明日になったら
遠野月
第1話
稲妻が駆け抜けたか。
肌を貫くような歓声と共に、血のにおいが視界を黒く染めた。
戦に負けたのだ。
勝利を確信した敵兵が、殺到してきている。周囲にいる味方の兵士たちは、傷一つ負っていないのに、翻りはじめた。今すぐ反転しなくては、前方から退いてくる味方に、踏み殺されるからだ。
「キョウ! 走れ!」
耳元で、声がひびいた。
見ると、血相を変えた男の顔が映った。
「死ぬぞ!」
男は、キョウの肩を叩き、後方へ走り出す。
瞬間、地鳴りのような音がひびき渡った。
「馬だ! 騎兵だ! くそ! 足を止めるなよ!」
男が叫びながら遠ざかっていく。
我に返ったキョウは、翻った。走る。凸凹の地面を飛ぶよう駆ける。
凸凹の地面の正体は、死体だ。少し前まで、必死の形相で戦っていたはずの味方の兵士たちだった。
人の身体を踏むと、走る速度が落ちる。最悪、転倒する。
転倒すれば、味方に踏まれて死ぬか、敵に踏まれて死ぬかだ。
今は、味方に踏まれて死ぬ。
運良く生き残っても、殺到する敵の刃に刈り取られる。
「シカ!」
「ここだ! キョウ! 止まるなよ! 俺も止まらん!」
シカと呼ばれた男は、キョウのすぐ前を走っていた。
槍を高く掲げている。目印にしているわけではない。低く構えて走れば、周囲の味方に当たるのだ。一度でも当たれば、数人が共倒れになる。
「離れるな! 密集しろ!」
「シカ、馬が来る」
「馬は、密集した人の塊に飛び込めん。遅くなっても、散るな」
シカが叫ぶと、周囲の味方兵が集まってきた。
一縷の望みに、縋りたいのだ。正誤を考える暇はない。声が大きいと、言葉に力が付く。
後方から、悲鳴が聞こえた。
女のような声だと、キョウは思った。悲鳴はすぐにつぶれ、汚い音に変わった。
「追いつかれるぞ!」
「分かってる!」
キョウが叫んでも、シカは止まらない。
直後、後方から衝撃が走った。密集して走る味方全体に、衝撃が伝播する。幾人かが大きく揺れ、消えた。その後方を走っていた数人も消える。
衝撃の元になるものが、近付いてくる。
キョウの全身から、汗が噴き出した。汗が痛いと感じるのは、いつぶりだろうか。
全力で駆けながら、わずかに視線を右にずらす。
馬の頭が、キョウのすぐ隣にあった。
獣の荒い息遣いが、耳を劈く。首と、背中にヒヤリとした風が流れた気がした。
「うわああああ!」
キョウは叫びながら、槍を左手に持ち替えた。
右手で短剣を抜き、馬の頭目掛けて突き出す。わずかにそれて、剣は、馬の首を貫いた。キョウのすぐ傍で吐き出されていた荒い息遣いは、壊れたように泣き叫ぶ。がくりと崩れ、視界から消えた。同時に、後方で激しい音がひびいた。人が落ちる音と、潰れた音と、潰れた声が同時に鳴った。
「森がある、飛び込め!」
「シカ! 馬を殺した!」
「飛び込め! キョウ! 次の馬が来る!」
シカの声に、キョウは頷く。
無言の頷きに気付くはずもないが、シカは槍を高く掲げた。
前方の森。暗い。
味方が飛び込んでいく。暗闇が、飲み込むようにも見えた。
味方の足音が減っていく。
代わりに、地鳴りのような馬の音が、後方で増した。
追いつかれれば、死ぬ。
いや、さっき追いつかれたではないか。もう、死んでいるのではないかと、キョウは思った。
暗い森が、迫る。
先を駆けるシカが、飛んだ。大きな身体が、森に飲み込まれる。
同時に、並走していた味方の兵も飛び込んだ。幾人かは、転んだ。こいつらは起き上がる前に、撃たれるだろう。
同じになってはならぬと、キョウは地面を蹴った。
飛び上がり、宙を走る。
時間が、止まったようだった。
森の中から、シカの顔が見える。キョウを見て、腕を振っていた。何をしているのだと、キョウが訝しむ。
直後、シカが、持っていた槍をキョウに向かって投げつけた。
飛んでいる途中のキョウは、避けられない。何故とも、考える暇すら無かった。
飛んでくる槍が、キョウの頭の横を通過する。
耳元に風の音が鳴った。同時に、キョウの後方で、絶命する人間の声がこぼれた。
「来い!」
シカが手招きして、森の奥へ走っていく。
キョウは森の中に着地すると、間髪置かずにシカを追った。
すぐそばを、味方の兵が幾人か駆けている。
草葉の擦れる音が、広く、震えて広がった。
はるか後方で、幾百もの断末魔が轟く。
そのすべてが、自身の名を呼んでいる気がした。
「振り返るなよ」
「振り返らん」
シカの声に、キョウが頷いた。
シカの声は、かすかに震えているようだった。
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