子が肉親ではなく、赤の他人であるという一種の宣言だった。だが、京子は自分が責められているとは思っていない。鈍感なのだ。世間では、神経が太い方が生きやすく、それに自負を抱いている人間さえいる。畜生、そんな奴ら、畜生だ。浪費と繁殖しか能がない。病的に鍛えられた柊の怨念は、残念なことに京子にはちょっとした皮肉に聞こえる程度だった。

「そんな嫌味なんて言わなくたって、あなたが元気になるのが私にとっても一番だから。ちゃんと退院して、仕事できるようになるまでは何とかするわよ。私には病気のことは分からないから先生にお任せになっちゃうけど、元気にやって欲しいと思うわ」

「先生のお任せコース、大変宜しいですよ。六時起床。服薬。味のない病院食。みんなでワーク。折り紙とかね。散歩。週三回の入浴。夕飯はどろどろのなんかの麺。服薬。九時就寝。毎日ハッピーこの上ないよね。みんなも病院来ればいいのにねっ」

 最後の一言があまりにも大きかったために、近くの客が柊達の席を見た。柊は机の上に伏せて頭を抱え、呻いていた。

「そんな大声で言わなくても。麗子、柊は普段いつもこんな感じなの?これって興奮しすぎてるのかしら」

 京子は周囲の目を気にしつつ、麗子に柊を落ち着かせようとさせた。麗子は柊の肩に手を置き、呼吸を促すように摩った。だが、瞳は京子を捉えていた。柊の怒りが熱旋風だとしたら、麗子の視線は氷の杭のように、京子の心を貫いた。

「もう消えて。遺産がなくても、あなたが死んだらそれだけで嬉しい。心配してるなんて言って、柊ちゃんの病院の面会に一回だって来たことないくせに。正直あなたから生まれて後悔してる。あなたがいなかったら、こんなに苦しまなくて済んだのに。早くいなくなってよ。赤の他人より縁のない、飯田京子さん」

 さすがの京子も、本来は穏やかな麗子の憎悪を目の当たりにして、怯んだ表情を隠す様に席を立った。お手洗いに向かったのを確認すると、麗子は大きくため息をついた。

「要ちゃん、怖がらせちゃったわね。ごめんね」

 要はレイダーを膝に乗せたまま、硬直していた。麗子は、父親が失踪したことを知らされた時の自分を思い出した。こういう時、子どもには誠実に接しなければならない。身体ごと要の方に向けて、目を見てゆっくりと語りかけた。

「本当にいきなりごめんなさい。私も柊ちゃんも、要ちゃんのママにキツく言っちゃったんだけど、大人の変な、嫌な話よ。要ちゃんにはあんまり聞かせたくなかったというか……私と柊ちゃんと『私達のママ』の問題なの。要ちゃんと『要ちゃんのママ』に対して悪いことしようとか、そういうことを思ってるわけでは決してないわ」

 要はゆっくり頷いた。そして、突っ伏したままの柊をちらりと見た。麗子は少し小さな声になった。

「柊ちゃんは、今病気なの。元気がなくなって、自分が好きじゃなくなっちゃう病気。要ちゃんは、夜お化けが来るかもって不安になったことはあるかしら。泥棒が来たらどうしようとか、自分が死んだらどうなるだろうとか。目で見たことはないけど怖いものって、たくさんあるでしょう。柊ちゃんはいつもそういうものを感じてしまうの」

 要のレイダーを支える手に力がこもった。

「でも本当は明るくて元気で、愉快なお姉さんなのよ。すごく頭が良くて、何でも出来ちゃうのよ」

「……自殺は出来ない」

 呻くのを止めた柊が呟いた。

「柊ちゃん」

「あと、体育の成績はいつも『もう少しがんばりましょう』」

 テーブルの上に顎を乗せたまま、柊は顔を上げた。涙と鼻水が顔中を濡らしていた。だが、 瞳にはハリのある輝きが宿っていた。

「柊ちゃん、大丈夫?」

 柊は額をゴツリとテーブルに付けた。

「お母さんが戻って来る前に、もう行っちゃいましょう」

 柊は乱暴に袖で顔を拭くと、早口で麗子に言った。「麗子、財布」

 麗子が訳も分からずアナスイの長財布を渡すと、ソファから降りて、要の座っている方に移動した。柊は腰を落とし、要と目線の高さを揃えて落ち着いた声で語りかけた。

「要さん、ほんとに、ビビらしてごめんね。私まじで具合が悪くってさ……要さんは私達を、特に私を変な人だと思ったかも知れないけど、私は要さんのこと、良い子だなって思ったよ。賢そうだし、頑張ってるし。ちょっとの時間一緒にいただけだけど……。もし私のことが嫌いじゃなかったら、一瞬こっちおいで」

 柊は席を離れると、レジの方に移動した。要は一瞬麗子を見たが、麗子もきょとんとした顔をしていた。要はソファーを降りた。そして柊の方に向かおうとすると、柊は要の方を指差して、何か言っている。くまの相棒を指差していることに気付き、要は急いでレイダーの腕を掴んだ。そして駆け足で柊の方に向かった。柊は、レジ前のおもちゃコーナーの前で仁王立ちしていた。

「今時の子が好きなものがあるか分からないけど、要ちゃんが欲しいもの何か選びなよ」

 要はまさかこうなると思っていなかったので、びっくりして柊を見つめると、満面の笑顔だった。要は柊がとにかく悲しくなる病気だと理解していたが、自分といることで柊が笑顔になると気付き、嬉しくなった。

「どれでもいいの」

「どれでもいいよ。今日もせっかく会えたのに、怖がらせちゃったし」

 要が息を吸う音が聞こえた。子どもは動きに合わせてちゃんと呼吸をしている。柊はそんなことにさえ感動して、また目元がじんわりと熱くなった。中腰になって要はレイダーと物色をしている。昔はもっとたくさんの種類のおもちゃがあった気がしたけどな、と柊も一緒に覗き込んでいると、後ろから麗子がやって来て小さく声をかけた。

「もうママが戻って来ちゃうわよ」

「これっ」

 大きな声で、要は柊にシャボン玉セットを差し出した。カラフルなシャボン玉液と吹き口がセットになったシンプルなものだ。税抜き三百円。

「これでいいの。なんかもっと、お医者さんセットとか、コインゲーム機とか高いやつでもいいんだよ」

「ちょっと、私のお財布よ。でも遠慮しないで。ほんとに何でもいいのよ、お菓子でも」

 要はレイダーの腕に手を添えて、改めてシャボン玉セットを渡そうとしてきた。そして声色を変えた。

「シャボンだまがいい」

 柊は大きく頷いた。

「『レイダーも』そう言うなら仕方ない」

 そして棚からシャボン玉セットをもう一つ取って、レジに進んだ。

「麗子、これ会計したらそのままトンズラするから、外出てていいよ」

 麗子は頷いた。要は麗子のお金でシャボン玉セットを二つ買って、要の前でしゃがみ、一つを要に差し出した。

「はいこれ。このサイズならカバンに入るね」

 柊はさっきと同じように、レイダーに手を添える形で、シャボン玉セットを受け取った。

「ありがとう、柊……お姉ちゃん。これ、ママにはないしょ」

 柊は溢れそうになるものをぐっと堪えた。

「内緒だよ。もう一つは私の分。今度レイダーと麗子と四人でやろう。よかったら」

「うんっ」

 柊は要の両肩を叩き、立ち上がった。だが再びしゃがんで、人差し指と中指で、レイダーの耳と耳の間を撫でた。

「レイダー。要ちゃんを頼むよ」

 そう言って、柊はファミレスのドアを開けて麗子と合流し、病院の方角に歩いて行った。

 要は急いで席に戻り、シャボン玉セットをボディバッグの奥深くに仕舞った。そして窓から姉達を見送った。

「もしかして……レイダーはお姉ちゃん達のこと知ってたの」

 レイダーは口をバッテンにしたまま、要の隣に座っていた。

 柊二十五才、早生まれの麗子が二十三才、要五才。寒い二月の終わりの日のことだった。

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